うらみ葛の葉 - 3
まだ温かいコーヒーがたっぷり入っているマグカップをデスクに置き、雪乃は碓氷が用意した資料を手に取った。まだ開いてもいないのに、碓氷は雪乃の横に立って腕を組み、説明を始める。
「時間を無駄にはしていられない。準備に使えるのは長くても一か月――」
碓氷の声を半ば聞き流して表紙を捲り、雪乃は文面を読み上げた。
「サービス代行業……。『なんでも屋』みたいなものですか?」
「ありていに言えばそうだが」
雪乃の「なんでも屋」という表現は碓氷のお気に召さなかったようだ。不満気に続ける。
「多様化したニーズに合ったサービスの提案だ。提案型営業を最たる形を目指す」
はぁ、と首を傾げたくなるのを我慢する。正直に言って、いまいちピンとこない。けれども部長の立場にある碓氷の企画したプロジェクトに余計な口を挟む気にはならなかったので、よくわからないまま「よろしいのではないでしょうか」と当たり障りのない返答を口にしてみた。
ところが、これが大失敗だった。
「もっと真剣に考えろ!」
雷が落ちた。雪乃は「はい!」と小さく悲鳴を上げて、肩を縮めた。
サービス代行業、つまり顧客の要求するサービスを代行する、よろず請負業のようなものを想像して、雪乃は真っ先に頭の中に浮かんだ疑問を口にした。
「あの……依頼なんてくるでしょうか? 似たようなサービスを提供している会社は他にもあるでしょうし……」
「できない理由じゃなく、できる方法を考えろ。他社との差別化、ブランディングについては、資料に書いてある」
朝から怖い顔で叱られて、雪乃は朝からめげそうになる。
碓氷の頭の中には明確なビジョンがあるのかもしれないが、このわずかな一瞬ですべてを理解するなんて芸当は、いくら魔女でも無理がある。これ以上の叱責は免れたいと思いながら、雪乃は急いで紙面を捲った。
碓氷の言う「ブランディング」として、「魔法」というキーワードを全面に打ち出す、といった内容の文章がある。「魔法」と銘打つことで、どんな依頼内容であっても叶えられる、という印象を顧客に与えられるというわけだ。
碓氷が更に畳みかけるべく口を開いたが、最高に絶妙なタイミングで、碓氷のデスクに置かれた電話が鳴った。
碓氷はじろりと雪乃に一睨みきかせてから、ぶっきらぼうに「はい」と受話器を取った。どうやら仕事の引継ぎに関して、また第一営業部から連絡が来たようだ。
溜息をついて、雪乃は窓の外を見やる。今日は、クロはついてきていなかった。
手に持ったままの資料に視線を落とす。
多様化したニーズに合わせたサービスや、提案型営業と言われても、碓氷がいったい何がしたいのか、雪乃にはさっぱりわからなかった。そもそも碓氷が魔法を信じてくれない以上、魔法を使って仕事をしたいと考えている雪乃と意見が合うはずがないのだ。やはり転職を考えるべきか……。また一枚、紙を捲り、目に飛び込んできた文字にふと手を止める。
魔女の家――と書いてある。
碓氷は魔法を信じないのではなかったのか。目を疑いつつ、その下に続く箇条書きに目を通す。
・飲食サービスと物販を基盤とした定常的な利益の創出。
・「魔法」の世界観を演出。(外観、内装、衣装、等。)
・接客と演出により、顧客の潜在ニーズを引き出し、新たなサービスを提案。
その下には、可愛らしい小さな家のイラストが描いてある。おとぎ話に出てくるお菓子の家のような、レンガ造りのメルヘンチックな家だ。碓氷の思い描く「魔女の家」のイメージなのだろう。それを見て、雪乃はようやく、碓氷が店を開くことを考えているのだと気がついた。
――魔女の家。
魔女が、魔法のお茶やお菓子でお客さまをおもてなしする。
魔法の助けを必要とするお客さまが来てくれたら、雪乃が役に立てるかもしれない。
雪乃は胸が高鳴るのを感じた。
――やってみたい。
素直にそう思う。お茶菓子をふるまい、お客さまと話をする自分自身の姿を想像してみるだけで浮足立ち、つい先ほどまで沈んでいた気分が上向いていく。
碓氷が電話を終えて受話器を置いた瞬間、雪乃は椅子から立ち上がった。
「やりたいです! 私、『魔女の家』!」
碓氷は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに真顔に戻り、口元をわずかに吊り上げて笑った――というより、ほくそ笑んだ、と雪乃は思った。雪乃の反応は織り込み済みだと言わんばかりの、したり顔だ。
「いいだろう。やらせてやる」
――もしかして私、はやまった……?
不気味な碓氷の冷笑に雪乃は背筋が凍り、笑顔が引き攣った。背の高い碓氷に腕を組んだまま見下ろされると、雪乃の背中は無意識のうちに丸まってしまう。さながら蛇に睨まれた蛙だ。
「社長に企画を提案するまでに詳細を詰める。やるからには確実に成功させるぞ。覚悟はいいな」
雪乃は怯えながら何度も頷いた。
「あの鬼! 悪魔め!」
とは、雪乃ではなく、夏帆の言葉だ。溜まったストレスを発散するかのように、大きく開けた口で分厚いハンバーガーに威勢よくかぶりつく。
本日のランチ会の開催場所は、チェーンのファーストフード店ではなく、アボカドをふんだんに使ったワカモレバーガーがSNSで評判になっている、洒落たアメリカンダイナーだ。店の雰囲気に似合う洋楽がかかっているはずだが、店員の元気な声や、女性客がおしゃべりに興じる声などで、完全に掻き消されてしまっている。
夏帆のストレスの原因は察しが付く。第一営業部に所属する夏帆は、同じ部署から抜けた碓氷がもともと担当していた業務を引き継いでいるところなのだ。店内のざわめきに負けず、夏帆は大声で不満を口にする。
「一日で三十件も挨拶周りって、どういうことよ! 覚えられるわけないっつーの!」
「碓氷さんって、そんなにすごいの?」
蚊帳の外にいる第三営業部の優子は驚き顔だ。夏帆の勢いはいっこうに収まる気配がない。
「抱えてた案件が多かったのはしょうがないけど、説明は一回しかしてくれないし、口調はめちゃくちゃ冷たいし厳しいし、嫌になる! 言い方ってもんがあるでしょうよ!」
夏帆が碓氷からの引継ぎに関して不満が堪りかねているのは承知しているが、雪乃だって負けてはいないつもりだ。
「夏帆はまだいいよ。引継ぎが落ち着くまでの辛抱でしょう? 私、この先ずっとあの人と仕事していく自信がない」
さすがに夏帆も優子も、雪乃に同情の目を向けた。
朝から碓氷に命じられた仕事の量に、午前中だけで雪乃は心身ともにぐったりと疲れてしまっていた。彩りのよい美味しそうなワカモレバーガーをもってしても、期待していたほど雪乃の食欲を刺激してくれない。夏帆のように豪快にかぶりつくべきか、優子のようにフォークとナイフで切り崩しながら味わうべきかという、些細な考えごとさえ煩わしく感じるほどだった。
碓氷には、昼食に出るまでに少なくとも十社の不動産会社に電話して、会社から徒歩圏内の空き店舗を一つ残らずリストアップして書類にまとめ、午後一には提出しろと言われていた。細かく説明を受けたわけではないが、初期費用を抑え、できるだけ早く開店までこぎ着けるため、もと飲食店だった空き店舗を利用するつもりなのだろう。
日本橋界隈は昔から続いている老舗が多いことで有名だが、実は、経営が芳しくない店舗の入れ替わりも激しい。開店から一年も経たないうちに、気が付いたら空き店舗の看板が出ていて、以前に何の店があったのか思い出せない、という場所は少なくない――はずなのだが、まだ不動産会社は八社としか連絡を取れておらず、空き店舗は十二か所しか見つかっていなかった。碓氷の課したノルマに達していない。オフィスに戻ればまた叱られるのがわかっているだけに、気が重い。
それでもきっちりハンバーガーを胃袋に納め、怒られるのを覚悟してオフィスに戻ってみると、碓氷といっしょに雪乃の知らない男性社員の姿があった。
雪乃のデスクから椅子を奪い取って、背もたれに顎と両手をかけ、パソコンの前に座る碓氷の横に座っている。椅子に逆向きに座るというのはあまり褒められた行儀ではないが、そこは碓氷にはどうでもいいのか、視線は真っ直ぐパソコンの画面に向けて作業を進めながら、その男に対して厳しく言い放った。
「いつまでも愚痴っているなよ。はっきり言って、うざいぞ、田中」
「そう言わずに聞いてくださいよ、碓氷さん」
田中、と呼ばれた男は情けない声で碓氷に訴えた。碓氷の後輩なのだろうか。雪乃は少し迷ったが、「お疲れさまです」と声をかけた。田中は振り返って雪乃に気が付くと、慌ててふらつきながら椅子から立ち上がった。
「す、すいません。勝手にお借りして」
「いいえ。どうぞおかまいなく」
雪乃はにこやかに応えた。むしろ、そのまま碓氷と話し込んでいてもらったほうがありがたい。その隙に仕事を進めさせてもらえれば、怒られずに済むかもしれない。
「どうぞゆっくりなさってください。よろしければ、コーヒーを淹れましょうか」
「ええっ、いいんですか?」
田中は急にピシリと姿勢を正し、両腕をぴったりと脇につけて真っ直ぐ伸ばした。碓氷が呆れた様子で田中を睨む。
「お前、仕事はどうした」
「大丈夫っす! アポまではまだ時間があるんで」
田中はニコニコ笑って、あっけからんと朗らかに言い切った。雪乃は、さぞ碓氷の雷が落ちることだろう身を硬くしたが、碓氷は頭を抱えて溜息をつき、諦めた様子で言った。
「白石、悪いが俺の分も頼めるか」
「えっ?」聞き間違いかと思い、聞き返す。
「コーヒーだ。こいつの話を聞いていたら頭痛がしてきた」
意外に思いつつも、「もちろんです」と承諾して、雪乃は給湯室に向かった。
会社には備え付けのコーヒーメーカーがあるが、雪乃は自前のドリッパーを使い、ハンドドリップで一杯ずつ淹れることにしている。雪乃にとってコーヒーを淹れることは、魔法薬の調合に等しい作業であり、儀式のような意味をもっているからだ。
まずはやかんにたっぷりと水を入れ、呪文を念じながら火にかけ、湯を沸かす。沸き立つ泡が大きくなったら火を止め、カップに湯を注いでしっかりと温める。ドリッパーにペーパーフィルターをセットして、手の感覚を頼りにコーヒー豆の分量をきっちり測り入れ、コーヒーポットを惜しみなく湯で満たす。
すうっと息を吐き、吸い、呼吸を整える。
カップの湯を捨ててドリッパーを載せ、ポットからするりとお湯をコーヒー豆の中央に下ろし、ゆっくりと円を描いてゆく。お湯の流れは、勢いが弱すぎても、強すぎてもいけない。豆が暴れださないよう慎重に、途切れないよう正確に、早すぎないよう呼吸を落ち着けて、しっかり豆を膨らませる。一旦間を置き、再び湯を注ぐ。今度はドリッパー全体が満たされるまで。
香ばしい芳醇なコーヒーの香りが広がってゆく。琥珀色の美しい滴が、ぽつり、ぽつりと、きらめきながらカップに落ちてゆく。目を閉じて、古い書物に囲まれた居心地のよさを思い浮かべる。本の中に限りなく広がる世界へ誘うように、風がページを捲る。爽やかな風の吹き込む窓の外には、郷愁を感じさせる田舎の平穏な風景が広がる……。落ちてゆく、一滴一滴に、濃縮された魔法が溶けてこんでゆく。
そうして一連の作業を三回繰り返し、三杯の魅惑的なコーヒーを完成させた。
「お待たせいたしました」
雪乃が差し出したコーヒーカップをソーサーといっしょに受け取って、田中は「ありがとうございます!」と、満面の笑みを見せた。尻尾を振って喜ぶ仔犬を彷彿とさせる姿が微笑ましく、雪乃もしぜんと笑顔になる。田中より先にコーヒーを口にしていた碓氷が、ぽつりと呟いた。
「美味いな」
雪乃はまた聞き間違いかと疑って、目を瞬いた。田中も驚いたようだ。
「へえ! 碓氷さんも、褒めることってあるんですね!」
碓氷と親しげな田中がそう言うのなら、やはり珍しいことなのだろう。雪乃は褒められた嬉しさと照れくささで頬が熱をもって赤くなるのを感じた。碓氷は田中の言葉を無視し、手元のコーヒーをじっと見つめて考えに耽っている。
「マジで美味いっすね」
碓氷に続いてコーヒーを口にした田中がぽつりと言った。先ほどまでとは打って変わって静かになったことで、ぐっと真実味が増した。こみあげてくる嬉しさに、頬が更に熱を帯びるのを感じて、雪乃は空いている片手を頬に当てて隠しながら俯いた。
「……ありがとうございます」
田中は借りていた雪乃の椅子を返してくれたが、田中一人だけを立たせておくのは憚られて、雪乃は立ったまま自分でもコーヒーカップに口をつけた。香ばしいコーヒーの香りをともなって、深みのあるコクと、まろやかな甘みに続き、すっきりとした後味が残る。柔らかくあたたかい真綿で包まれるような優しい心地に、心も体ものびやかに落ち着いた。しぜんと、ほう、と溜息が出る。
「白石さん、喫茶店とかでバイトでもしてたんですか?」
田中の質問に、雪乃はゆるりと首を横に振った。
「いいえ。祖母に教わったんです。お茶やコーヒーを淹れるのは、わたしのいちばん得意な魔法なんです。疲れがとれて、体がほぐれたでしょう?」
雪乃が言うと、田中は一瞬呆けた顔をしたが、納得顔で頷いた。
「そう言われると、たしかに魔法みたいです」
魔法みたい、ではなく、正真正銘の魔法なのだけれど。雪乃は曖昧に微笑んで、魔法のことを話すべきか迷った。たいていの人は碓氷と同じように魔法の力など信じないとわかっているので、なかなか仔細に説明する気になれない。
雪乃が悩んでいるうちに、碓氷が口を開いた。
「田中、お前いつまでここで油を売っているつもりだ。お前は暇かもしれないが、俺も白石も仕事は山ほどあるんだぞ」
暗に「仕事をしろ」と叱られた気がして、雪乃は目を伏せた。
「わかってます。これ飲み終わったら、すぐ行きますから」
田中は相変わらず朗々と答えて、コーヒーをごくりと美味しそうに飲み、雪乃に向かって話を続けた。
「白石雪乃さん、ですよね。俺、第一営業部の田中です。田中隼人。碓氷課長……あっ、今は部長か。碓氷さんは、入社してからずっと、俺に仕事を教えてくれてた人なんです。見た目は怖いけど、すごくいい先輩なんですよ」
田中の後ろから睨んでくる碓氷の顔を見ていると、とても「いい先輩」とは思えないけれど。本心を飲み込み、雪乃は愛想笑いを浮かべた。
「田中」
大きくはない声だったが、碓氷の声は明らかに警告めいていた。田中は叱られた仔犬のように身をすくめ、手にしていたコーヒーを一気に飲み干した。
「カップ、洗って戻しておきますね。じゃ、失礼しまーす」
そう言って、田中は軽く一礼し、第六営業部から出て行った。雪乃もお辞儀を返して見送ったが、碓氷は犬でも追い払うようにひらひらと手を振った。
雪乃は一度目を瞑って、碓氷に叱られる覚悟を決めた。自分のデスクの上に置いておいた資料を取って碓氷に差し出し、深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。少なくとも十社との仰せでしたが、午前中だけでは、八社からしか回答をいただけませんでした」
「八社?」
繰り返して、碓氷は雪乃の手から書類を抜き取った。雪乃が恐る恐る顔を上げると、碓氷はいつもと同じ仏頂面で紙面を眺めている。
「八社から回答をもらえていれば悪くない。最低でも十社に連絡を取れとは言ったが、十社から回答をもらえとは言っていないぞ。いったい何社に問い合わせて、どれだけゴリ押ししたんだ」
碓氷が呆れたように言うので、雪乃はショックを受けるやら、がっかりするやら、全身から力が抜けるような気がした。勘違いしたのは雪乃のほうなので文句は言えない。碓氷ならそういう無茶な命令を出しかねないと偏見をもってしまった雪乃が悪い。
「見つかった候補は十二か所か。内覧の予約を取るから、連絡先を教えてくれ」
「十二件、すべてご覧になりますか?」
雪乃は思わず聞き返す。碓氷は書類を雪乃に返して言った。
「白石が気に入った物件だけに絞り込んでもらっても構わない。店に立って仕事をするのは主に白石になるから、基本的には白石の希望を優先する。間取りやレイアウトは白石に任せたい。明日は内覧に同行するつもりでいてくれ」
口調は素っ気ないながらも、雪乃に決定権を認めていることに驚いてしまった。責任を感じて自然と背筋が伸びるとともに、自信を取り戻すような心地がした。
「店の場所が決まったら提供するメニューを決めていくが、それについても意見があれば提案してもらいたい」
――こんなふうに、真面目に意見を聞いてもらえるんだ。
たったそれだけのことでも、雪乃は感動に胸が震えるのを感じていた。一介の営業アシスタントをしていた頃は、自分から何か提案してみることなど想像さえしなかった。
「わかりました。考えてみます」
「プロジェクトの成否は白石にかかっている。頼んだぞ」
笑顔一つ浮かべない仏頂面だし、不愛想で冷たい言い方しかしない人だけれど、たしかに「いい先輩」かもしれない。雪乃はようやく、碓氷が上司でも仕事をやっていけるような気がしてきた。
自宅のアパートのベランダに出て、雪乃は機嫌よく鼻歌交じりに洗濯物を取り込んでいく。春分を過ぎてからだいぶ日が伸びてきて、会社から帰ってきたこの時間でも、まだ夕日が空を鮮やかなグラデーションに染めている。お馴染みの羽音とともに、ベランダの手すりにカラスのクロが降りてきた。
「ずいぶん機嫌がいいね」
「仕事がおもしろくなってきたの」
雪乃の気分がいいと、クロも嬉しがる。
「それじゃ、新しい上司とはうまくいっているんだね」
「思っていたより、いい人だよ。一緒にやっていけるという気がしてきたの」
洗濯物をベッドの上に放り投げ、雪乃はクロに向かって報告する。飲食店を開く予定であること、明日は候補の物件を見て回ること、提供するメニューについて雪乃が意見を求められていること。クロはしきりに感心して相槌を打った。
「なんだか、雪乃もこれでようやく一人前の魔女だという気がするな」
クロに言われて、雪乃は口を尖らせた。
「どういう意味? 私はもう一人前の魔女だよ」
「魔女っていうのは、人の役に立つものだろう。助けや救い、癒しなんかを求めている人に応えるのが魔女なんだ。雪乃は、これからそういう仕事をするんだろう」
賢しげにそう言って、クロは胸を膨らませた。
「そうね。たしかに、人の役に立って、はじめて一人前の魔女だと言えるのかもしれない」
はるか昔から、魔女はそうして生きてきたのだから。探し物だったり、天候の予知や祈祷だったり、病気の治癒だったり、さまざまな助けを必要とする人に、手を貸してあげられるのが魔女なのだ。
翌朝、今日は歩き回るだろうからと、雪乃はいつもの踵が高い靴ではなく、歩きやすいローヒールのパンプスを選んだ。仕事へ行くのにワクワクする日が来るなんて。葉桜の季節を迎え、春爛漫のうららかな陽気が心地いい。アパートの外階段を下りる雪乃の足どりは軽かった。とはいえ、いくら上機嫌であろうと、満員電車での通勤が耐えがたいことはどうにもならない。空を飛べるカラスが羨ましい。
飛ぼうと思えば、雪乃も飛べなくはない。空を飛ぶための魔法をかけた箒をつくればいいのだが、これがけっこう骨の折れる術なのだ。術を失敗して飛行中にバランスを失ったり、風を読み誤ったり操縦ミスをしたりすれば墜落しかねないし、万が一箒から落ちたら命が危ない。箒をつくって空を飛ぶというのは、自分で部品から飛行機を組み立てて飛んでみるようなものだ。そんな危ない橋を渡るくらいなら、安全な満員電車に詰め込まれて運ばれる方がましなのだ。
鳥に変身できないのかと問われば、これもまたできなくもないのだが、カラスやネコやカエルに変身した魔女が、そのまま元に戻れなかったという史実がいくつも残っているだけに、挑戦してみる気になれない。そのまま一生変身後の姿でも後悔しない、という覚悟が必要で、雪乃にはそこまでの覚悟はもちろんなかった。
物件の候補は十二か所あったが、敷地面積が狭すぎる場所を削って十か所に絞り、一日かけて回ることになっていた。会社の一階ロビーで待ち合わせていた碓氷と連れ立って外に出るとき、雪乃は電線にとまっているカラスの姿を見つけた。「魔女の家」探しに、クロも興味津々でついてくるようだ。
雪乃の役目は、不動産業者から渡された間取り図に、碓氷のコメントを走り書きしていくことだった。
一件目は、最寄り駅からの距離が一番近いが、かなり狭かった。もともとラーメン屋だったため内装は油汚れがひどく、大幅な改修が必要だ。それに、座席はどう工夫してもカウンター席だけになってしまう。
二件目と三件目は、どちらも細長い雑居ビルの二階部分だった。外観には手を加えられないので、世界観を店の外にアピールするのは難しいかもしれない。それに、一階より当然集客力に劣る。面積は申し分ないので、宣伝費との比較検討が必要だろう。
四件目が午前中の最後の物件だった。ここは雑居ビルの一階だったが、両側を大手チェーンのコーヒー店に挟まれていた。隠れ家的な魅力に欠ける、と碓氷が零したのを、雪乃はいちおうメモに取っておいた。
昼食を兼ねて休憩を挟むことになり、碓氷と雪乃は喫茶店に入った。四件目と五件目の間に位置する古風な喫茶店で、どうやら碓氷は物件巡りのルートに最初からこの店を組み込んでいたようだ。
純喫茶を名乗る店内に足を踏み入れると、レトロな趣のある空間が広がっていたが、せっかく美味しそうなコーヒーの香りがするのに、薄っすらと煙草のにおいが混じっているのが残念だった。先客は二人しかいない。カウンターの一番右端の席に、黒髪をシニョンに結い上げている女性が一人で静かに座っており、隅にあるソファ席で白髪の年配男性が一人、新聞を広げながらコーヒーを飲んでいた。十一時半を過ぎたところなので、ランチタイムには少し早いのだろう。カウンター越しにマスターと思しき初老の男が声をかけてくれた。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
言われて、碓氷と雪乃は二人掛けの席を取った。メニューを広げ、碓氷はじっくりと吟味している。マスターがこちらに背を向けてお冷の準備をしているのを確認しつつ、雪乃は小声で尋ねた。
「敵情視察ですか」
「そんなところだ。この近辺では、この店が一番古くからやっている」
長く続いているということは、人気の理由があるのだろう。雪乃もメニューを広げ、何があるのかと目を走らせる。飲み物は至って普通だ。ホットかアイスのブレンドコーヒー、紅茶、オレンジジュース。コーヒーや紅茶の種類を顧客が選ぶ方式はとっていない。それが一般的だとは思うけれど、最近はブレンドの種類や産地を選んで注文できる店も少なくない。
ランチメニューは喫茶店らしく、ナポリタンスパゲティ、オムライス、ベーコンレタスサンドウィッチ、と選択肢が並んでいた。雪乃はそっと碓氷をうかがい見る。店を開いたらこういう料理をつくらなければならないのか、と懸念したのだ。
「手のかかりそうなメニューだな。裏に厨房があるのか」
そう呟いて、碓氷はカウンターの向こうへ目を向ける。お冷の入ったグラスを持って、マスターが席にやって来た。
「ご注文はお決まりですか?」
「白石、決まったか?」碓氷に言われ、雪乃は急いで決める。
「オムライスと、紅茶をお願いします」
マスターにミルクかレモンは必要かと問われ、いりませんと首を振って答える。碓氷はナポリタンスパゲティとホットコーヒーを注文した。飲み物のタイミングを聞かれると、碓氷は雪乃に口を挟む隙を与えず、「先に」と言った。料理で舌が鈍る前にコーヒーの味をみておきたいのだろう。
「こういう、注文後に手間のかかる料理のメニューは無理だな。人手が足りない」
マスターに聞こえないよう気を遣い、碓氷は小声で言った。それを聞いて雪乃はほっとした。つくれと言われたらどうしようかと思ったのだ。
「仕込みをしておけば提供に手間のかからないメニューにして、品数も絞った方がいい」
「じゃあ、カレーとか、ハヤシライスとか」
雪乃が提案してみると、碓氷は頷いた。
「いいかもしれないな。ハヤシライスは日本橋が発祥の地といわれているし、何かを大鍋でぐつぐつ煮込むのは、魔女のイメージに合う」
碓氷の頭の中には、高笑いしながら大鍋を火にかけている老婆の姿が浮かんでいるのだろうか。とはいえ、そういうステレオタイプのイメージが存在するには、やはり理由がある。火のないところに煙は立たない。
「確かに、煮込む料理は魔法をかけやすいです。私のイメージするお店には、辛くて刺激のあるカレーより、優しい味のハヤシライスやシチューの方が、合う気がします」
「いい案だと思う」
雪乃の意見に、碓氷は同意してくれた。
コーヒーと紅茶が運ばれてくると、碓氷はマスターに豆と茶葉の種類を尋ねた。コーヒーはブルーマウンテンをベースに、キリマンジャロとモカをブレンドしており、紅茶はミルクともレモンとも合うセイロンのディンブラを使っている、との回答だった。
正直に言うと、雪乃はコーヒーや紅茶の種類、つまり産地を気にしたことがあまりない。それよりも、直接豆や葉と向き合い、呼吸を整え、香りを嗅ぎ、心を寄り添わせ、感じたものにあわせて淹れることにしている。雪乃がそのことを碓氷に伝えると、碓氷は眉根を寄せた。
「つまり、産地にこだわりなく、豆や茶葉の個体の特徴を掴んで、それに合った淹れ方をするということか?」
「そんな感じです」
碓氷は目を閉じてコーヒーを一口啜り、「なるほど」と呟いた。
「だとすると、コーヒー豆と紅茶をどこから調達するか決めるのが難しいな。専門家の強力が必要かもしれない」
雪乃はふと、魔女である親友のことを思い出した。雪乃といっしょに西洋魔術を学んだ親友は、今も魔女として生計を立てているはずだった。彼女はお茶の専門家と呼べるかもしれない。
「あの……私の知人で、ハーブの栽培や、お茶のブレンドを仕事としてやっている人がいます。コーヒーの焙煎もやっているかもしれません」
「そんな伝手があるならさっさと言え」
「すみません。メールして、聞いてみます」
雪乃は首をすくめ、スマホを取り出した。魔女どうしの連絡でも、やはり電子メールが一番速くて便利なのだ。
そうこうしているうちに、ナポリタンスパゲティとオムライスが運ばれてきた。目の前に置かれたオムライスの、艶やかな黄色い半熟卵が美味しそうで、雪乃のお腹が鳴った。
玉ねぎやピーマン、ニンジンといっしょにケチャップがしっかり絡んでいるナポリタンを前にして、碓氷が几帳面に「いただきます」と手を合わせたのが、雪乃には意外だった。雪乃もそれに倣ってから、スプーンを手にした。
メールの返事はすぐには返ってこなかったが、想定内だ。すっかりお腹が満たされ、午前中に歩き回った疲れがとれてきたので、二人は午後の物件巡りを再開した。
五件目は、高架線路の下にある元中華料理屋だった。悪くないが、一日中JR線が天井の上を走り続けているため、静かな喫茶店の雰囲気に相応しいか不安なところだ。
六件目、七件目はすでに借り手が決まってしまったとのことだった。
八件目は地下鉄の駅に直結した地下通路の中の一角で、条件としては悪くなかったが、「家」のイメージに適さないものの、「家」である必要はないか、と碓氷は及第点をつけた。
九件目も雑居ビルの二階にあった。午前中に見たビルと似通っていて、頭の中で景色がない交ぜになる。
最後の物件の内覧を終える頃には、雪乃は足が棒のように重くなってきたのに加えて、頭の中で何件もの空き店舗の光景がぐるぐると渦巻き、すっかり混乱してしまっていた。
気が付けば、もう夕日はビルの陰に隠れ、黄昏時を迎えていた。毎日通っている日本橋界隈だが、こうして歩き回ってみると、いかにビルが密集し、路地が細々と縦横に駆け巡っているかを痛感する。どこを歩いても同じような景色で、地図がないとコンクリートジャングルの中で迷子になってしまいそうだ。薄ら暗くなってきて、気温も急に下がったような気がする。背筋がぞわりと震える心地がして、雪乃は隣を歩く碓氷に声をかけた。
「一度会社に戻りますか?」
「そうだな」
そう言って、碓氷と並び、歩き出した時だった。
「あのう、そこのお二人さん」
背後から声をかけられ、雪乃は驚いた。碓氷は気にならないようだが、さっきまで、背後には誰もいなかったはずだ。声をかけてきたのは、すらりと細見で美人の女性だった。雪のように白い肌に、少し吊り上がった目。細い唇には紅を差し、口元は薄ら微笑んでいる。なによりも印象に残るのは、彼女が和服を着ていることだった。鮮やかな紅に染まった紅葉の柄が散りばめられた朱色の着物がとてもよく似合っている。
「少しばかり、お手をお貸しいただけませんか」
「何でしょう?」
平素は仏頂面の碓氷だが、さすがに見知らぬ人に声をかけられたとあって、口元に愛想笑いを携えている。声をかけてきたのが女優さんのような美人だから、という可能性も捨てきれないところだけれど。
「落とし物をしてしまいまして。探しているのですが、見つからないのです」
どうしたものか、と雪乃は碓氷の表情をうかがったが、碓氷は雪乃の方をちらりとも見ずに、にっこりと笑って申し出た。
「お手伝いしますよ」
まるで別人である。雪乃は驚き呆れて声を失った。
「白石は先に帰っていろ」
追い払うような言い方に、雪乃は呆れを通り越して怒りが沸いた。が、雪乃が何か言う前に、碓氷は雪乃に背を向けるようにして、和服の女性と連れ立って歩き始めた。
「落としたのはどのあたりですか」
「もう少し、向こうの方です」
女性の方も満更ではない笑顔で、もはや雪乃の存在など目に入っていないように見える。
――そういうこと!
不本意ながらも察しとって、雪乃は碓氷の背中に向かって冷ややかに言った。
「わかりました。お先に失礼します!」
何だかいらいらしてきて、雪乃は返答も待たずにスタスタと速足で歩きだした。ビルの角を曲がり、自動販売機の前を通り過ぎて、大通りを目指す。
せっかく、いっしょに仕事をやっていけると思っていたのに。雪乃の提案に真剣に耳を傾けてくれる、いい先輩だと思っていたのに。意見が合うと感じていたのに。
一足ごとに怒りを込めて踏み出しているうちに、雪乃は情けない気分になってきた。碓氷が綺麗な女性に声をかけられて立ち去ったからといって、今日の仕事は終わっているのだから、雪乃には何の差し支えもないはずだ。どうしてこんな胸焼けに似たむかつきを我慢しなければならないのだろう。
それに、奇妙な胸騒ぎがする。何か違和感があったような、しっくりこない何かがある。そういえば、あの女性を雪乃はどこかで見たような気がする……。
「雪乃!」
大通りに辿り着く前に、クロが雪乃の目の前に降り立った。慣れ親しんだカラスの姿を前にして、胸のむかつきが少し落ち着いた気がする。雪乃は足を止めた。
「クロ。どうしたの?」
「何かおかしな感じがするんだ」
「おかしい? 悪い予感とか?」
ここのところ、クロはやけに敏感だ。またか、と思う気持ちを捨てきれずに、雪乃は首を傾げた。クロはぶるりと震え、怯えた声で答える。
「何かとても強いものだよ。おそろしいものだ」
クロのあまりの怯えように、雪乃も心配になってきた。魔女と契約している使い魔であるからには、クロの言葉は並のカラスが警告する鳴き声とは重みが違う。クロは雪乃の肩の上に飛び乗って、雪乃の頬に身をすり寄せた。
「何かが誘いこもうとしている」
――何が、どこへ、誰を……?
考えを巡らせた瞬間、全身を雷が迸るような衝撃を受けた。ぞくりと背筋が震え、雪乃は息を呑んだ。クロのいう、とても強く、おそろしいものが、雪乃を恐怖の沼へ引きずり込もうとしていた。
新緑の深まるこの時期に、赤い紅葉の着物はそぐわない。
あれは何ものだったのか。
雪乃は弾かれたように踵を返し、元来た道を走った。ビルの角を曲がる。
急がなければ。早く、早く――
早くしないと、連れていかれてしまう!
両側をビルに囲まれた路地には、誰もいない。ビルの陰に太陽が隠れ、空は西から東へと茜から群青に色を変えてゆく。雪乃は必死の思いで地面を蹴り、走った。碓氷はこの先へ行ったはずだ。恐怖に胸が早鐘を打つ。
「碓氷さん!」
大声で何度呼びかけても返事がない。左右の横道を見回しながら走る。いない、いない、誰もいない。やがてビルに囲まれた裏路地は、袋小路に行きあたった。愕然として足を止めた雪乃の肩の上で、クロがぽつりと呟く。
「連れていかれたんだ」
「追いかけなくちゃ。今ならまだ間に合う。まだ日は落ちていないもの」
逢魔が時の空を見上げて、雪乃は両手を握り締めた。夜の帳が下りてしまったら、戻れなくなってしまう。
雪乃は誰もいない周囲を見回し、魔法に使えるものを探した。人の手によって為されていないもの、自ずから然るものを。草木の生える地面も、かつてはあった河川も、今は厚いコンクリートに覆われている。周囲に植物はなく、乱立するビルが聳え立つばかりだ。
ふっと雪乃の目を引いたのは、自動販売機だった。これに賭けるしかない。
雪乃は財布から小銭を取り出すと、素早く投入口へ滑り込ませた。ボタンを押すと、ガコンと無機質な音を立ててペットボトルが落ちてくる。ラベルには「富士山の天然水」という文字が躍っていた。
「こんなもので、うまくいくかな?」
クロが疑わし気に呟いたが、雪乃は反論した。
「富士のご霊峰で汲まれたお水なら、きっと御霊水でしょう」
他に使えそうなものは見当たらないのだから、これで試してみる他ない。キャップをひねって開け、口の開いた状態でペットボトルを地面に置く。両手の指を組み合わせ、目を閉じて心を落ち着かせる。
呼吸を整え、水に意識を集中する。静かに、冷たく、清らかに、雨となって降りそそぎ、富士の峰を辿り、揺らぎ、きらめき、波打つ……ゆるやかに、蕾が花開くように――
雪乃が目を開き、両手の平を空へ向けて掲げるとともに、湧き出すように水が中空に立ち上った。波打ちながら広がってゆき、雪乃の面前に、姿見のような楕円を描いてたゆたう。西から照らす夕日を受け、水面が光を反射して鏡のように雪乃の姿を映した。
本を繰るように水面に向けて手を振ると、水鏡に映る景色が変わった。ここであって、ここでない場所だ。歩いて行く碓氷の後ろ姿が見える。繋がったのだ、向こう側に。雪乃のいるこの場所とは表と裏のようなもの、鏡合わせの向こう側といってもよい。通ずる道はどこにもないが、どこにでもあらわれる。特に、昼夜の狭間の逢魔が時には。
クロが肩から離れ、雪乃の足元に降り立った。
「おれは行ってはいけないという気がする。たぶん、歓迎されていないんだよ。向こうへ行けるのは雪乃だけなんだ」
「わかった。クロはここで待っていて」
「必ず戻って来てよ」
「もちろん。任せておいて」
雪乃はクロに向かって片目を閉じてみせ、勢いよく地面を蹴って水鏡の中に飛び込んだ。
水鏡の向こう側は、夕日に照らされた木造長屋に両側を挟まれた細い路地だった。舗装されていない砂利道に建物の影が長く伸びている。隙間なく並んでいる木造に瓦屋根の古風な建屋は、暖簾や看板を出しているため商家と思われるが、店主も客も、通行人もいない。町は奇妙なほど静まり返っていた。夕日はついに地平線の向こうへ姿を消し、あたりはどんどん薄暗くなっていく。
そんな不気味な町の中を、背広を着た碓氷の後ろ姿が歩いていく。雪乃のいる場所からは数十メートル先だ。碓氷は何かに導かれるように、迷いなくまっすぐ歩いて行く。
「碓氷さん!」
呼びかける雪乃の声は届かないようだった。追いかけて、雪乃は全力で走った。
碓氷が角を曲がったので、その後に続いて角を折れると、碓氷は袋小路に建つ家に入ろうとしていた。この古風な――年代の頃は江戸だか明治だか、雪乃にはわからないが――町にあって、その家は一際目立つ洋風の造りをしていた。外壁は赤レンガで造られており、他の平屋とは異なり二階がある。一階に、ガラス窓が一つと、木でできた入口のドアがある。
今まさにドアに手を掛け、碓氷はその中へ姿を消した。雪乃も息を切らしながらそのドアの中へ駆け込む。ちりんちりん、とドアに取り付けられている鈴が軽やかに鳴り、ドアが閉まる。
先に中に入った碓氷は、音に気付いて振り向き、追いかけてきた雪乃に気が付いた。
「白石?」
雪乃は碓氷の腕を掴み、急いで連れ出そうと試みる。
「碓氷さん、帰りましょう。戻れなくなる前に」
「何を言ってるんだ?」
碓氷は訳がわからないという顔だ。雪乃は気が急いてしまい、うまく説明できなかった。
「ここは現ではないんです。急がないと、夜になってしまいます」
けれども、もう遅かった。窓の外からかろうじて差し込む光がふいに途絶え、家の中は真っ暗になった。日没を過ぎ、夜の帳が落ちたのだ。雪乃はドアを内側から開けようとしたが、押せども引けどもびくともしない。閉じ込められた。夜闇に包まれ、真っ暗で何も見えない。おそろしい恐怖に胸を締め付けられ、雪乃はどうしよう、と悲鳴を上げた。
「落ち着け!」
碓氷の声に、雪乃はびくりと肩を震わせる。恐怖のあまり、雪乃の目に涙が溢れた。
「碓氷さん、わからないんですか? ついて来てはいけなかった。あれは、人ではなかった。とてもおそろしいものなんです!」
暗闇の中に、強く、おそるべきものが潜んでいるのがわかる。雪乃の存在など容易にどうにでもできてしまうものだ。恐怖におそれ慄き、全身が震える。
「碓氷さんは、怖くないんですか」
「ただの夢だ。何を怖がる必要がある?」
怖いのは、これがただの夢ではないと、雪乃は知っているからだ。碓氷にはあれのおそろしさがわからないのだ。
ゆらり、宙に炎が揺らめいた。おぼろげに揺らぐ青白い炎が、ひとつ、ふたつ、と増えていく。おどろおどろしく浮かぶ炎が、薄暗くあたりを青白く照らしていく。
おそろしさに、雪乃は暗闇に浮かび上がった碓氷の腕にすがりついた。
等間隔に並んだ炎が一周すると、薄暗いながらも、屋内の様子が見て取れるようになった。古めかしい喫茶店のような場所だった。ドアから見て正面にカウンター席があり、その内側に背の低い老人が立っている。落ち窪んだ眼で雪乃たち二人を見て、口元を吊り上げて笑った。
「どうぞ、おかけください」
一見優しそうにも見える老人だが、おそろしいのは、その姿が霞のように実体をもたず、背後にある古時計やガラス戸棚がその体の向こうに透けて見えることだった。
碓氷が応じて進み出たので、雪乃は驚きと怯えで声が裏返った。
「座るんですか?」
「喫茶店に入って、コーヒーの一杯も飲まずに出て行くのは失礼だろう」
それは喫茶店の店主が幽霊でない場合に限る。
けれど、店を出て行くことが叶わない以上、雪乃は碓氷の傍らを離れないように、席に着くしかなかった。雪乃は碓氷の右隣りに腰かけたのだが、さらに雪乃のすぐ右隣には、あの朱色の着物を着た女性が座った。いつ現れたのか、最初からいたのか。雪のように白い顔が暗がりの中で薄青く光り、赤く紅で塗られた唇が妖しげに笑みを携えている。
雪乃は、そこでようやく、店主が声を掛けたのは自分たちではなく、この女性の方だったことに気がついた。店主は和服を着た女性の前に立ち、穏やかな口調で尋ねた。
「いつものコーヒーでよろしいですか? ヨウコさん」
「ええ」
ヨウコと呼ばれた女性が上品な声で肯いた。
「とっておきの一杯を淹れてくださいな」
「そうおっしゃられると、腕が鳴りますね」
応えた店主が微笑むと顔の皺が深まり、老齢であることを感じさせた。店主はコーヒー豆をミルに流し込み、コリコリと音を立てながら挽き始める。挽いた豆から弾けるように芳醇な香りが広がっていく。鼻から息を吸うと、胸の内に優しい香りが染み渡る。挽き終わるとマスターは手際よく器具を揃え、ポットを片手にコーヒーの抽出を始めた。ぽたり、ぽたりと琥珀色の液体が白磁のカップの中へ落ちてゆくのを眺めるのは、紅葉が秋風に舞い散るのを見ているときのような郷愁を感じさせる。とても綺麗で、儚く美しい。
「お待たせいたしました」
コーヒーに満たされた金縁のカップには、美しい真紅で紅葉が描かれていた。コーヒーを差し出された女性は、しかし自分では口をつけずに、カウンターの上を滑らせるようにして、カップを雪乃の前に置いた。
「お飲みなさいな」
有無を言わせぬおそろしい目に、雪乃は震えあがる。黄泉戸喫のように思われて、とても口を付ける気になれなかった。雪乃が首を横に振っていやだと断ると、女の目が吊り上がって鬼のような形相になった。
「飲めと言ったのがわからぬか!」
怒りに触れたことに恐怖して、雪乃は震えて身をすくめる。
す、と横から手が伸びて、碓氷が雪乃の前からカップを取り上げた。
あっ、と雪乃が声をあげる間もなく、碓氷は濃褐色のコーヒーに口をつけていた。碓氷は目を閉じ、舌でしっかりと味わってから。ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
「碓氷さん!」
「美味い。夢の中でしか飲めないとは残念だ」
「そんなことを言っている場合じゃありません!」
いよいよ現には帰れないかもしれない。女は、碓氷の感想に満足気に頷いていた。
「そうでしょう。この人のコーヒーは格別ですの」
「それはなんとも光栄なお言葉です」
店主は穏やかに微笑んだが、突然、不快そうに指先で目がしらを押さえた。女は店主に向かって訊いた。
「どうかなさいましたの?」
「いえ、ちょっと目がかすんだだけでして。ヨウコさんのような素敵な女性を前にして、目が眩んだようです」
「まあ。毎日お訪ねしている甲斐があったわ」
女は店主の言葉に微笑んだ。
刹那、店主の体がぐらりと揺れ、青ざめた顔で床に倒れ込んだ。女が慌てて席を立ち、カウンターの中へ身を乗り出して声をかける。
「どうなさったの?」
女が声をかけても、店主は喘ぐばかりで立ち上がる気配を見せない。咄嗟に立ち上がった碓氷が急いでカウンターを回りこみ、店主の元へ駆け寄ると、膝をつき、助け起こそうと手を差し伸べた。けれども、わかっていたことだが、碓氷の手が、縋るように伸ばされた店主の手に触れることは叶わない。
「しっかりなさって!」
床に倒れた店主は息も絶え絶えに、喘ぎながら言葉を紡ごうとしている。雪乃も思わず席を立ち、カウンターをまわりこんで碓氷の隣に膝をついた。
「店を……」
ほとんど虫の息といえるか細い声を聞きとろうと、口元に耳を寄せる。
「ヨウコさん……店を……頼む……」
次第に虚ろになってゆく店主の目を、何もできずに見つめていると、やがてその目は光を失い、ヨウコと呼ばれた女性に向けて差し伸ばしかけた手は、力をなくしてだらりと床に落ちた。息を引き取ったのだ。店主の姿は泡沫のように跡形もなく消え去ってしまった。
「わたくしに、あの美味しいコーヒーを飲ませて頂戴」
カウンター席に座ったまま、女が命じた。
試されているのだ、と雪乃は悟った。緊張からか、恐怖を感じてか、喉がカラカラに乾き、両手が震える。
もし認めてもらえなかったら、そのときは、どうなるのだろう。床に膝をついたまま身を強張らせている雪乃の傍らで、碓氷がすっと立ち上がり、女に向き合った。
「そのために、我々をここに連れて来たんですか。先ほど、あなたを喫茶店で見かけた気がします。そこであなたは我々の会話を聞いていたのではないですか? ヨウコさん、とおっしゃいましたか」
「そのように呼ぶ者がいるので、そう名乗っていましたの」
女性は意味深げに微笑んだ。碓氷は淡々と、落ち着いた声で問う。
「ご注文は、コーヒーでよろしいですね?」
「ええ、そうよ」
そう答えたヨウコの艶やかな笑みは、妖しくもある。白く細い指を組んで肘をつき、顎先を載せて上目遣いに碓氷をじっと見つめている。もし彼女の希望に叶うコーヒーを出すことができなかったなら、何が起きてもおかしくはないという恐怖に襲われる。
「白石、頼む」
碓氷に言われ、雪乃は間髪入れずに「できません」と首を横に振った。
「そんなおそろしいこと、できません」
碓氷はしゃがんで雪乃に目線を合わせ、真っ直ぐに雪乃を見た。
「俺にはコーヒーは淹れられない。できるのは白石しかいないんだ」
雪乃は堪えきれずに俯き、碓氷の真っ直ぐな視線から逃れようとした。碓氷の骨ばった大きな手が、雪乃の肩に置かれる。
「大丈夫だ。自信をもて。白石のコーヒーは美味いよ」
碓氷は励ますように笑って、雪乃の肩をポンと叩くと、手を差し伸べた。
「ほら。手を貸してやるから、まずは立て」
――あれのおそろしさを知らないから、そんなことが言えるのだ。
そう言ってやりたくて堪らないのに、雪乃は差し伸べられた手を取ってしまった。立ち上がって、妖しく笑うヨウコに向き合う。
カウンターの内側にあるガス台の上で、やかんが湯気を上げている。改めて店内を見回してみると、店内のガス燈には燐火が灯されているために、店内は薄青くおどろおどろしげに見えるのだとわかった。まだ充分に電気の整備されていない時代なのだろう。だからこそ、黄昏時を過ぎたこの世界は夜の闇にすっぽりと包まれているのだ。
いつ頃のことかわからないが、あの店主が亡くなってから、気の遠くなるほど幾年もの年月が経ったことはわかる。そんなにも長い間忘れることのできないほど、思い入れのあるコーヒーの味を、はたして雪乃に再現できるだろうか。
揺らぐ雪乃の気持ちを励ますように、碓氷がもう一度言った。
「大丈夫だ。白石のコーヒーは美味い」
雪乃は目を閉じて気を落ち着かせ、呼吸を整えた。大丈夫、と自分に何度も言い聞かせる。全身の震えも、徐々に収まってきた。ゆっくりと目を開けた雪乃はヨウコの目を真っ直ぐ見据え、ぎこちないながらも微笑んだ。
「ご注文、承りました」
コーヒー豆をミルに入れ、適度な速度で挽いてゆく。静かな店内に心地よいリズムが響き渡る。奏でるメロディに心を寄り添わせ、ゆっくりと魔法をかけていく。凍りついた長い年月を春の風が優しく溶かし、喪失の寂寥をあたたかな熱をもって癒すように。
豆を挽き終えると、後ろのガラス棚から、青いバラのカップとソーサーのセットを選んで取り出した。岡染付の奥深い青のグラデーションが美しい優美で上品なカップは、長きにわたり伝統として受け継がれたものでありながら、絵師によってその顔つきをわずかに変えるという美しさをもつ千変万化の絵柄でもある。
カップをたっぷり湯で満たし温めながら、ドリッパーにフィルターをセットし、挽きたての豆を入れて均す。
――さあ、いよいよだ。
ポットをそっと握り締め、雪乃は渾身の一杯を淹れていく。一滴ごとに、心をこめた魔法をかけながら。
「お待たせいたしました」
雪乃がそっと差し出したカップの中で、濃褐色にきらめく液体がたっぷりと揺れている。白い湯気に乗って、コーヒーの華やかで芳醇な香りが舞い踊る。
ヨウコはそっとカップに手を伸ばし、時間をかけて香りを味わってから、静かに口へ運んだ。
気が遠くなるような沈黙を、雪乃は奥歯を噛み締めて耐える。
おもむろにヨウコがカップを置き、鋭い眼付きで雪乃を睨んだ。
「違うわ。あの人の味とは違う!」
店内の燐火が炎の勢いを増したように見え、雪乃は身を強張らせた。だが、碓氷が雪乃を庇うように片腕を雪乃の前に伸ばし、ヨウコに向かってきっぱりと告げた。
「同じ味のコーヒーをお出しするとは、一言も申し上げませんでした。ただ、ご注文はコーヒーでよろしいですね、とおうかがいしただけです」
ヨウコの白い頬が怒りから朱に染まり、目は獣のように鋭く吊り上がった。それでも碓氷は怯まず、語気を強めて言う。
「あなたのために、白石が心を込めて淹れたコーヒーです。あなたに、これから先、このコーヒーを飲みたいと思っていただけるように。そんな白石の優しさが伝わってくる味ではありませんか?」
碓氷は、もしかしたら気づいていたのかもしれない、と雪乃は思う。
もう二度と味わえないからこそ、ヨウコはあの店主の淹れるコーヒーをまた飲みたいと、長い間願い続けていたのだろう。いつかまた、あの味に出会える日を待ち望んで、この店を密かに守り続けてきたに違いない。
「永遠に変わらないものなんてないでしょう。けれど、受け継いでいくことはできます。あの店主のコーヒーを、白石なら、受け継いでいくことができると俺は思います」
ヨウコと名乗った女の目に、じわりと涙が浮かんだ。その涙には、愛したものが自分を残して去ってゆく寂しさ、大切に思うものを失い続ける悲しみが溢れていた。ヨウコは顔を両手で覆い、悲しみと寂しさに満ちた声で呟いた。
「この程度の味では、ぜんぜんだめよ。ちっともあの人に敵いやしない。美味しくなんかないわ。甘やかしくて、優しすぎて、ちっとも苦味がないじゃない」
涙を着物の袖で拭い、ヨウコは赤くなった目で雪乃を見上げ、懐から何かを取り出した。雪乃の手を取って、それをしっかりと握らせる。冷たい感触からして、金属のようだ。
「しっかり精進なさいよ。見ていますからね」
ぐらりと、視界が歪んだ。
まるで急流の水の中をくぐるような気持ち悪さに足元がふらつく。
一瞬の後には、雪乃はしっかりと地面に両足をつけて立っていた。手の中にしっかりと、真鍮の鍵を握り締めて。
アスファルトの地面には空になったペットボトルがぽつんと置き去りにされていて、路の両側はコンクリートでできた背の高いビルに挟まれている。すっかり日が暮れた群青色の空の下で、電灯の明かりが夜道を照らしていた。
雪乃の立つ路の先は袋小路になっていて、突き当りには、見覚えのある赤レンガ造りの二階建ての家が建っていた。ただし、雪乃の見た昔の姿とは違い、赤レンガの外壁を青々とした蔓草が隠すようにぎっしりと覆っていた。葉の裏が白い夏蔦だった。
雪乃の隣には、碓氷が立っていた。当惑した様子で首を傾げている。
「さっきまで、あの家の中にいなかったか?」
「帰ってきたんですよ」
帰してもらえた、と言った方が正しいだろうか。
羽音を立てて、赤レンガの家のドア横に突き出している真鍮の看板掛けの上に、真っ黒なカラスが降り立った。雪乃を見て、嬉しそうに鳴く。
「雪乃! 無事に帰ってきたんだね!」
雪乃は手を振って応じる。
碓氷はクロのとまっている看板掛けを見上げて呟いた。
「看板が外されている。空き物件みたいだな」
碓氷は一階の古びた窓ガラスから中を覗き込んだ。雪乃はまさかと思いながらも、手に握り締めている真鍮の鍵を、ドアの錠に差し込んでみた。捻ってみると、カチャリと音を立てて鍵が開いた。それを聞いて、碓氷はこちらに顔を向けた。
「こんな物件、候補にあったか?」
雪乃がそっと扉を開くと、鈴がちりんちりん、と鳴った。中の様子は変わっていない。古いガス燈が壁に取り付けられているが、電気はなく真っ暗だ。窓から差し込む外の街灯の明かりで、かろうじて内装が見て取れる。正面にはカウンター席があり、先ほどは気づかなかったが、右側の窓ガラスに接して、ソファの四人席が二つ並んでいる。カウンターの向こう、店の奥には、螺旋階段があることも発覚した。二階に通じているようだ。
パッと店内が明るくなったので驚くと、碓氷がスマホのフラッシュライトを点けていた。その光を頼りに、碓氷は中へ入っていく。
雪乃がふと振り返ってドアの外を見てみると、コンクリートのビルに挟まれたアスファルトの路地のずっと向こうに、白いけものが佇んでいる姿が見えた。真っ白な毛に覆われたけものは、三角の耳をぴんと立て、首に赤い前掛けをしている。
妖狐。
瞬きの合間に、白い狐は尻尾を振って姿を消してしまった。見ていますからね、と念を押されたような心地がする。中の様子を一通り見て来たらしい碓氷がドアから出てきた。
「これ以上ないくらい理想的な物件だ。どうやって見つけたんだ?」
「碓氷さん、何も覚えていないんですか?」
「はぁ?」
まさに狐につままれたような顔で、碓氷は首を傾げる。驚き呆れるやら、安堵するやら、雪乃はなぜだか笑ってしまった。笑うしかなかった、と言うべきかもしれない。碓氷は狐に化かされたなどと、露ほども思いつかないのだろう。
「きっと、お狐様のお導きなんでしょう。日本橋にはお稲荷様がいらっしゃいますから」