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お砂糖、ミルクと、魔法ひとさじ  作者: サラ
一、うらみ葛の葉
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うらみ葛の葉 - 2

 四月一日。いよいよ今日から入社四年目だが、だからといって何かが変わるわけでもない。いつもと同じ満員電車に押し込まれて東京駅まで運ばれてきた雪乃は、日本橋川を渡って会社へ向かっていた。


 バサバサと風を切る羽音が聞こえたかと思うと、雪乃のいる歩道に、真っ黒なカラスが下りて来た。カラスのクロが羽を広げると、威嚇されているように感じるのか、近くを歩いていた人たちは飛び退って距離を取り、そそくさと離れていく。


「クロ。何かあったの」


 雪乃は驚いて尋ねる。クロが雪乃の後を追って会社の近くまで来たのは、今日が二回目だ。雪乃の使い魔であるとはいえ、普段は自由気ままに過ごし、気が向いたときに雪乃の住むアパートのベランダに顔を出すくらいなので、これはけっこう珍しいことなのだ。


「今日は何かある気がするんだ」

「どうせ、社長に呼ばれるとか、その程度でしょうよ」


 前回はクロが大騒ぎしたわりに、社長のお茶に付き合うだけに終わったことを、雪乃は根に持っていた。社長が魔法使いだと判明したのはそれなりに驚きではあったが、だからといって繰り返しの毎日に変化が現れたわけではない。


「でも、何か感じるよ。そういうときは、主人の傍にいなきゃならないんだ」


 そう言って、クロは橋の欄干に飛び乗り、ぴょんぴょんと跳ねるようにして、会社に向かう雪乃の横をついてきた。さすがに会社の中まではついて来ずに飛び去って行ったけれど、また窓から屋内の様子を観察するつもりにちがいない。


 いつもと同じように出社すると、社内の掲示板の前に人だかりができていた。掲示された紙面には、「人事異動通知」とある。それによると、第六営業部が新設されることになっていた。


   第六営業部 部長 碓氷 誠 (旧 第一営業部一課課長)

   第六営業部    白石 雪乃(旧 第五営業部二課)


 雪乃は唖然として掲示を見つめた。第一営業部から第五営業部まで、どこも二十名程度で構成されているのに、新設される第六営業部はたったの二人しか名前がない。そのうちの一人は、なんと自分だ。

 ――第六営業部って、何するの? それに、碓氷誠って、だれ?


 混乱して立ち尽くす雪乃に、第五営業部の部長が声をかけてくれた。


「白石さん、突然で驚いただろう。私も驚いているんだが」

「異動の話なんて、私、何も聞いていません」

「うん。社長直々の命令でね。突然のことで、社内中パニックだよ。とりあえず、社長室に行ってみてくれるかな。社長がお呼びだそうだ」


 部長も混乱しているようなので、文句を言うのは憚られた。それに、社長の考えだというのなら、社長の話を聞いてみたい。


「わかりました。社長室に行ってみます」


 社長室のドアをノックすると、今日も秘書の女性がドアを開けてくれた。先日は落ち着いて見えた彼女が、今日はせわしなく焦っているように見える。雪乃が社長室に入る間も、社長に向かってぶつぶつと不満を零した。


「役員会に報告もなしに部署を新設するなんて! 何の準備もできていませんよ。どこにオフィスをつくるって言うんです? デスクや電話回線なんかも用意しなくちゃならないし。会社案内のパンフレットやホームページだって修正してもらわないと」


 社長は秘書の小言を聞き流し、朗らかな笑みを雪乃に向けた。


「おはよう、白石さん。どうぞ座って。お茶はどうしようかな」

「お茶はどうしようか、なんて言っている場合じゃありませんよ!」


 落ち着き払っている社長と対照的に、秘書はますますいらだっている。社長は秘書に向かって、なだめるように手のひらを振った。


「会社案内やホームページは、新設部署の仕事が軌道に乗ってからだって遅くない。七階に、備品置き場に使っているスペースがあるだろう。そこを片付ければ、二人分のデスクを置いても十分な広さがあるはずだ」


 七階の備品置き場は、雪乃も何度か足を運んだことがある。コピー紙の山が立ち並び、棚には文房具が乱雑に詰め込まれている一角だ。何か一つを引き抜いた瞬間、すべてが倒壊しそうな予感がするので、新しいものを購入する社員の方が圧倒的に多い。備品置き場というより、もはやガラクタ置き場と呼ぶのがふさわしい。


 そこを片付ければいい、という社長の考えは、間違ってはいないのだろうけれど、荒野状態の一角を開拓するよう急に命じられた秘書が嫌がるのも無理はない。


「では、そのように総務部に伝えてきます」


 怒りを滲ませながら、秘書はハイヒールをコツコツと威勢よく鳴らして社長室を出て行った。バタンと扉が閉まると、社長は溜息をついてソファに腰かけた。


「やれやれ、自分の会社なのに、どうしてこう、新しい仕事をしようとすると、社内の人間に反発されてしまうのか……。白石さん、どうぞ座って」


 そう言われて素直に従い、雪乃はソファの下座側に座った。新しい上司となる碓氷部長がこれから来ると思ったからだ。


「新しい仕事が気になっていると思うが、話は碓氷くんが来てからにしたいのでね」

「かしこまりました」


 頷いて、雪乃はふと窓辺に目をやった。ベランダにカラスの姿があった。クロのことを社長に紹介してみようかと考えあぐねていると、社長室のドアをノックする音が響いた。


 社長室に入ってきたのは、細見で背が高く、背筋がすっと真っ直ぐ伸びた男性だった。部長にしては若い。歳は三十代前半くらいだろうか。二重でくっきりした目鼻立ちに、きりっとした眉毛が精悍な印象を与えるが、不愛想でにこりともしないので、取っ付きにくく、怖そうな人だと感じてしまう。薄いブルーのワイシャツに、紺色のネクタイを合わせ、上下とも黒いスーツを着ているため、全体的に冷たい色づかいであることも、その原因かもしれなかった。


「おはようございます、社長」


 男が発した低めの声に、雪乃は妙に怯えてしまい、俯いてしまった。


「おはよう。朝から呼び出してすまないね。碓氷くん、彼女は白石雪乃さんだ。新しい部署で、君と一緒に働いてもらう」

「そうですか」


 呟いた碓氷の視線が自分に向けられるのを感じ取って、雪乃は慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「白石雪乃です。よろしくお願いします」

「碓氷です。よろしく」


 それだけ言って、碓氷は雪乃の隣の空いているスペースに座った。しぜんと雪乃の肩は緊張して強張った。碓氷は不要な会話に時間を割くつもりは無いと言わんばかりに、すぐに本題に取り掛かった。


「新しい営業部の仕事について聞かせてください。何をすればよろしいですか」

「何をするかは、君たち二人に考えてもらいたい」


 ――えっ?

 戸惑ったのは、雪乃だけではなかったようだ。碓氷は無表情のまま黙っている。社長はゆったりとソファに身を預けて語り始めた。


「祖父と父が経営していたこの会社を引き継いでから、ずっと挑戦してみたいと思っていたことを、私はまだできていなくてね。もう六十を過ぎてしまった。何かに挑戦してみるなら、今すぐ取り掛からなければならない歳だ」


 雪乃は社長のペースに合わせてゆっくりと話を聞く心構えだったが、碓氷は時間が惜しいという様子でてきぱきと話をまとめようとした。


「社長の長年の夢を、我々第六営業部に任せたい、という意味ですか」

「そういうことだ」

 碓氷の言葉に頷いて、社長は雪乃に向かって微笑んだ。

「かねてから私は、魔法を活かしたビジネスをしたいと思っていたんだ」


 ――魔法を活かしたビジネス。

 それは漠然とした言葉だったが、雪乃の心を強く掴んだ。

 雪乃が魔女としていままでに学んできたことを――魔法を、仕事に活かすことができたら。

 魔法で、誰かの役に立つことができたら。

 そんなことができるのなら――やってみたい。

 雪乃の胸の内に、ぽっと明かりが灯ったような気がした。


「私も、やってみたいです」


 雪乃の弾んだ声に、社長は嬉しそうににっこりと笑った。


「白石さんにはわかってもらえると思っていたよ。今の社会では、科学技術のほうが便利だからと、魔法はすっかり忘れ去られてしまった。このまま魔法が失われていくのは残念でね……。もしかしたら、今の社会にも、魔法を必要とする人はいるかもしれないのに」

「失礼ながら、社長。魔法、とおっしゃいましたか」

 碓氷の声には疑念が滲み出ていたが、社長は怯むことなく堂々と答えた。

「そう、魔法だよ。魔法のことは、白石さんがよく知っている。君たち二人で協力して、魔法の力を活かしたビジネスを企画してみてほしい」

「本気ですか?」


 碓氷は眉根を寄せる。社長の正気を疑っているように見えた。その様子を見ていれば、碓氷が魔法使いでないことは明らかだ。社長はどうやって碓氷に魔法を信じさせるつもりなのだろう、と雪乃は心の内で首を傾げたが、社長は碓氷に詳しく話して聞かせる気はないようだった。


「とりあえず一週間、二人で企画を考えてみてもらいたい。来週、月曜日の午後一時に、企画書を持って二人でここに来る、ということでどうだろう。何か質問は?」


 社長の提案に、碓氷はしばし考え込んだが、「ありません」と呻くように答えただけだった。もしかしたら、数えきれない量の質問で頭がいっぱいで、逆に何を聞けばいいのか考えがまとまらなかったのかもしれない。雪乃自身がそういう状態だった。


「白石さんは、何か質問は?」

「いいえ、あの、今のところは」

 雪乃が答えると、社長は満足気に頷いた。

「では、よろしく頼むよ」


 七階の備品置き場からは、大急ぎでガラクタが運び出されたようで、何となくまだ埃っぽく感じるスペースに、デスクが向かい合わせに二つ並べられていた。いちおう電話は既に用意され、デスクの隅にちょこんと置かれている。奥には掃き出し窓があり、ベランダに出られるようになっている。右側の壁には書類を入れるキャビネット、左側にはすっかり空になった陳列棚が置かれている。碓氷がオフィスの様子を一瞥するなり出て行こうとしたので、雪乃は慌てて声をかけた。


「あの、どちらへ行かれるんですか?」

「荷物を取って来る」

 冷たく言い放って、さっさといなくなってしまった。


 ――あの人、苦手かも。二人きりでやっていけるかなぁ……。

 空気を入れ替えようと思い、窓を開けてみると、春の強い風がぶわっと室内に吹き込んで、雪乃の長い黒髪が舞い上がった。ベランダに出てみると日が当たって心地よい。風を切る音とともに、一羽のカラスがベランダの手すりに舞い降りた。さっそく雪乃の行動を察知して姿を現したクロの賢さに、雪乃は舌を巻く。


「なかなかいいところだね。ここに引っ越すの?」

「うん。新しい仕事をすることになったの」

「それって、いいこと? よくないこと?」

 クロは首を傾げて尋ねる。

「いいことかな、たぶん。上司とうまくやれるか、心配だけど」

「必要なら、そいつの頭を突っついてやってもいいよ」


 クロが胸を膨らませて自信満々に言うので、雪乃は声を上げて笑った。カラスが突っついたところで、何の改善にもならないだろう。それでも、不愛想な碓氷がカラスに襲われる姿を想像してみると可笑しかった。


「ありがとう。でも、突っついてもらう必要はないよ。今のところはね」

「その気になったら、いつでも言ってくれよな」


 クロは両翼をバサッと広げ、畳み直して姿勢を正した。雪乃は風の強い外の空気を胸いっぱいに吸いながら、うーん、と零しながら指を組んで頭上に腕を伸ばした。


「私も荷物を取ってこなくちゃ。サボっていたのかって、怒られたくないからね」


 雪乃はひらひらとクロに向かって手のひらを振り、オフィスの中に戻る。クロは黒い片翼をひょいと上げて、仕事に戻る雪乃を見送った。


 雪乃がもとのオフィスと新しいオフィスを往復し、パソコンや私物を移しているあいだ、碓氷は一度も第六営業部のオフィスに戻ってこなかった。これではサボっているのは碓氷のほうではないか、と思わないでもないが、第一営業部の元課長ともなれば、火急の案件の引継ぎなどに追われているのは想像がついた。急な人事異動なので、仕事の引継ぎなど一切していなかったはずだ。雪乃も引っ越し作業の傍ら、絵美に何度も声をかけられ、自分が担当していた業務について説明しなければならなかった。


 碓氷が戻ってこないので、雪乃は自分のデスクを勝手にキャビネット側に決めてしまった。パソコンや文具類がひととおり定位置に揃うと、自分の新しい居場所として、すっかり新しいオフィスに馴染んだ気がした。


 上司の碓氷がおそらく引継ぎに時間を割いているのだから、雪乃もそれに倣って問題無いだろうと考えて、雪乃は第五営業部で担当していた業務の引継ぎ書類を作ったり、受信メールに担当者変更の回答を送ったり、絵美から掛かって来るヘルプ要請の内線電話に応えたりして、午後を過ごすことにした。


 碓氷がオフィスに戻ってきたのは、午後五時を過ぎてからだった。パソコンなどの荷物を持ってくると思っていた雪乃は、鞄ひとつだけを手にしている碓氷に驚いた。まるで引っ越しする気などなさそうに見えたのだ。


「お疲れさまです、部長」

「元気そうだな。いい転職先はもう見つかったのか?」

 転職先、と言われて、雪乃は目を瞬いた。

「部長、転職するんですか?」

「一週間以内に見つけないとな」

「ええっ、そんな。だって、一週間後には企画書を出さないといけないのに……」

「まさか、社長の言葉をそのまま受け取ったのか? お気楽なやつだな。こんな不当な人事異動、自主退職を勧告しているに決まっているだろう。こんな左遷を素直に受け入れるなんて、めでたい頭をしているな」


 開いた口が塞がらない。碓氷は社長の話を、雪乃とはまったく違うように受け取ったのだ。確かに、急すぎる人事異動、仕事のない新設部署、構成員はたったの二人と、よくよく状況を考えてみれば碓氷の意見が正しいのかもしれないと思いそうになって、雪乃は不安になってきた。


「魔法を使ったビジネスを企画しろなんて、ふざけている」


 碓氷は腹立たし気に言って、空いているデスクの上に鞄を置き、ポケットからスマホを取り出してメールのチェックを始めた。碓氷の意見を認めたくなくて、雪乃は反論を試みた。


「私、退職に追い込まれるようなことなんて、してません」

「俺だってそうだ。不当な左遷だと言っただろう」

「社長が本気だとは思わないんですか?」

 碓氷はようやくスマホから目を離し、雪乃を見た。

「本気なら、魔法だなんてありもしないことは言わないだろう。お前、その歳で、魔法を信じるとでも言うんじゃないだろうな。そこまでおめでたい頭をしているのか。今どき子どもだって魔法なんか信じちゃいない」

「魔法はあります。きっと――」

 部長にも信じていただけるはずです、と雪乃は言うつもりだったが、碓氷は冷え冷えとした視線を投げて寄越し、雪乃の言葉を遮った。

「好きにすればいい。この窓際のオフィスで、一人で魔法ってやつを夢想して、自由に企画書でも作りながら過ごしていろよ。俺はそんな無駄な労働を強いられるのは御免だ」

 きっぱりと言い切って、碓氷はちらと腕時計を一瞥した。

「定時だ。お先に失礼させてもらう」

 二の句が継げないでいるうちに、碓氷は颯爽とオフィスを出て行ってしまった。




「その碓氷ってやつの頭を突っついてやりたいよ。ものすごく硬いに違いない。石頭って、碓氷みたいなやつを言うんだな」

 雪乃の気持ちを代弁するかのように、カラスのクロは憤慨した様子で言った。


 雪乃の自宅は、東京都武蔵野市にある木造二階建てアパートの二階にある角部屋だ。会社の最寄り駅である東京駅からはJR中央線で約三十分を要するが、のどかで平和な住宅街であることや、駅前に大きいスーパーがあることが重宝して気に入っている。夕日に照らされたベランダの手すりにもたれかかるようにして、雪乃は傍らのカラスに聞こえるようにぼやいた。


「あの様子じゃ、信じてくれそうにないよ。社長が、もっと話のわかる人を部長に選んでくれたらよかったのに」

「魔法がわからないんじゃ、碓氷ってやつはどうせ役に立たないよ。辞めるっていうなら放っておいて、雪乃一人でがんばってみたらいいじゃないか」

「そうだね」


 呟いて、雪乃は考えてみる。企画書を作るのは雪乃でもいいのだ。社長が賛同してくれるような案を出せばいい。碓氷と違って、社長は魔法をわかってくれる人なのだから。


「うん。やってみる」

「いいぞ、いいぞ!」

 カア、カア、とクロが翼を広げて威勢よく鳴くと、あちらこちらから、呼応するようにカラスの鳴き声が聞こえてきた。


 翌朝、雪乃は第六営業部のオフィスに出社したが、碓氷は相変わらず不在だった。パソコンを新しいデスクに持ってくるつもりさえないようだ。一人ぼっちで会社の隅に追いやられたような気分になるが、めげそうになる気もちは、目を閉じて首を横に振り、頭の外へ追い払う。

 ――構わないわ、とわざと気取った口調で声に出し、自分に言い聞かせる。パソコンを起動し、デスクに白紙のコピー用紙を広げると、ボールペンを手にした。

「おっしゃるとおり、自由に企画書を作って過ごさせてもらうわよ」

 ――とにかく、アイデアを書き出してみよう。


 始めてみれば、アイデアは次から次へと溢れて来た。雪乃には、魔法を使えばできることがよくわかっているのだから。入社してからはじめて、取り組んでいる仕事を楽しいと感じることができた。これは雪乃にしかできない仕事で、雪乃が今までに学んできたことを存分に活かすことができる仕事なのだ。


 夢中になっているうちに、時間は駆け抜けて行った。プリントアウトした企画案は束になって雪乃のデスクに積み上がっていった。内線電話が鳴ったのでようやく顔を上げ、反射的に受話器を取って応える。


「はい、白石です」

「お疲れさま。お昼、食べに行かない?」


 夏帆だった。時計を見ると、もう正午になろうとしている。一人で閉じこもって作業していた雪乃には、ありがたいお誘いだった。


「もちろん、行く!」

「よかった。じゃあ、一階で」


 エレベーターに乗って一階に降りて行くと、いつものランチメンバーである夏帆と優子が揃っていた。半日のあいだ誰とも話していなかった雪乃は誰かと話したくてたまらない衝動に駆られていたし、二人とも、急に異動が決まった雪乃から話を聞きたがった。会社近くにある、サラダランチが売りの洒落たカフェに入ると、早速おしゃべりが始まった。


「第六営業部って、どんな仕事をするの?」


 夏帆が興味津々に身を乗り出して聞いた。雪乃は「ええっと」と時間を稼いで言葉を選んだ。


「新しい事業を始めるの」

「新規のプロジェクトを立ち上げるってこと? すごい!」

 優子は無邪気にそう言ってくれた。

「大変だね。一から始めるんでしょ?」

 夏帆は同情するような目で聞いた。漠然とした褒め言葉よりありがたいかもしれない。

「それに、上司があの碓氷さんでしょ? あの人、ちょっと怖いんだよね」

 第一営業部の夏帆は、碓氷と同じ部署だったのだ。

「碓氷さんって、どんな人?」


 興味を惹かれた優子が聞く。雪乃も気になった。夏帆は一度店内を見回して、見知った顔のないことを確認してから、それでも用心して小さい声で答えた。


「仕事はできる人じゃないかな。でも、無愛想だし、部下にも冷たくて、あまり好かれてはいないと思う。上の人にもはっきりと物を言うから、目の敵にされて、左遷させられたんじゃないかって噂。……あっ、でも、私は左遷だとは思っていないから」


 雪乃に気を遣って、夏帆は慌てて取り繕った。碓氷が本当に左遷されたのなら、雪乃もまた然りということになってしまう。優子もすぐさまフォローする。


「碓氷さんって、課長だったのに、いきなり新しい部署の部長に任命されるなんて、すごいことじゃない? 雪乃も、実力を期待されているってことだよ。ね?」


 夏帆も「そうだよ!」と頷いたが、雪乃は自信を失いかけていた。魔女としての自分を認められ、期待されているなどと、ただの思い上がりだったのかもしれない。


 雪乃も碓氷に倣って、転職活動に取り組んだ方がいいのかもしれない。でも、今の会社に採用してもらうのにもあんなに苦労したのに、転職先なんてすぐに見つかるだろうか。


 色とりどりの華やかなサラダとライ麦パンがテーブルに並べられると、夏帆と優子は当然のようにスマホを構え、お冷の入ったグラスやシルバーウェアの位置をずらしたり、サラダの角度をファインダー越しに確認したり、という作業を始めた。


 雪乃も同じようにスマホを取り出して一連の動作を真似したけれど、いい写真を撮りたいという熱意があるわけではない。まわりに溶け込むために合わせているだけだ。


 魔女なら、レタスの瑞々しい歯触りや、弾けるようなトマトの甘酸っぱさ、絶妙に調合された胡麻ドレッシングの風味などの、自然のもつ豊かな魔法の力をひとつひとつ丁寧に味わい、楽しむべきなのに。


 写真を撮ることに、いったい何の意味があるんだろう。無性に情けない気分で、雪乃はシャッターボタンを押した。


 昼休みを終えてオフィスに戻ると、碓氷が空いていたデスクに腰を落ち着けていた。ノートパソコンを持ち込んで、キーボードを叩いて作業中のようだった。このままずっとオフィスには来ないだろうと思っていたので意外な光景だった。


「お疲れさまです。移ってきたんですね」

「配属部署が変わった以上、いつまでも間借りしてはいられないからな」

 碓氷はパソコンから顔を上げ、向かいのデスクに座った雪乃に尋ねた。

「午前中は何をしていた?」

「以前の業務の引継ぎと……」

 真面目に企画書案を考えていたと打ち明けるべきか迷って、口ごもる。

「職務経歴書でも書いていたのか? 同じ境遇に立たされたよしみで、添削してやってもいいぞ」


 碓氷は本気で転職するつもりなのだ。クロに言われたとおり、第六営業部に与えられた新プロジェクトは、本当に雪乃一人でがんばらなければならないようだ。


 どうせいなくなるのなら、意見だけ聞いてみてもいいかな、という気になって、雪乃はデスクの上に積んでいた紙束を取って差し出した。午前中、雪乃なりに一生懸命つくった企画書案だ。


「私なりに企画を考えてみました」

 碓氷は黙って受け取ると、紙面に目を走らせながら、順に一枚ずつ捲っていく。

 

 心をほぐす魔法のお茶。

 意中の相手に必ず届くレターセット。

 見たい夢を見せてくれる魔法の本。

 厄災から身を守る組紐のブレスレット。

 魅惑の術入り恋愛成就クッキー。


 最後の一枚まで読み終わると、碓氷はデスクに紙束を置き、額を押さえて両肘をデスクについた。


「頭痛がしてきた。こんなにバカバカしい企画書を見たのは、生まれて初めてだ」


 雪乃は途端に恥ずかしくなり、顔全体が熱をもって真っ赤になるのを感じた。碓氷は雪乃の様子を気にすることなく続ける。


「まるでインチキ商法じゃないか! 効果があるかどうかわからないものを、魔法の薬だとか、お守りだとか、恋が叶うなんてバカバカしい眉唾ものの宣伝文句で売りつけるつもりか。下手すれば詐欺だと訴えられるような商品を、うちの会社で売れると思うのか? もっと現実的で、価値のあることを思いつけないのか!」


 叱責に打ちのめされて、雪乃はもう泣きたくなった。


 魔法は、不確かなものだ。信じれば効果があるけれど、信じなければ、魔法は効かない。だからこそ、魔法は忘れ去られようとしているのだ。かつては多くの人に頼られた魔法も、今では科学技術がとってかわり、その役割を果たしている。

 もう必要とされていないのだ。魔法も、魔女も。


「碓氷さんは、魔法が使えたらと願ったことはないんですか。どうにかしたいと心の底から願うときに、魔法を頼りにするのは、バカバカしいことでしょうか」


 雪乃が勇気を振り絞って碓氷の顔をうかがい見ると、思いのほか、思案している顔つきだった。しばらく黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。


「考えたことがなかったが、需要はあるのかもしれないな。最後の神頼みという言葉もある。ただ、課題は、供給できないということだ。魔法でも使わない限りは」


 ――そうだ、と雪乃は膝を打つ思いだった。それが魔法の価値なんだ!

 雪乃は碓氷をまじまじと見つめた。


「碓氷さんって、魔法使いの素質があると思います」

「……バカにしているのか」

 碓氷はかなり気分を害した様子だが、雪乃はくじけず、熱を込めて言う。

「バカになんてしていません。ほんとうに、素質があると思ったんです。魔女として。碓氷さん、私、実は、魔女なんです」


 一瞬の沈黙。壁掛け時計が秒を刻む音が、コチ、コチ、コチ、と静かに響いた。

 沈黙に耐えかねたのか、碓氷は心配そうな声を繕って言った。


「マンガやアニメの見すぎじゃないのか」


 碓氷の顔には、いわゆる「ドン引き」だと書いてある。そういう反応は想定済みだったが、実際に言われるとやはりショックだった。


 めげるにはまだ早い、と自分を励まし、雪乃は裏紙として使うつもりだったコピー用紙を一枚手にとった。


「すぐに信じていただけるとは思っていませんが」


 長方形の紙で三角折をつくり、定規を当ててカッターで余分な長方形を切り落とす。正方形になった紙を、指先で丁寧になぞりながら、心の中で呪文を念じる。紙は自然から――樹木から生み出されたものだから、魔法がかかりやすい物質のひとつだ。


 空を羽ばたく白い鶴の姿を思い描く。翼で風をはらい、風に乗って舞い、ひらりと身を翻す、自由に空を翔ける鶴。


 左右対称にきれいに折り終えた折り鶴の翼を広げ、両手のひらの上に乗せ、ふうっと優しく息を吹きかける。


 ふわ、と吐息に乗って浮き上がった鶴は、ぱたぱたと羽を上下に動かし、緩やかな空気の流れに乗って上昇し、雪乃と碓氷の頭上をゆっくりと回っていく。


 まるで生きているかのように。


 碓氷は信じられないという面持ちで、羽ばたく鶴を目で追っている。


 雪乃がそっと上に向けて手をさし伸ばすと、折り鶴は羽を大きく広げて手のひらに降り立った。


「碓氷さん。信じてもらえませんか、魔法を。私、やってみたいです。魔法を活かせる仕事を」


 碓氷は目を閉じ、ぐったりと椅子の背もたれに身体を預けた。


「少し検討させてもらいたい」


 その一言だけでも、雪乃は口元に笑みが浮かぶのを抑えきれなかった。少しずつ、魔女としての自信を取り戻していくような心地だった。


 コンコン、と入り口のドアをノックする音がした。オフィスのドアは開け放しになっていたが、室内の注意を引くために叩いたのだろう。


 雪乃の知らないスーツ姿の男が立っていた。背は碓氷ほど高くないが、大柄で肩幅が広く、厳めしい顔立ちだ。見たところ、五十代前半くらいだろうか。


 碓氷は彼のことを知っているようで、すかさず立ち上がり、「荒木部長」と声をかけた。


「どうぞお入りください。何もありませんが」


 碓氷の言う通り、ここには来客に勧められるような、座る場所がない。荒木と呼ばれた男は気にする様子もなく入って来ると、ちらりと雪乃をうかがい見たので、碓氷がすぐさま紹介した。


「白石です」

 碓氷の言葉に、雪乃は慌てて立ち上がる。

「白石、こちらは第一営業部の荒木部長だ」


 つまりは碓氷の元上司ということか。失礼のないよう、腰を折って一礼する。


「はじめてお目にかかります。白石雪乃と申します」

「荒木です。どうも」


 荒木も笑顔で軽く頭を下げた。碓氷よりずっと感じの良い人だな、と思ってしまう。お世話になっていた上司を前にしても、碓氷はにこりともせず、相変わらず仏頂面だった。


「碓氷、ちょっと聞くが、どこかで俺の指輪を見なかったか?」

「はあ、指輪ですか? 見てませんが」


 碓氷が率直に答えると、荒木は困った様子で苦笑して、何も嵌めていない左手を持ち上げ、薬指を指し示した。


「うーん、まいったなぁ。どこで失くしちまったんだろう。結婚指輪を失くしたなんて、カミさんにバレたら……怒るよなぁ」

「心当たりはないんですか?」

 碓氷が聞くと、荒木は首を傾げる。

「思いつくところはぜんぶ探したよ。鞄の中とか、デスクの下とか。社用車の中も隈なく探してもらったけど、見つからなかった」

「それなら、ご自宅にあるのでは?」

「やっぱり、そうかなぁ」

 荒木は諦めたように溜息をついた。


 雪乃は静かに成り行きを見守っていたが、勇気を振り絞って、「あの」と口を開いた。荒木は続きを促すように雪乃のほうを向いたので、訊いてみた。


「どんな指輪なんでしょうか?」

「銀の指輪で、飾り気のないやつだよ。どこにでもあるような」

「まっすぐで、飾りのまったくないデザインですか? 内側に石がついているとか、文字が彫ってあるとかは」

「ないよ。似たような指輪だったら、すり替えたって、俺は気づかないだろうな。カミさんは気づくかもしれないけど」

「失くしたことに気が付いたのはいつですか?」

「それが、よく覚えてないんだよなぁ。いつも嵌めっぱなしで気にしたことなんてなかったから」

「心当たりでもあるのか?」

 碓氷に聞かれ、雪乃は首を横に振った。

「心当たりがあるわけではないのですが、探すお手伝いはできるかもしれません」

「いや、いいんだ。二人とも忙しいだろうから」

 荒木は遠慮して断ったが、雪乃は食い下がった。

「そんなことおっしゃらず、お手伝いさせてください。大切な指輪なんですから。――おやかんさまに、お尋ねしてみましょう」

「おやかんさま?」

 荒木がきょとんとして目を瞬く隣で、碓氷が訝しげに眉をひそめた。

「立ち話もなんですから、お隣の会議室を使わせていただきましょう。そう長くはお時間をとらせませんから」

 雪乃の力強い笑顔に荒木と碓氷は顔を見合わせた。碓氷はうろんな目つきで雪乃を一瞥し、荒木に向かって言う。

「どうせ、気休めの占いみたいなもんですよ」

「へえ。でも、もしかしたら、案外効果はあるかもしれないぞ」


 荒木が思いのほかちょっと楽しそうな顔をしたので、部長がそうおっしゃるのなら、と碓氷は口をつぐんだ。雪乃はほくほく顔で二人を会議室へと促した。


「では、お茶を淹れてきますので、会議室でお待ちください」


 給湯室でやかんに水を入れ、コンロに乗せて火にかける。

 お湯が沸くまでの間、両手を合わせ、青く燃える炎と、やんわりと温まっていく水に魔法をかけるべく、そっと心を添わせ、雪乃は心の中で呪文を念じた。

 揺れ動く水は力をもって湯に化わり、たちまち小さな泡を生み出して弾けていく。

 急須に茶葉を測り入れ、沸き立つお湯を注ぐと、茶葉が湯の中で舞い踊る。湯気が立ち上り、柔らかにゆらめいた。お茶の香りを鼻腔で感じとり、雪乃はほっとして微笑んだ。

 ――魔法はしっかりかかったようだ。


 会議室に戻り、雪乃が淹れたお茶を湯呑に注いでいくと、荒木はぼんやりとした目でそれを見つめた。室内を優しい湯気とお茶の良い香りがゆるやかに満たしていく。雪乃は柔らかく笑って、きらきらと光る緑茶で満たされた湯呑を荒木に差し出した。白い湯気がふらりと立ち上る。

 荒木は何かを思い出そうとするように、じっとお茶に映る何かを見据えている。


「どうぞ、お召し上がりください」

 雪乃が促すと、荒木ははっとして湯呑を取り、一口啜った。

 湯呑を置いて、大きく息をつく。


「先週はお忙しかったのではありませんか?」

 雪乃が尋ねると、荒木は目を閉じ、椅子の背にもたれて答えた。

「あぁ、そうなんだ。出張で四国へ行った」

 雪乃は頷いて、さらに訊く。

「四国のどちらに?」

「徳島だ」


 雪乃の質問に荒木がひとつひとつ答えていく。碓氷が口を挟もうとしたので、雪乃は人差し指を立てて唇にあて、黙っているよう目配せした。


「どんなところでしたか?」

「いいところだ。仕事の打ち合わせがうまくいって……夕食も、取引先と一緒だった。美味い酒だったなぁ」

 荒木がまたお茶を啜るのを見守ってから、雪乃はまた尋ねる。


「夕食の後は、どうされましたか?」

「一人で、ホテルに戻った。屋上に源泉かけ流しの温泉があると聞いて――あっ!」


 荒木は飛び跳ねるように身を起こして湯呑を茶卓に置いた。碓氷が驚いた顔をする。


「思い出した! 脱衣所の貴重品ロッカーに入れたんだ! 温泉に浸かったら銀が変色するから、脱衣所で指輪を外したんだった。すっかり忘れてた!」

 あちゃー、と片手を額に当てて、荒木は肩をすくめた。

「思い出せてよかったですね。ホテルに連絡して、貴重品ロッカーの中に指輪の忘れ物がないか訊いてみましょう」


 雪乃がそう言うと、荒木は早速ポケットからスマホを取り出して、先週泊まったというビジネスホテルに電話をかけた。事情を説明した後、しばらく沈黙のまま待つ。雪乃と碓氷が見守る中、荒木が「本当ですか!」と安堵の歓声を上げた。どうやら見つけてもらえたようだ。雪乃も胸を撫で下ろした。

 通話を終えた荒木は雪乃に向かって頭を下げた。


「いやぁ、助かった! ありがとう!」

「とんでもないです。見つかって、ほんとうによかったですね」

「部長、大袈裟ですよ。白石はただお茶を淹れただけなんですから」


 碓氷の水を差す発言に、雪乃はむっとした。

 ただのお茶ではない、魔女のお茶だ。魔法をかけたのだから。

 雪乃は小さな反抗を試みて、ツンとした声で忠告した。


「碓氷さん、今日は頭上に注意してお帰りになったほうがいいですよ」

 ――カラスに突っつかれても知らないんだから!


 碓氷は訳がわからず顔をしかめたが、荒木は声を上げて笑った。


「そんじょそこらの占い師より、よっぽど当たるんじゃないか? 碓氷、雷が落ちてこないよう気をつけたほうがいいかもしれないぞ! また何かあったら白石さんに相談させてもらおうかな」

「光栄です」

 雪乃は嬉しさで胸をいっぱいにして、荒木に頭を下げた。


 翌朝、先に出社した雪乃がデスクで朝のコーヒーを優雅に飲んでいるところに、出社してきた碓氷がつかつかと靴音を鳴らし、勢いよく近づいてきて、宣告した。


「いいか。俺は魔法なんてもの、ぜったいに信じない」


 まだ信じないのか、と雪乃は口を開きかけたが、碓氷が雪乃のデスクに叩きつけるように置いた書類の束に目を奪われて言葉を飲み込んだ。


 そこには碓氷の名前とともに、「新規プロジェクト企画案」と大きく書いてあった。雪乃はたまらず堪えきれなくなり、ふふっ、と声に出して笑ってしまった。


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