うらみ葛の葉 - 1
幼い頃、私は魔女になりたかった。魔法が使えれば、映画やアニメの世界みたいに、毎日が刺激的で楽しくなると信じていた。箒にまたがってネオンできらめく街を上空から眺めたり、杖を一振りして魔法のドレスと靴に着替えたり、素敵な人を魔法で魅了してドラマチックな恋をしたり……。たくさんの憧れは、今ではすっかりむなしい夢になってしまった。
ぎゅうぎゅうに押し込められた満員電車の中で、雪乃はカエルになったような気もちでドアに張り付いて、後ろの乗客が体重をかけてくるのを必死で耐える。背中にずっしりと圧し掛かるサラリーマンをカエルに変えてしまえたら――。ほんのひととき、素晴らしい思いつきに感じたけれど、彼一人をカエルにしたところで、その後ろにはち切れんばかりに乗客がひしめきあっているのだから、カエルにされたサラリーマンは誰かの靴であっけなく踏みつぶされ、あいた隙間もあっという間に乗客で埋め尽くされてしまうにきまっている。
結局どうすることもできないまま、この殺人的なJR中央線の通勤ラッシュに耐えて会社に向かう毎日を、雪乃は社会人になってからもう三年近く続けていた。
ようやく東京駅に到着して電車から降りても、駅の構内は行き交う人で溢れかえっている。声をかけ合うことなく必要最小限の動きで互いに避けながら、それぞれが別の目的地に向かって足早に進んで行く。雪乃もそれに倣って、八重洲北口を目指して人波に飛び込んだ。
青空の下へ出ても、歩道が見えないほどの人混みに毎朝のことながらうんざりする。それでも、外の空気を吸えるだけで、いくらか気分は楽になった。横断歩道を渡り、中央通りを進んで行けば、日本橋に行きつく。ここまで来ると、歩行者の姿はまばらになった。江戸時代にはにぎやかな魚河岸があったらしいが、今では川の上を高速道路の高架橋が走っているために、日がささず川の水も暗く濁って見えるのが残念だ。
日本橋の両側には阿吽の獅子像が並んでいて、橋を渡ろうとする人を厳めしい顔で見張っている。片方の前足を上げて舵のような紋章を抱いている姿には愛嬌がある。獅子像を通り過ぎた先、橋の中央には、翼の生えた麒麟の像が二体、背中合わせに、ぴんと胸を張って誇らしげに鎮座している。その麒麟の足元に、艶やかな漆黒の羽をはためかせて、一羽のカラスが舞い降りた。麒麟と同じように胸を張り、橋を渡る雪乃に向かって、先の尖った嘴を大きく開けた。
「おれ、カラスに生まれてよかったよ。人間ときたら、毎日あんなふうにぎゅうぎゅう詰めにされて、わざわざ働きに出かけるんだもんな」
雪乃のすぐ前を歩いていた女性が、カラスの鳴き声に怯えた様子で身を縮め、慌てて橋を渡りきった。雪乃はカラスに向き合い、ささやき声で返す。
「クロ。ここまでついて来たの」
「だめだったかな。でも、都会にカラスがいたって、別におかしくはないだろう」
「会社までついて来たことなんてなかったじゃない」
カラスと会話しているなんておかしな人だと思われるにきまっているので、雪乃は通り過ぎていく人たちに怪しまれないよう、できるだけ小さい声で尋ねた。
「風の便りってやつかな。何かあるって気がしたんだ。こういうときは、主人について行くのが良いと思って」
カラスのクロの言葉に、雪乃はいささか不安になった。
「何かよくないことが起こるの?」
「よくないこととは限らないよ。いいことかも」
クロは一見ただのカラスだが、魔女と正式に契約を結んでいる、使い魔なのだ。契約によって主人から魔力を得ている。主人である魔女と会話できるのも魔力のおかげだ。使い魔であるクロが何かの予兆を感じているとしたら、主人である雪乃に関わることに違いない。不安を抱く雪乃に向かって、クロは明るく言った。
「気にしたってしかたがないよ。起こることは起こるし、起きてから考えるしかないんだから」
「カラスはお気楽でいいよね」
雪乃が零すのを最後まで聞かずに、クロは翼を広げて飛び去った。まったく、自由気ままで羨ましい。
勤務先のオフィスビルに着き、エレベーターで第五営業部のある五階へ上がって、自分のデスクにバッグを下ろして椅子に腰かける。ようやく一息つける。始業時刻まではまだ二十分近くあるので、席についている社員は全体の半数くらいだ。雪乃の勤める『グローバル・トレーディング・サービス株式会社』は、会社名が長すぎるせいで、GTSと省略されることがほとんどである上に、何をやっている会社なのかわかりにくい。雪乃自身、この会社に就職してからもうすぐ三年が経つというのに、未だに自社の業務内容をうまく説明できる気がしない。細かいことを省いて一言でいえば、商社だ。
「白石さん、おはよう」
脇に立った部長に声をかけられ、雪乃は慌てて立ち上がる。
「おはようございます、部長」
雪乃の所属する部署は、第五営業部という名前がついているが、これもまた何をしている部署なのかわかりにくい。仕事内容を秘密にしておきたい会社なのかと勘ぐってしまう。
それはともかく、雪乃に声をかけた部長は、二十名の社員で構成される第五営業部を取り仕切っている上司だ。丸いお腹と、いつもにこにこしている顔つきから、雪乃はテディベアを連想してしまう。人当たりがよく穏やかので、雪乃を含め、部下に好かれている。
「金曜日の接待のお店、予約できたかな?」
――金曜日の接待?
雪乃は全身から冷や汗が出るのを感じた。
――そうだった! 先週、銀座の割烹料理屋の予約を取るよう頼まれていたんだった!
すっかり忘れていたが、雪乃は咄嗟に笑顔をとり繕う。
「はい! 六時から、四名ですよね」
雪乃はデスクの上に手を走らせ、破棄予定と決めている書類の束から、適当に一枚の紙を抜き取った。頭の中で文面を思い描きながら、紙面を指先で一撫でし、胸の内で呪文を唱える。
「予約受付の回答をメールで頂いています」
そう言って、手にした紙を差し出す。
「ありがとう」
受け取って、部長は手元の紙を眺めた。
印刷されているのは先週失注に終わった案件の見積書なのだが、部長には料亭の予約内容に見えている。雪乃がかけた魔法が効いているのだ。まやかしの文面に納得した部長がにこやかに頷いた。
「これ、もらってもいいかな」
「では、コピーを取って、お席にお持ちします」
「ありがとう。よろしくね」
部長がデスクに戻っていくのを見届け、雪乃は胸をなで下ろした。
何とか切り抜けた。すぐにパソコンを立ち上げて、予約を取らなくちゃ……。席が取れることを祈ろう。
――クロの言っていた「何か」って、この事じゃないよね? もっと具体的な予兆を示してくれればいいのに……。
幸い、料亭の予約は無事にオンラインで取ることができた。今度こそ、お店から送られてきた予約受付完了のメールをプリントアウトし、部長に渡してからは、いつもと変わらない一日が始まった。
部署内の朝礼を終え、電話の問い合わせに応対し、次から次へと届くメールに目を通していく。注文書を確認し、仕入先に注文書を送って、見積依頼に回答して……。
目まぐるしく業務をこなしているうちに、クロとの会話のことなどすっかり忘れ去っていた。
「白石さん、あれ、なんだか気味が悪くないですか?」
ちょうど電話を切ったとき、向かいの席に座っている一年後輩の絵美が言った。
「何が?」
雪乃が聞くと、絵美は「ほら」と窓を指さした。
「ずっとこっちを見てるんです。あのカラス」
窓の外にあるベランダの手すりに、大きなカラスがとまっている。黒い目でじっと雪乃を見つめていた。雪乃はうっかり「クロ!」と声を上げそうになり、慌てて口を手で押さえた。
雪乃のことを見張っているようだ。使い魔としては申し分のない働きぶりだけれど、同僚が怖がっているとあっては、主人として見過ごすわけにいかない。
「私、追い払ってくる」
「ええっ、危ないですよ」
椅子から立ち上がろうとする雪乃を、絵美がやにわに止めた。
「都会のカラスは獰猛だから、刺激しない方がいいって、テレビでよく言ってるじゃないですか。放っておけば、そのうちいなくなりますよ」
「そう言うなら、放っておくけれど……」
絵美が気にせずにいてくれるなら、雪乃としては、クロを追い払う理由はない。改めてパソコンに向き直り、仕事を再開した。絵美も、折よく内線電話がかかってきたため、カラスから視線を外して受話器を取った。それからもクロは、諦めることなく雪乃の働いている姿をじっと眺めていたのだった。
昼休みになると、雪乃は同期入社で仲の良い他部署の女性社員二人と連れ立って、社外へ昼食をとりに出かけた。
第一営業部に所属する夏帆は営業職で、体のラインを際立たせるグレーのパンツスーツを着こなしている。すっきりとしたショートカットの黒髪に、きりっとしたアイメイクと鮮やかな赤い口紅が似合っているクールビューティーだ。
第三営業部で営業アシスタントをしている優子は、今日はゆるく巻いた長い髪をバレッタでハーフアップにまとめていた。白いブラウスと膝丈の桜色のスカートが、持ち前の可愛らしさを引き立てている。
二人と比べれば、雪乃は地味で見劣りがするだろうと、なんとなく自覚している。二人と比べて小柄な雪乃は、踵の高い靴を履いても背が低い。特徴的と言えるのは、胸の下あたりまで切り揃えている、長く伸ばした黒髪だが、ストンとまっすぐ落ちるばかりで飾り気がなく、野暮ったくも見える。
オフィス街なので、少し歩くだけで飲食店はいくらでも見つかる。優子が「パスタが食べたい気分」と言ったので、三人で近くにあるイタリアンのレストランに入った。注文を済ませるなり、優子が待ちきれない様子で口を開いた。
「不吉なカラスの噂、聞いた?」
「何それ?」
夏帆は初耳のようだが、雪乃は、別のフロアで働いている優子がカラスの噂を聞いていることに驚いた。女性社員の間を噂が駆け巡るスピードには目を見張るものがある。
「雪乃は知ってるでしょう? 五階のベランダに朝からずーっとカラスがとまっていて、社員を睨んでいるんだって。気味が悪くない?」
気味が悪い……。かわいそうなクロ。忠実に主人の傍に控えているだけだというのに、不審がられている。
「たかがカラスじゃない」
夏帆は一笑に付したが、優子は続けた。
「朝からずっとだよ? 手すりにとまったまま一度も離れないんだって」
「ふうん。何か不吉なことでも起きるのかもね。倒産とか?」
夏帆はおもしろがって、優子をおどかす。やめてよ、と優子も笑った。
あのカラスは私の使い魔だよ、と打ち明けてみようかと、雪乃は想像してみる。
冗談でしょ、と笑い飛ばされるだけだろう。それならまだ良いほうだ。「中二病?」なんてからかわれてもおかしくない。使い魔のカラスや魔女だなんて、現代社会にそぐわないのだ。カラスは人間と話せないし、魔法はおとぎ話の中だけのもの。もちろん、魔女なんてこの世に存在しない。魔女になりたくて、懸命に魔法や魔術を勉強したのに、魔女がこんなに生きにくいものだとは知らなかった。
「お待たせしました。本日のパスタ、魚介たっぷりのペスカトーレでございます」
店員が持ってきた三人前のペスカトーレに、たちまち話題は移り変わった。
「うわーっ、美味しそう!」
「インスタにアップしようっと」
「写真、LINEのグループで送っといてね!」
わいわいとはしゃぐ二人と一緒になって、雪乃もバッグからスマホを取り出した。今どきの魔女は、魔法の呪文を唱えるより、スマホで写真をオシャレに加工する回数のほうがずっと多いのだ。
――カラスのクロとツーショットの自撮り写真をアップしたら、「いいね」がたくさんつくかもね。
心の内でそう呟きながら、雪乃は言いようのないむなしさに溜息をつきそうになった。
昼休み終わりのエレベーターは、朝の満員電車に似ている。すし詰めにされて数十秒を耐え忍び、デスクに戻った雪乃は、ベランダにクロの姿がなくなったことに気が付いた。
――「何かある」なんて、きっとクロの気のせいだったのよ。
安心したはずなのに、不思議なことに、残念に思う気もちもあった。ひたすらオフィスワークに没頭し、魔法の一つも使わない(使ったとしてもちっぽけな術だけ)、退屈でむなしい会社勤めの毎日に、新しい何かが起こることを、心の底では期待していたのかもしれなかった。
午後の穏やかな日差しに眠気をもよおしながらキーボードを叩き、会議資料を作っていると、再び部長に声をかけられた。
「白石さん、ちょっといいかな」
すぐに上書き保存のアイコンをクリックして椅子から立ち上がると、部長は言った。
「忙しいところ申し訳ないね。これから社長室に行ってもらえるかな。社長が白石さんと話したいそうなんだ」
雪乃はしばし呆然として、部長の顔をまじまじと見つめた。
――社長? 営業部のアシスタント、しかも入社してたった三年の私に、社長がいったい何の用があるっていうの?
雪乃が社長に会ったのは、採用面接のときの一度きりだ。入社式や年始挨拶などで壇上に上がって話す社長を見たことはあるけれど、社内で話をするどころか、すれ違ったこともなかった。いきなり社長に呼び出される理由がみじんも思いつかない。業務で直接社長に関わることなんてないし、突然クビを言い渡されるような心当たりもない。
――心当たりはないけれど、もしクビだと言われたらどうしよう?
お給料がもらえなくなったら、アパートの家賃も払えないし、生活費もなくなってしまう。代わり映えしない退屈な毎日ではあったけれど、優しい上司や仲のいい同期に恵まれて、この会社で働くことに不満を抱いたことはなかったのに……。
最上階にある社長室へ向かうため、エレベーターに乗り込みながら、雪乃は社長とはじめて話をした、採用面接の頃を思い出していた。
*
「魔女として就職するのは、とても難しいのよ」
就職先について相談をもちかけると、祖母は同情をこめた声で言った。
幼い頃から魔法に親しみ、魔女になるべくひたむきに祖母のもとで西洋魔術を勉強してきた雪乃は、すっかり途方に暮れてしまった。祖母は熱心に雪乃に魔法を教えてくれ、雪乃なら立派な魔女になれると、何度も褒めてくれたものだった。魔女であること、魔法が使えるということは、雪乃が胸を張って誇ることのできる唯一の自慢だった。
しかし、魔法を使えるなんてことは世の中ではまったく意味のないことだと、いきなり突きつけられたのだ。
実際、魔女の求人なんて、ぜんぜんないのだった。
八百万の神霊に通ずる学を修めた者は、神職に就くことを期待される。
仏の教えに従い寺院で徳を積んでゆく道を選ぶ者もいる。
修験の道や忍術を専攻した者も、伊賀甲賀や戸隠などの行き場がある。
それなのにどういうわけか、魔女や魔法使い、魔法、魔術というような類は、胡散くさく詐欺めいたものとして受け止められているのだった。
大学で西洋民俗学を学ぶ傍ら、熱心に魔女の修行を積んできた雪乃だったが、就職という現実に直面してようやく、魔女の生きづらさというものを理解し、胸が張り裂けそうになった。
大学を卒業したら、当然、大学の寮からは出て行かなければならない。雪乃には一人暮らしをするための収入がどうしても必要だった。
「一般企業に就職した魔女は大勢いるわ」
祖母は励ますように笑顔で言ってくれたが、雪乃はむしろ絶望した。
――魔女として生きていくことはできないんだ。私がこれまで勉強してきたことは、生きていくのに何の役にも立たないんだ……。
就職先を得るために、雪乃はあらゆる企業に履歴書をしたためて送った。ごく普通の高校、ごく普通の大学を卒業した、ごく普通の人間として。
就職先の志望理由はころころ変わった。都市開発業者に応募したときは、今までにない新しい快適な街づくりに挑戦する魅力に心を惹かれている自分になりきった。食品会社に応募したときは、新しい食文化を食卓に提案したいと精一杯熱を込めて弁じた。
魔法を使えばどんな素敵な街をつくれるか、どれだけ食べる人を幸せにする食品を開発できるか、数えきれないほどアイデアは鮮やかに思い浮かぶのに、履歴書であろうと面接であろうと、採用担当者に伝えてみることはできなかった。
本心を打ち明けていないのが見抜かれていたのだろうか。就職活動の結果はひどいもので、面接を受けた会社は五十社を超えたのに、内定はゼロ。明日の最終面接で落ちたら、もう手持ちのコマがない――。最後のはかない希望として残ったのが『グローバル・トレーディング・サービス株式会社』だった。
実のところ、『グローバル・トレーディング・サービス株式会社』の最終面接を、雪乃はよく覚えていない。覚えているのは、一対一の社長面接だったということと、本題に入る前に社長と交わした短い会話だけだ。
「私は趣味で絵を描いていてね。この絵も私の作品なんだ」
面接が行われた応接室には、ご来光に輝く富士山を描いた油絵が飾ってあった。白妙の雪衣を頂きに纏い、煌々と輝く黄金の朝日を浴びて、富士の山は雲霞を散らすようにして堂々とその裾野を広げていた。日が昇るにつれてまたたく間に移ろいゆく色合いの、わずかなひとときを写し取ったような繊細ながら堂々とした色使いに、雪乃は目を奪われた。
「素敵な絵ですね」
本心だった。雪乃はうっとりと絵に見惚れた。静謐な朝の空がやにわに明るく照らされるいっときの、富士のもつ凛とした威厳が、匂いが、光が、豊かに部屋じゅうを満たしていくような心地がした。張りつめた静かな夜が明けてゆくように、雪乃の強張っていた体がじんわりと徐にほぐれていく――。
はっとして、雪乃は今、大切な最終面接に挑んでいる最中だったと気がついた。慌てて社長へ視線を戻すと、社長は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
この絵は、魔法の絵だ。
一筆ごとに、社長の感じ取った色、匂い、空気、思い、すべてを載せて描かれたこの絵には、心がこもり、魔力が宿っている。雪乃にとって馴染みのある、温かく強い魔力が内側から湧いてくるのを感じて、雪乃は自然と顔をほころばせた。
「さあ、志望理由を聞かせてくれるかな」
社長が目を細めて微笑むと、目尻の皺が深まって、どこか懐かしい気もちにさせられた。社長、というより、優しいおじいちゃん、という印象が雪乃の胸の内に残った。
*
今となっては、志望理由として何を話したのか、まったく思い出せない。
社長室のドアを緊張しながらノックすると、ドアが内側に開き、長身の綺麗な女性が「どうぞ」と招き入れてくれた。社長の秘書のようだ。社長はデスクから立ち上がって、雪乃にソファに座るよう勧め、秘書にはメモを手渡した。
「すまないが、ここに書いてあるものを買ってきてほしい」
秘書はすぐさま承諾し、雪乃と入れ替わるように社長室から出て行った。
社長が座り、「まあ、座って」と促すのを待って、雪乃は「失礼します」と浅めに腰を下ろした。緊張して身体が強張る。ふと、社長の後ろの壁に掛けられている風景画に目をとめた。
採用面接のときに応接室に飾ってあった富士の絵とは違う絵だが、筆遣いなどから同じく社長の描いた絵ではないかと感じた。
全体的に鮮やかさを抑え、落ち着いた色使いで描かれているのは、どうやら日本橋のようだった。ぼんやりと獅子や麒麟の像らしいものが並んでいるし、手前には東風に吹かれて花弁を散らす枝垂れ桜が描かれている。じんわりと胸の内が暖かくなる懐かしい感じが絵から伝わってきて、雪乃の肩の力が緩む。この絵にも、魔法がかかっているのがわかる。
「突然呼び出してすまないね。お茶も出せなくて申し訳ない。私はどうも、お茶を淹れるのは苦手なんだ。どうにも渋くなりすぎてしまう」
社長だというのに高飛車なところがないので、かえって雪乃は恐縮してしまう。
「とんでもないです。お気遣いくださってありがとうございます」
「白石さんは、この絵のことが……わかるんだね」
社長の言葉を飲み込むまで少し時間がかかった。美術作品の良し悪しがわかるのか、と尋ねたわけでないことは、社長の目を見れば察しとれた。社長の穏やかな微笑に重なるようにして、祖母の謎めいた面影が思い浮かび、雪乃はなつかしさに胸が温まる心地がした。はじめて社長の描いた富士の絵を見たときにも感じた。じんわりと優しく心をほぐしてゆく魔法の力だ。
はい、と小さく頷いた雪乃に、社長の目元の笑い皺が深まる。優しげな目には期待と、わずかに悪戯心が垣間見えた。雪乃を試すように問いかける。
「お茶を淹れるのは得意かな?」
「――はい」
雪乃は謙遜しなかった。事実、お茶を淹れる魔法は雪乃の得意な技だった。
「差し支えなければ、給湯室をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。廊下に出て、右手にあるよ」
わかりました、と頷いて、雪乃は席を立ち、給湯室へ向かった。急須に鮮やかな緑色の茶葉を測り入れると、ポットの湯を注ぐ前に、目を閉じて、急須の上に手のひらをかざす。
ゆっくりと円を描きながら、心の中で呪文を唱える。
呪文は言葉というより、胸の中で奏でる歌の旋律に近い。
お湯を注ぐと、茶葉は楽しそうに急須の中で舞い踊った。蒸らしながら、目を閉じた雪乃は頭の中で広々とした茶畑を思い描き、再び無言で呪文を念じた。
懐かしく、生き生きとした茶葉の匂い、枝を揺らす穏やかな風、あたたかく照らす太陽の香り、どこまでも続く空、まっすぐに伸びる地平線……。鮮やかにきらきらと輝く春の景色が、じんわりとゆるやかに、お茶の中に溶け出していく。
「お待たせいたしました」
雪乃がお盆に急須と湯呑を載せて戻ると、社長は期待に顔を輝かせた。そっと急須から注がれた緑茶は、きらきらと輝きながら湯呑を満たし、豊かな香りが社長室じゅうに広がって、オフィス特有の緊張した空気をあたたかくほぐした。
湯呑を手に取り、一口含んだ社長は、うっとりと目を閉じた。
「すばらしい香りだ」
雪乃も緑茶の香りで胸を満たした。春のうららかな青空の下、鮮やかな新芽をたっぷりとつけたお茶の木の段々畑の景色が、柔らかく思い起こされる。
社長は音を立ててお茶を啜り、ソファの背もたれに体を預けて溜息をついた。
「いつも飲んでいるお茶と同じとは思えない……。この感じは――いくつか魔法がかかっているね?」
雪乃は微笑んだ。社長は目を閉じたまま、楽しそうに弾んだ声で言う。
「これは、心を開いてゆく魔法だ。それに――昔からの夢を思い出させてくれる……。なつかしくて、やさしい」
社長は湯呑を置き、感動を湛えた輝く目で雪乃を見た。
「これほど楽しい魔法を味わうのは何年ぶりだろう」
「――でも、あまり役には立ちません」
社長にここまで褒めてもらえて、ほんとうに嬉しく思うのに、雪乃は思わず本音を零してしまった。
魔法のお茶が、いったい何の役に立つだろう。
たしかに雪乃の淹れるお茶には、魔法がかかっている。人の心をほぐし、あたため、癒す力をもっている。忘れていた懐かしく優しい記憶を呼び起こす。飲む人に寄り添い、励まし、そっと包み込む優しい魔法だ。
――けれど、今の時代、誰もかれもがその魔法の力を信じるわけではない。信じなければ、魔法はかからない。
そんな力が、いったい何の役に立つのだろう。
「たしかに、そうかもしれない」
そう言って、社長は悲しげに目を伏せた。
「私自身、使わなくなってずいぶん経つ。今ではすっかり使い方を忘れてしまって、絵の中に閉じ込めることしかできなくなってしまった。今の世ではもう、この力は必要とされなくなってきている。科学技術がとってかわり、使い手はどんどん減っている。いずれ忘れ去られてしまうのかもしれない。さみしいことだね」
それきり、社長は黙りこんでしまった。静かにゆっくりと、雪乃のお茶を味わっているようだ。雪乃も、社長が力をこめて描いた絵画を眺めながら、湯呑をそうっと口をつけた。目まぐるしく駆け抜けていく一日の中から切り離された、静寂に満たされ、穏やかで優しいひとときを、絵画とお茶の魔法が確かにつくり出していた。
さみしい、と雪乃も思う。魔法が忘れ去られていくのは、さみしい。魔法を信じる人がいなくなれば、魔法はなくなってしまうだろう。魔法がなくても、世界はずっとまわり続けていくだろう。――けれど、そうなったら、魔女の私はどうすればいいの。