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日本未来誌 FUTURITATES JAPONICAE

闇に告げる

作者: 鱈井 元衡

 いくつもの層に書物を隙間なく並べて、左右の本棚が向こうまで続いている。スギモト・ミツキにとってそれはごく見慣れた光景だった――古ぼけた紙とインクの匂いが鼻腔に心地響く。この部屋にいると、家にいる時より深い心の落ち着きを得るのがスギモトの特質だった。

 ここはフクオカ市の中心部にたたずむ、公立文書館の一室。長らくここに収納された行政記録、契約書、年鑑の保存と管理に尽くしていたのだが、最近はこれら文章と図の紙きれの集合体がなぜか親しい友人のように見えてくる。

「やあスギモト君、今日はやけにはかどっているようだね」

 本棚の文書に欠けがないかどうか点検していると、そばから誰かの声。

「おや、モリ館長ではございませんか」

 モリ・ヒロトはスギモトより十歳くらい年上の初老の男、なかなか恰幅が良い。

「その姿を眺めていると、まだ覚悟しかねている様子らしいな。どうかね、まだ緊張するかね?」

 スギモトは申し訳なさそうにうつむいた。

「やはり、隠し切れるものではありません。何しろこんな遠い旅に出るのは初めてですから」

 聴くと、モリは苦笑い。

「そんなに心配しなさんな。ウミムコーに渡るキューシュー人は最初みんなそうだ。不安な気持ちになるのは当然さ」

「そうおっしゃられても、決してやわらげることのできる感情ではありませんよ」

 スギモトは物憂い表情を保つ。実のところ、問題はそれだけではないのだ。

「まあ、今すぐ渡航してしまうわけじゃあるまいし、残された時間でこのキューシューでの生活を存分に楽しめ。決心はそれからだ」

 とはいえ、モリの低く重い声は、その安定した調子でもって、スギモトの心を少しだけ軽くした。

「……ありがとうございます」

「もうすぐ正午になる。君の当番が交代になる頃だ。せめて自分の知り合いに分かれのあいさつでも交わしておくといい」

 スギモトは迷いを抱きながら、高層ビルやアパートの立ちならぶ根元をはっていた。かつての古代末期に比べれば建物の高さなど及ぶべくもなかったが、昔用いられていたコンクリートやレンガを再利用して造られたこれら有象無象は、ともすれば巨大な怪物のごとく装って、横に並ぶあまたの目でスギモトを見下ろすのだった。

 スギモトは、ある宿舎、個室の扉の前に立つと、片や緊迫感、片やけだるさを携えてこれを数回たたいた。

「俺だ、ミツキだ。――いないのか?」

「なぜいない?」と言いながら扉が開いて男がせり出してくる。

 スギモトは、意を決せんと口を開く。

「ルイ、聴いてくれ。俺は――」

 しかし、その後が出てこない。こんな重大なことなのに、面と向かって言い出せないとは。

 アカシマ・ルイは、なじみ深いこの友がいつも通り口ごもりを見せてくると、あきれた表情に。

「おいおい、やめてくれよ。何やら重大なことがありますとでも言いたげな顔じゃねえか?」

 このままであってはならない。ちゃんと真実を言わなければならない。理性では明白に知っていたのだ。とは言え、いざ告げるとなると、なかなか勇気がいる。こいつは感情的だから。いきなり別れを切り出すとなると、どんな反応がくるか分かったものではない。それに、まだ時間があるではないか――という言い訳が起こる。言うべきか言わないべか、この激闘を続かせまいとして、結局出る言葉は――すなわち、「いや、何でもない」と。

 アカシマは、彼の心の葛藤などつゆ知らずに、

「それは良かった。誰かの訃報でもあったのかとあったのかと疑う所だったよ」

 できるだけスギモトは平静を装って、

「ついさっき、仕事が終わったんだ。自宅にそのまま直行するというのも退屈だしな」

「そうか。実はちょうどお前に知らせてやりたいことがあってな。ここで話をするのもなんだし、中に入れ」


 アカシマ・ルイの名はフクオカ政界には割りと知られている。民会の討議では熱弁をふるい、フクオカ海軍の増強を提案して実現させているほか、医術の心得もあり、実際に患者を治療した経験もある。一見おっとりした、地味な姿の男であるが、もしかすると才能のある人物ではないかと目されていた。スギモトは以前から彼と深い付き合いで、酒から国際情勢に至るまで多種多様な話題を語らう仲だった。元々はある仕事でただ一緒に働くだけの関係だったのだが、実際に言葉を交わしていく内に、意気投合してつながりを深くしていったのだ。

 しかしこの二人はおたがい正反対な性格の持ち主でもあった。スギモトが基本口数が少なく黙りこくっていることが多く、万事慎重な性格であるのに対し、アカシマは少し気が荒く、しゃべりも達者だった。もし誰かと話していて、何か嫌らしく感じた時は、すぐそいつをののしって殴り倒すような子供っぽさがあったし、その一方で自分の意見をのべる時はまこと立石に水、理路整然と論理を構築し、批判されてもきちんと反論できる、そういう矛盾した傾向をも同時に兼ね備えていた。スギモトはアカシマのこういう生き生きした人柄に惹かれるのだが、どうもアカシマもスギモトの静かでなぞめいたたたずまいが気に入っているらしく、その寡黙ぶりを人前でたたえることがあった。無論、スギモトにとってはなぜそれがほめるべき点なのか分からないのだが。

 さて、この男は自室に親友を招き入れると、彼のため水を酌んでテーブルに置き、席をすすめた。

「――で、何だ、俺に言いたいこととは」

 質問されたアカシマは上機嫌そうに、

「ああ、そのことなんだが、最近ウミゾイにもう一つ植民市を建設する計画が持ち上がっているのを知らないか?」

「またウミゾイに?」

「ナガサキ政府の主導でな、ウミゾイを我らが都市同盟第二の領土にしようという運動が盛り上がっているんだ。今度は何でも、イスモって場所に街を造るらしい」

 ウミゾイ――ヒロヤマ地方の北岸一帯――はキューシュー人にとっていまだ開発の進んでいない辺境地帯だった。しかし辺境ということは、そこに新しい気風を持ちこむ余地があるということをも意味する。それゆえしばしば、キューシューでの生活に見切りをつけた者が立身出世を求めかの地に渡っていくのだ。

「まさかお前、新しい街って……」

 スギモトが言い終える前、

「そう、そのイスモ市への植民計画に参加するつもりなんだ。すでに二千人くらい志望者が集まっているらしいし、乗り遅れる訳にはいかない。あっちでは病院を開設したいと思ってる。先住民に襲われて怪我する人もいるだろうから」

 何ということだ。このままでは二人とも遠い場所に離れ離れではないか。

 身を乗り出し、顔を近づけるアカシマ。

「だから提案するが、俺と一緒にイスモに行かんか? こんな所で本とにらめっこしているよりはるかに刺激に満ちた生活になるに違いないぞ」

 アカシマの言葉に邪気はない。相手に強制させようとする意思も。それはうれしかった。

 だが、スギモトにはやむを得ぬ事情。

「実は……用事があるんだ」

「用事?」

 重々しい調子がなかなか抜けきらない。

「ある場所に行かなくちゃならなくてさ。それも近日だ。しばらくそこに滞在しないといけない」

「つまり、少しの間出張ということか。なら無理強いはせん。何しろウミゾイへの移住はとても重大なことだ。言葉一つで決定していいことでは――」

 物音に気づき、戸口の方に目をやると顔にややあどけなさを残した背の低い少年の姿。

「コハラ・ショースケどののお屋敷の様子を視てまいりました。もうすぐ宴会が始まりますので、急いで向かわれた方がよろしいでしょう」

 面白くなさそうな表情でにらみつけるアカシマ。

「あの野郎の宴会など、誰がいくものか」

「しかし、すでに招待状がとどいているのですから、拒否なさるわけには行きますまい」

 そう説得されると、困り顔で頭をかく。

「いいかマオ、主人に伝えるべき情報をあらかじめ選定しておくべきだ。あのうさんくさい奴なんかのことで俺の気を紛らわしてくれるな、大きなお世話だから」

「ですが、コハラ殿はプサン人に従い、武勲を立てた名のある人物なのですよ。もし行かないならば、時に後ろ指をさされることもあるのではございませんか」

「ウミムコーに行ってでかいことを成し遂げた人間は気が大きくなるから嫌いなんだよ」

 肩をすくめて、拒絶する感情をこめて。スギモトはウミムコーに行かねばならない身として複雑な気持ちだったが、この召使に、

「なら、僕が彼の代わりに君を連れてその男の元に行けばいいのかな」

 困惑するマオ。

「私はアカシマ様にお仕えする者です。他の方に連れ立って同行することはできません」

「全く生真面目な奴だな、マオは!」

 コハラなる人間の元へ赴くのを、心底いやがっているようだった。アカシマにそれほど強い反応を起こさせるコハラ・ショースケとは、一体何者なのか。スギモトはどうにも腑に落ちなかった。いずれにしろ、このままでは決着がつかない。

「じゃあ、こうしよう。君が行きたくなくて、マオが行くべきだと進めるなら、僕と君の二人でコハラ殿の元へ馳せ参じようじゃないか。そうすれば彼の側にい不快感もいくぶんか軽減するだろう」

「つまり、俺の責め苦を半分引き受けてくれるってわけか。おい、招待状は二人分あるだろうな」

 マオはその顔つきにそぐわない事務的な口調で答える。

「ご主人様の書斎には、私の分も含めて二つ分置いてあったはずです」

 スギモトはわずかばかり感心。奴隷身分にもくれてやるとは、相当羽振りが良いようだ。

 アカシマは彼に向き直ると、やや疑念を含んだ口調で問う。

「本当に行くつもりか? あの男はとても傲慢で、品格のある奴じゃないんだぞ」

「いや、親友のことだ、簡単に見捨てるわけにはいかんよ」

 まだ、自分の予定を打ち明ける隙は見つけ出せそうになかった。マオに家の留守を任せると、アカシマとスギモトは連れだって歩き、コハラ邸への道を急いだ。あのあたりは、フクオカ市民の中でも特に裕福な者が暮らす高級住宅街なのである。商売やその他の目的でやって来たウミムコー人が、そこに家を借りることも。

「このフクオカ市も、すっかり狭くなっちまった。そう思わないか?」

 路上、唐突に切りだすアカシマ。

「何だって?」 やはり、コハラと顔を合わせねばならない重圧でじっとしていられないのだろうか。

「それがウミゾイに移住したい理由だよ。かつてこのフクオカ市の周りには手つかずの廃墟がたくさんあった。瓦礫とひびだらけのアスファルトが広がる向こうには何があるんだろうと空想したものさ。廃墟が開拓されて人が住むようになってから、そのお楽しみはさっぱり不可能になっちまった」

「だがウミゾイには探求の場が一杯ある、からか?」

「そう。この街が特に発展したのはウミムコー人がキューシューに来航してからだろう」

「かのチェ・ヨンギル公のことだな。言うまでもなく、その頃はキューシュー全土が灰色の荒野だった」

 恐らく、都市同盟の歴史で初めて起きた重大事件といえばこれに違いない。当時プサン一帯を支配していたチェ・ヨンギルは船に乗ってフクオカ市に入り、貢納を要求したのだ。そこからキューシューとウミムコーの切っても切れない関係が始まった。

「都市同盟の最高評議会が彼らと関係を結んでからというもの、多くのキューシュー人がその進んだ技術を手にするためあっちに渡っていった。それで我が都市同盟も豊かになったわけだ。中には行ったきり帰らなかった奴もいるが」

「特にウミムコーでの戦争で駆り出されたやつとかな」

「ああ。今から会いに行くのはその数少ない生き残りさ」

 アカシマの声色が、いつもとなく低くなる。もうすぐ、街の中央を走る大通りにさしかかる所で。

「キューシュー人が弟とすればウミムコー人はその兄。その兄になれるなら命だって惜しまない奴さえいる。一度その地位を手に入れてしまった者は、それを保持し続けるために今度はかつての同胞を見下しにかかる……民会で何度も見かけた」

「ああ。何が何でも上を目指せとすすめる社会だ」

 吐き捨てるような調子で応える。何人もの足踏みする音が聞こえてくる。

「そんな社会が悪いというわけじゃない。だが人間の性として、どうしても他人を下にして自分を上に挙げる風潮があるらしい。俺たちだって同じ二の舞になるとも限らないしな」

 スギモトの心により強い心拍が生じていた。ひょっとすると、自分も彼らの仲間に加わってしまうかもしれないのだ。旅を終えて、ウミムコーから還った暁には。

「自分が特別な存在とは思いあがりたくないものだ。どうせ特別な人間になれるのは限られた人間なんだから」

 とスギモトは言った。

「さもしい奴にはなりたくないよ」とアカシマ。

 そうして話し合っている内にも、二人はすでに大通りを横切ろうとしていた。同時に、足踏みする音もより集団で行進する音に変化しつつあった。その時、一人の男が建物の合間からふっと現れて、二人の注目を引いた。と言うのは、背後に何人もの人間が行列をなして続いていたからだ。一つの鎖が全員を数珠つなぎにした姿で。何より、全ての表情が暗く、凄然としていた。

「おい、あれは?」

 自問するかのようにスギモトが。

「多分、あの人たちだ」

「かわいそうに、あれがチョラド地方の流刑囚だよ」

 二人のすぐそばにいた老人が言った。

「プサン政府の命令で増えすぎたウミムコーの人口を調節するってわけで征服地の捕虜を大勢ヒロシマに送りこむことになったそうだ。ほら見ろ、子どもの姿もある」

 スギモトはすぐさま左右に目を。すでに彼以外にも多くの人間がこの行列を見物していた。

 ぼそぼそとつぶやく声が響き渡る。その中に罵倒と嘲弄が少しずつ混じって聞こえるように。誰かが石を投げつけたらしい――それもどうやら、年端も行かない子が。

 突然、虜囚たちの間で騒ぎが勃発した。一人がこの束縛を逃れようと、右から右へ暴れ出したのである。同時にその行列全体がぐらぐらと乱れ始めた。先頭の男がしびれを切らし、怒鳴り散らす。と思うと、横から官兵が近づいて騒動の元になっている男を殴りつけた。先頭のもう一人も、口を閉じさせられ、瞬く間に抑えつけられた。

「今の内に横切るぞ」

 ぶっきらぼうな調子のアカシマ。

「俺たちが関わることじゃない」

 スギモトは、彼らに対して思う所がないわけではない。しかし、これはキューシュー人が何とかできる範囲を越えており、自分一人が声を上げたとしても、いかなる解決にもならないのだ。

 そもそもこの人々は敗者なのであるから。


 コハラ邸の門に到着した時、たちまち門の前に立って中をうかがおうとする大群が目に入った。

 ここから見ても大きな建物だった。二階建ての部分が塀からのぞいている。壁の色は青白く、最近になって造られたもののようだ。これほどのものを手にできることが、あの男の財力を象徴しているかのように見えた。

 スギモトは門の前に集まる人ごみをかきわけながら敷地の入口へと進んでいった。「入れてくれ!」とか「恵んでください」とがなりたてる言葉を浴びながら、彼らを入らせまいと必死に門番の前へと。

「ここは部外者立入禁止だぞ」

 凄味を利かせながら立ちはだかる門番に対し、スギモトはふところから取りだした招待状。他のごろつきが入らないよう腕を伸ばし、後ろに回って二人を内側に押しやった。

 コハラ邸の外はほとんどがらんどうだった。屋敷そばに広がる庭の方で、芝生の上を歩きながら雑談に興じる一団がある。スギモトは、その先頭の人物を、近づいて知る。

「ヤスイ・エイト殿ではございませんか?」

 シモノセキ市の土木建築担当長官を務めている彼とは、プサンの使節を歓待する行事で同席して以来の仲だった。

「ほう、スギモト殿もいらっしゃるのですね」

 先に声をかけたのはヤスイ。

「やむにやまれぬ事情に巻きこまれてな」

 アカシマがスギモトの肩に手。

「……もうすぐ宴会が始まる時刻です。会場にはすでに多くの客で詰めておりますのでな」

「じゃあ俺たちも本拠地に乗りこむとするか。この家の中からにぎやかな声が響いてくるしね」

 スギモトがアカシマに語った。

 腕を組んでアカシマはそっぽ。

「俺は奴を恐れてはおらんぞ。ただウミムコーで名をとどろかせていい気になっているのが気にくわんだけだ」

「それくらい、あの男は影響力があるのか?」

 アカシマはもう振り返ることなく、大きな玄関口へ自分を進めながら、わずかにかすれた口調で、

「公文書館働きなら、奴の言葉を聴くのも少なかろうが……」

 ホールに足を踏み入れるや、アカシマは言葉を絶った。向かいの壁には、戦争で使ったのだろう剣と槍が天井からの糸でつりさげられている。

 そして、ホールの廊下をつたってその一室、大広間に入るとすでに多数の人物が集結していた。赤茶けた木材が覆う空間の中、すみずみにテーブルが敷かれ、招かれた人々が着席している。そこにコハラの姿が見合わせた。あまたの客を集める魅力、また料理を用意できる財力に、得意満面といった面持ち。

 スギモトとアカシマは適当に、空いている席に座った。そのテーブルには見知らぬ客がいあわせていたが、見覚えなら多少はある人物だった。

 もうここまで来たなら、もう二度と戻れないだろうとスギモトは、覚悟していた。この上はもはや何物にも心を動かされまい、と。目の前には様々な肉料理の皿、山のように野菜を載せたサラダ、ニホンシュやマッコリの酒瓶。

 それらを確かめる間もなく、コハラが椅子からたって大演説を始める。

「諸君、この我があばら屋によく来てくださった! 今日は私がプサン軍に従ってクアンジュ攻略戦に参加して十年になる。私の人生の中でもっとも栄光に満ちた日だ。この喜びをほかの人々とともに分かち合わずに済ますことはできん。何しろウミムコーでの日々は苦難そのものだったのだから。まさか今日のような年齢になるまで生きながらえられるとは思ってもいなかった。こうして命を保っていること自体が奇跡と言っていい。だからぜひとも、今までとこれからの私の健康を祝して、楽しんでもらいたい。それが私の望みだ」

 自分の所に料理人が食器を運ぶ間にも、スギモトは冷やかな目でコハラの姿を眺めていた。大きい角ばった顔。頑丈そうな胴体。何より、左頬を走る切り傷の痕が、その荒々しい半生を証拠だてている。しかし、その内側はどうか。自分の心を見すかされまいとして口を動かしている節がないか。

「さあさあ、飲んでんでくれ! 酔わないと昔のうまく語れんからな」

 酒瓶をつきだして叫ぶコハラを尻目に、

「あれをどう思う、ミツキ?」 問うアカシマ。

「豪快だな」 とっさに答える。

「そう、豪快だ――それだけだよ。中身を見せる技術に全く欠けている」

 フォークで肉をつきさしては口に運びながらアカシマは返した。

「視ろよ。今だってトマトやレタスを噛みちぎって酒をがぶ飲みすることしか能がないではないか」

 コハラ・ショースケはやけににやついた顔を浮かべながら、かなり聞き取りにくい声で同席の者としゃべり散らしている。多分、コハラの取り巻き連中なのであろう。ともに戦場を生き抜いてきた人々だ。ウミムコーでは国を問わずキューシュー人の傭兵をしばしば求めると聞く。もしかすると、彼らは時に同郷の同業者とはち合わせになり、たがいに殺しあう経験もあったのではないかとスギモトは邪推した。

「ご覧いただきたい、この顔を!」

 コハラはいきなり立ち上がり、テーブルの間を歩き始めた。

「かつて敵兵に斬りつけられた時にできた傷だ。その時は刃が深くて生死の境をさまよったものよ。だが、運命の女神のおかげか、こうして生きている」

 さらに左腕の袖をまくると、二の腕の中心に黒いしみにも似た痕。

「これは矢傷だ。さいわいにも急所ではなかったから大事には至らなかったが、まずければ血がほとばしっていたかもしれん。これも人知れぬ力の加護であろう」

 先ほどまでコハラがいたテーブルの者が立ち上がって喝采。

「まことコハラ殿こそは強運の星のもと、お生まれになった方!」

 アカシマは数杯を飲み干し、次第に顔が紅潮していった。

「お前も飲みたいだろう、さあ飲め飲め」

 と唇をへの字に曲げる一方ですすめはするけれど、スギモトは一向に首を縦に振らない。

「元から飲めるたちじゃなくてな」

 事実そうなのだが、何より心配なことを一つ抱えていたから。

 もしアカシマが持ち前の感情を爆発させたらどうなる。相手は力がある分、勝ち目は到底期待できない。ましてその時に自分も正常な判断ができくなっていたらどうなる。

 むしろ今は、状況の観察に専念しろ。

「かつてアテナイの一軍人でったクセノポンは、ペルシアの王子キュロスがクセルクセスの王位を簒奪するのを助けるためペルシア帝国のまっただ中に身を投げうちましたが、キュロスの死によりその地で数千の味方とともに取り残されてしまいました。ですが彼は敵地から脱出するために知恵を練り、無数の苦しみに耐えたのです」

 古代ヨーロッパの出来事をこんな場所で引用して何のつもりだ。昔の人間を引き合いに出して目の前の大物をたたえるなど、学の浅いやつがすることだ、とスギモトは軽蔑した。

「クセノポンが何千キロメートルもの旅路を踏み越えてギリシアの地に帰りついたように、コハラ殿もクアンジュ人を打倒するためウミムコーの戦場を転々となさったわけです――何と忍耐にあふれた人でございましょう!」

「……確かに私も『アナバシス』を読んで古代人の不屈の意思に感じた一人だ」

怒っているというわけではなかったが、コハラが大いに不本意な感情にぶつかったのは明白だった。

「しかし私はクセノポンとは違って敵から逃げ回った覚えはないぞ。なにしろ私のあの地での日々は進撃あるのみだったのだからな」

 スギモトは怖気づいた。コハラがだんだんこちらに近づいて来ている。

「もし、今機会がるならば、ピョンヤンまでもモンゴルまでも行きついて見せようぞ」

 張り上げると、再び歓声が上がった。コハラの気分はまさに有頂天。

「無論これは私一人の努力によってなしえたものではない。無数のプサン人とキューシュー人の同胞の力添えがあってこそだ。彼らにはいくら感謝してもしきることはない。私よりもずっと力に満ちた人々だ。勇気があり、生き残る技術があり、何よりも――」

「戦いたくなかった奴らだろ?」

 アカシマがコハラの瞳を直視して、告げる。その間わずか三メートル足らず、何かが起こってもおかしくない距離。

 スギモトは二人を黙って観察した。アカシマは不服そうに立ったまま腕を組み、コハラは憮然としてその姿を眺める。

「民会で見たことがある……アカシマ・ルイ殿だな」

 蟻か蚊に対する目で返事。

 目を背けると、逆の方向に歩き始めた。

「私だって海の向こうで大義を果たせず朽ち果てた者が大勢いることを知らぬわけではない」

 振り返った時には鋭い眼で睨み返している。

「そのような人間の分も努力して生きてきたのだ。決して彼らの死は無駄ではなかったと証明するために」

「だが、プサン政府が無駄に殺した分もある」

 招かれた客たちが小さな声でざわめく。「アカシマ殿、やめなされ」と近くでヤスイの声。

「どういう……意味だ」

「今フクオカ市の人口は増え続けている。職を得るのも大変だ。それに加えて貧富の差も拡大傾向。ゆえに多くの人間が仕事を求めて植民市とウミムコーに渡って行く。

 ウミムコーの国々が今求めているものは軍事力だ。彼らはとにかく人手が欲しい。そこでキューシュー人に目をつける。キューシュー人にとって、当分の間食って行ける仕事と言えば、兵士くらいしかない。兵士になればあとで豊かに暮らせると説くんだ――顔つきのいい仮面をはめてな。でどうなるかと言うと、要するに使い捨てだよ。生かすなんて考えはない。できる限り長い間戦えて、敵に下らないことだけが大事なんだ。損得勘定でしか動こうとしない。

 すでにどれくらいのキューシュー人が無残に殺されていったことやら。大部分はその直前家族の名前を呼ばわりながら命を落としただろう。国のために死ねる人間なんてごくわずかさ。そんなえらい奴に褒められても、たいしてうれしくなんざ思わねえよ」

 いつの間にか、部屋全体がしんと静まりかえっていた。その迫ってくるような雰囲気を感じ取ると、アカシマは恥ずかしそうに頭をかく。

「まあ民会に出席する権利があるほど裕福な有産市民である俺が、こんなことを言う資格があるかどうかわからないが……」

 コハラは黙って彼の話に聴き入っていた。怒っている表情でもなかった。落ち着きを取り戻し、丁寧とさえいえる物腰で。

「その通り、全ての人物が満足な形で生きて帰ったわけじゃない」

 憂いすらふくんだしゃべり。

「中には苦しみつつ死んでいった者もあるし、傷を負って以前の生活が送れなくなった者もいる。生き残る者は少なく、心も体も丈夫なまま帰りつけるのはもっと少ない。だがそのような人間の中に私は入ったのだ。当然、そうではない人々の苦しみなど何度も目にしたし、決して無縁だったわけではない。ずっと彼らの無念に寄り添う日々があった。それを勝手に『たたえたところで彼らは喜ばない』と言われては困る」

「そうだそうだ!」と叫び声があがる。

 次第にその言葉は大きくなり、中にはアカシマをそしるものさえ。コハラは自分のテーブルに向かって振り返ると、目くばせ一つでこれを制止させた。

 スギモトはどうにもならない気持ちでコハラを察る。この男は、見かけから感じられるほど単細胞ではないらしい。さりとて、思慮があると言い切れそうにもなかった。なぜなら、アカシマの反論に耳を傾けるふりをしながら、決して正面から受け取るそぶりはなかったからだ。

 アカシマはなおも引き下がらない。

「貴殿が戦死者に哀悼の念を持っておられることはよく分かった。それには共感する。だが今私が問題にしているのは、多くのキューシュー人がウミムコーで不当に扱われ、何の報酬にもあずかれないということだ。ほとんどは今日を生きる飯にも困り、ウミムコーの高官と同等に昇れるのは例外の存在でしかない。

 無論これはキューシュー人ではなくウミムコー人に向かって告げるべきことかもしれん。とは言え、下々の者がこの苦境にあえいでいるのを視ると、我々上級市民にも責任はあるのだ。一体ウミムコーに兵力を送っているのは誰か、キューシュー人にこのような扱いを許しているのは何か、考えてみるといい」

 すると、仲間の一人がやおら立ち上がり、けんか腰でまくしたてた。

「お前は何が言いたいんだ? そんな話題の種にもならんことをつらつらと挙げてコハラ殿の名誉を損ないたいのか? この方はウミムコーで何年もの間死線をかいくぐった人物だ。貴様みたいに島でぬくぬくと暮らしてきた若造とは違うんだよ」

 ああ。これか。スギモトは表現しようのない感情と出会った。まさにこの輩をアカシマは嫌っているのだ。ウミムコーに行ったことが何か特別なことだと勘違いしている連中を。

「私は自分の所感を逐一簡潔に述べたまでだ。何もそちらの気に障る言っておらんはずだが」

「黙れ若造! よいか、ウミムコーで我々は何度も死の危険に直面したのだ。時には体の一部を持っていかれたこともあった。これを視ろ!」

 と左手を前につきだす。その手の小指と薬指は、金属でできていた。

「この手がいかなる苦しみを経てきたか、貴様には分かるまいな。貴様はフクオカの海軍を舌先三寸で増強させたそうだが、我々は軍隊というのを間近で観て、接してきたのだ。元から格が違う」

 アカシマは今にも弾けかねない顔立ちで突っ立っていた。コハラは自分の席に戻って酒にありついていたし、その仲間はアカシマに対し傲然とした目。

 その情勢が永遠に続くと思われた時、

「まあ、双方とも落ち着きなされ」

 ヤスイが立ち上がり、たしなめようと。それからコハラに、

「申し訳ございませぬ。アカシマ殿は若年ゆえ、あのようについきっとなってしまうのです。しかしそれはまだ血気盛んなためであって、本人に悪意があるためではないのでございます」

 コハラは黙って酒をあおっていたが、しばらくして顔を客席に向け、低い声で語る。

「……私は怒ってなどいない。ただアカシマ殿が酔いのせいで乱心し、暴れまわりはしないかと恐れておったのだ。何しろここは宴席の場。雰囲気を乱すようなことはしてほしくない。むしろ、今日という一日を摘み取ってもらいたい。私が望むのはそれだけだ」

 こうしてその場は治まったかに見えた。しかし宴席の空気は、先ほどまでとは一変してしまっていた。誰もが息を殺して、静寂を保つ。

「アカシマ殿、かしこまでに言う必要はなかったのではありますまいか」

 反対側の席にいた客が、優しくさとすように。

「このめでたき日に、ご自分の意見を長々と述べられなくとも……。これではまるで追悼式典。コハラ殿も意気消沈してしまわれた」

 あたかも正しいことを言い聴かせる口調で流れる言葉を、アカシマは無視。酒杯を凝視して、自分の世界に没入。

「おい、聴いているか、アカシマ」

 スギモトは一言訊いてみたが、返事はない。心を虚しくして、酒と向き合っている。

 こういう時こそが、実は彼の激高を示す証拠なのだ――とスギモトは知っていた。怒りっぽい性格だ。しかしそれは口調や表情に顕れるのではない。まず、細かい身の動き、しぐさから。現に酒杯をみつめるこの所作こそが、彼がいてもたってもいられない精神状態にあることを大声で語っているではないか。

「スギモト、一つ聴いてくれ」

 急に、顔を横に向けて問うて来た。

「どうした」

 ああ、こいつは本当に沈黙と雄弁の差が大きい奴だな。

「あれはどういう男だ」

 やや前には、豪快な人物と思い、その後は少しは思慮のある人物と。けれども今や、『少しは』と言うには不足が。

 アカシマはコハラに『プサン政府の無駄殺し』という一句を告げた。これに関しては友人も身の震いがした。キューシュー人がウミムコー人に対して物申すだけでも憚りのある風潮に逆らって、アカシマはためらいなく『無駄殺し』の表現を用いたのである。スギモトは元から世間の流れに同調する性格ではないが、困惑がないわけでもない。一体そんなことを吐いて、人々から白い眼で察られないのかと。

 しかし、問題はコハラだ。アカシマの横槍を聴いた時、あの一句に関しては何も回答しなかった。さらに問い詰めようとした時、取り巻きの一人がアカシマを罵り出し、話を中断させてしまったのである。再びアカシマが行動に出るのは明白。

「社会への不満を持ってはいないようだな」

 ごく小さい声、ひかえめな言葉遣いで。

「ああ、文句を言う身分の者じゃないんだろう」

 他の客たちはそれぞれの顔を見合わせて、ウミムコーに渡った人へのほめちぎりに明け暮れている。

「あの男は、プサン政府については何も言わなかった。多分自分より格下の奴には興味がない……上の連中が見棄てる奴のことなんて論ずるつもりもない。ましてそのことでウミムコー人を非難するなど屈辱にしか感じていないはずだ。あの何とも泰然自若とした顔つきからしてな」

 アカシマは、もしかしたら言い過ぎかもしれない。それでも事実を大きく外すことはあるまいと、スギモトは思う。

「僕にとってもあれは確かに近づきがたい男だ。人はみかけによらないとは言うものの、何か危ない物を匿しているように見える。けっして触れてはいけない何かを」

「その何かを暴き立ててやろうじゃねえか。奴のこしらえた紳士面にもそろそろ飽きてきた所だしな」

「もう一度やるのか? 場の空気もこれ以上ないくらいに悪くなってる。また取り巻きどもからこっぴどく叱られるだろう」

 決意はしかし固い。スギモトならもはやこれまでとあきらめそうなものを。

「それでもよ。この大人数が観ている中で奴の鼻面を明かしてやる。今度こそあの化けの皮をはがしてやるんだ」

「何の皮をですって?」

 反対側の席にいる客が、不穏な表情で問いかける。

 しまった、盗み聴きされていたか。後悔しても後の祭。

「何やらひそひそ声で話しておるようですが、聞き捨てなりませんな。全く何についての話なのです」

 アカシマに悪びれる様子など微塵も。

「もちろん、あんたたちにもつながることさ」

「おい、アカシマ――」 慌てて止めにかかると、

「またコハラ殿へのつまらぬ企てではありますまいな。我がキューシューのほまれに立てついていかがするおつもりですか」

 その言葉を耳にするや、あのコハラの仲間がいきり立ってわめく。

「また我らの顔に泥を塗ろうとか、この若造!」

「よせ、オギ」

 だがその途端コハラの拳を肩でくらい、叩きつけられるような形でいすに座らされた。代わりに立ちあがったコハラの顔は、前よりも黒ずんでいる。

「またお前か、次は何だ?」

 間違いなく苛立ちがそこに加わっている。

 アカシマはやはり毅然とした挙動、明瞭な声、

「もう一度訊きたい、コハラ殿。ウミムコーでなす術もなく死んでいった同胞についてどうお思いか?」

「だから先ほど彼らの死をも悼んでいると言うたではないか」

 その口調にしても、ずっと攻撃的になっていた。

「まさしくそう聴いたよ。キューシュー人の命をいたずらに費やしているウミムコー人がいることに関しては、まだ答えを聞いておらん」

「ほう、詮索好きな人なのだな、アカシマ殿は」

 コハラは立ったままその場を動かず、尊大な調子でこれに言い聴かせる。

「その通り、ウミムコー人はキューシュー人を湯水のように使っている。飾り物をつくる時は職人として起用するし、土木工事の際は足りない部分をそこから補ったりする。しかし一番重大な用途はやはり兵力だ。好きで殺し合いに行く人間など存在しないのだから。事実、プサンがかつてアンドンを筆頭とする連合軍を攻めた時も多くのキューシュー人が従っていた。ところが昨年に至るまで、八年かかっても彼らを負かすことができず、おまけに疫病まで流行って数知れない犠牲者が出た。まこと栄光を手にして帰りつく者は少ない。

 恐らく私も生まれが遅ければその内に入っていたかもしれん。だが実際には違う。単に時をまぬかれただけではなく、私の場合は最初から兵士として生きようと決めていたこと、生と死の境目近くを進みながら、生き残るためにそれ以外のものを切り捨ててきたことにある」

「つまりプサン政府の方策で無残に殺されていった人間にかける憐憫はないということか」

 アカシマの追求する声が、だんだんかすれつつある。そして、この期に及ぶともはやコハラも上辺をとりつくろってはおれなかった。

「プサン政府が何だろうが、ウミムコー人の主君が命じることならば聴かねばならんのだ。そうしてキューシューとウミムコーの間で名声が抱けるならばどんな対価を払おうが惜しくはない。死を恐れていて何ができる。ただ他人に異論を指しはさみしかできんのか、この臆病者」

 その瞬間、スギモトはアカシマの手を思いきり強くにぎっていた。でなければ、コハラを打ち倒しにでかけかねなかったから。もうこれ以上言葉を闘わせても何の意味もない。たとえ行動に出たとしても。

「ぬう……この男が!」

 アカシマの足取りは重い。スギモトに逆らって、別の方向に進もうとする。

「もう行こう。最初からこんな場所にいるべきじゃなかったんだ。あの不毛な返答に聴き入るよりはいい」

 そうこうする内に、二人の屈強な男が現れて、アカシマとスギモトの体につかみかかり、拘束する。抗議の声も空しく、門の外まで連れ出され、ほうり投げられた。そのまま、後ろで門が閉まり、鍵をかける音。妙にひんやりとした空気。

「くそっ! 何なんだあいつらは!」

 門に向かって走るアカシマ。目つきが激しく血走っている。

「元から俺たちは招かれざる客だったというわけさ」

 言いながら、空を見上げる。青く澄みわたった片隅に、いくつも連らなった白い帯が続く。

「ミツキ、このまま逃げ去るのか? まだ俺は納得できんのだ!」

「むしろ、何もしないのが得策であったりもする」

 スギモトはすでに屋敷遠ざかろうと。

「待て、行くな」

 アカシマはスギモトに後ろからつかみかかった。しかし、もう疲れが疲れにたまっていたのか、つい姿勢が崩れて、地面にこけてしまう。

「ほら、やっぱり限界じゃないか。あそこでしゃべり続けても、気を失うのは必定だったろう。さあ俺の手をつかんでくれ、一緒に行ってやる」

 アカシマはいたく不本意そうな目つきをしつつも、半ば千鳥足で彼に従った。

 スギモトはコハラにさほど腹を立ててはいない。最後に出した言葉は恐らく本音だろう。しかしそれはアカシマの重なる追求に耐えきれずひねり出したものには違いないし、アカシマの方もけんかをふっかけるような態度で発端を開いたのだ。もしかしたら、どちらも罪に問えないかもしれない。とは言いつつも、コハラにあの告白を吐かせた粘り強さに感心してしまうのも、事実だった。

 自分がコハラになってはいけない、と思いはするが。

 最初こそ忸怩たる態度から抜け切れずにいたアカシマだったが、しぶしぶ自宅への道をたどって行く内、次第に眠気をうったえ始め、そのため引きずるようにして歩くはめに。

 ようやく見慣れた宿舎が建物の間にあらわれると、スギモトはついに家に還ってこられたとの実感に、大きくため息。さらに進み、アカシマの部屋につながる扉、十歩前を踏んだところで、

「アカシマ様!?」

 マオっが、驚きに怖れ、安心感など色々な感情のつめあわせをたずさえて、飛び出して来た。

「こいつは今とてもくたびれてる。話しなんてできる状態じゃない」

 マオは、すっかり気力を失った主人を見ると、これの片手をつかんで、スギモトに乞うた。

「ご主人様はこちらにお譲りください。これ以上の他の方をわずらわせるわけには行きませんので」

「いや、僕の家に連れて行くよ」

 すると、不思議と言うより不審な目で視上げるマオ。

「なぜです? スギモト様もひどく苦労なさったことでしょうに」

 できることなら、今すぐにでも地面にぶっ倒れてしまいたい。だが自分の欲望を赤裸々には示さないのが、自由人の流儀。

 そもども、彼にしか話せないことがあったではないか。それを忘れてどうする。

「いいんだ。一つ彼と夜通し語らいたくてね。あの家では随分嫌な思いをしたものさ。それを埋め合わせずにはおけないんだよ」

 マオは少し信用ならないとでも言いたげな目つきだったが、結局は奴隷である自分が自由人に逆らう理由も判断したのか、

「では、スギモト様のご意志のままになさって下さい。私もスギモト様とともにアカシマ様をお運びいたしますので」


 スギモトが自宅につくと、マオは小さく頭を下げてそそくさと帰って行った。道中、アカシマの容体ばかり気にして、何があったかは全く訊かない所が、マオの主人に対する一途さをよく表しているとスギモトには思われた。

 やっとのことでアカシマをベッドに寝かしつけると、その側で大きく腕を伸ばす。まさか、こんな苦労をするとは夢にも。アカシマはきっとコハラとは相当仲が悪かったのだろう。この俺がいても感情を暴発させてしまったことから察するに。あの男に会わなければならないと進めたマオの頑なさはいかほどか。

 それにしても、あのことを告げる時が近づきつつある。まさにこの場で打ち明けねばならない。すでに船に乗る手はずは整えた。必要な金と日用品は全てのかばんの中。家に残されたものは親族が預かってくれる予定。その後は、もう門出を待つだけだ。もしウミムコーに行ってしまえば、多分二年は帰ってこれないだろう。

 アカシマが、その間悠長に過ごしてくれるかどうか。依然として、ぐっすり自分の世界に浸り、目覚める様子はない。

 こっちも眠たくなってきたな……。スギモトは、アカシマの上に毛皮を引いてやると、壁際の本棚から一冊取りだした。しばらくぺらぺらと飛ばし読んでいたが、ふと意を決したのかこれをベッドのそば、花壇の上に置いて、ふたたび友人の側に座した。もはや他にすることもないし、何かをする気力もあれ以外残されていない。そのままゆっくりと倒れこみ、アカシマの脚の上に。

 真っ暗闇になり始めた頃、スギモトは小さな燭台を本棚の上から取って花瓶の隣に置き、火をともした。

「うーん……」

 突然、アカシマが、あくび。

「やあ、お目覚めかな?」

 ベッドの前に立って、静かに問うスギモト。

 アカシマはにわかに困惑し、上身を起こしてあたりを視回す。

「さ、さっきまで俺はどこにいたんだ? ここは?」

「言葉で闘うのがどれほど困難かよく分かる。あのやつれ方を察ると」

 アカシマはスギモトを眺め、それから周りの環境を理解すると、薄暗い顔でうなだれた。

「俺も青いな。酒でよっぱらった挙句に意識を失っちまうなんて」

「コハラもお前に劣らず酔ってた感じだったけどな。彼が最後に言った言葉は、酔いに任せて吐いたのかもしれない」

 聴くと、開き直るかのように目を張って、

「だが、そう考えていたとしてもおかしくないとは俺以外の奴も思ったはずさ」

 アカシマは、自分の所業に後ろめたさも、確信に疑念も持っていないらしかった。スギモトにとっては、それが長点でも欠点でもあるのだけれど。

 アカシマはベッドの上であぐらをかきながら、低い声で、

「この世界は実に生きづらい。キューシューでさえこんな嫌な奴と隣り合わせにならざるを得ない。ましてウミムコーはもっと苦しい。人も多いし国の数も多いからな。五体満足で渡り歩くためにはそれこそ陰謀を駆使する必要がある。人間によせる温情なんていちいち持っていられない。道理でああ言っちまうわけだ」

 スギモトはまた迷った。こんなことを話す最中でよいのか。

「けど、全員がそうじゃないだろう。富と名声への欲望に溺れる奴なんてごく一部だよ」

 唇をすくめて空しく笑うアカシマ。

「ところがどっこい、ろくでもない連中ばかり世間では有名になっちまうのさ」

 ため息をついてスギモトの顔をうかがい、返答を待つ。しかし、沈黙がその代わりだった。

「どうした、スギモト? 何か気にかかることでもあるか?」

 小さな光に照らされて、アカシマの輪郭が灰色に浮かび上がる。不安定ではっきりした形のない幽霊みたいに、小刻みに揺れ動いていた。

「まさか俺があまりにウミムコーについて口にするもんだから聴き飽きてしまったとか? どうもそうらしいな。おい、そうだろ?」

 こんな風に追及されては、打ち明けずにしまうことがなぜできるだろう。この状況においこんだのは他ならぬ僕自身ではないか。これ以上予定を先延ばしにする必要もないのに。

「よく分かったな、ルイ。その通りだ。これからウミムコーにしばらく滞在するつもりでね、キューシュー人の共同体の中で法律を勉強するつもりなんだ」

 語ろうとかまえれば、簡単に口が開いた。もうそれは決まっていることで、何ら隠し立てする意味はない。

 アカシマの方はどう思うだろう。もしかして、これで僕に見切りをつけはしないか。

「いや、予想してはいたさ」

 反応は、意外にもあっさりしたものだった。

「お前が家を訪ねてきて、それからマオと一緒に話した時の様子からどうも怪しいとは感じていたんだ。それから、コハラの宴席で奴の素性について訊いた時。それにここはお前の家。当然、そのことについて伝えたかったんだろう?」

 アカシマの勘の鋭さに、ただただ、恐れ入るしかなかった。

「ご名答だよ。そういう見通す力のよさが、あんたを随一の弁論家にしたところのものだ」

「勿体ぶった褒め言葉はいい、ミツキ。それより、ウミムコーに渡るのはいつになる?」

「今週の……日曜だ」

 聴くと、アカシマは少し身を壁際に寄せる。

「となると、あと数日か……」

「すまん。もう少し早く伝えておくべきだった」

 アカシマは深く傷ついているのではないか。その疑念が、アカシマに片膝をつかせ、頭を下げさせる。

「いや、俺も悪い。何しろ、イスモ市への移住希望届を、お前の署名もいれて今日にでもナガサキ市に提出しようと思ってたからな」

 不意を打たれ、無意識に前方を凝視する。

「じゃ、もし僕が何も伝えなければ、ウミゾイに行かなきゃならなかったのか?」

「コハラの奴に会いに行ったおかげでその危険はなくなったが……まあ、俺たちの間には秘密があったってことだ。責めあえはしない」

 それでも、アカシマの表情には深い喪失感があった。スギモトに文句を言いたくても言えないもどかしさ。衝撃よりも細かい、心の動き。

「困るな。つながりが深いほどこんな気持ちにならなきゃならないとは」

 自嘲するアカシマ。

「ああ、僕も困る。何せ君も悪気があってイスモに僕を連れていこうとしたわけじゃないしな」

 同じ感情を、スギモトも。

「で、……この本は?」

 アカシマはふと、ベッドの上、一冊の本に目をやる。

「古代の詩集さ。ちょうど旅立ちにふさわしい詩はないかと思ってね」

「古代の? 古代の書籍なんて、貴重な資料として持ちだし禁止のはずだが」

 スギモトは隣に座って、本をもらい受ける。

「もちろん現代人のために編集された奴だよ。当時の本は僕にも読めない。文字が違うんだから」

「ああ、古代には三種類の文字を使っていたらしいが、全部読めるのは今や考古学者くらいしかいない。で、詩は?」

『旅立ち』の言葉に、アカシマはこの上なく旅愁を感じているらしかった。何しろ、親しい友人が離れていってしまう時、その安寧を願わない者などどこにあろう。

「ちょっと待って……これだ。はるか昔、大陸でよく詠まれた詩らしい。題名は、ええと、『涼州詞』だ」

「この複雑な文字は? 俺には読めない」

「側にカタカナで解説がついてあるから」

 アカシマは詩の内容を一通り理解すると、やや機嫌の悪そうな顔をした。

「戦場から戻ってきたとなると、あの野郎を連想するな」

「だが人生はそれ自体戦場みたいなもんさ。志半ばで命を落とす奴が何人いるかも分からない。生きてても、かつての心を失ってしまう人もいる」

「それもまた、ある意味では『死んだ』といえるのかもよ」

 アカシマの軽い口調ともあいまって、余計に暗澹とした気分にさせられる。一体自分がそうならないと、誰が保証してくれる。

「しかし――仮にお前が変わり果てた姿で帰ってきたとしても、俺は昔のお前を記憶し続けるよ。今犯した過ちからその人全てをさげすむ言われもない」

 いてもたってもいられない様子で、スギモトにたのむ。

「さあ、その詩を詠ませてくれ。お前の旅立ちを見送らなきゃならないのは俺なんだ。日の出は近い。明日も仕事があるんだから」

 スギモトはこくりとうなずき、本をアカシマに。

 アカシマは詩の文を、夜の沈黙を突き破って朗唱する。

「葡萄の美酒、夜光の杯、

 飲まんとほっすれば琵琶馬上にもよおす。

 酔うて沙上に伏すとも君笑う事なかれ、古来征戦幾人か還る」

 続いてスギモトも同じく詩を詠んだ。二人はそのまま寝転がって抱き合い、分かれたくない、しかし分かれなければならないことを嘆き、あるいは新しい土地での出会いの経験を期待し、かつ祝福しながら、いつか再会できることを希望し、その時のことをもう喜んで、その日をあかした。

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