46. 喧騒
秋ですね。読書の秋。小説家の秋。
窓の外から虫の鳴き声が聞こえます。
それは観客の期待の大きさに比べて、あまりにも素っ気ない1投だった。
観客の多くが”あっ”と小さく発した口を、閉じる間もなくナイフは緩やかな弧を描いて飛んで行く。3投とも投擲の姿勢に迷いはなく、その動作は素人目にも完成された美しさを感じさせるものだった。
静まり返った観客の視線は、当然のように青色の積み木を捉えたナイフに釘付けになる。そこまでの出来事は僅か数秒のことだった。一拍後に”わっ”と辺りが大歓声に包まれると、よその人だかりに集まる者たちの視線までが的当て屋の輪へと向けられた。
「やったダヨー!」
シンはガッツポーズするとすぐに、宣言通りローブの裾を広げて摘まみ上げると、観客に向けて”ご祝儀はこちらへ!”と金を集め始めた。観客に紛れたバンガルが”約束だから仕方ねえなぁ”と棒読みの台詞を言いながら銅貨を投げ入れると、泉貨や青銅貨が次々と投げ入れられた。さっき銅貨を出すと宣言していた観客たちも、他の観客の視線に耐えきれずに泣く泣く銅貨を投げ入れていた。
「おぉ……お見事です! ぜ、是非とも最後の一投のチャンスに賭けてみてはいかがでしょう?」
「うーん……」
周囲の注目を集めるように的当て屋が声を張り上げるが、クロが考え込む仕草を見せるや否や大慌てで説得に掛かる。
「い、いや……旦那、これだけの観客がいるのですがら。ねぇ? 是非チャレンジして下さいよ! どうかお願いします! な、何なら失敗しても元金の銅貨はお返し致しますから。ねぇ?」
的当て屋が顔を引き攣らせながら耳打ちする。彼も必死なのだ。クロがここで止めれば、銅貨の20倍の小判金貨を支払うだけでなく、せっかく集まった観客を白けさせて霧散させることになりかねない。じつは観客の中には彼の仲間が潜んでいた。彼らにとっては的当て自体よりも、賭けによる儲けの方が遥かに大きかったからだ。
「そう言えば”素晴らしい賞品”って言うのはどんな物なんですか?」
突然のクロの問い掛けに、慌てて的当て屋の小人族が、商品目録の書かれた台帳をクロに差し出す。そこには一級品の武器や防具、魔法の道具や装飾品、1年分の食料品、変わったところでは植物の苗木や動物など、思った以上にたくさんの賞品が書かれていた。
そこに”馬車”とでも書かれていればクロも即決したに違いない。流石に馬車は穴隙金貨1枚で買えるような代物ではないのだろう。ただ、どの賞品も説明が大雑把過ぎて何とも胡散臭い。だからと言ってシンが勝手にやったことではあるが、祝儀までもらっておいてここで”止めます”というのは、的当て屋の言葉ではないが空気を読まな過ぎるだろう。
「わかりました。チャレンジします」
その言葉に観客から大きな拍手と声援が送られる。観客の中から”流石はチャンピオンだ!”と声援が上がると、その声に”ああ、黄金狩り(ゴールドハント)の勝者か!”と納得の声が漏れる。”チャンピオン”と煽ったのは悪ノリしたバンガルなのだが、その甲斐もあって賭けはこの日1番の盛況ぶりを見せていた。
「それでは、こちらをどうぞチャンピオン」
的当て屋までバンガルの言葉に乗るようにクロをそう呼んだ。手渡された最後の1本のナイフは、これまでよりやや小ぶりの金銀の装飾が成された物だ。台の上に3つの中で最も小さい青色の積み木より、更にひと回りほど小さい赤色の木の実が置かれる。まるでラスとナイフ投げをしたあの頃のようだ。
クロは何度かナイフを手の上で宙に放り投げ、慎重にナイフの感触を確認する。手投げナイフは一般的なナイフとはまったくの別物だ。斬ることを目的としたナイフのように、耐久性や切れ味を重視した作りではなく、重さや全体のバランス、そして突き刺すための鋭さなどに重点が置かれている。そのため戦闘の際に投げナイフを手にして白兵戦を行うということは、よほどの理由がない限り有り得ない。
投げナイフは敵を仕留めるための攻撃ではなく、虚を突くための手段であると先に説明したが、あくまでそれは”そのような側面が強い”という意味だ。クロは投げナイフで敵を仕留めるのに最も適した方法も教わった。最も有効なのは刀身に毒を塗ることだ。ただし、その場合は”手投げナイフ”ではなく”毒”で仕留めたとも言えなくない。
クロがラスの元で訓練したのはもっとシンプルな方法だ。”斬る”に比べて”刺す”ことの利点はその殺傷力の高さにある。同じ表面積4センチの傷の深さが8ミリと8センチでは、後者の方が殺傷力が圧倒的に高いのは言うまでもない。
相手の手にする武器の有効距離の外からの、急所への的確な1投。
それは厨二的な必殺技や魔法のような派手なものではない。10メートル先に置かれた案山子に記された”眉間”と”喉”への的確な投擲の反復だ。何百回とそれを繰り返すうちに、手投げナイフを持つ手元から目標までの空間を繋ぐように”半透明の軌道”が現れることがあった。それは恐らく雪山で得た”察知”と”隠伏”が合わさった状態のような超現象の類のものだ。
1投目以降、クロが何の迷いも感じさせずに、次々と手にしたナイフを放ったのには理由があった。先程からクロには薄っすらと的までの軌道が見えていた。それはいつ消えてもおかしくないような曖昧なものだったが、運良く2投目と3投目はそのままその軌道通りにナイフを放つことが出来たのだ。そのあまりにも簡単にナイフを放つその様が、更に観客の次なる期待を煽るのは言うまでもない。
ところが、ここに来てクロは慎重にナイフの感触を確認し、何度も投擲の姿勢を繰り返しその軌道を慎重にイメージする。手渡されたナイフの小さな違いが、その感覚を微妙に狂わせ、そこに現れる半透明の軌道を消し去ってしまったのだった。だが、観客からすればいよいよ最後のチャレンジに向けて、本気の姿勢を見せた程度にしか見受けられない。
その時”パンッ”と乾いた破裂音が広場に響き渡った。それと同時に荷車を牽いていた”脚長鳥”と呼ばれるダチョウよりひと回り以上も大きな鳥類が、体の割に小さな羽をバタつかせて暴れた。それに驚いた別の1羽が暴走すると、更に近くにいた2羽が釣られたように走り出した。群れを作る習性を持つ脚長鳥たちは、駆け出した先頭の後を追って一緒に暴走する。
「シン、バンガルさんたちの元に戻るんだ」
すぐに異変を察知したクロが声を掛けると、シンは慌てて集めた祝儀をかき集めて駆け出した。
「脚長鳥が暴走したぞ!」
興奮した脚長鳥たちが、通行人をなぎ倒しながら暴走するのを見た誰かが声を上げた。使役用動物とは言え、あの巨体とスピードでぶつかって来られては、大人でも簡単に吹き飛ばされるだろうし、長く強靭な脚で踏みつけられれば骨は滅茶苦茶になるはずだ。
あちこちで悲鳴が上がり、辺りは騒然となった。逃げようとして足がもつれて転んだ者たちに更に躓き、将棋倒しになりながらも這うようにして我先にと逃げ惑う者たち。そんな中、逃げ遅れて取り残される幼い少女の姿があった。転んでどこか痛めたのか、それとも突然の状況に足が竦んで動けないのかも知れない。
クロは目にした光景に戦慄を覚える。
少女の後方には迫り来る巨大な3羽の姿があった。
考える暇などなかった。クロは”借ります”と、その場で慌てふためく的当て屋にひと声掛けると、戸板を抱えて少女の方へ駆け出した。
「伏せろ!」
そう叫ぶと同時に、円盤投げのように体を1回転させて戸板を飛ばす。戸板は少女の頭のすぐ上を通貨して脚長鳥たちにぶち当たった。駆け付けたクロはすぐに少女のを抱えてその場から走り去ろうとするが、1羽だけが尚もクロを目掛けて突進して来る。クロは咄嗟に胸元に仕舞い込んだ手投げナイフを放った。ナイフが脚を捉えると脚長鳥は小さく悲鳴を上げて、つんのめる様にしてその勢いのまま頭から倒れ込んだ。
その隙に持ち主と思しき者たちが慌てて脚長鳥を取り押さえた頃に、ようやく衛兵たちも駆け付けて来て一気に事態は収拾した。不思議なもので首根っこを押さえ付けられ、きっちりと手綱を牽くと、脚に傷を負った脚長鳥以外は何事もなかったかのように歩き出した。勿論、その後に衛兵たちからお咎めがあったのは言うまでもない。
脚長鳥の持ち主に脚の傷のことを謝ろうとしたが、衛兵たちにこっぴどく叱られているところで顔を出すことも出来ない。仕方なく近くにいた衛兵に、その旨を伝えてくれるようにお願いしたら”気にするな”と、まるで自分にその権限があるかの如く言われた。案外この世界ではそう言ったものなのだろうか。
抱えたままだった少女をゆっくりと下ろすと、一部始終を見届けていた周囲の者達からクロへ賞賛の言葉と拍手が送られた。周囲の反応に照れくさそうに居心地の悪さを感じながらも、クロは”足の怪我を確認するよ”と言って少女の足を診る。どうやら挫いただけで骨に異常はなさそうだ。
「大丈夫。これなら直ぐに良くなる」
クロがそう言うと、少女もようやく安心したように”ありがと”と小さく礼を述べた。的当て屋の小人族に戸板と手投げナイフを勝手に使わせてもらったことを詫びると、何故か逆に手を取って大袈裟に感謝された。
その理由はすぐに納得のいくものとなる。先程クロが助けた少女が、片足を庇いながらこちらへ近付いて来る。礼ならもう良いのにと思っていたら、少女はクロに会釈をするとそのまま通り過ぎる。
「おとうさん!」
的当て屋の足にしがみ付いた少女は声を上げて泣いた。安心したことで堪えていたものが一気に緩んだのだろう。どうやら少女は彼の娘だったらしい。的当て屋も”仕事場には来ちゃダメだって言ってるだろ”と声を荒げながらも、屈んで少女を抱きしめると”無事で良かった”と目に涙を浮かべた。
「流石はチャンピオンだ」
「あの1投は最高だったぜ」
いつの間にか周りに戻って来ていた疎らな観客から、再びクロに賞賛の声が上がる。その声で我に返った的当て屋が是非お礼をさせて欲しいと詰め寄る。
「目録にある商品以外でも構わない。何かお礼できるものがあるなら遠慮しないで言ってください。どの道、旦那の腕前なら穴隙金貨を支払うのは目に見えてたんだ」
的当て屋は覚悟を決めたような表情で”命以外なら何でも持って行ってくれ!”と半分開き直ったように言い放つ。確かに少女が相手ならお礼は遠慮しておくが、的当て屋がその親だと分かれば話は別だ。あのまま3投目で止めても、小判金貨1枚はもらうことが出来たのだし。
「じゃあ、中古で良いので格安の馬車を手に入れることはできませんか?」
「馬車……ですか?」
馬車という選択肢が意外だったのか、それとも流石に金額が見合わないと言う意味なのか、的当て屋の小人族は不思議な声を上げたがすぐに笑みを浮かべる。
「わかりました。このピタン、こう見えても恩義には厚い男です。馬車の件はまかしてください!」
胸を張ってそう言うとピタンと名乗る小人族は手際良く後片付けを済ませ、周りで見世物をする者たちや裏で博打をしていた連中にひと声掛ける。どうやらピタンはこの辺りの元締め的な立場らしい。仲間に声を掛ける際に見せる毅然とした姿勢は、客前で見せた顔とはまったく別物で、それを聞く者たちの態度からも彼が慕われているのが見て取れる。
準備が整うとクロたちはピタンの案内で広場の西側へと向かった。
読んでくれてありがとうございます。
※用語※
・脚長鳥
・ピタン