38. 隷属魔法
ワインよりビールの方が好きです♪
門番には既に話が伝わっているらしく、名前を伝え”奴隷の取引の件で来た”と伝えると、クロたちはすぐに本館へと案内された。出迎えに現れたフィレオノは、相変わらず感動の欠片も感じさせない喋りで”お待ちしておりました”と屋敷の中へ3人を招き入れると、”こちらへどうぞ”とだけ言って奥の部屋へと進む。
建物の中は外観以上に広く複雑な作りになっており、何度か角を曲がり階段を上り下りしているうちに自分がどの辺にいるのか分からなくなった。案外これは防犯のためにわざと遠回りしているのではないかとクロが考えた矢先に、フィレオノが大きな扉の前で立ち止まり甲高い音を立ててノックを打ち鳴らした。
微かに”入れ”と聞こえた気がする。フィレオノは静かに扉を開けて戸口の脇に立つと”中へどうぞ”と部屋の中に手を向けて3人に進むように促す。
「ずいぶん早いお戻りでしたね。約束の時間まではまだ2時間近く残っているというのに────」
チョメスは満面の笑みでそう言うと3人に椅子を勧める。昼に会ったときとは別の濃い灰色の上着に上品な白色のシャツに身を包んでいる。
「それで、これほど早く戻られたのは、奴隷を買い受けられる準備が出来たということで宜しかったでしょうか?」
「はい。約束の白金貨1枚と大判金貨1枚に相当する金です」
クロはそう言って懐から取り出した布袋から、白金貨1枚と穴隙金貨5枚を出して見せる。
「素晴らしい。私の見立て通りでしたね」
「それで、約束の奴隷は────」
「ご心配はいりません。これでも私は約束事には誠実な男なのですよ。たしか……人間族の方は背の高い雄の……」
「はい。痩せこけて褐色の肌をしています。名前は”シン”です。確かスクービル・シン……何だったかな。いつもは”シン”とだけ呼んでるもので……」
「ほう。奴隷の身分で大層な名前ですね。元は没落貴族か何かですかな? なかなか興味深い奴隷ですな」
チョメスの言葉を聞いたクロは少し話し過ぎたかと後悔する。僅かな機微からクロの警戒心を悟ったのか、チョメスはそれ以上の詮索をすることなく”すぐに確認させましょう”とだけ言ってフィレオノを呼び付けた。
見付ける際に酷いことをされてなければ良いのだが。そんな心配を余所に、フィレオノは”畏まりました”とお辞儀をすると淡々と部屋を後にする。クロの心配が表情に現れていたのだろう。チョメスは”ご安心ください”と言ってわざとらしい笑顔を浮かべて見せ話を続ける。
「我々のことをただ悪戯に奴隷を苦しめる”変態”などと呼ぶ者もおりますが、それは浅墓と言うもの。飯の種である奴隷を戯言のついでに殺してしまっては、我々も飢えてしまいます」
クロたちはただ黙ってチョメスの言葉に聞き入る。
勢い付いたチョメスの話は留まるところを知らない。
「お望み通りの奴隷を、気持ち良くお持ち帰りいただくのが、この奴隷商チョメスの信条でございます」
血みどろになるまで奴隷を痛めつけている者の言葉とは思えないが、恐らく”苦しめはするが殺しはしない”という意味では本心からのものなのだろう。クロの中で一刻も早くシンをここから解放してやりたいという気持ちが一層と強くなった。
「別室で奴隷たちの体を洗浄し綺麗にさせております。お持ちの間こちらのお酒でもいかがでしょう?」
そう言いながらチョメスは、自らと3人の前にグラスを置き、高級な酒の封を切ると惜しげもなく並々と注ぎ入れる。グラスにたっぷりと注がれた赤紫色の酒は、貴族が好む房苺酒だ。房苺はとても繊細な果物で、その収穫は女性が素手で行うのが良いとされている。ところがその茎には細かな棘があり、収穫に駆り出される女性奴隷たちが血を滲ませながら収穫を行うことから、別名”血塗酒”などと呼ばれていた。
房苺は茎がより大きくうねり、より棘の鋭いものほど良い実を生らせると言われており、愛好家の間ではそうした棘の鋭い房苺の苗木は高値で取引されている。
「既に奴隷たちを買い受ける代金をお持ちなのは確認させて頂きました。こちらの部屋へお連れし次第、譲渡契約と主従契約を結び手続きは終了となります。さあ、まずは取引の成立を祝し乾杯と参ろうではありませんか」
そう言うとチョメスはグラスを高々と掲げる。取引が成立することはクロにとっても願ってもないことだ。クロがグラスを掲げると、ラケルドとバンガルも後に続く。クロの脳裏には集落での”誓約”が過る。まさか、また一気飲み地獄が始まるのか。
「乾杯!」
「プレ……プリ、ギエラァ」
クロは”誓約”と叫びかけて慌てて周囲に合わせ”乾杯”と叫び、誤魔化すようにグラスに口を着けて横目で周りの様子を窺う。最初こそ勢い良く飲みはしたが、集落での”誓約”とは違い誰もそのままグラスを空にする者はいないようだ。
安心したクロはようやく口にした房苺酒を味わう余裕を得た。房苺特有の酸味と同時に、口いっぱいに広がる芳醇な香ばしさは、どこか落ち葉を思わせる独特な芳香を持つ。僅かな渋みを残しつつ鼻から抜ける余韻は、まるでビンテージワインのようでもある。これは一気に飲むような類の酒ではない。
「何て深い味わいだ……」
口に出して言うつもりなどなかった。
気が付くとクロは再びグラスに口を着けていた。
「気に入っていただけたようですね。じつは北方に房苺酒用の農園を持っておりましてね。そこには収集家を唸らせるような立派な棘を持つ房苺がたくさんあるのですよ」
チョメスは自慢気にそう言うと、自らも嬉しそうにグラスを傾ける。房苺酒の愛好家の多くは自らの農園を持ち、そこで酒造に使われる選び抜かれた立派な棘を持つ房苺を生産する。そうした愛好家にとって、自らの農園で採れた房苺で造られた酒を褒められるのは、最高の喜びと言えた。
2杯目の房苺酒をチョメスが注ごうとしたとき、部屋の扉をノック音が聞こえ”お連れしました”とフィレオノの声がする。
「入れ」
チョメスの言葉でフィレオノが静かに扉を開けると、全身鎧を身に着けた屈強な2人の護衛の姿が目に入る。その間から真っ白なローブを身に纏った、長い黒髪に金色の瞳の少女が心細い歩みで部屋へと入ってきた。屍食族の少女だ。その白くか細い手首には、仄かに青白く発光する手枷が付けられたままだ。
クロはこの少女にどうしても聞きたいことがあった。きっとシンだけなら大判金貨1枚にも満たなかったに違いない。だが、本当の話を聞き出すには、どうしても買い受ける必要があった。
「屍食族の雌奴隷をお連れ致しました」
そう言ってフィレオノが深々と頭を下げると、屍食族の少女は不本意さを滲ませながらも同じように頭を下げる。”何分まだ調教が行き届いていないもので────”とチョメスが屍食族の少女の態度の悪さを弁明する。
「人間族の方はどうした?」
「はい。つい先程から洗浄作業に入ったところでございます」
チョメスの問い掛けに応えるフィレオノの言葉で、クロはホッと胸を撫で下ろす。
「では、まず先に雌奴隷の譲渡契約と主従契約の手続きを済ませましょう」
そう言うとチョメスは屍食族の少女を呼び寄せる。少女は遠目からでも微かに震えているのが見て取れる。後ろから護衛に早く進むようにと突かれると、少女はおずおずと歩様を早めチョメスに近寄る。
「何て顔をしてるんだ。今日はお前が新しいご主人様が迎えられる特別な日だと言うのに────」
そう言ってチョメスが頬に手を伸ばそうとすると、屍食族の少女は目を固く閉じて背中を跳ね上げる。
「そんなに怯えることはない。手続きはすぐに終わる。大人しくしていれば痛い目を見ることなどないのだからね」
そう言ってグラスをテーブルに置くと、チョメスは少女の横を通り過ぎクロの方へと向かう。チョメスを追っていた少女の怯えた視線が、やがてクロへと向けられる。恐らく”痛い目”とは死なない程度の苦痛を意味するものだろう。淡々と語られるその言葉には、どこか底知れぬ恐ろしさが感じられる。
「失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
正直、今更と思ったが手続きで必要になるのだろう。”クロです”と告げるとチョメスは満足気に笑みを浮かべ”クロ殿ですね”と繰り返し、懐から細く小さな筒のような物を取り出した。そしてクロの左手を取ると”少しチクリとしますよ”と言って、クロの人差し指を筒に差し込んだ。
カチッ。微かな音と共に縫い針を刺したような鋭い痛みが指先に走る。咄嗟に手を引きそうになるが、チョメスにしっかりと抱え込まれ”すぐに終わります”と告げられ力を抜いた。言葉通りにすぐに手を離したチョメスはその筒を手にして、今度は屍食族の少女の元へと歩み寄る。
「準備は良いかい?」
怪しい笑みを浮かべながら少女に問い掛けるが、チョメスは彼女の答えを待たずに怪しい呪文を唱え始めた。紫色に輝く二重の魔法陣が、チョメスと屍食族の少女の足元に浮かび上がる。魔法陣はチョメスの呪文の速度に反応するように、それぞれ時計回りと反時計回りに機械的な動きを見せる。やがてチョメスは手にした細い筒から真っ赤な液体を指で掬い、少女の額に何かを描く。それは記号のようにも見え、知らない文字のようでもある。
「汝、クロを新たな主人とし、その命に絶対の服従を誓う者。血の盟約をその命に刻むべし『隷属魔法』」
その言葉と共に少女の額にクロの血で描かれた文字が、彼女の中に吸い込まれるように音もなく消え去った。少女が気を失ったように膝から崩れ落ちるのをチョメスが両手で支えると、すぐさま全身鎧の護衛たちが駆け寄り手助けする。ゆっくりと床に横にされた少女の顔はとても安らかで、息をしているのかが心配になるほどだ。
「数分もすれば目が覚めます。その瞬間からクロ殿が新たな主人となります。奴隷にとって貴方の”命令”は絶対です。存分にお楽しみください」
そう言って怪しい笑みを浮かべると、チョメスはひと仕事を終えたとばかりに、テーブルの上のグラスを手にして房苺酒を呷り”本来であればこの手続きだけで、小判金貨1枚の価値があるのですよ?”と恩着せがましく呟く。
チョメスの口元を潤す赤色がまるで本物の血のように見えた。
読んでくれてありがとうございます。
※用語※
・房苺酒
・血塗酒
・乾杯
・隷属魔法
・命令