35. 隠伏
カナダでは体重2トンにも及ぶヘラジカと車による衝突事故が頻繁にあるそうです……
土と岩が合わせ固まったような迷路を、先行した狩人たちがどんどん先へと進む。クロたちはバンガルを先頭に、右手でで壁を伝いながら魔物と罠を警戒しながら慎重に歩みを進める。バンガルの話ではこの迷路は”土属性魔法”で作られたものらしく、腕利きの魔法使いが10人掛かりで作り出したものらしい。魔法というのは本当に凄まじいものだ。
迷路の中からは観客席は見えず、観客たちの歓声が聞こえたのは開始時のみだった。遠くで叫び声が聞こえた気がする。どこかの狩人が魔物に遭遇したのか、それとも罠に掛かったのだろうか。高い壁が音を遮り微かな物音程度にしか聞こえないのが、不気味さを増長させている。
暫く進んだところでバンガルが立ち止まった。通路の先にある曲がり角から1匹の毒々しい模様の大蜘蛛が姿を現す。縞蜘蛛だ。縞蜘蛛はこちらに気付くとクルリと回れ右をして尻を突き出す。
「クロさん、糸を跳ばしてくるぞ!」
バンガルの声とほぼ同時に縞蜘蛛の尻から跳び出した糸は、バンガルのすぐ横を抜けて壁にぶつかりネットリと付着した。それは糸というよりは鳥黐と呼んだ方がしっくりくる代物だ。クロは狙いを定めさせないように素早く左右に動き、次の糸が噴出される前に縞蜘蛛の胴体に短剣を突き立て、念入りにそのまま2つに斬り裂いた。
緑色の血をまき散らし、一瞬で絶命した縞蜘蛛の脚だけがピクピクと不気味に動く。バンガルが倒した縞蜘蛛の死体に歩み寄り、手際良く死骸を解体すると中から緑色の血で濡れる小石のようなものを取り出した。
「クロさん、コイツは当たりだ」
そう言いながらバンガルが手にした小さな欠片をクロへと差し出す。魔晶片だ。魔物の体内で結晶化した魔力が凝固した欠片で、魔力を必要とする道具の材料や、精製して燃料としても使われる。そのため各ギルドや魔法具屋、ときには領主などが相場よりいくらか高値で買い取りをしている場合もあり、硬貨や財宝などと同様に公庫院に預けることも出来る。
魔物から取り出した魔晶片はそれを倒した者が権利を有する。この迷路内で手に入れた魔晶片もその例外ではない。ただし、迷宮で現れる魔物の何割かは魔法により召喚された使い魔らしく、それらは体内に魔晶片を持たないらしい。バンガルが”当たり”と言ったのはそのためだ。
「こんな小さな魔晶片も、たくさん集まれば何かの足しになるはずさ」
初めて目にする魔晶片は、不思議な輝きを放つ宝石の原石のようにも見える。クロはそれを大切に雑嚢鞄に仕舞い込んだ。
バンガルの話では魔物は皆その体内に魔晶片を宿しており、その大きさや濃度にはかなりの個体差があるらしい。一般的にはより大きく、色の濃い物ほど価値が高いとされている。今取り出した魔晶片は小さく薄っすらと黄色味がかった透明なので、恐らく価値は高くはないのだろうが、バンガルの言う通りたくさん集めれば良いことだ。
ナイフに付着した緑色の液体を拭うと、バンガルは右手でで壁を伝いながら更に迷路を進む。彼の慣れた動きは蜥蜴人種の狩猟班としての経験則によるものだ。彼の話しによればこういった経験は獲物を仕留めに狩りに出掛ける際よりも、冒険者ギルドへ出稼ぎに出た際に受ける依頼によるものが多いのだそうだ。
この迷路のような場所も何度か経験したことがあり、バンガルも初めの頃は経験豊富な年配の蜥蜴人種にいろいろ教えてもらったらしい。彼に言わせると罠が仕掛けられている場所というのは”妙な気配”を感じるものなのだそうだ。”妙な気配”とは”違和感”。即ちそこにある僅かな”不自然さ”を、意識せずに感じ取っているということだろう。
少年時代に山で様々な訓練を積んだクロだからこそ、バンガルの言うことは何となく理解できるが、普通の者には理解し難いことだろう。バンガルは一流の狩人であり、卓越した技術と膂力を持つ戦士だ。だが、人にそれを教えるのが下手だし、それは本人も自覚していた。
「クロさん、この先の床は何かありそうだ」
そう言ってバンガルが短剣の鞘を放り投げると、床から突然網が現れ側面の壁に吸い込まれて行く。魔法による罠らしい。自然の中に仕込まれた罠とは勝手が違い、バンガルにすらそれを見極めるのは容易ではないらしい。クロも少しでも見極められるようになるために、次からは罠があったときにはバンガルに知らせてもらいじっくりと観察した後に、クロが罠の解除に取り組むようにした。
あっと言う間に、開始から1時間が過ぎ去ろうとしていた。慎重にクロとバンガルが迷路を進む中、狩人たちの何名かは既に黄金鹿に遭遇していた。だが、大きな体に似つかわしくない俊敏な動きと、無尽蔵と感じさせる持久力で、瞬く間に狩人たちの眼前から姿を消し去ってしまう。未だに誰1人その影を踏むことすら許されてはいなかった。
黄金鹿の黄金色の角や鬣は、素材としても高値で取引される。その存在を知らない者が自然界で出くわせば、その威風堂々とした姿は魔物と言うよりも、霊獣や神獣の類と勘違いするかも知れない。現に一部の山岳地帯では、土着信仰の対象とされているようだ。
「この先に”森”がある。この通りで待ち伏せしよう」
バンガルの提案で2人は迷路内に作られた”森”の手前の通路で、それぞれ距離を取って黄金鹿を待ち伏せをする。
物音を立てずに周囲に同化しながらも神経を張り巡らせる。こうしていると少年時代にラスと一緒に冬山に籠ったことを思い出す。1ヵ月くらい雪山で過ごしていると、不思議に自分と自然が繋がったような感覚を覚える瞬間がある。
獲物を待ち伏せて雪の中に身を潜めているうちに、精神が完全に”凪”となり、やがて空気の冷たさすら感じなくなる。暫くすると不意に自らが雪の大地と一体化し、そこから揮発するように大気中に溶け出した精神が空を漂い、獲物を待つ自らを中空から見下ろすという不思議な光景を目にした。初めてその体験をしたときは、寒さのあまり気付かないうちに凍死したのかと焦った。だが、何度目かにその状態で近くを通る兎を見付けて仕留めたとき、それが自らの精神状態が作り出した超現象なのだと悟った。
サバイバルにおいて”察知”と同等に必要とされるのが”隠伏”の能力だ。クロが雪山で身に着けた能力はその2つを併せ持つようなものと言えた。
クロは今まさにその状態にあった。何度か地を這う縞蜘蛛の気配を感じ取ったが、他の狩人が近付くこともなく時間だけが過ぎ去っていく。まさかこのまま待ち伏せをしているうちに、他の狩人があっさりと黄金鹿の角を仕留めてしまうことはないのだろうか。一抹の不安が過る。
通りの向こうに潜むバンガルの気配も、今のクロにとっては監視カメラの映像を見るかのように鮮明なものだ。バンガルは懐から何かを取り出しすと、それを口に放り込み音を立てないように咀嚼する。携帯していた木の実だろうか。じつはクロも飢餓状態と言っても良いほどの、酷い空腹感に襲われ続けていた。不思議なことに豚面人種となってからと言うもの、クロの食欲は満たされることがない。満腹になったはずなのに、間もなく言いようのない空腹感を覚えるのだ。
クロは雑嚢鞄から干し肉の欠片を取り出して口に加えた。塩虫で味付けした大王サンショウウオの干し肉だ。野趣溢れる鶏肉と魚肉の中間のような旨味が口に広がると、この世界に辿り着いたばかりの頃の厳しいサバイバル生活を思い出す。
やがて干し肉が口の中から無くなりかけた頃、反対の通りから大きな四足獣が近付く気配を感じた。体格の割に動きが早い。黄金鹿か。クロは意識を視力に呼び戻し、手にした短剣を握りなおす。
角から勢い良く飛び出した黄金鹿は、歩様を落ち着かせてゆっくりと”森”へ進む。そして、2度3度と前脚で地面を掻くと再び駆け出した。タイミング良くバンガルが進路を阻むように跳び出すと、驚いた黄金鹿は鳴き声を上げて後脚で立ち上がる。それに合わせてクロが退路を塞ぐ。狩りの準備は整った。
背後に現れたクロの姿を目にすると、黄金鹿は意を決したように立派な枝角を突き出してバンガルを目掛けて突進した。普通ならかわすところだが、そのまま走り去って逃げられては待ち伏せした意味がない。バンガルは黄金鹿が自ら壁面に激突するように、小さな短剣でその突進を横に受け流す。僅かに掠ったバンガルの横腹に血が滲む。あの突進は危険だ。クロは瞬時に距離を詰めると、背後から黄金鹿の背中に跳び付いた。
暴れ馬を乗りこなすロディオのように、クロの跳ね上がる黄金鹿の角に掴まりながら背の上でバランスを取る。そのままクロは口に加えた短剣を右手に持ち替え、黄金色の角を目掛けて柄頭を振り下ろす。黄金鹿は悲鳴にも似た鳴き声を上げると、一層と激しく暴れる。跳ね落とすのを不可能と考えた黄金鹿は、高く跳び上がりそのまま背中に乗るクロを下敷きにするように背中を地面へと叩きつけた。
「クロさん!」
バンガルの叫び声に答えはなく、黄金鹿もクロも倒れたまま動かない。最悪の事態がバンガルの脳裏を過ったその時、ゆっくりとバンガルに応える右手が上がる。
「バンガルさん……コイツをどかすの手伝ってください。足が挟まってて……」
すぐに駆け寄ったバンガルが黄金鹿の下に肩を入れるように持ち上げると、左足を引きずるようにしてクロが這い出した。クロの右手にあった短剣は黄金鹿の延髄に根元まで深く刺さり、その一撃で黄金鹿は既に絶命しているようだった。
それは背中で下敷きにしようと黄金鹿が覆いかぶさった際に、クロが仕向けたものだった。もっともそのために逃げ遅れて左足を痛めることになったのだが、待ちに待った獲物を仕留めた喜びが足の痛みを取るにたりないものに感じさせていた。
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※用語※
・魔晶片