3. 2週間
いよいよ本編に入ります。
前置きが長くてごめんなさい♪
指先に触る奇妙な感触で深い眠りから目覚めた。
あれからどれくらい経ったのだろう。喉の粘膜が張りついて、呼吸が苦しくなるほどに渇ききっていた。陽は既に高い位置まで上りジリジリと照り付けている。気を失ったオレは、いつの間にかそのまま眠ってしまったようだ。ここが木陰じゃなかったら、怪物から逃げ果せたのに脱水症状で命を落としていたかも知れない。
ふと見ると奇妙な感触のあった右手の傍らに、真っ白な体毛と対照的な真っ黒い顔が印象的な小動物の姿があった。フワフワした白い体が耳の短いウサギのようでもあり、手足の感じや長い尻尾は子猿のようにも見える。不思議な小動物は小首を傾げて『キキッ』と小さな鳴き声を上げると、チロチロと長い舌でオレの指先を舐めた。どうやらコイツが起こしてくれたらしい。
ゆっくり立ち上がると体中に痛みが走り、頭の奥には微かな鈍痛が残っていた。この程度なら我慢できる。それより今は水が先だ。この渇きは尋常じゃない。小動物に別れを告げると、オレは水と助けを求めて林の中をさまよい歩いた。
ひたすら歩き続け、半ば諦めかけていたときだ。
頭上で聞き覚えのある鳴き声がした。
見上げるとそこにはさっきの真っ白な小動物の姿があった。それはスルスルと器用にオレの目線の高さにある枝まで降りてくると、オレが目で追える程度の速さで木から木へと飛び移りながら先へと進む。そして、少し先の枝の上で立ち止まって振り返ると、再び”付いて来い”と言わんばかりに『キキッ』と鳴き声を上げた。
馬鹿げているとは思いながらも、オレはその妄想にすがった。緑を掻き分けて子猿の後をしばらく進むと、生い茂る植物の奥から聞き覚えのある音が響いてくる。この音は。オレは最後の力を振り絞り、行く手を阻む深い緑をかき分け先へと急いだ。
背丈の高い草木を抜けるとその先に待っていたのは、手付かずの自然の中で人知れず岩場を伝い落ちる清水の流れと、流れの先で陽の光を浴びて眩い輝きを放つ渓流だ。
見た目にはかなり透明度の高い綺麗な水だが、見ず知らずの地で川の水をそのまま口にするのが危険なことなど、ラスとのアウトドア教室で嫌というほど体験していた。だが、今はそんなことはどうでも良い。オレは駆け出してそのままやや深い川へ飛び込むと、失った水分を全身から取り込むかのように流れる水を貪った。
人心地ついて天を見上げる。
目を閉じても感じ取れるほどの強い陽の光が心地よい。
とりあえずオレは生き永らえた。
水に膝丈まで漬かったまま、改めて辺りを見回してみる。見知らぬ草木に囲まれた見知らぬ場所。強い陽の光。野生に生息する動植物についても、アウトドア教室でみっちりと学ばされた。落ち着いて口にすると足元を流れる川の水すらも、自分が知る水の味と少し違っていることに気付く。まるで地球の反対側のジャングルの中に、1人だけ瞬間移動したかのような感覚に陥る。
「日本じゃないのか……」
呟いた言葉も小魚の群れと一緒に川の流れに消えていく。岩場に上がって休憩しようとしたそのとき、近くの木の上からけたたましい鳴き声が響いた。あの真っ白な小動物だ。だが、その鳴き声はこれまでのような優しげなものではない。これは仲間に危険を知らせる際の警戒音だろうか。
気配を感じて振り向くと、川の中を蛇行しながら迫る1メートルほどの影が見えた。何だあれは。まずい。咄嗟に近くにあった大きな岩に飛び乗ると、脹脛を掠めるように茶色い塊が大口を開けて水中から飛び跳ねた。
明らかにオレを狙っていた。一瞬ではあったが、ぬらぬらと怪しく光る茶色の肌で、ぼってりとした胴体に短い四肢と長い尾ヒレのような尻尾があるのが見えた。
水中に飛び込んだそれは水中を急旋回して再びこちらへ向かって来る。そして、2メートルほど離れた場所で水面から顔だけ出すと、こちらの様子を窺うように『シャー』と威嚇音のような鳴き声を上げた。
大山椒魚のようでもあるが、背中に見える小さなヒレが別の生物であることを物語っていた。尖った頭部にはうろこ状の模様があり、顎まで大きく開いた口にはびっしりと細かな牙が並んでいる。
背ビレがあるということは両生類ではないはずだ。
前脚には小さな鍵爪と発達したヒレが見える。
長く大きな尾ヒレのような尻尾が水中での活動に特化していることを物語る。日本の淡水にこんな生物はいない。オレは外国まで連れて来られたのか。それにしてもアレはいったい何だ。水辺に生息する爬虫類の一種だろうか。海に潜るウミイグアナという生物をネットで見掛けたことがあるが、それともまったく違う。僅かな時間にいろいろなことが頭の中で駆け巡る。
次の刹那、背後の水面が盛り上がり、謎の爬虫類は瞬く間にそれに飲み込まれた。代わりにそこに姿を現したのは、謎の爬虫類によく似た真っ黒な生物だ。ただ、体長は3倍以上。大口の中にびっしりと並んだ牙も鋭い鍵爪も、飲み込まれた謎の爬虫類が可愛らしく見えるほどの禍々しさだ。
化物は2度3度と食後の余韻に浸るかのように、青緑色の長い舌で口の周りを舐めまわした。その後に、赤黒く濁った瞳でその場に硬直するオレを一瞥する。武器は何もない。足場も最悪だ。だが、負ければ確実に殺られる。緊張したオレをあざ笑うかのように、化物はゆっくりと振り返り悠々と水中へと姿を消した。
こんな自然遺産に登録されていてもおかしくないような、大自然の絶景の中にあんな恐ろしい化物が隠れているなど誰が想像できるだろうか。
オレは急いで下流へと逃げた。これだけ離れれば大丈夫だろう。
流れの穏やかな岸辺で水を掬って顔に掛ける。流石にさっきの化物には焦った。無事に岸まで辿りつけたのは奇跡だ。出会ったのが食事の直後だったのが幸いした。水滴を拭い払おうとしたとき、掌に感じた違和感で動きが止まった。
顔が異様な形に腫れ上がっている。
寝ているうちに虫にでも刺されたのだろうか。
慌てて水面を覗き込むが、流れに邪魔されて良く見えない。
岸に近い水溜まりを覗き込むと、オレはそこに映った姿に絶句した。
「え?」
“お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ” そんな言葉がオレの脳裏を掠めた。言葉の意味はよくわからないが、そこに映る“怪物”とニーチェの言葉が重なったのだろう。
顔全体に薄らと毛が生え、皺の寄った眉間から前方に突き出した鼻の先端は潰れ、鼻穴だけがやたらと目立つ。しっかりとした下顎からは僅かに牙が覗き、大きな耳の先が折れ曲がっている。まるで豚じゃないか。髪型とやや離れた黒目がちな瞳に僅かにオレの面影を残しつつも、そこに映っていたのは豚面の怪物そのものだった。
「何だよこれ!?」
虫刺されなどと言うレベルの話ではない。オレはいつのまにかあの洞窟で見た、豚面の怪物と同じ姿になっていた。今この瞬間まで自分の姿に気付かなかったことに呆れ笑いが込み上げ、その後に勝手に涙が溢れ出た。
何でオレが怪物に。夢か。そうだ。これは夢だ。必死に現実を逃避しようとするが、滴る水も歪んだ頬を伝う涙もあまりにもリアルだ。何でこんなことに。何でこんな場所に。何でオレが怪物に。何で。頭の中は無数の”何で”に埋め尽くされていた。
もう終わりだ。こんな怪物に戻る場所などない。
こんな姿になったオレに生き続ける意味などない。
何度か死ぬことも考えたが、結局オレは生き長らえた。それから数日は思春期にも感じたことのない、深い悩みに心が押し潰されそうになったが、それを過ぎると持って生まれたいい加減な性格と、ラスに教わったサバイバル知識がオレに死ぬことを諦めさせていた。
山奥で特別な道具も無しに火を熾す。それは何となく聞きかじった知識と、実践で繰り返し使われた技術が雲泥の差であることを示す尺度となる。木と木を擦り合わせ火を熾す。何かで見たことのある光景。だが、実際にはこのような環境で未経験者が道具も無しに火を熾すのは不可能に近い。
オレが生きていられたのは、それらの技術のお陰だけではない。ここで最初に出会った真っ白な小動物の存在も大きかった。真っ白な小動物はなぜかその後もオレの傍から離れようとしなかった。いつまでも“お前”と呼ぶのも何なので、勝手に“シロ”と名付ける。不思議なもので名前を付けると更に愛着が湧いてくる。会話は出来なくてもシロが近くにいることで孤独感が紛れた。
シロは夜になってもオレが枝と葉っぱで作った住処の上で寝ていた。ひょっとするとコイツも帰る場所がないのだろうか。会話は出来なくても近くにシロがいることで孤独感が紛れた。孤独を紛らわすだけでなく、シロはたびたびオレを助けてくれた。
ここでのオレの主食は木の実と魚と山菜だ。
シロにならって木の実を採ってみる。あまり細い木や高過ぎる場所は無理だが、豚面の怪物になっても人間のときと変わらず木のぼりは得意だった。身体能力はむしろ人間だった頃より格段に高くなっているように感じる。
ただ、やたらと腹が減る。成人男性に必要な1日のカロリーの目安は1800から2000キロカロリーと言われている。ファストフード店のセットメニューなら1食で確保できるカロリー数だ。ここでの食生活がいたってヘルシーなせいか、朝の目覚めはここ最近に感じたことのない爽快なものだ。怪物になったことで自然治癒力や免疫力もアップしているのだろうか。体中の痛みもあっと言う間に治った。
見付けた木の実はどれも見たことのないものばかりだ。
小さなシロが口にして平気なのを見て思いきって頬張ってみる。
うわぁ。しまった。
こんなに美味い果物だったなんて。
躊躇などせずにすぐに食べるべきだった。
中でも野球のボール程度の大きさの、やや赤み掛かった橙色の果実は絶品だった。半分に割ると中には大きな種が数個入っており、乳白色の果肉はマンゴーのような濃厚な旨味にリンゴのようなサクサクとした食感。それでいて噛めば果汁が溢れ出てくるという抜群の美味さだ。これならいくらでも食える。オレはこの果物に“オレンジボール”と名付けた。
オレンジボールの木は地味な見た目で特徴が少なく見付けにくい。そのうえ果実は木の高い位置にしか実らないようだった。更に木の大きさの割に葉っぱが大きく、せっかく実った果実を遮って隠してしまうのが難点だ。だが、何度かオレンジボールの木を見付けているうちに、オレはある共通点に気付いた。
木の付近には決まって同じ花が咲いている。薄紫色の可憐な花弁に不釣り合いな、立派な雌しべを持つこの花が付近に群生しているのだ。恐らくオレンジボールとこの花は同じ生育環境を好むのだろう。オレはこの花を“デカ雌しべ”と名付けた。
渓流の流れが穏やかな場所に仕掛けた魚用の罠の成果は抜群だった。
この辺りでこの罠を使って採れる魚の種類は5種類ほどだったが、中でも鰻のような見た目をした魚は脂がのっていて美味かった。石で釜戸を作って火をおこすのは朝飯前だ。腹を開いて内臓を取り、串に刺して炙り焼きにする。コイツを食っていると必ずかば焼きのタレと白米が恋しくなった。
中には少し骨っぽい魚もいるが、ほとんどが川魚にしては癖も少なく美味い。塩がないのがじつに惜しいが、このままでも十分に美味い。シロが物欲しそうに見ていたので、少し分けてやると美味しそうに食べていた。どうやらコイツは雑食のようだ。
上流での作業では常に“大王サンショウウオ”を警戒しなければならない。大王サンショウウオとは、初日にオレを襲った謎の爬虫類をひと飲みにした化物のことだ。見張りとして近くの木の上にシロを待機させながら、細心の注意を払って行った。
そんな日々を過ごすうちに、オレの住処の柱には石で作ったナイフによる傷が14本並んでいた。それは見知らぬ地でのサバイバル生活が既に2週間経過したのを意味していた。
読んでくれてありがとうございました。