自分なりの詩の書き方。
あくまで個人的な詩の書き方であって、参考程度にしてください。
また、後に改定するかもしれませんので、ご了承ください。
突然こういう詩の書き方みたいなのををまとめたい、と思ったので、このように駄文をつらつらとつづっていこうと思います。
まず詩とは何か、という議論から入りそうなのですが、個人的には面倒くさいのでカットします。なぜかというと、僕の場合自体はそこまで深く考えていないからです。どちらかというと言葉遊びの延長線上にあると思って、書きたいときに書いているからです。じゃあまずどのようにしてああいった形式になったの、という質問には答えられそうなので、答えようと思います。
僕の書く詩の場合、四行で一区切り、という感じで書いています。昔(もう四年以上ですか長いですね)、にじファンという二次創作サイトが無くなって、でも小説みたいなの書きたいなあ、と思っていた時に、ボカロを聞きまくってたんですね。その時のボカロ曲の歌詞の意味不明さがなぜかは知らないんですけど、かっこいいと思ってじゃあ短いし短時間で書けるんじゃない? と思って詩としての処女作である「エスケープガール」を書きました(「心臓と血、方位磁石」が一番の作品じゃないの、と思われる方がいるかもしれませんが、あれは個人的には別カテゴリーとして考えています。それにああいった形式のものはもう書く気がないので)。そのときに真似したのが、数行で一回区切る、みたいなのをピアプロやらwikiやらを見て見よう見真似でやってみたのが、ずるずると今日まで続いたまでです。でもリズム的にもこれが個人としてはいいんじゃないかな、と思って書いています。散文詩ならどこで区切るとかの形式上の話は、個人個人で探った方がいいのではないでしょうか。すっと詩を書けるときにちょうど良い感じにはまる、ということはかなり重要なことだと思います。
次に内容面に関しては、基本特に考えてはいません。いませんが、なんか良い言葉だと思ったらさらっと書くみたいなことはしています。例えば、ここ一、二年ぐらいはまとめて書いていますが、その時は詩のタイトルを先に全部決めちゃって、そこからすんなりと書ければ良い感じではないでしょうか。ただし、ここは臨機応変で行かなければならないところでもあると思います。先にタイトルを決めても内容が書けない場合なんてしょっちゅうですから、その時はああ、まだ何かいろいろいろんな方面で足りないのか、と思ってその詩を書くことを止めちゃいます。ただこのときその詩についてぶっちぎるのではなく、何を書きたかったかを感じ取れれば、その詩を書くときに使った無駄になってしまうエネルギーを少しでも役に立てます。
すんなり、というところを疑問視される人がいるかと思いますが、僕の場合は感覚で書いちゃっています。あとはその時の気分。これじゃあ説明になっていないじゃないか、と思われるでしょうが、ですが、まず感覚です。感覚で書いてみて、こういう方針かな、と思ったらそこをまとめ直して詩という形式にしています。自分が本当に何を書きたいのかを知るということは大事です。ただ最初のころは上手く書けないでしょうし、僕自身も上手く書けなかったので、その辺は大丈夫です。慣れです。ただ、書く気力とかいろいろ無いときに無理やり書くと(多分そういう時に書くことはないでしょうが)自分にとっても納得しない作品ばっかり生まれるし、無駄に疲れるので止めましょう。
このようにずっと駄文を冒頭でも言った通り、長ったらしく書きましたが、最後に言いたいことは好きに書けばいいんじゃないかな、と思っています。結局たとえ詩の偉い人も含めた他人から与えられたものが自分に合うことはそうそう起きるわけではないのですから。確かに最初は模倣は多くの偉い人もおっしゃる通り、大事なことですが、そこから自分なりにすんなりと行ける方法を探さない限り、自分も自分の心も鎖で繋がれたまま、どこにも行けなくなりますから。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
追記(後日改めて思ったことをつらつらと加えていきます)
書こうと思って書き忘れたのですが、詩、というよりかは創作物全般に関して、いやもっと広く言えるのかもしれませんが、作品に対して完璧を求めないことは大事です。結局のところ、言葉という不完全ならでのその変化性は人に一つだけのことを表現することが不可能だからです。もし言葉で全てがわかるのならば、僕はこんなにたくさんの詩を書きはしないでしょうし、これを読んでいるあなたもそうなのではないでしょうか? どちらかと言えば、様々な解釈が出来る場合も多くあります。言葉によって生まれ出る幽玄さ、儚さ、妖しさなどあやふやなものほど惹かれるものは無いのです。例えば、空想してそれが面白かったとき、言葉にしてみると急に面白くなくなったりしないでしょうか。ここで言葉を使ったことによってつまらなさが出てしまったようなものになってしまいましたが、言葉で現実全てを表すことは非常に困難なものであり、言葉と現実とを比べて見ますとやはり言葉はあやふやなものであるからこそ、私たちは惹かれるのではないでしょうか。
人はその言葉を使って自分を様々な枠組みやフィルターを通して伝えようとします。それはやはり、自分というものを完全にはわからない、ということを意識下であれ無意識下であれ思っているのです。それをなんとかして形にしようとする動きこそが自分から出た本物の言葉であり、それが本来の自分の一部である。他から拾っただけの継ぎ接ぎの言葉の集合体では意味がないのです。自分から引き出された言葉が現実味を帯びつつも、あやふやさを演じ、自分を映す鏡となる。それをどう生かすかはわかりませんが、それが(特に根拠もないですが)素晴らしいものだと、僕は思っています。
更に追記。
詩を書くとき、基本読者のことは考えていません。基本自分勝手に書いています。でも読むうえでこうしたら面白そうかなあ、とか考えて書いています。たとえばFade/Existはクリスマスツリーにしようと思って書いていたりしてました(読み返してみると英語が滅茶苦茶ですね)。あとは漢字ばっかにしたりと。言葉の意味だけではなくて、形からはいることも面白いと思いますよ。
ずっとどっかでまとめたいなあ、と思ったのですが、今日思い切って書きました。エッセイやらこういったものの書き方はよく分からないのと、書いた目的の半分は自分が見直してみる時用にも書いたので、このような形になってしまいましたが、何か指摘したい場合、わからない場合は感想欄かメッセージでよろしくお願いします。