1話 数字の光景
「それで、先輩。今度はどんな無茶をするのですか。秘書としては心の準備が必要なので、事前に情報の共有をお願いします」
私はなるべく声を抑えてリカルドに話しかけた。廊下の先には図書館のドアがある。図書館なら問題ないが、今日の目的地は館長室の、そのさらに先なのだ。
「人聞きが悪いぞ。それに、今回はちゃんと堅実にやるから大丈夫だ」
「これから行く先は?」
「館長は『魔術寮』っていってたな、ちょうど学院と王宮の中間くらいらしいぞ」
「本格的に魔術に手を出すつもりですか。どうやったら堅実になるのか、私には想像も付きません」
「……大丈夫だって。ミーアがいれば百人力だから」
リカルドの言葉に、一瞬心臓がはねる。だが、
「私はどうやったら堅実に進むのかを聞いてます。先輩の答えは、今からやろうとしていることが可能だということしか言ってません。しかも根拠が無いです」
何をやろうとしているのか分からないが、やってしまうのだろうという予感はある。西方での魔獣氾濫を予測し、紹賢祭では誰も寄りつかないはずの中庭を祭りの中心にし、騎士団を壊滅させたドラゴンを封殺してしまったのだ。
そして、また完全に畑違いのことに手を出すつもりらしい。それに対して私は……。
「魔術のことならアルフィーナ様をお連れになられた方が良いのでは」
あえてそんな聞き方をしてしまう。王女殿下をそう簡単に連れ出せるはずが無い。いや、リカルドが求めればアルフィーナは何を置いても駆けつける気がするが、それは置いておこう。今大事なのは、自分に求められている役割を把握することだ。
ただでさえどこにとんでいくのか分からないのだ。この前はちょっと油断してたら戦場にまでついて行った。自分の行動がどれだけ私の心臓に悪いのか、分かって欲しい。
「いや、館長に聞いた限りじゃ、魔術もちゃんと数学的根拠を持ってるみたいだし。ミーアの才能が頼りだから。ほら、俺はあんまり数学得意じゃ無いからさ」
「バカじゃないの!」思わず心の中でリルカの言葉が再生された。リカルドが数学が苦手ならこの世界に数学が得意な人間などいない。確かに、教えられたことに関しては私はリカルドをしのぐと思う。だが、持っている概念の数と質が異常なのだ。
このことに関しては私ほどそれを理解している人間はいない。大賢者と呼ばれる老人だって、私ほどリカルドのヤバさを知らないだろう。
だからこそ分かる、今のはリカルドが私には理解出来ない何かと比べたのだ。そもそも、王国の人間なら普通は数術という言葉を使う。
「神は数学者だって話があるくらいだぞ」
リカルドが私によく言う軽口だ。そして、何度聞いてもどきっとする言葉。私の感覚そのものだ。
私は数が好きだ。その感覚は物心ついた時からあった。そして、世界で初めてそれを見つけてくれたのがリカルドだ。
あれは六年前のこと……。
◇◇
「君が司祭様の言う数学、、、数術が得意な子だね」
村にある聖堂とは名ばかりの小さな建物の納屋で、私は男の子に話しかけられた。
誰かは知っていた。時々村に来る一つか二つ年上の子だ。子供のくせに村長と対等に渡り合う異常性を私は恐れていた。私とは違うけど、もうちょっと隠さないと危ないと思うのだ。
ちなみに、司祭様というのは私達村の孤児の養い親。ナイランという良く分からない物で都から村に追放された司祭様は、私たちに読み書きと計算を教えてくれた。皆はなんとか読みくらいは頑張っていた。だが、私は数術に夢中になった。
両親のいない私の心を引きつけた現実ではない、現実なんかよりもずっと綺麗な世界だった。だけど、誰も私のその感覚を理解してくれない。孤児の皆も、数はただめんどくさい、計算なんてややこしいと思っている。その先に、すごい世界が広がっているのに。
「そんなたいしたことはありません」
私はなるべく素っ気なく答えた。どうせ理解出来ない。司祭様だって私の見ている世界は理解出来ないんだから。
「そうかな、じゃあ一つ数の問題を出しても良いかい?」
問題と言う言葉に心は沸き立った。商人というのは村の人間よりも遙かに沢山の数字を扱うことは知っていた。私にとっては少しねたましい存在だ。その子供である年の変わらない少年が、どんな問題を出すのか。私は思わずうなずいた。
ちょっとだけ、やり込めてやろうという気持ちもあった。
「じゃあ、はい」
88898888888888888888898888888888888988888888888……
少年は私の目の前にぱっと板を出した。あの頃は、ヴィンダー自体がまだ気軽に紙を使えるほど資産はなかった。
それはともかく、目の前に出された板に描かれた数の列に私はどきっとした。三行に渡って描かれた数が、頭の中で勝手に正方形に変形する。そして、三つの数が浮き出した。
まるで謎かけみたいな質問は、厳密には数術の問題でも何でも無い。にもかかわらずだ。まさか、と思った。
「はい、この中に9はいくつあった?」
その質問に、私のますます驚いた。質問の意図は明らかだった。この人はもしかして。
「64個の数字の中で9は3つ」
私は即答した。
「すごいね。まず、64個だって言うのは8×8だからかな」
「はい」
「9が三つだって分かるのは、8と9じゃ色が違って見えるから?」
「ど、どうして。あ、貴方も見えるんですか」
「ううん。残念ながら俺にはそう言った才能はないんだ」
少年は済まなそうに言った。あのときは、どうして謝るのか、というかどうして私ががっかりしたのが分かったのか分からなかったけど。今なら分かる。多分リカルドは自分の見える世界が人に見えない孤独を知ってる。
「じゃあ、もう一つ質問というか、お願い。もし数字を使う仕事を君に任せたいって言ったら、ウチに来てくれる?」
納屋から出た私は、聖堂のテーブルでもう一度彼と向かい合っていた。彼は蜂蜜というとんでもなく甘い何かを私に勧めながらいった。
そう、リカルドが初めて蜂蜜をごちそうした女の子は私なのだ、たぶん。あの時はフレンチトーストを作れるほどのお金がなかった。
……別に根に持ってない。そもそも、私は蜂蜜の甘さにつられたわけじゃないのだから。
「それは、私を買うってことですか」
「違うよ。そんな学習効率を下げることはしない。君の数学的能力で、僕の目的を手伝って欲しい。そうだな、秘書みたいなことからかな。数専門に君を貼り付けておけるほど、ウチにはまだ余裕がなくてね」
言ってることは分からなかったが、自分のあの感覚を理解してくれて、それを必要としてくれる。それは、あまりにも魅力的な話だった。私は最初の警戒心も忘れて、コクリと頷いていた。
少年は父親を呼びに行った。そして、私はヴィンダーの見習いになった。
◇◇
そうして今、私はヴィンダーの共同所有者だ。帳簿を任されているからこそ理解出来る。私の資産はもはや下手な銅商会など問題にもならない。配当と呼ばれる毎年のお金、寝ていても入ってくる、だけで遊んで暮らせるのだ。将来的にどうなるかを計算したら身が震える。
だけど、私がリカルドについて行く理由には関係ない。私にしか出来ない役目をくれたからだ。だから、少々の欠点があっても仕方がない。私がそこは補うのだ。例えそれがあまり得意じゃない仕事だとしても。
そうじゃなきゃあの娘に勝てない。私とリカルドはまだ足し算だ。だけど、あの娘とリカルドはかけ算の関係だと感じられるのだ。最初はあんなボラティリティーの高い人間には近づかないって言ったくせに。
と言うか、最近やたらとリカルドの周りに異性が増えていくのはなんなのだろう。特にクラウディアだ。リカルドを守ってくれたというのは感謝しているけど、剣を向けたのは許してない。ちょっと前まで要警戒人物リストの第二位だったのに。
このリストは順位が上がると等比級数的に数値が跳ね上がっていくので、五位に対して二位は16倍危険だ。
とにかく……。
「我が世の春って感じかしら」
私がクラウディアの順位を操作していると、最近順位を上げてきた人間が目の前にたった。ドレファノやカレストと取引があった商家の娘だ。確か、貴族向けの高級な布を扱っている。しかも、母親の実家はフェルバッハの乱で衰退した貴族だ。落魄して、商人の家に嫁に出されたあげくに、その商家が立て続けのギルド有力者の失脚で火の車。
ほとんどリルカからの情報だ。リルカはリカルドの敵だというと熱心に調べてくれた。こういうところは私は友達に敵わない。……私のためだよねリルカ。
「商業ギルドの頭越しにフォルムで何を企んでるのかしら。もしも、フォルムをむちゃくちゃにしたら許さないわよ」
「えっと、君がフォルムにこだわる……」
リカルドは例によって相手の発言の意図を論理的に考え始めた。私も同じ傾向があるから分かるけど、それは危ないのだ。
国家レベルの危機を未然に防ぐのに、身近な危険には鈍いのだ。
「その不満は、ヴィンダーも含め見本市に関わる商家全体へのものと受け取ります」
「な、なによ、食料ギルド長の威光ってわけ、ふん。とにかく、フォルムを私物化なんて許さないから」
私の言葉に女は捨て台詞を残して去って行った。食料ギルド程度で済ませたことを感謝して欲しい。私はリカルドと違ってまともな保身感覚を持ってるから言わないけど。
「おいおい、あんまり危ないことはするなよ」
「気がついたら戦場に連れ出されてた先輩には言われたくありません」
「いや、あれは成り行きで」
「成り行きで国王に直訴ですか」
「し、仕方がなかったんだって。ほら、説明しただろ、あれは……」
「あと、どうやったら今回の見本市が穏便に済むのか説明がまだです」
「…………未来を予測出来ると思わないことが、保身の基本なんだよ。そういえば、今の女の子は?」
「この前説明しました。後で報告書を読んでください。……先輩は策士を気取ってるわりにチョロいので気をつけてください」
私はため息を付きながら言った。
「わかってるよ。ほら、館長室に急ぐぞ」
あからさまに話題を変えると、リカルドは足を速めた。
「分かりました」
私も後に続く。リカルドの後ろから見る現実が、以前よりもずっと綺麗に見えるのは確かなのだ。
ヴィンダーの株式の配当には興味はないが、等比級数的に増えていく収益の予測を支えるのは数学的にも興味深い仕事だ。ついでに言えば、魔術の理には確かに引かれるものがある。
リカルドを調子に乗らせるから言わないけど。
さて、今日は一体どんなとんでもないものを見せられるのだろう。




