3話 試行錯誤Ⅰ
「五日目でもうここまで……。これは、予想より厳しいか」
朝一番で水槽を確認した俺は、眼前の光景に顔をしかめた。
ちなみに、立方形の水槽はノエルが作った魔導金型の成果だ。高熱で変形しない魔導金はガラス加工に最適だった。おかげでフレームレスの没入感の高いものが出来た。
と言っても前世のそれに比べたらガラスが分厚い、立方形にしたのも水圧による負荷が均一になるようにだ。そして、勿論重い。大きさもせいぜい5リットルくらい。
その小さな水槽の中で5日目の朝を迎えた小魚たちは、明らかに元気を失っていた。ある個体は腹を上に上下反転して泳ぎ、ある個体は忙しく水槽の上下を行き来する。底に敷いた砂利の上で弱々しく鰓だけを動かしているもの、そしてそれすら出来ない個体もいる。
「元気が無くなったわね。何が原因なの?」
突然そんな声がしたと思ったら、メイティールが俺の肩越しに覗き込んだ。今日は肩の出た緩いワンピースだ。似合ってはいると思うが、それで好奇心を優先して近づかれると……。むしろ無防備な分、こちらにとって刺激が強い。
「一番に疑うべきは水質なんだけど……」
俺は目の前の水中世界に意識を集中した。魚にとって水は世界そのものだ。基本的な水質として考えられる要素としては、酸素濃度、ペーハー。そして各種ミネラル、つまり水の硬度などだ。
「水は池のをそのまま使ってるし、溶存酸素濃度が足りないなら上に集まっても良いよな」
かろうじて元気さを保っている個体を見た。酸素が空気中から水に溶けるものである以上、水面に近いほど酸素濃度は高い。もしも、酸素不足なら魚は水面近くに集まるはずだ。
「次はペーハーだけど」
俺はセントラルガーデンから持ってきた虹色の細切り短冊に水槽から水を垂らした。ヴィナルディアに頼んで染めてもらった、各種の水質に敏感な染料だ。見る限りだが、初日と色に変化はない。前世の水質検査薬と比べて心許ないが、ペーハーや硬度などに大きな変化はなさそうだ。
もちろん、水は蒸発するのでマグネシウムやカルシウムなどのミネラルは濃縮される。だが、流石に五日でそれはないだろう。
前世の大学のゼミにあった水槽など、足し水だけで半年近く維持していた。
「きっと餌が足りないのよ」
メイティールは厨房から漂ってくるパンの匂いに鼻を向けながら言った。
「……餌が原因の可能性は高いけど、多分逆だぞ」
俺の言葉に、メイティールが理解できないという顔になった。
「餌、正確にはその結果の排泄物によって水が汚れたんだと思う。まず、水槽は池よりずっと個体密度が高い」
たった約5リットルの水に10匹の個体を入れている。つまり、1リットルあたり2匹。一匹の大きさがメダカの半分と言うことを考えると、アクアリウムの水槽としては多くない。
だが、自然環境と比べると超過密だ。中にいる生体は魚だけとはいえ、あの池に比べて10倍以上の生体密度だろう。その上、自然環境では水は循環するが、水槽は固定されている。
「家畜もあまり密集させると病気になるからそれは分かるわね」
メイティールは水槽の底を見た。勿論そこには少なからぬ小さく細長いものが落ちているわけだ。女生徒の会話としてどうだろうと思うが、メイティールは全く気にしていない。こういう所は共同研究者として本当に助かる。
「いや、一番重要なのは目に見えるものじゃない。えっと、人間の感覚で言うともう片方のほうだ」
「ああ、に――」
「説明を続けるぞ。えっとだな、まずはその魚が排出する餌のなれの果ては毒物なんだ。だから、外に捨てるわけだが……」
俺の方が気を遣ってしまう。
生き物である以上、餌を食べて消化し排出する。魚の体内から排出される物質の中で、アミノ酸の分解産物であるアンモニアは猛毒だ。人間なら体内で比較的無害な尿素に変え濃縮。鳥類、馬竜やドラゴンとかも含む、だと尿酸にして排出する。鳥の糞のあの白いやつだ。
アンモニアは水に溶ける、陸上生物はアンモニアを排出する時に同時に貴重な体内の水を捨てたくないからその形式が進化した。
だか、魚は水中に住んでいる。鮫などの例外はあるが、多くの魚類はアンモニアのまま水中に放出する。生体密度が低く、水が循環する自然環境ならそれで問題ない。だが、水槽の中ではアンモニア濃度が上がり、魚が生きれない濃度になる。
「今の話だと、水槽の水を替えて底の糞を掃除してやればいいわけ?」
「まあ、それも方法の一つなんだけど。人間が世話をする手間がかかるし、魚にとって掃除自体が環境の変化として負担になる。何より、俺の目的にとっては逆効果なんだ」
仮に毎日半分の水を替えればアンモニア濃度は半分になる計算だ。あるいは木炭などを水中に沈めてやる。木炭に有害物質を吸着させるのだ。前世の言葉なら”物理”濾過。だが、それは手間だし費用が掛かる。それこそ使用人を貼り付けれる貴族や大金持ちだけがアクアリウムを楽しめる。
「水を替えないとそのアンモニアって言う毒が溜まる。水を替えると飼い主も魚も嫌がる……」
メイティールは首をかしげる。
「実は、水槽自体にその毒物を浄化する仕組みを持たせることができる。いや、今まさにそうなりつつあるんだ」
「出たわね。見えない知識。聞かせて貰おうじゃないの、その仕組みとやらを」
メイティールの目が光った。
「ああ、生物が産みだしたものは生物によって処理してしまえば良い」
いわゆる”生物”濾過だ。濾過というのは液体から特定の物質を漉し取ることだが、この場合ちょっとニュアンスが違う。除きたいアンモニアを水中から減らしてやるのは同じだが、取り除くのではなく別の形にするのだ。
原理自体は前世の理科の教科書にも載っている。窒素循環を用いるのだ。例えば、陸上でも水中でも動物が死ぬとタンパク質が腐り、アンモニアが出来る。だが、土も水も毒にはならない。バクテリアの力でアンモニアを亜硝酸、亜硝酸を硝酸に変える仕組みが備わっているからだ。
実はこの水槽でも魚が排出したアンモニアは少しずつ処理されるようになってきている。ただ、この状態ではアンモニアの増加速度の方が処理速度より早いから間に合わないだけ。そこで次の段階だ。
「メイティールに任せた水槽はどうなってる?」
「空の水槽のこと? 順調に動いてるわよ。砂利と餌だけで何も入ってない水を虚しくかき回してるわ」
水槽内でも同じ事が出来る。その為の装置はすでに用意してある。それがメイティールに頼んだスクリューと、そして底に敷いた砂利だ。
メイティールに任せていた水槽には厚く砂利を敷いてある、そして例の破城槌の術式を魔導金に刻み、内部にスクリュー構造をはめ込んだ管が突っ込まれている。回転の度に、筒が砂利層の下部から水を吸い上げて、水槽の上部に放出する。つまり水槽の水が砂利を通る形で循環するのだ。
「この砂利とスクリューが大事なんだ。この二つで水槽の浄化装置としての能力を何十倍にもできる」
バクテリア、この場合は亜硝酸菌と硝酸菌だが、これらは物体の表面に張り付いて繁殖する。水だけの水槽なら底と壁しか表面はないが、底に砂利を敷いて、その間に水を循環させれば砂利の表面分、表面積は何十倍にもなる。餌を腐らせてアンモニアを発生させた状態で、そこに水を循環させると大量のバクテリアが砂利の表面に繁殖する。
俺は水中の砂利を一粒つまみ上げた。池の水を使ったおかげか、すでに表面がぬめっている。このぬめりがバイオモーフ、バクテリアの層だ。
「へえ、私にもちょっと触らせて」
メイティールが俺の指から砂利をとった。指を動かして「確かにぬるってする」と言っている。
「おい、気をつけないと」
俺は思わずメイティールの手首をつかんだ。
「き、急に何!?
「いや、ほらせっかくの服が汚れるというか」
俺は手を離すと、メイティールの掌からこぼれそうになっている水滴を指さした。
「あ、ああ、そうね。ありがとう」
メイティールは砂利をゆっくりと水槽に戻した。そして、手首に垂れた水を俺が渡した布で拭いた。少し頬が赤い。
「話を続けるぞ。まず、魚が放出したアンモニアを餌にするミューカスが増えて、アンモニアを亜硝酸って言うのに変える。次に、その亜硝酸を餌にするミューカスが亜硝酸を硝酸に変える。硝酸はアンモニアに比べて毒性がかなり低い。そういう仕組みが勝手に備わるんだ」
「……つまり、例の極小のミューカスの話なのね。動物の糞や死体が土に帰る仕組ってことね。まって、もしかして肥料とかとも関わる?」
メイティールが理解を示した。「ちょっと油断してたらこれだわ」とか言っている。
「どっちかというとそれはこちらのセリフだよ」
この世界でも家畜の糞の利用はされているとはいえ、今の説明でそこまで気がつくメイティールの方がある意味怖い。いや、頼もしいと言うべきだろう。何しろ、この商品のもう一つの目的は……。
◇◇
「一週間たったのに元気ね」
「生物濾過は順調に立ち上がったみたいだな」
水槽には魚が元気に泳いでいる。池から追加して、前の1.5倍の生体密度にしている。池の水を使ったこと、砂利は小川の物だったことで立ち上がりが早かったのだろう。
「それに、砂利があると川の中みたいな感じね。それを横から見てるなんてちょっと不思議。それはそうと、これで水替えは必要ないってこと?」
「いや、魚の排泄物は害が少ない形になっただけで、水の中から無くなったわけじゃないんだ。長期的には問題が生じる。最低限の水替えは必要だ。ただ、水替えの頻度はかなり減らすことができる。多分だけど、一週間に一度、五分の一程度の量を入れ替えていけば維持できる」
硝酸はアンモニアよりもずっと毒性が低いが、水中に蓄積しすぎると害になるのは同じだ。最終的には蓄積した硝酸が魚を追い詰める。実は硝酸を窒素分子、つまり気体にまで戻して完全に無害化する方法もあるのだが、それは嫌気条件が必要なので難しいのだ。
「あと一つ手を打つ。メイティールがさっき言ったことと関わるんだけどな」
「私が言ったこと?」
「ああ。水槽にあるものを追加する。ただ、その前に悪いんだけど……」
俺は簡易ポンプの役目を果たしている金属筒を見た。小さめの個体が、近づいては水の勢いに慌てて方向を変えている。
「砂利の中に水が通るには十分で、魚には優しい。それくらいの出力に調整すれば良いのね」
メイティールは予備の魔導金の筒を取り出した。
「助かるよ」
「任せておきなさい。なるべく早めに調整するわ。私もリカルドが次に何をするか気になるし」
メイティールはせっかくの衣装を腕まくりしながら言った。
2018/09/30:
『予言の経済学』1巻の発売日が決まりました。
講談社レジェンドノベルスよりレーベル第二弾として11月5日発売予定です。
今後の投稿などについては活動報告に書いています。
今後とも『予言の経済学』をよろしくお願いします。




