2話:前半 悪魔の原理
「ああもう。なんで私なのよ!!」
乱れる袖口も気にせずに、私は腕を振り払った。紙が破れかねない勢いだが、心配ない。このボールペンというやつは先端が回転する球で出来ているのだ。作らされた私が一番よく知ってる。その便利さも含めて。
「はあ、そんなこと考えてる場合じゃないか……」
気を取り直して、紙上の長方形の設計図を見る。構造は単純、いってみれば食器棚と同じ。ただ、背後に穴が空いてて板の部分が中空になっているのが違う。
入り口が大きい方が使いやすい。これは棚と同じだ。だが入り口が狭い方が効率が良い。これが棚にはない大きな制約だ。そのバランスを考えなければならないが、考えるためには、後部にある二つの役割を果たす魔力回路の出力、調節のために使われる魔力触媒との兼ね合いが重要になる。
「魔導杖と違って平面だから、面積と出力の関係が単純なのは良いけど……。もうちょっと小さく出来るかな……」
メイティールに変更を伝えなくちゃいけない。後は、ヴィナと魔力触媒の効率も検討しなくちゃいけない。時間がない。時間がない。次の講義の準備もある。
「ああもう! なんで私が!!」
私は振り上げたペンを睨んだ。これを私に作らせた男、やつが全ての元凶なのだ。十日ほど前を思い出す。
◇◇
「若いワインを確保しました。少なくとも質は悪くありません」
「飲んだのか!?」
「飲まずに判断なんて出来ません。私も”本来の”年齢で二十歳超えてるんだから問題ないです。というか、二十歳超えないとお酒を飲むなってどういうルールですか」
「いや、まあいいけど……」
「戻ったら先輩にも試飲して貰います。私と一緒に」
外の廊下で軽口をたたき合っている二人の声が窓越しに聞こえる。私たちに説明を終えて、つまり後のことをぶん投げておいて、どうやらワインを買う相談らしい。激しく理不尽だ。
ここは大学の理事会室、部屋にいるのは三人。教授である私。客員教授であるメイティール。そして、非常勤特別技官であるヴィナルディアだ。学長は王都に戻っている。
「さて、例によって例のごとくのとんでもない話だったわね」
メイティールの言葉に私とヴィナルディアが苦笑した。
「まあ、帝国にとっても重要だから仕方ないけど」
メイティールが改めて石板を見た。石板にはふざけた絵が描かれている。山羊の角とコウモリの羽を付けた上に、しっぽまで生えた人型の何かだ。それが、左手に持った箱の扉に手を掛け、左右を行き交う二色のボールを見ている。
「悪魔って何でしょうね」
私は言った。
この下手くそな絵はさっき出ていったあいつの作だ。【マクスウェルの悪魔】という名前らしい。ふざけた名前と下手な絵だが、それが示している物はなかなかとんでもない。
これから私たちが作る物の原理だ。空気の性質を利用することにより火も氷も使わずに温度の変化を作り出せる。ふざけた絵で描かれた抽象的な概念を理解するだけで頭が痛くなる。
なのに、それを使って作る魔導具のアイデアが本題だ。一年中冬の気温の箱、冷蔵庫というらしい。当たり前のように、この世界のどこにもない物だ。
「とにかくまずは原理の方をまとめましょう」
メイティールが言った。
幸いな事にメイティールがしっかり理解しているようだ。螺炎の魔導と深く関わるらしい。以前リカルドがミーアを救い出すために帝国占領下のクルトハイトに行ったとき、今の話の簡易バージョンをメイティールに披露したらしい。
「いい、まずはこのボールが……」
空気というのは膨大な数のボールで出来ていて、ボールはぶつかったり跳ね返ったりしながら互いにエネルギーを与えたり奪ったりする。
理解できなくもない。狭い部屋に無数のボールを投げ込むイメージだ。ボールの動きそのものが風なので、空気の抵抗がないのだからボールはずっと運動を続ける。
そのボールの速度が私たちが熱といっている物らしい。例えば、肌にぶつかる空気のボールが早いと熱く感じて、遅いと冷たく感じるらしい。
要するに速いボールがぶつかると、肌にエネルギーを与えるから肌が温まり、遅いボールがぶつかると、肌を作っているもの――これもボールらしい――からもらうエネルギーの方が多くなるから肌が冷える。
夏の空気には速いボールが多くて、冬の空気には遅いボールが多い。そういうことだ。重要なことは、夏だろうと冬だろうと空気はいろいろな早さのボールの集まりであること。
あいつはしれっと「熱なんて実際には存在しないんだ。あるのは個々のボールの速度とその分布」と言っていた。
「そう、問題はボールの速度の違いが自発的に分布を形作ること」
メイティールがミーアの書いたグラフを指さす。そして、手の平を広げた。
「ここにある空気の中にも、お湯を沸かせるぐらいの熱いボールが少数と、水を凍らせるくらいの冷たいボールがそこそこの数混じっている。実際にやってみるから。ちょっと見てて」
メイティールが炎の魔導杖を手に取った。先端を窓の外に近づけた状態で魔導杖が稼働する。先端に赤く熱した空気が集まる。反対に、私たちの周囲が肌寒くなった。
メイティールはすぐに魔導杖を止める。窓から空気が入ってきて、すぐに気温が戻る。
「こういうこと。空気の中から熱いボールだけを杖の先端に集めてやれば、残るのは冷たい空気のボール。いってみれば、この杖の魔力回路がここに書いてある悪魔のようにボールを速さで選別してるのね」
石板の悪魔は箱を持っていて、熱いボールが来そうになると扉を閉じ、冷たいボールが来そうになると扉を開ける。結果として、箱の中は冷たいボールだけになり、箱の外は暖かいボールだけになる。
「理解できない話じゃないですね」
ヴィナルディアが言った。説明されてみれば確かに納得がいく。まあ、これを納得できるまでに鍛えられてしまったヴィナルディアがちょっと不安だけど。
技官なんてとんでもない。王国でも有数の魔力学の知識の持ち主だ。
「これ聞いて良く無事に返しましたね」
私は思わずメイティールに皮肉ってしまった。
「貴女たちが作った魔力触媒の回路を見せられたのよ。それで判断を誤ったわけ」
メイティールも皮肉で返す。ミーアを攫ったあの時は帝国は許せないと思ったのに、その親玉だったメイティールと今こうやって同じ目的のために協力している。もう何度も同じ事をしているのだが、よく考えると不思議な話だ。
「お二方とも、話を戻しますよ。とにかく、その螺炎の熱くない方の空気を箱の中に集めるって事ですよね。それで、夏でも冬の温度を保つ箱が出来る。……何の不思議もなく不思議な物が出来るものですね」
ヴィナルディアがあきれ顔でいった。炎に見まがうばかりの熱を放つ螺炎の魔力回路で冷気を作る。でも原理は一緒。
世界の把握の仕方が何よりも異常なのだ。そして、それを活用する方法も……。
「魔道具としての役割を考えたら、問題は魔力効率ですね」
私はメイティールに確認した。メイティールが頷いた。とんでもない知識を聞かされて驚いているだけでは済まないのが今の私達だ。
あいつの言う冷蔵庫を形にしなければならないのだ。それも、即位式にお披露目できるように。




