5話:後半 酸素濃度は景気変動である
ほぼ例外なく、動物は酸素で糖や脂肪を燃やすことでエネルギーを獲得する。エンジンと同じで燃料だけでなく酸素も必要なのだ。酸素を使わない発酵という方法もあるが、効率が約20倍違う。
しかも、自動車と違って細胞は一つ一つにエンジンがある。多細胞動物は直接外気や水という酸素供給源に触れないそのエンジンまで、常に酸素を届けなければならない。燃料と違って、酸素は保存できない。従って、呼吸方法と酸素濃度の関係は動物の大きな進化の方向を決定づける極めて大きな要素だった。
経済に例えると、酸素濃度というのは金利のような物だ。企業は金利というコストを払ってお金を金融機関から吸収して、それのお金を使って活動する。金利が高ければ効率の悪い企業は、金利をまかなえず潰れる。金利5パーセントの世界で生きることの出来る企業は、100円を使って106円以上の利益を上げれる企業だけだ。だが、100円で110円の利益を上げられる企業でも、金利が11パーセントまで上がれば潰れる。
生物で言えばこれが絶滅だ。大量絶滅は業界自体が滅びる事に相当する。
例えば三葉虫など、世界中に大量に存在していた小型生物を絶滅させるなど、ちょっと想像も付かないだろう。だが、酸素濃度の低下に呼吸器官が対応できないと考えるとそれは説明できる。食べ物が減れば個体数を減らせば良い。大型動物ならともかく、小型なら可能だ。だが、酸素”濃度”が減ったら全ての個体が等しく生きていけなくなる。
実際、地球の過去には酸素濃度の大きな変動が起こっている。そして、ビックファイブと呼ばれる大量絶滅は、恐竜を滅ぼした一回を除いて、全て酸素濃度の低下とタイミングを合わせている。最大の絶滅と言われるペルム紀の大量絶滅は、酸素濃度が史上最大の36パーセントから、12パーセントに激減する過程で起こった。
逆に新しく適応方法を発展させたごく少数の企業は、新しい業界として芽吹く。恐竜の繁栄は低酸素に適応して、気嚢という効率の良い呼吸器官を発達させた事による。絶滅の後、酸素濃度の回復に従って新しく芽吹いた革新的な種が繁栄し、様々な企業を生んでいく。
いわば生物の進化とは、酸素濃度の低下という金利の上昇が定期的に起こって、大量の非効率的企業を滅ぼしては、そこから生き残った革新的な企業を酸素濃度の回復という金利の低下で発展させていく。この繰り返しだ。
これほど重要な呼吸の効率はまた、体の大きさに大きく左右される。例えば、単細胞動物には呼吸器官はない。なぜなら小さいからだ。体が小さければ、細胞の表面から自然に拡散で入ってくる酸素だけで十分だ。
次に、陸上で生きるというのは乾燥との戦いだ。表面積を増やせば体から貴重な水が出ていく。
そこで、陸上生物は効率よく酸素を取り込む為に体内に肺を進化させた。恐竜や鳥類の気嚢はその最たる物だ。常に新鮮な空気を肺を通じて血液に当てる為に、体の大部分を使っているのだ。人間の肺だって、ブドウの房のように沢山の肺胞を使って表面積を拡大している。
だが、体が小さい昆虫は違う。昆虫の呼吸器官は外に向かって開いた穴である気門と、そこから繋がる管である気管にすぎない。肺のように積極的に空気を吸い込む仕組みはなく、ただ空気の拡散に頼る。しかも外骨格生物だ。外骨格生物とは要するに蝋を皮膚の表面に塗りたくったような生き物だ。
体が小さいから、管を体外に開いていれば自然に入ってくる酸素だけで十分なのだ。表面積に対する体積の割合は体が小さくなればなるほど、表面積が広くなる。例外として大量のエネルギーを消費する飛翔性の昆虫は気管の一部を膨らませた空洞を体内に造り、筋肉で収縮させる擬似的な肺を実現している。
さて、目の前の昆虫魔獣は俺たちよりも大きい。そして翅は見えない。この大きさの体を支える酸素は足りないはずだ。となると可能性は二つ。一つ目は魔力を直接エネルギーとして用いて補っていると言うこと。もう一つは間接的な利用だ。
俺は魔”虫”の体をじっと見る。背中の黄色い模様が目立つので気がつかなかったが、ある。
「メイティール。あの魔獣の腹側の側面を見てくれ。小さな模様があるよな。何かに似てないか?」
俺はメイティールに渦巻きに似た模様を指差した。体節の合間くらいに、明滅する模様がある。よく見ると、そこに穴が空いていて、模様はその穴を囲んでいる形なのだ。
「……螺炎の基本となる魔導文字に似ているわね」
そして、その模様の微かな明滅に合わせて周囲の毛が微かに揺れている。恐らく、あの模様は螺炎と同じで気体分子の操作をしているんだ。気門に空気を積極的に送り込むのではないか。となると……。
「あれがあの魔獣の呼吸器官だと思う。そして、恐らくあの魔獣の弱点だ」
螺炎と同じく空気を能動的に操作して、体内に取り込む為に進化した、魔紋。形が似ているのは収斂進化だろうか。とにかく、あの魔獣が活動できるだけの酸素を与えているのはあの模様。
「…………それで?」
「アレが光るタイミングに合わせて、螺炎をぶつける。出来るか?」
「やってみるわ、でも大分近づかないと駄目」
「解った」
俺は背中を向ける。びっこを引きながらメイティールが俺に負ぶさる。秋だと言うのに互いに汗だらけだ。
メイティールの魔導杖から灼熱の濃縮気体が放たれる。灼熱の気体は魔虫の腹部の模様が光るのに合わせてどんぴしゃのタイミングでそこに到達した。体毛にはじかれて拡散しそうな螺炎は、小さな模様が光った瞬間、すっと気門に吸い込まれた。魔獣が体をよじって苦しむ。気門らしき穴から煙が吹き出す。
「効いてる!」
メイティールが背中から俺に抱きつく様に言った。
「よ、よし。次は同じ体節の反対側の気門を潰してくれ」
「わかったわ。クレーヌ」
俺の指示にメイティールとクレーヌが協力して螺炎を放つ。怒った魔獣が電気を蓄え始める。だが、それが潰された気門の体節の前で止まる。
魔獣は体をねじってくるしむ。
「次だ。なるべく今と同じ側で、近くの体節の気門を潰してくれ」
「そこまで細かく狙いつけなければいけない理由は何ですか?」
「えっと……。なんというか人間と違って体節毎に……」
人間なら一つの口をふさげば良いが、昆虫の気門は体節毎にある。血液を通じて酸素を細胞まで届けるのではなく、細胞に直接枝を伸ばして酸素を供給している。もちろん、気管同士は中で繋がっているが、螺炎の加熱気体で焼かれた場合塞がる可能性がある。そうでなくても、酸素不足は局所的に深刻になることが期待できる。
「クレーヌ。今はそれを聞いている場合じゃないわ。リカルドの言うとおりにする。早くこっちをかたづけないと」
メイティールは向こうを見た。ダゴバード達が3匹、いや4匹の魔獣相手に苦戦している。馬竜がまた1騎減って8匹になっている。しかも彼らはじりじりと距離が離れる方向に押されている。つまり、湖に押し付けられているのだ。
「俺は今の作戦を向こうに伝えに行く」
「でも……」
「多分だけど、この魔獣は狙いを魔力で決める傾向が強い。俺なら多分安全に近づける」
さっきから観察していると、殆ど俺に注意を払わないのだ。森の中に魔狼の1匹でも居ればアウトだが、さっきの様子を見る限りあの魔虫を恐れて近くには居ない可能性が高い。
「……わかった。これを持って行きなさい。皇族が己の全権を預けた印よ」
メイティールが指輪を抜くと俺に渡す。「殿下」とクレーヌが慌てるが、メイティールはそれを手で制すると、攻撃を再開するように言った。その間に俺はまっすぐ湖の方に走る。
ダゴバードは果敢に先頭に立って魔虫と戦っている。だが、やはり牽制以上のことは出来ていない。
「ダゴバード殿下」
俺は帝国の皇子に向かって叫んだ。
「リカルド・ヴィンダー。何しに来た。この状況が解らないのか」
「アレを見てください。魔獣の弱点を突く作戦があります」
俺は指輪を突き出しながら叫んだ。
「あの側面の、黄色い模様。アレが光るタイミングで螺炎をぶつけてください。魔虫の呼吸器官で、弱点なんです」
「その説明で解るか」
「ここです」
俺は手に握った【IG-1】を詰めた壺を魔獣に投げつけた。バシャッと言う音がして、魔獣の気門が緑に染まる。同時にその明滅が消えた。魔虫が不快そうに阻害された魔紋を足でこする。
「……王国の騎士は馬竜から降りろ。クレイグ、俺たちが牽制している間に螺炎で今の模様を狙え。正反対側だそうだ」
「解った」
ダゴバードの言葉に、クレイグ達が馬竜から降りる。ダゴバード達は俺が【IG-1】を投げつけた魔獣に近づいた。
ダゴバードが魔虫の注意を引く。その間にクレイグが側面に近づく。クレイグ達の螺炎が集中する。流石にメイティール達ほどの精度はないが、螺炎の一つが小さな模様をとらえた。気門が煙を吐く。ダゴバードの馬竜隊を押しつぶさんばかりに迫っていた魔獣がもがき。その足の間を馬竜がくぐり抜けた。
背後でバタンと言う音がした、メイティールが戦っていた魔虫が地面にひっくり返って、ひくひくと足を痙攣させている。これで均衡が人類に傾いた。
メイティール達が攻撃に参加したことで、勝敗は決した。電流が消えた魔獣の気門の魔紋をダゴバードの槍がえぐると、最後の最大の魔虫が倒れた。
「なんとかなったわね」
合流したメイティールが頬をぬぐいながら言った。足を引きずる上司をクレーヌが支えている。
「……馬竜を2匹も失った」
ダゴバードが言った。幸い、乗っていた騎士達は無事だったらしいが、馬竜越しに電気ショックを受けた騎士はまだ立ち上がれない。たった2匹とは言えない。貴重な馬竜だ。帝国で救えるはずの村が一つ滅びる可能性だってある。ダゴバードの視線を受けて俺は思わず身を硬くした。この探索は俺の提案だ。
必要だったと考えたが、紫の魔力を見て、未知の危険を軽視したと言われれば反論できない。
「これに見合う成果は上がるのだろうな」
感情的に非難するつもりはないのが逆に重圧だ。俺はダゴバードをまっすぐ見て頷いた。
「そのためにもう少しだけ時間をください」
氷縞粘土の事を説明する。本当は一刻も早くここを離れるべきかも知れない。だが、ダゴバードは継続を決定した。その間に、メイティールがサンプル採取を進める。
「流石血の山脈の隣だな、凄いのがいるものだ」
「絶望の山脈だ。倒し方が分かった以上敵ではないとはいえ……」
クレイグとダゴバードが魔獣の死骸を前に話している。
「例によって魔獣の弱点を見抜いたリカルドが何かしようとしているぞ」
「むっ、何をするつもりだ」
俺はさりげなく2人を回避して魔獣に近づく。もちろん見つかる。
「いえ、ちょっと確認をですね……」
そう言いながら、細い足の先を見る。先端は一本だ。短い体毛が生えたそれは石を削れそうにない。次に、背中に回る。胸部に当たる体節の隙間まで目をこらす。……痕跡すらない。
だけど、やはり気になる。何かに似てるんだよな、こいつ。
「念のため、一番小さいやつを1匹持って帰れませんか」
俺は一番小さい個体、丁度馬竜くらいの、を指差した。
「理由を聞かせろ」
「今の段階じゃ気になるとしか。ただ、もしもこの魔獣、いや魔虫が紫の光に引きつけられたとしたら、災厄と関係するかも知れません」
「……マルドラスまでは運ぼう。新しい素材が得られるかもしれんからな」
ダゴバードは魔虫の体を覆う外骨格を槍で突いた。要するに、俺の要請は聞くけど所有権は帝国と言うことだろう。
「それで十分です」
俺はうなずいた。
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