3話:前編 商売の本質
「牛乳と卵はともかく、蜂蜜に砂糖もですか。……少し甘すぎませんか先輩」
キッチン、日本のワンルームアパートよりも不便な設備、で手を動かしていると。横に来たミーアがジト目で言った。アルフィーナの指導をしていたはずだが、何をやっているのか気になったらしい。
「なんでだ。ミーアも甘いの好きだろ」
「もういいです」
ミーアはアルフィーナをちらっと見た。お姫様が雑巾で棚を拭いている、下手なホラー映画が裸足で逃げ出すくらいに背筋が凍る光景だった。幸い、ポルターガイスト的現象は起こっていない。水が滴る幽霊は一度だけ見たが。
夏でよかった、風邪でも引かれたら、患者より先に俺が死ぬ。
ただし、三日目となると流石に慣れてしまった。慣れると危険なことでも人は慣れてしまう。特に、拭き終わった棚を指先でなぞって「まだ汚れてますね」なんてやったミーアの将来が心配だ。
「まあこれを食えば機嫌も直るだろう」
フライパンからバターの焼けるいい匂いが漂い始めた。味を染み込ませた黄色のパンをつまみ上げて、フライパンに投じた。パチパチという小気味よい音と甘い香りが立ち上がる。背後から聞こえてきていた少女たちの話し声が一瞬止んだ。
地球在住時は、冷食とコンビニをこよなく愛した俺だ。この世界の設備で作れるお菓子なんてこれぐらいだ。だが、しっかり時間を掛けて染み込ませた食感と味は折り紙つきだ。
◇◇
「『大公未だ折れず。当方の心は折れそうです』って上手くねえよ」
俺は親父の手紙を見てため息を付いた。ベルトルド大公との出資交渉は暗礁に乗り上げていた。ドレファノがいなくなって、食料ギルドが副ギルド長三人のトロイカ体制に移行。確か、ケンウェルとカレストと、後なんだっけ。
今のうちに市場を広げたいウチとしては、資金は喉から手が出るほど欲しい。
だが、大公家の資金を裸で受け入れたら、ヴィンダーという名前以外すべて失いかねない。
そこで俺が考えたのが、株式というこの世界にはない仕組みの導入だ。リスクのコントロール手段として生まれた方式だが、異なる立場の人間同士の利害を調整する手段としても優れている。
抽象的な契約の文章よりも支配関係を明確に定義してくれる。まあ要するに、物珍しさで釣ってこちらのフィールドに引き込んでしまおうと言うわけだ。大貴族に相対する平民のささやかな知恵である。
予想通り、大公は方法自体には興味を持った。だが、問題は出資比率。50パーセント未満で抑えたい。ベルトルド大公の出資という看板さえ得られれば、資金を借り入れることは容易になる。うちの利益率ならそっちの方が絶対にいい。
と言うか、大貴族様にそう簡単に取り込まれてたまるか。
「まあ、九歳の時からリカルドくんと一緒なのですね」
「ええ、先輩にはこき使われてきました。まあ、先輩は合理主義を気取っている割に甘いので、適度に手は抜きましたけど」
俺の背後では、アルフィーナとミーアが話している。ホント打ち解けたもんだ。指導役としては、明らかに俺よりも適任だ。同性だし、俺なんかよりずっとしっかりしてるからな。
「ではそろそろ休憩にします」
「キュウケイですか、それはいったいどういう仕事でしょうか」
なんか、お姫様がブラック企業の従業員みたいなことを言い出した。大丈夫……だよな。
「ともかく、あれを作りますか」
俺は二人の従業員の福利厚生に務めるべく、キッチンに向かった。この三日、お客さん扱いをしないためにも、普通のパンにチーズ程度の軽食しか出していなかったからな。
◇◇
「さあ、おやつができたぞ」
テーブルの上にフライパンを置き、いい感じに焦げ目のついた黄金色のパンにナイフを入れる。ミーアがお茶を淹れる。大公がアルフィーナに持たせた土産だ。アールグレイに似た酸味が効いた風味が、今日のお菓子に合いそうだ。
「蜂蜜は後から好みでかけてくれ。甘すぎないようにな」
「…………先輩はたまに変わった料理を作りますけど、これは初めてですね。フィーナは知っていますか?」
「いえ。パンに味をつけたものでしょうか? とても楽しみですね。ミーア」
アルフィーナ様では指導ができないということで、この呼び方になった。学院でうっかり言い間違えるとかやめてくれよ。
湯気のたつ黄金色のフレンチトーストを四分割して皿に置く。品定めをするように見るミーア。目をキラキラさせているアルフィーナ。お姫様も食べたことがないか。この世界で蜂蜜や砂糖といった甘味料は超高級品。甘いモノといえば、果物だからな。
桃のような果実を砂糖とバターでグラッセしたものが人気だと聞いたことがある。
「いただきますリカルドくん」「いただきます先輩」
二人はナイフとフォークを取ると、小さな一切れを切り分けると、口に含んだ。
「んーーー」「…………まあ」
二人の少女が頬を押さえているのを見て、俺も自分のに手を付ける。もちろん、フォークで突き刺してガブリだ。うん、じゅわっと来た。ちょっと固めのパンだが、時間を掛けて染み込ませたおかげでまあまあの食感だ。蜂蜜はちょっとでいいな、たしかに甘すぎる。ってミーアのやつ遠慮なしにかけてるじゃないか。
太っても知らないからな。
「こんな美味しいお菓子、食べたことがありません。元がパンだなんて信じられません」
「やっぱり甘いです。先輩」
「いや、だから蜂蜜をかけすぎるなって……」
あっと言う間に食べ終えた二人の幸せそうな顔に俺も満足した。だが、今日の本題はこれからだ。この三日間、アルフィーナには零細商会の雰囲気というものを知ってもらった。全く経験のない状態から、頑張ったと思う。
だが、大公が姪をよこした理由は単なる社会見学ではない。アルフィーナも商人の現実的な視点を学びたいと言っていた。夏休みとはいえ、巫女姫の仕事もあるアルフィーナのスケジュールも考えると、そろそろ生臭い話も始めなければならない。
「午後からアルフィーナ様には……」
「アルフィーナですか……」
アルフィーナは少しさみしそうだが、これからの話しは従業員見習いとしてのものではない。
「大公から言われたお仕事は、単にウチの事を知る、ではありませんよね。午後からは商売の理屈を勉強してもらいます」
視察という役割に戻ってもらわなければならない。このフレンチトーストはそのための教材でもあるのだ。
「では質問です。商売の最も基本的な形とは何でしょうか?」
片付け終わったテーブルに座るアルフィーナとミーアに向かって、俺は言った。
「物を売ることでしょうか?」
「物を買ってそれを別の人に売ることで利益を得ることです」
二人の生徒が答える。俺は首を振った。
「間違ってないけど、今から話すのはもう少し抽象的な話になる。商売の最も基本的な形とは、お金でお金を稼ぐことなんだ」
俺は用意していた言葉をぶつけた。アルフィーナはもちろん、ミーアも首を傾げる。
「ここに銀貨10枚がある。この銀貨で何かを買い、それを銀貨12枚で売る。単純に考えて利益は2枚。つまり、銀貨10枚で12枚を稼いだことになる。その間にある物が何かは関係ない」
俺はテーブルの上に銀貨を十枚重ねた。まるでカジノのチップみたいだ。だが、これからするのはそれに近い話かもしれない。
ちなみにこの世界の正式通貨は、金銀銅。1金貨が10銀貨、1銀貨が100銅貨。日本の感覚で言えば、1銅貨が約百円。1銀貨一万円だ。
ただし、食料品と物では物価感覚が違う。特に高級品は桁が違う。
王都の一般市民の一月の生活費が3銀貨といったところだ。
「ごめんなさい。少し難しいです。実感しにくいというか」
「分かりますけど。抽象的過ぎます」
俺の挑発的にも聞こえる言葉に二人共納得いかないようだ。だからこそ、これを用意した。
「じゃあ、フレンチトースト屋に例えよう」
俺がそう言うと、二人の視線がフライパンに残った最後の一切れに向かった。




