9話:後編 第四の栄養素
注意書き:
9話の三投稿で書かれた【仮説、実験および解釈】は、あくまで異世界における一人のキャラクターについて行われた物です。地球環境で暮す現代の人間に何かを言わんとする物ではありませんので、ご注意ください。
人体のエネルギーの半分をまかなっているのにブドウ糖の血中量、つまり血糖値は極めて低い。健康な人間なら約100mg/dl前後。つまり、1リットルに1グラムだ。ちなみに清涼飲料水は1リットル当たり100グラムから入っていたはずだ。
人体の約8パーセントが血液だから、体重50キロの人間の血液量は4リットル。つまり、その瞬間に全身の血液中に存在する血糖はたった4グラムだ。もちろん、この数値は”その瞬間”の値であり、常に消費と供給によりバランスされている。
それも含めて、血糖は極めて厳密に必要最低限の量に調整されているということだ。
一方、主食により消化管から血中に取り込まれるブドウ糖の量はどれほどか。前世の定食のご飯一杯は約200グラム。約330キロカロリーだ。9割がデンプン、つまりブドウ糖なのでご飯一杯で摂取するブドウ糖は約75グラム。つまり、ご飯一杯で全身の血液に存在しているブドウ糖の30倍弱が摂取される。
逆に言えば、人体は食事で摂取した糖の大部分を速やかに貯蔵する能力を持つ。その制御をしているのがインスリンだ。インスリンによって、摂取された糖分の約半分が肝臓に、残りの大部分が筋肉に、更に残りが脂肪細胞に蓄積される。
この課程は極めて迅速で、健康な人間なら食後血糖値は100から140位までしか上昇せず、2時間足らずで100前後まで戻る。ちなみに、同じエネルギー源でも脂質は12時間近くかかる。大学の健康診断で空腹時の血液検査が朝食抜き、つまり最後の食事から12時間以上、を指定されるのは脂質が食事に影響されるのを防ぐためだと聞いたことがあった。
問題はこれだけ厳密かつ迅速なシステムが、インスリンという1種類のホルモンに依存していることだ。バックアップがない危機管理の反面教師みたいなシステム、ワンオペなのだ。
おかげで、インスリン分泌細胞が過労死するまでもなく、ちょっと疲れて分泌のタイミングがずれただけで問題が生じる。インスリンの分泌が糖分の摂取に対して少しでも遅れると、大量に摂取された糖分が処理しきれず血糖値を上昇させる。
そして、それにを正常に戻すために遅れて大量のインスリンが分泌されるのだ。結果、まるで株式市場のバブル崩壊みたいな現象、オーバーシュートが起こる。つまり、大量に分泌されたインスリンが効き過ぎて、一時的に血糖を下げすぎるのだ。
これが、俺の前世の同級生が集中力が落ちるから昼飯を食べないといっていた理由だ。「空腹だとかえって集中できなくないか?」と聞いたことがあるが「空腹を”感じる”のは炭水化物取るからだ」と言われて驚いた事がある。ちゃんと食事をしていれば最低限の血糖は人体で合成され、供給される。要するに、点滴で少しずつ注入されるように、血糖値の変動を引き起こすことなく糖が供給できると言うことらしい。
もちろん、今となっては彼の言葉が正しかったのか判断できない。それに、この手のことは個人差があるに決まっている。ましてや、俺はメイティールの血糖値の変動を測定したわけではない。
だから今日、極めてラフとはいえサラダを使ってテストしてみたのだ。
「……ややこしくて頭がこんがらがる。でも、私たちはメイティール殿下よりも沢山パンを食べてるけど、眠くならないわよ?」
「はい」
「普通はそうなんだ。ただ、メイティール殿下の場合はいろいろと悪い条件が重なっている。一つは朝食を取らないこと。二つ目は食事における糖の割合が多いこと。最後が摂取する糖質が吸収されやすいこと」
普通に食事を取っている人間でも、蓄えたブドウ糖は半日も保たない。夕食から半日たった朝食前には貯蔵したブドウ糖がなくなっている計算だ。ブドウ糖がつきたら人間は死ぬので、人体は糖新生と言ってブドウ糖を合成する。
つまり朝食を取るまで、体は糖を生産するモードに移行している。血糖値を上げようとしているわけだ。朝飯を食べないとその状況はどんどん進む。そして、昼食が来る。体が必死で糖を増やそうとしているところに、大量の糖が来るわけだ。アクセルを踏み込んでいる時にブレーキを踏まなければいけない羽目になる。つまり、血糖値が急上昇しやすくなるのではないか。
同じカロリーを取るにも、肉も食べる場合と、主食ばかりの場合だと当然、後者の方が遙かに摂取カロリーにおける糖の割合が多くなる。つまり、体が処理しなければいけない糖の量が増える。メイティールは肉が嫌いなので、元々食事における糖の割合が多い。
もう一つが糖分が体内に吸収される速度だ。同じ量の糖を食べても。清涼飲料水のような液体状の糖はあっという間に吸収される。デンプンも早急に分解されて吸収されてしまう。ただし、この消化スピードは一緒に食べた物に大きく依存する。消化吸収を緩やかにするのが食物繊維だ。
「メイティール殿下が帝国で食べていた豆や蕎麦の入ったパンは、小麦だけのパンより総カロリーにおける糖の割合が少なく食物繊維が多い。つまり、血糖値が上昇しにくいパン。一方、王国の白パンは正反対」
「それで、メイティール殿下は眠気を」
「そう予測したわけです。これが正しければ、糖の吸収をゆっくりにすれば血糖値の急上昇と急低下による眠気は生じない事になります。その為、今回はサラダを先に食べてもらいました。野菜に含まれる食物繊維という成分が、体の中で砂糖を包み込んで。食べ物がお腹の中でゆっくりと吸収されるようにするんです。つまり、このパンを野菜で包んだような物ですね」
俺は今日の実験の意味を説明した。
「特に大事なのは糖分を摂取する前に、食物繊維が先にお腹の中にあることだった。羊羹の砂糖はとても吸収されやすいので、野菜と同時に食べても間に合わない可能性があるので」
あくまで個人的意見だが、この食物繊維の役割を俺は信用している。第一に、効果が食物繊維による吸収の遅延という物理的に単純な作用であること。もう一つは、人体の対処能力の基本性質だ。
食事による健康問題の大きなポイントは人体が処理できない量と”速度”で流入することだと思っている。極論だが、仮に有害な物質だとしてもゆっくり入ってくれば害は少ない。アルコールだって同じ量をゆっくり摂取すれば酔いにくいし、肝臓に対する負担も少ない。
もちろん、重金属のように体内に蓄積されていく場合や、そもそも人体が対処できない毒物などには通用しないだろう。だが、糖分は人体で元々使われる重要な分子だ。
「まあ、実際に厳密に血中の砂糖の量を調べないと分からないけどな」
実は方法は一つ思いついた。でも、砂糖を魔力でマークして”体外に排出”されるか調べるのは流石に……。
「サラダとデザートなんておかしな組み合わせだと思ったけど、そんな意味があったのね。……相変わらずとんでもないことを知ってるわね。それにしても野菜にそんな力が……」
俺の説明で、シェリーは少し嬉しそうな顔になる。いや、野菜は重要だよ。前世では炭水化物、タンパク質、脂質に続く第四の栄養素とまで言われていたくらいだ。
「リカルドくんはそこまで考えていたんですね。でも、それならちゃんと最初にご説明した方が……」
「一つは、先入観なしじゃないと実験結果がぶれること。今回の件は急ぎますから。でもこれで、メイティール殿下はサラダさえ食べれば昼食をしっかり食べても大丈夫だと実感したでしょう。と言うわけで今の説明を帰りにしますよ」
メイティールなら俺が言っていることは理解できるはずだ。
「……あのリカルドくん。その説明ですが私もご一緒しても良いですよね。元々私がお願いしたことですから」
「もちろんです」
「……そうです、よっぽどちゃんと説明しないと」
シェリーが心配そうに言った。いや、あのメイティールだぞ。むしろこの知識に興奮するんじゃないか?
◇◇
ラボに戻った俺は、メイティールに俺は今日の実験の意味を説明した。どうやら今日の研究は上手くいかなったらしく、渋い顔をしていたメイティールだが、俺の説明を興味深く聞いていた。だが、俺の説明が後半にさしかかると、メイティールの表情が明らかに曇っていく。
「……つまり、私のことを騙したわけね」
そして、俺の言葉が終わると完全に顔を伏せて低い声で言った。
「説明わかりにくかったか。要は、サラダを食べれば昼食をしっかり取っても大丈夫だと……。ああもちろん、別の可能性もあるけど、その時はまた次の実験――」
「あのメイティール殿下。リカルドくんはあくまで殿下のお体を案じて。私が急にお願いしたので時間がなくて、このような手段になってしまったのです」
アルフィーナが珍しく俺の言葉を遮ってメイティールに言った。自分が公爵夫人と話し合ったのだと説明する。
「要するに、貴女はわざわざ私のことを調べて、余計な世話を焼いてくれたってわけね。私が何時、私の生活に口を出してくれって頼んだかしら」
メイティールは勢いよく顔を上げると、アルフィーナを睨んだ。あれ、すごく怒っている。
「いや、だから……」
「分かっているわ。貴方達にとって私がちゃんと機能するかどうかは重要だものね。人質の分際で余計な苦労を掛けたみたいね。心配しなくても内容は理解できたわ。ちゃんと役割を果たすために、今後は気をつけるわ。これでいいわね」
メイティールはそう言うと、後ろを振り返りもせずに馬車に戻っていく。どうやらまずかったらしい。まあ、一応納得してくれたみたいだし、これで食事がちゃんと取れれば、怒りも収まってくれることを祈ろう。人間お腹がふくれれば余裕も出来るし……。




