10話 王都の影
「よくも我が前に顔を出せたものだな。衛兵……いや、ザングリッチの前につきだしてやろうか」
暗い部屋の中、仮面の男が言った。顔を覆う模様が歪んで見えるほどいらだたしげな声だ。一方、仮面に見下ろされている黒いローブの男は微動だにしない。
王都の貴族街の外れにある、一見地味な屋敷。ここはごく僅かの側近しか知らない仮面の貴人の愛人宅だった。
王都において、戦争中の敵国人と密会するリスクは言うまでも無い。だが、彼と彼の将来の義父になるはずだったクルトハイト大公ザングリッチが男と結んできた関係を盾に取られては選択肢はなかった。
後ろ盾であるザングリッチが帝国との戦いに参加せずに謹慎という状況でそれが明らかになれば、第二王子デルニウスにとっても致命傷になり得るのだ。
つまり、先ほどの彼の言葉は明らかに虚勢である。
「帝国も一枚岩ではございませんで。我らはあくまでダゴバード殿下を奉じる立場。クルトハイトのことは、メイティール殿下の独断なのでございます……」
ローブの男は恭しい態度で釈明した。
「派閥か。だが、そのダゴバードはクレイグめの捕虜に成り下がったぞ。おかげでやつは…………。まさか、ダゴバードを解放してくれと泣きついてきたわけではあるまいな。ははっ、帝国軍がクルトハイトを放棄し、大河の向こうまで撤退すれば考えてやろう」
一転して尊大に言い放つデルニウスに、ローブの男は首を振った。
「それでは、メイティール殿下はもちろん本国とて納得しません。何しろ、現在帝国は王都を左右から圧迫しておりますからな。食料の不安がない以上、帝国はいつまででも王国に留まれますぞ」
「ふん、そう簡単ではあるまい。全く地理条件の違う王国に長く兵をとどめることなど、容易ではないはずだ。一度崩れれば王国軍が其方らを蹴散らすだろう」
宰相府で行われている帝国の戦争継続能力についての相反する二つの分析を思い出し、王子はあえて強気に言った。
「なるほど。「英雄王子さえいれば侵略者など敵ではない」市井ではそのような話になっているのでしたな。クレイグはもやは生きた軍神。病の第一王子ではなくクレイグ殿下を太子にと望む声まで出始めておるとか。危機を救われた西部諸侯とベルトルドを守り切った西の大公。そして、東の大公が失脚した事による動揺している東部の諸侯。この状況ではそう言った声は市井に限らないのでは……」
「全て其方らのせいではないか!!」
デルニウスは机を叩いた。
「……そのようなこと、伝統と秩序が認めん。王国には秩序という物があるのだ。蛮族の国とは違ってな」
思わず荒げた声をなんとか静め、デルニウスは言った。ただ、机に付いたままの彼の拳は細かく震え続けている。
「それは平時の伝統でございましょう。有事というものは往々にしてそういった建前を飛び越えますものでは」
「黙れ。帝国の間者ごときに何が分るか。今回の用件は何だ。お前は雇い主の言葉をただ伝えれば良いのだ」
「これは僭越でしたな。実は今日もって参りましたのは、殿下に一つ保険をかけられてはという提案でございます。もしも、帝国が王都を制した場合、私めにご協力頂ければ殿下の地位と安全は保証いたしましょう。いえ、王国との戦後の交渉に置いても殿下に重きを置かせていただくことが可能となります」
「……とても信用出来ん。ザングリッチもそう言うだろう」
そう言いながら、デルニウスの拳の震えが止まっていた。
「提案を聞いてからご判断ください。帝国としては大賢者フルシーと宮廷魔術師見習いノエルの身柄を欲しています」
「話にならん。あの老人は今や国師扱いだぞ。身分だけ見ても男爵。れっきとした貴族当主なのだ。それに見習いとはいえ宮廷魔術師は正式な官職だ」
デルニウスは机を叩いた。ローブの男は少し考え込んだ。
「位階のある者ではやはり問題がありますか…………。では、その両人に協力している市井の者の身柄ならばいかがでしょうか」
「……市井の者だと」
「はい、平民を一人二人差し出せば殿下は安泰。悪い話ではございますまい。その協力者とはヴィンダーという商会の人間です」
「ヴィンダー、どこかで聞いた名だな……」
「クレイグや西の大公に与する商会でございます。例の馬車レースにも関わっておりましたな」
「そういえばそうだったな。たかが銀商会が……。いや、銀商会ということは”ただの”平民というわけだな……」
デルニウスはゆっくりとあごを撫でた。
「平民相手なら殿下のお手を煩わすこともありません。ことは私どもが。殿下はただ、事後に我々が王都から脱出するについて便宜をいただければ」
「ずいぶん気前が良い話だ。逆に信じられんな。その平民が其方らにとって何だというのだ」
「例の竜を倒す毒でございます。クレイグに用立てたのはその商会だと分りまして。実を言えば、クレイグがダゴバード殿下の馬竜軍団に勝利したのもそのためなのです」
「ほう、戦に毒を使ったのか……」
「竜に対する毒となれば、帝国にとってはきわめて貴重なのでございます。入手方法が分れば、我らの派閥も面目が立ちまする」
「それが、そちらの都合という訳か」
「はい。我らは成果を広く喧伝せねばなりません。それは、この戦がどちらに傾こうとでもです。……もし時を同じくして、クレイグ王子が竜を倒せたのは毒のおかげであるという”事実”が王国に広まればどうでしょうか。剣を持って堂々と竜を討った英雄と毒殺した策士では……ずいぶんと民の印象が違いましょうな」
ローブの男が顔を上げて仮面を見た。その視線を、デルニウスは無意識に避けた。
「派手なことはするまいな」
「むろんでございます。我らが知りたいのは情報。殺してしまってはどうしようもありません。身柄を帝国へと移したいのです。ですからこそ、殿下のご協力が必要なのです」
「…………王都は厳戒態勢にある。出入りは厳重に管理されている。だが、その分忙しくてな。あるいは、書類の一枚二枚紛失する事もあるかもしれん」
「ありがとうございます」
頭を下げる男。
「ところで殿下には本当にヴィンダー商会について何もお知りではないでしょうか。話では宰相府にも出入りしていると」
「銀商会の名などいちいち覚えていられるか。……いや待て、そういえば」
デルニウスの目が仮面の下で左右に動いた。
「一度だけ宰相府でそのような名を聞いたことがある。あまりに場にそぐわなかったので覚えている」
「ほう……。その名前とは、やはり会長であるポール・ヴィンダーでしょうか」
「平民の名前など覚えているわけがなかろう。だが違うだろうな。何しろ、学生の身なりだったというのだ。宰相の秘書である文章管理官がまるで……」
デルニウスは彼にとっては下らぬ噂話をしゃべり続けた。ローブの奥で男の表情が変わった事など、彼にとっては認識の外だった。




