8話 皇女二人
「いいかしらリーザベルト。貴女その男に利用されたのよ」
メイティールは憐みの目を向けた。リーザベルトは突然ぶつけられた言葉に困惑した。
◇◇
リーザベルトがメイティールに呼ばれたのは、竜の被害からの復興に駆け回っていた時だった。突然の戦地への呼びつけにリーザベルトは戸惑った。
直線距離としては、彼女の故郷は帝国の中でクルトハイトに一番近い。だが、帝国軍は大河を伝って素通りしていた上、自領の復旧に忙しい彼女は、東部における大勝利と西部における苦戦を知っていた程度だ。
西部における苦戦と言っても、帝国は現在カゼルとクルトハイトを占拠し王都を挟み撃ちの態勢だという。民の間では王国の降伏は近いという噂だった。
同行者であった馬竜騎士と一緒に多くの軍需物資を積んだ輸送船で、彼女は飛竜の舞う大河を越えた。帝国占領下の町を二つ通過した時は、帝国兵におびえながら一応は秩序が保たれている様子に少しだけ安心した。
クルトハイトに着くと、一緒に来た騎士が先に呼ばれた。リーザベルトはあてがわれた一室で旅装を解いた。
「突然の呼びつけ、しかも姫様を荷と一緒に運ぶなど。大勝利の立役者とはいえメイティール殿下は失礼です」
同行を許されたアンが憤慨している。
「ほとんど犠牲もなくクルトハイトを落としたと聞きましたが、その通りでしたね」
リーザベルトは侍女をなだめるように言った。一緒に来た馬竜騎士は一言もしゃべらなかったが、悲痛な表情に不安を感じていた。
だが、クルトハイトの帝国の士気は高く、帝国兵よりも遙かに大量の住人は表向き帝国に従っている。虐殺などの手段が執られたとは聞いていなかったので、よほどの圧勝だったはずだ。竜に勝てないとただ耐えていた故郷の民達を思い出す。
話では近くの山に充魔炉も設置され、魔結晶の魔力補充の態勢も整ったという。
「確かに、ここに来るまでの耕作地だけで帝国の食料は安泰そうです。ただ……」
アンが言葉を濁した。
「そうですね。王国の豊富な食料がそのまま帝国に入ってきたら」
帝国の食料価格は暴落するだろう。飢えるよりは遙かにましとはいえ、ただでさえ貧しい故郷がどうなるか。彼女の悩みはつきない。
◇◇
「「利用された」とはどういうことでしょうか?」
リーザベルトはメイティールに尋ねた。申し訳のように用意されたお茶に二人とも手を付けていない。
「だから、あの花粉よ」
「花粉……ですか? 花粉の効果は本物だったではありませんか。おかげで……」
リーザベルトの声が少し尖った。メイティールが言う男とはリカルド・ヴィンダーのことだろう。彼女の認識では彼は故郷の恩人であり、彼女はその好意を仇で返した形だ。仮にも帝室の一員として国家の方針に異を唱えるつもりはないが、彼女は今でも帝国と王国の対立は望んでいない。
「はあ。いいわ、ちゃんと説明してあげる。まずはダゴバードの惨敗」
「惨敗……ですか?」
メイティールに語られた王国西部の戦況にリーザベルトは驚いた。ダゴバードの軍団は馬竜と乗り手の三分の二を失い、さらに指揮官であるダゴバード自身までも捕虜になる完敗だったのだ。
門内の落とし穴で馬竜が足を痛め砦の外に待避していたおかげで逃げ延びた騎士、リーザベルトが同行していた男の報告だという。
「帝国の馬竜の半数が失われた計算になるわ。この被害を立て直すには5年以上が必要でしょうね。さらに問題なのは敗北の仕方なの。ダゴバードが不用心だったのは間違いないけれど、それすら王国に情報操作されていた結果よ。そして……」
メイティールはリーザベルトを見た。
「その道具として使われたのが貴方というわけ」
馬竜はあの花粉で倒されたのだという。王国軍は、花粉を酸と作用させて煙として用いた、それを吸い込んだ馬竜が簡単に倒れたのだという。
「……私はあの花粉が竜に効くとしか聞いていませんし、その通りにしか話しておりませんが」
裏切り者扱いされては堪らない。リーザベルトは言った。
「貴女を疑っているのではないわ。だって貴女に出来ることじゃないのよ。あの時点では私にだって無理だったのだもの。とにかく、王国はあの花粉の最上の使い方、つまりガスにして用いる方法を教えなかった」
「そ、それは、ある程度は仕方がないことではないでしょうか」
「ええそうよ。仮想敵国である帝国に最高の情報を与える必要はないもの。でもそれを言うならそもそも花粉を渡すこと自体おかしな話でしょ。貴女だって、完全に信じていた訳じゃないはずよ」
「それは……。だからこそダゴバード殿下もメイティール殿下も実際に試されたのでは? そして、その効果は彼の言ったままでした。王国は帝国との関係破綻を望んでいなかったのでは」
「そうでしょうね。王国にとって帝国の土地は得たとしても管理出来ないのだから。でも、それと王国が帝国を警戒することは無関係。これはどう説明するの」
メイティールはリーザベルトの前に、一枚の紙を出した。リーザベルトは首をかしげた。
「帝都付近の過去七十年の魔脈の活動記録、と思われる数字よ。王国の会議で提示された物らしいわ。王国は、帝国に王国を攻める余裕があることを予想していたの。これを見た時の私の気持ち、分らないでしょうね」
帝国の魔導の頂点と言ってよいメイティールですら40年以上前のデータは持っていないらしい。リーザベルトはこれを測定したというフルシーの部屋の前でリカルドと会ったことを思い出す。それに、アルフィーナは言っていた、王国西部に突然起こった魔獣氾濫の予言、誰も信じなかったそれを唯一信じたのがリカルドだったと。
「花粉の話に戻るわ。王国が今回の策謀を考案するためにはどれほどの知識が必要だと思う? 帝国が馬竜を使役していること、馬竜が竜と同じ生物のグループに属すること。何より、あの花粉の作用機序についての深い知識が必要なの。竜の解剖結果であの毒の作用が呼吸器だと私が知ったのすらごく最近。ダゴバードだけじゃない。これを考えた人間の手の平の上で私も転がされたの」
「リカルド殿は敢て私に花粉を渡したと」
「恐らく彼は、私たちが花粉を試してそういう結論に達すると予測していたでしょうね。私たちが自分の想定程度には魔獣の知識を持っていますようにと祈っていたかもね」
メイティールの顔が自嘲に歪んだ。リーザベルトの額に汗が流れた。メイティールの説明は彼女も感じていた疑問と無敵にしか見えなかった馬竜軍団の敗北を見事に説明する。
「で、でも、いくらなんでも……」
それでは、知の化け物ではないか。現実感が全くない。自分が利用された怒りすらわかなかった。
リーザベルトはアルフィーナの言葉ですら、彼女の”ある感情”で過大評価されたと思っていたのだ。第一、彼に魔導の資質はなかった。全くだ。
「私はついこの間まで、王国が帝国に滅ぼされるのは当たり前だと思っていたわ。帝国が年々激しくなる魔獣の活動に対抗するため、死にものぐるいの進歩を積み重ねていたとき、王国は寝ていたのだもの。でも、これらのデータを見て考えが変ったの」
「それは……?」
「帝国はどうして王国に滅ぼされていないの?」
「っ!」
リーザベルトは絶句した。メイティールは微笑んだ。そして、冷めていることを気にもせず、初めてお茶に口を付けた。
「流石に冗談よ。でも、説明つかないのは確か。あまりに高度なこれらの知識と王国全体の行動の齟齬。東の大公は私たちが魔獣の被害に苦しんでると信じていたわ。どうして? あのデータを知っていたらいくら無能でも疑うわよ。西方でもダゴバードの馬竜軍団は苦もなくベルトルドまでは迫った。どういうことか分る?」
「…………」
「私の仮説は、これらの知識はごく少数の人間にしか共有されていなかった。そこで、貴女に聞きたいことがある」
リーザベルトは鋭い視線を突きつけられた。
「さっき貴女が言った男の事。貴女、ヴィンダー商会の跡取りと話したことがあるのよね。リカルドといったかしら」
「は、はい……」
「馬竜や喰城虫も含めて、王国の魔獣対策には必ずと言っていいくらい関わっているのがその商会なの。その跡取りが巫女姫だけではなく、クレイグと親しく話していることも分っているわ」
「し、しかし、彼は一介の商人ですよ。魔力も持たないことは、私だけでなくバイラル伯も確かめたはず。それに、それほどの大功を立てたのならもっと……」
その一介の商人が、あの花粉の差配をしていたことに自分が感じた違和感を思い出し、リーザベルトの言葉がだんだん力を失った。
「もちろんヴィンダーという商会が単なる隠れ蓑である可能性はあるわ。隠れている人間が想定出来ないのだけど」
「王国には大賢者として尊敬を集める魔術師が……」
「ええ、それと天才と謳われる若い錬金術士もいるそうね。でも、おかしいの……」
メイティールは二つの金属をテーブルに置いた。一つは単なる鉄の筒、もう一つはきわめて複雑な作りをしていた。
「これまで、いいえ今でも王国の馬車の大半で使われているのがこの筒。それがいきなりこれになったの。バイラルは王国の輸送能力が2,3割上昇するきわめて憂慮すべき事態だと報告していたわ。それはその通りよ。でも、この二つの間にある違いはそんな生ぬるい物じゃないの」
メイティールは右手に筒、左手の複雑な円形の機構を持つと、大きく両手を広げた。
「この間の技術的ギャップは錬金術の革新的な応用で埋めた。でも、この間にある理論、概念のギャップはどうなるの?」
「…………」
一言も発することが出来ないリーザベルトの前で、メイティールは何かに取り憑かれた様に考えに沈んだ。
「いいえ、むしろ全てのピースがはまったのかも。そうよ、王国のちぐはぐさ。一連の事を考えた中心人物には魔導の資質も社会的な力もないと考えれば全て繋がるじゃない。提供されたのは概念だけだとしたらどう。そんなことあり得ないはずなのに。そうでしかあり得ない気がする」
空を睨んで独り言の様につぶやいているメイティール。
「なんにせよ、そのヴィンダー商会の男が関わっているのは間違いない。その男について、その男の周囲について。あなたが知っている事を全部話して欲しいの」
メイティールがリーザベルトに視線を戻した。
「そ、その人物をどうするのですか?」
「もちろん手に入れるの。その人間は王国を襲った災厄の全てに対処して見せたのよ。たまたまそれらに対する知識だけを思いついたなんてあり得ない。ねえ、一体その頭の中にはどれだけの概念が詰まっているの? その頭脳、王国そのものよりも価値があるかも」
メイティールは微笑んだ。その表情はまるで年相応の少女の様だった。




