7話 黒い星
机の向こうには伏した老人の白い髪。老人と俺の間には十数枚の感魔紙の束が散らかっている。
俺は感魔紙を前にため息をついた。感魔紙は15枚。1枚当りシャーレ10枚分のアッセイ結果だ。延々と魔術を使ったフルシーが疲れるはずだ。
そして収穫が酷い、出たシグナルはたったの4個。約5万個に4個である。実に0.008パーセントだ。どうやら最初の3千個でシグナルが一つでも出たのは幸運だったらしい。
おまけに、その四つは魔力阻害効果はほとんど変らない。ギリギリ見えるかどうか。最悪、この4個が全て同じ種類のバクテリアである可能性がある。そうなれば、実質は一つだ。
「赤い森の土の状況から考えるとやはり低いなあ。現地と培地じゃ条件が違うことが問題か……」
となると、やはり魔力がある状況で培養しないといけないことになる。赤い森の中に実験室を作るか、魔結晶を使うことになる。コストが跳ね上がるし時間もかかる。
よかったと言えば、実験室が完成したことくらいだ。窓から見える研究所の屋根には風車が回っている。本当は水車がよかったのだが、流石に王都の水路から水を引くのは費用がかかり過ぎるらしい。フルシーが伯爵叙爵級の功績を立てればいいのだろうか。いや、それよりも……。
「ねえ、今私のこと変な目で見たわよね」
別の机で魔導陣を見ていたノエルがびくっと震えた。警戒された物だ。考えてみればノエルは家門の復活には興味ないと言っていた。
「それよりも宰相を脅してか。なにしろ自分の領地の安全がかかっているんだ……」
「一般人の前であんまり恐ろしいこと言うなよ」
ダルガンがあきれたように俺を見た。しまった、小市民的発想が口から漏れていたか。睡眠不足がきわまっている。
「あのスープ……じゃなかった培地の味を変えたいって話だったよな」
出来る男らしく、ダルガンは仕事の話に切り替えた。今日はそのために来てもらったのだ。
「はい、目的の小さなミューカスが増えやすい条件を調べたいんですが。低コストで出来そうなのが塩味の濃さの調節なんです。塩分濃度の調整はこちらでやりますから、塩抜きの培地をお願い出来ますか」
「ゼラチンは入れなくていいって話だし、むしろ手間は減る。量はどれくらいだ?」
「このビーカー……瓶2本分くらいです」
「でも、どれが有望かってどうやって調べるんだ」
「それなんですよね。最悪、塩濃度を変えて一次培養した中から、シャーレに広げてテストですね」
一種類の培地当り、最低千のアッセイが必要だろう。もちろん試験管での一次培養でアンテナに反応するほどの差が出ればいいのだが。
「ヴィンダー。頼まれた物を持って来たわよ」
ダルガンとのレシピの打ち合わせが終わった時、ヴィナルディアの声が聞こえた。徹夜明けの目にはまぶしい金髪のツインテールが揺れる。彼女の手には、これまた目にきつい真っ赤な液体の瓶がある。
「苦労したわよ。赤い葉なんて職人は気味悪がって」
俺が頼んでいたのは、赤い葉っぱからの色素の抽出だ。ヴィナルディアが言うには水には溶け出さず、油で溶かすと色が消えた。俺が試しに渡した高濃度のアルコールで抽出に成功したらしい。
前世ではボールペンのインクの書き味を追求するため、インクの溶媒や色素についてメーカーの資料を調べた知識が役に立った。
「助かったよ。もちろん代金は払うけど。お礼をしなくっちゃな」
言うまでもなく支払いは宰相府だ。
「……そうね、貴方が結婚するときの布をウチに用意させてもらえればいいわ」
ヴィナルディアは少し考えていたずらっぽい顔になった。
「意味が分らないぞ。なんでそれがお礼になるんだ。そもそも、結婚なんてまだ全く考えてない。まあ、一応覚えておくけど」
「ちょ、冗談だから!」
こんな無欲で商人として大丈夫だろうか。やはり母親が貴族出身だけあって浮き世離れしているのかもな。
◇◇
これはわかりやすいな。俺の前には4×4の計16本の試験管が並んでいる。バクテリアが増殖したことで白濁した試験管の色は赤から、ほとんど白までいろいろだ。
ダルガンに作って貰った液体培地に様々な塩濃度に調節した。そこに、ヴィナルディアが用意してくれた色素を溶かしたものだ。縦の並びが塩濃度に対応している。横の並びがヒートショック、つまり熱湯につけた時間の長さだ。
実験中にミスって暖炉の側に置いていた試験管。暖炉に近い側の方が赤い色が消えていたのを偶然見つけた。偶然な幸運ってやつか。
赤い森の土の温度が高かった記憶は無いので、恐らくストレスと関わっている。
俺はその中で、特に赤い色の薄い一本を取り上げた。塩分濃度が最初にダルガンに作って貰った培地よりも20パーセント高い。加熱の時間は大体五分くらいの砂時計一回分。
色は茶褐色。ほぼ培地とバクテリアの色だ。
赤い森の黒い土と同じように、赤い色素を分解するバクテリアがよく増える条件の探索が出来た。これが本当に魔力阻害物質と関わっている保証はないが、少なくとも森と同じバクテリアが優先的に増える条件ではないかということだ。
ちなみにコントロールとして庭の土から取ったバクテリアも培養したが、赤い色素はほとんど減っていない。
後はこれまでと同じだ。この一次培養したバクテリア液をシャーレでコロニーにして、一つ一つ調べるのだ。
◇◇
「ははは、これは面白いのう」「ええ効果抜群でした」
俺とフルシーはにんまりと顔を見合わせた。たった一つのシャーレに三つの黒点が見える。
「ヴィナルディアのおかげだな」
「……絶対頭おかしいわ。あっ、褒め言葉よ。あんたの頭がおかしいおかげでナタリーも助かったんだし」
後ろに居たヴィナルディアがぶるっと体を震わせた。そんな褒め言葉あるわけないだろ。狂人と紙一重って言われて喜ぶのは科学者くらいだぞ。
「5万分の4から300分の3か。効率的には百倍以上じゃな。しかも、ずいぶんとはっきりしたではないか」
黒点の濃さは百倍希釈したコントロールと十倍希釈したコントロールの中間くらいだ。
「それで、どれを選ぶのじゃ」
「そうですね……。第1候補はこれでしょうね」
俺はひときわ広い円形の影を指差した。
「それか? こちらの方がくっきりしていると思うが」
フルシーが別の黒点を指した。もちろんそれも候補だが、もう一つ大事な要素がある。
「見てください」
俺はシャーレを紙の上に戻した。対応するコロニーよりも、影の範囲が一回り広い。よく見ると、培地に微かに緑がかった色がついている。
「このミューカスは魔力阻害物質を体外に分泌しているんです」
第一に、体外に分泌していると言うことは、バクテリアの体内でしか働かないという可能性をなくすことが出来る。
第二に、目的の物質を分泌してくれるならこの後の過程が楽になるはずだ。同じ条件のペニシリンだって発見から実用化まで長い時間がかかったのだから油断は出来ないが。
「えっとヴィンダー。何で私を見るの。私の役目は終わったはずよね」
「とんでもない。これからがヴィナルディアの腕の見せ所じゃないか」
俺はいった。染料、塗料そして溶媒。布の染色というのは化学だ。彼女にはこの後のことも期待せざるを得ない。




