6話 外れくじ
ほとんどの荷物が新しい研究室に移った館長室で、俺は1枚のシャーレを明かりにかざしていた。テーブルにはひっくり返したシャーレが9枚重ねられている。
貴重なアルコールランプは消してある。蝋燭の光に透かして見える琥珀色の培地の上にはびっしりとコロニーが生えている。少し黄色みがかって、お世辞にも綺麗とは言えない。大きさはいろいろだが、平均して直径1ミリ程度か。
「及第点みたいじゃない。それにしても、その姿……ププッ」
「ふるしゃひな、ふぁか、へる。………………ああ、もううるさい」
俺は口と鼻を覆っていた布をはぎ取るとヴィナルディアに言った。ヴィナルディアに用意して貰った染色作業の時に有害気体を吸い込まないための布だ。今は逆に俺の口から雑菌が飛ばないためだ。前世の古い漫画の銀行強盗みたいだが、無菌操作の成功率が大分改善したので文句は言えない。
最初に11枚用意したが、1枚だけカビが生えただけだ。これに関してはコンタミ【混入】なのか、土の中にあったカビの胞子なのか分らないので、俺は精神衛生上完璧な操作だったと思っている。
「それでも私がやった方が上手いと思うけど」
「他の人間にやらせたくないんだ」
「よく分らないけど、病気の元が云々って話?」
「ああ、万が一の時に対処出来るのは俺だけだし」
もちろん対処なんて出来ない。ただ、病原菌の概念がない人間には、今俺がやっていることの本当のリスクは理解出来ない。俺が背負うしかないリスクなわけだ。
もちろん、こうして近くに居るだけでもリスクはあるので自己満足だが。
「まあ、簡単に空気感染するレベルのがそうそう居ないはずだしな……。さて、カウントだ」
馬の毛の筆に墨汁のような水性の染料をつけで、シャーレの裏に十字の線を引く。ヴィナルディアにはこのガラスにつく塗料を持ってきて貰ったのだ。
後はひたすらカウントである。ちょん、ちょん、ちょん、ちょん、ちょん、とシャーレの裏からコロニーを5つマークする。傍らの紙に横線を一本引く。もう一度別の5つをマークして横線の下に縦線を引く。
一区画のコロニーを全てマークし終わったとき、紙には【正】の字が15個と【下】が1つ書かれていた。シャーレの4分の1にコロニーが78個。全体なら300強ということだ。
「計算通りだな」
実験開始から約一週間。無菌操作にめどがついた俺は、ようやく大公邸の氷室に保存しておいた赤い森の土に取りかかっていた。流石に森の中の土だけあって、学院の庭の土よりはバクテリア密度が高い。それに合わせて希釈率を調整して、シャーレ一枚当り約300という丁度いい数のコロニーを得ることが出来た。
シャーレは全部で十枚だから、約3000個のバクテリアを調べることが出来るわけだ。問題は、これが多いのか少ないのかだ。全部大腸菌だったりしたら泣けてくる。いや、こっちの大腸菌はスーパーパワーを持っているかもしれないけど。
「いよいよ儂の出番じゃな」
自分の机で帝国の魔導陣を見ていたフルシーが指輪を嵌めた手をにぎにぎして、黒い紙を手に立ち上がった。ここから先は俺には全く手が出ない領域だ。
「間違っても蓋は開けないでくださいよ」
「わかっとる。しかし、なんで黒い土の方からなのじゃ。この部屋の壁のように、魔力を阻害する素材を探しているのは知っているが……」
フルシーの目が瓶を見た。今回のコロニーのソースは赤い森の中で、ごく僅かに生えていた緑の草の根元の土だ。色そのものは普通の森の土と同じだ。
赤い植物の下の赤い土の方が面白そうだと思っているのだろう。気持ちは分るけど。
「最初の実験はシンプルで評価しやすい方がやりやすいですよね。赤い土、魔力を積極的に利用している小さなミューカスはいろいろな効果を持っている可能性があります。一方、それを防ぐ方は作用が単純でしょう。もう一つは費用です。赤い土の場合は、魔力の存在下で培養しないと上手くいかない可能性がある。最後が危険性ですね、これはさんざん言いましたよね」
より人間の生活環境から離れている方が、人間の体に入った場合に危険性が高い可能性がある。
「それでもリスクはありますからね。いいんですか、老い先短いとは言え」
「短くないわい。それに、こんな面白そうなこと他の人間にやらせれるか。大体、恐らく其方が必要とする精度は儂にしか出せんぞ」
まあ、魔獣に噛まれたりするよりはリスクは少ない。土中のバクテリアの中で、動物の体内で増殖できる種は僅かだろう。一方、魔狼に感染しているバクテリアなら、同じ哺乳類である人間に感染するリスクはより高い。
一応フルシーに頼んで調べてもらったが、魔獣討伐後に疫病が流行した記録はない。それにしても、大賢者の地位にまで昇った自分の身が惜しくないのか。保身の心とかないのだろうか。俺とは大違いだな。
「……後は、しっかりとしたコントロール【比較対照】があることも大きいですね」
壁の魔力阻害塗料の原液をノエルが貰ってきてくれている。油性のようだが、それを油で十倍、百倍、千倍と希釈したシリーズを作っている。これがコロニーの魔力阻害能を量る基準というわけだ。
「基本は年輪の時と同じで良いのじゃな」
俺はうなずいた。年輪の場合は乱雑な魔力、つまり瘴気、が魔道具の綺麗な魔力に散乱される効果を量った。瘴気の量に応じて感魔紙を白く感光させる
魔力が減るので黒く抜ける。今回の場合は、バクテリアが作り出す何か? によって魔力が吸収、反射あるいは散乱されることを期待する。どちらにしろ紙に届く魔力が減るので、やはり黒く抜けるはずだ。
要するに、コロニーの上からフルシーが魔力を注ぎ、それがバクテリアのコロニーを通過するときにどれだけ効果を受けるかを感魔紙の陰影として測定出来ると言うことだ。
「最初聞いたときは意味が分らなかったが。なるほど、この白い点一つ一つが小さなミューカス一匹の子孫の群れなのじゃな。一匹の力は弱くとも、純粋な集団を作らせれば測定可能になるということか。……お前の知識は本当に底知れんな」
底知れない歴史を背負って、いや歴史の肩に乗っておりますのでね。
希釈倍率とコロニーの数が綺麗に対応することと、コロニーが時間と共に大きくなっていくのを見せただけでちゃんと理解するフルシーの方が多分すごい。
フルシーの指輪が光る、俺の目は思わず浮き上がった模様を見る。模様は丁度馬毛の筆で引いた線くらいの太さだ。俺のボールペンよりも倍以上太い。帝国の破城槌の模様はもっと細かった。
「終わったぞ。こんなもんじゃろう」
コントロールは培地だけのシャーレの上に、原液、十倍、百倍、千倍希釈の黒い塗料を塗った物だ。フルシーがそれを感魔紙からずらすと、濃さの違う3つの点が綺麗に並んでいる。
一番薄い千倍希釈でも判別出来る程度の影が出来ている。それ以外は真っ白、いやシャーレの縁に沿って僅かな影があるか。魔力はガラスではほとんど屈折しないようだ。
「ばっちりですね」
魔術というのは本当に素晴らしい、現代的分析装置無しで、三千個を越えるコロニーを僅かな時間でアッセイ出来たわけだ。
フルシーがシャーレをずらすのを、俺は固唾をのんで見守った。
1枚目、2枚目とシャーレが除けられていく。俺とフルシーは目を皿のようにして感魔紙を見つめる。位置合わせのための4つの黒点の他に、なんの陰りも見つからない。ちなみに、コントロール以外のシャーレには、反応したコロニーの位置を特定するためにシャーレ裏に四カ所、黒い色素でマークしている。
4枚目。何もなし。5枚目も駄目。……これで1500を越えるコロニーを調べた事になる。だが、微かな跡すらない。当りくじの率については厳しめに見ていたが、それでもやはり不安になる。一回に三千個のコロニーとはいえ、もし百万個に一個しかないとしたら……。
「おお。これではないか!」
8枚目のシャーレを持ち上げた時、フルシーが声を上げた。俺は慌ててフルシーの指先を見た。ギリギリ見える程度の小さく薄い黒点が現れている。注意してみないと分らない程度の小さなシグナルだ。フルシーは位置合わせの点を使ってシャーレをもう一度かぶせる。
「間違いない。このコロニーに対応した位置じゃな」
俺は大きく息を吐いた。やっぱり魔力を阻害する性質を持ったバクテリアは居た。だが、反応はごく僅かだ。コントロールの千倍希釈の黒点よりも薄い。
フルシーは残った二枚のシャーレも除く。残念ながらどちらも白い。
「数千個に一匹、しかもこの程度の力なら土にアンテナを向けても無駄なわけじゃな。それを見つけてみせるとは。原理は納得しておったが、実際に見せられるといやはや……」
「でも結局1つだけですね……」
しかも薄い。フルシーがあきれたように俺を見るが、俺は焦りを感じていた。もちろん成功だ。大体、大量培養して精製してみなければ本当の効力は分らない。
だが、それも問題なのだ。何しろその物質を上手く抽出出来る保証はなく。仮にタンパク質だったら熱をかけただけで性質を失ってしまうかも知れない。出来れば複数の候補からより強い物を選びたい。それを考えると、三千個に一つというのは厳しい気がする。
前世の製薬会社が何百万という化合物の中から有用物質を探していた事を考えれば、見つかっただけで幸運と思うべきなのかも知れないが。正直、赤い森の中に緑の草を生やしていたことから、もう少し高い確率や強い効果を期待していたのだ。
「……もうちょっと確率を高める必要があるな」
面白そうに感魔紙の上の黒点とコロニーを見比べるフルシーを見て、俺はダルガンに相談するレシピについて考えた。




