3話 シャーレの上の制空権確保
館長室の実験机には、ひょうたん型のガラス瓶と、太い蝋燭の二つからの炎が燃えていた。炎を中心にして円形の領域がマークされ、片方に試験管やシャーレなどの器具、もう片方には培地が置かれている。
二つの炎の間で俺は緊張しながら腕を動かしていた。
ガチャ
ガラスの蓋を無菌領域から取りこぼしそうになって、俺は慌てて右手を止めた。途端に、左手が空いたシャーレにぶつかった。
「ちょっと不器用すぎないヴィンダー」
「そうだね。食品を扱う商人としては失格だね」
背後から文句が飛んできた。ウチが扱ってる商品はちょっとやそっとじゃ駄目にならないんだよ。保存性抜群なんだよ。
「はあ、せっかく私が作ったピペットが泣いてるわ」
テーブルの向かいからもぼやきが聞こえてきた。
「ああもう、空気を乱、んぐっ!…………」
俺は慌てて口を押さえた。
「「「はぁ……」」」
プルラ、リルカ、ノエルが一斉にため息をついた。ちなみに、プルラは蒸留水の作成、リルカはヴィナルディアと一緒に洗い物を手伝ってくれている。機密保持のために人を雇うことが難しい状況では本当に助かっている。
将来の金商会の子女に、こんな雑用を頼むのは心苦しいのだが、先日俺がシャーレに向かっている後ろで、アルフィーナが試験管を洗っているところを見たセントラルガーデンメンバー達は、こちらが何も言わないのに自主的に協力してくれた。
いや、分かっている。……帝国が悪いんだってことはな。
この一週間、目に見えない生物の厄介さを俺は痛感していた。最初に用意した二枚の培地、何もしていない一枚は二日たっても一切何も起きなかった。そして、一度、ほんの数分間蓋を開けた方は、四つのバクテリアらしきコロニーと2カ所のカビが生えた。
ここまでは予想通りである。蓋を開けていないシャーレが無事だったことは熱を通すだけで最低限の条件が整っていることを教えてくれたし。蓋を開けたシャーレの上でだんだんと成長していくコロニーは、培地が役割を果たしうることを示した。
だが、その微生物の存在が俺を悩ませる。招かざる客いわゆるコンタミを除くことが難しかったのだ。
考えられる最大の汚染源は俺の手。続いて空気だ。布類は全て煮沸消毒して、蒸留酒をさらに蒸留して高濃度のアルコールを作って貰った。それを少し希釈して手の消毒用に。原液でアルコールランプを作った。蝋燭の炎だけでは、器具の消毒したアルコールを飛ばすときの不純物混入が怖かったのだ。
手や器具をしっかり消毒し、炎の作り出す上昇気流で上からカビやバクテリアが降ってくることを防ぐ事で、やっと培地の蓋を開けただけで何かが増殖するという確率が十枚に一枚に減った。
とにかく上空からの侵入がやっかいだった。制空権が重要なのは、現代戦だけではなかった。逆に、制空権さえ確保すれば、側面からの襲撃はたいしたことが無い。俺の手が綺麗ならだけど。
これくらいが限界だろう。なにしろ、ここまで来るだけで宰相府から用意された予算がすごい勢いで減っていく。俺は呪うような目でアルコールランプの炎を見た。文字通り、時間がそのまま金なのだ。
薬局で簡単にアルコールが買え、殺菌パックされた諸々が簡単に入手出来た前世とは違う。全てを裏返して操作出来るような器具を開発しようかと考えるくらいだ。
フルシー研究室のオーブンが完成すれば、少しはマシになると思いたい。アルコールに比べれば、薪だってただみたいな物だ。
とにかく、この一週間で許容範囲内にコンタミの確率を下げることが出来た。今日はやっと菌液の希釈倍率を決定する日だ。もちろん、赤い森の土壌からではなく、学院の裏庭で木の根元から取っただけの土を使ったテストだ。
俺はピペットを構えた。小指の先ほどのガラスの試験管を3本用意した。
スプーンを使って、瓶の中から土をシャーレに取りだし水を注いだ。ピペットのメモリをネジをひねって【19】に設定すると、3本の試験管に【19】単位の水を注ぐ。そしてピペットを【1】に設定すると、土を溶いた上澄みを【1】吸い上げる。
ちなみに、【1】単位がおよそ0.05ccってところか。前世では0.001ccを量っていた気がするが、この世界の基準なら精密操作だ。しかも、加熱して消毒可能、酸にもアルカリにも影響しない。つまり、サンプルとおかしな化学反応もしない。魔導金万歳だ。
最初の試験管に【1】を加える。菌液が【1】に対して水が【19】だから二十倍希釈。希釈した試験管をかき混ぜ、そこから【1】を吸い出してもう一度同じ事をする。これで四百倍希釈。最初の菌液の濃度なんか分らないので、こうやって条件を振るのだ。
用意しておいた三枚のゼラチン培地のシャーレにそれぞれの試験管から【1】の菌液を入れ、ノエルに作って貰った小さなトンボを使って広げる。これも魔導金製だ。下手な金属を使うと、バクテリアを殺す可能性がある。前世ではガラス棒を曲げて作っていたが、この世界のガラス棒にそんな精度が期待出来ない。
「結局これって何をやってるのよ」
洗い物を手伝ってくれているヴィナルディアが言った。
「簡単に言えば、土の中に居る小さなミューカスを一匹一匹単離する作業だ」
「最初のこの泥水【1】の中に2000匹の小さなミューカスが居たとするだろ。一本目の瓶、試験管で二十倍に希釈したことで【1】の中に100匹になる、そしてさらに二十倍希釈した二本目は5匹になる」
「計算上はそうじゃな。でも見えないから分らないじゃろ」
いつの間にか後ろに来ていたフルシーが言った。
「現時点ではそうですが、今からシャーレに播かれたミューカスは培地の栄養を吸収しながらどんどん増えていきます。1匹が2匹に、2匹が4匹にという具合です。それが10回繰り返されれば約1000匹。さらに10回繰り返されれば100万匹です。そうしたら集団として目に見えます。元々は1匹から増えた純粋な子孫集団をコロニーと呼びます。ほら、ここにあるのですね」
俺は失敗作のシャーレを見せた。シャーレには黄色がかった指先ほどの大きさのコロニーが三つ。そして、カビが一つ見える。なるほど、フレミングはこうしてペニシリンを発見したんだな。残念ながら青カビではないらしく、カビはバクテリアに負けそうだ。
「これだって元は3匹の小さなミューカスと1つのカビの胞子が空気中から降ってきて、それが増えた物です。パンに付いたカビだって斑状になるでしょ」
「ふむ、一匹一匹は小さくとも、集まれば大きく見える。あの魔獣と同じという訳か」
フルシーが言った。そういうことだ。もっとも、これはあんな活発に動きはしないが。
「これで、希釈倍率毎の数のミューカスの集合、コロニーが出来ていればやっと予備実験が完了です」
実際には、沢山の個体が居る種とそうでない種がいるはずだ。アッセイ(検定)に必要なコロニーの大きさにもよるが、シャーレ一つに2、300コロニーが限界だろう。
そもそも、仮にバクテリアが100匹居たとしても、この条件では10匹しか培養出来ない可能性はある。100匹培養出来たとしても、99個が同一種のコロニーで、バクテリアの種類としてみれば2種類だけだったというしょんぼり結果もあり得る。
まあ、それに関してはちょっと工夫を考えてあるけど。
「言っていることは分かった。じゃが、肝心の事がまだじゃ。どうしてそこに魔力と関係する物があると分る」
「赤い森の瘴気にさらされて生きてきた極小のミューカスの中には、瘴気を取り込んで利用出来るように進化……変化した種や、その種からおこぼれを貰おうとする種。または、そう言った瘴気を取り込んで強化されたミューカスに対抗する手段を進歩させた種がいるはずだというのが仮説ですね」
金の流れがあればそこに企業が生まれる。生物もエネルギーの流れに対し、分子が集まって組織された企業と理解できる。
そして、前世でカビからバクテリアを殺す物質が発見されたのだって、完全な偶然ではない。カビとバクテリアが競合関係が背景にある。人間界と同じように、バクテリアの世界も協力と競争を複雑に組み合わせて作られているはずなのだ。
もちろんそんなバクテリアが居たとしても、上手く培養される種類とは限らない。だが、実はそれも含めてのスクリーニング(選別)だ。仮に素晴らしい魔力触媒を生産するバクテリアが居ても増殖が遅かったり、特殊な培地でなければ培養出来なかったりでは役に立たない。
さらに、膨大な種類のバクテリアが居れば、魔力に反応する物質を作り出す上に、培養しやすい種も居るだろうという賭けだ。赤い森の土の色の変化を考えると、そこまで分の悪い賭けでもないと思いたい。
それに何カ所からもサンプルを取ってある。仮に当りの確率が一万分の一の宝くじでも、一万枚のセットを十個買えばほぼ当たる。
問題はその百万枚の宝くじの中から当りを選別するためのアッセイ系の確立。操作はノエルのおかげで想像以上に効率化され、アッセイに関してはフルシーが居る。
「……はっきり言えば信じがたい話じゃ。これまでお主に聞いた中でも一番じゃな。何か空恐ろしい物を感じるわい。これは見て見ぬ訳にはいかんな。後どれくらいで儂の出番なのじゃ」
「分りません。無菌操作だけでこれだけかかるとは。時間との戦いなんですけどね」
西方では、クレイグがなんとかカゼルを包囲する体制を整えている。帝国は花粉を警戒してか、陣地には攻めてこないらしい。
ただ、カゼルを孤立させるためにモーラントを落とそうとした別働隊は、馬竜の部隊に追い散らされたらしい。数が少数なのと、密集せずに間隔の広い隊列を組んでいたので、被害は少なくてすんだらしいが。
そして、肝心の東方の帝国軍は、クルトハイトから北の大河に通じる通路を固めた後は、今のところ動きはないらしい。恐らく、馬竜部隊の壊滅に警戒しているのだろうが、いつまでも大人しくしている保証はない。




