10話 取り除かれた憂い
罪人のように顎の下を縄でくくられ、地面を引きずられてきた竜の首。悪夢に見たこともある巨大な顎は牙が折れた無残な姿をさらしている。
黒い軍団が討伐に向かったのは昨日。魔獣の中でも傑出した力を誇るドラゴンの討伐は普通は一週間がかりだと聞いていた。そして、彼女の領地の騎士達に犠牲者はゼロだ。
長らく故郷を苦しめた災厄の終りとしてはあっけないと言っていい程だった。それが意味することは明白だった。
「ありがとうございますダゴバード殿下」
不機嫌そうな凱旋皇子にリーザベルトは頭を下げた。
「……空も飛べぬ、ブレスも吐けぬ。弱体化した竜を討っても自慢にはならん。最後のあがきか、ブレスとも呼べぬささやかな呼気を浴びた馬竜が数匹、調子を崩した程度だ」
ダゴバードは吐き捨てる様に言った。自ら陣頭で槍を振るったという話なのに、黒い鎧には傷一つ付いていない。皇子の後ろに整列している馬竜の軍団にも、戦いの痕跡は殆ど見えない。
「でも、まさか本当にこれほどの効果とは興味深いわ。魔獣の被害など殆どない王国で、どうやってこのような毒を開発したのかしら」
メイティールが言った。
「其方自身が言ったではないか。竜の襲来した地にあった植物が、竜に効く毒だったと。運だけは良いのだなあの国は」
「……そうね、バイラルが王国に残した間者が入手した情報と同じだし。でも……」
納得がいっていないのかメイティールは考え込んだ。
(彼が私の故郷を助けると言ったのは本当だった……)
リーザベルトは少年の顔を思い浮かべ、心が暖かくなるのを感じた。帰還前にクレイグと会せてくれたのはアルフィーナだが、あの花粉に関しては明らかにリカルドが決定権を握っていた。クレイグもそれは否定しなかった。
「これでは、惰弱な王国の騎士でも竜を討てたのも道理だ。まったく、無意味な警戒をさせられたな。本来ならもう王都を……」
「向こうの実力を何倍も過大評価させられたのは確かね。でも、こうなるともう一つの問題も。喰城虫に対する対処が際立っていた事と何か……」
二人の会話が不穏な方向に流れていることにリーザベルトは気がついた。
「あの、これで王国との交渉を再開――」
「メイティール導師。馬竜に対する結果が出ました」
リーザベルトが今後の王国との関係を尋ねようとした時、黒いローブの男が入ってきた。男はメイティールに何か耳打ちした。皇女は不満そうに頷いた。
「念のため、あと二日経過を観察しなさい」
メイティールの指示に、黒いローブは「はい」と頷くと即座に立ち去った。
「どうだったのだ」
「花粉は馬竜には何の効果もなかったわ。予想が外れたわね」
「あの、花粉の結果とは……」
リーザベルトはメイティールに尋ねた。ダゴバードがにやりと笑った。
「簡単な話だ。花粉の残りを馬竜に食わせたのだ」
「馬竜の体重は今回倒したドラゴンの十分の一。摂取させた量が二分の一だけど、いえ餌に混ぜてほぼ全量を摂取させたのだから等倍と考えるべきね。つまり、体重あたり十倍を与えたことになるわ。それでも、馬竜には何の効果もなかったということよ」
「な、何のためにそのようなことを?」
リーザベルトは困惑した。あの花粉は王国からしか入手出来ない貴重な物だ。次の竜の襲来に備えて取っておくべきではないか。しかも、それを馬竜に与える?
「簡単な話よ。馬竜とドラゴンは近い生き物なのよ。ドラゴンに効く毒なら馬竜にも効く可能性があるでしょ」
愚か者に諭すようにメイティールは言った。
「……それは、そうかも知れませんけれど」
リーザベルトは鉛を飲んだような重さを感じた。
「王国の持つ毒は我が馬竜には何の効果も持たぬと言うことだな。くくくっ、クレイグの竜討伐の絡繰りは知れ、その絡繰りが我らには通じぬ事も分かった。これで、王国侵攻に何の憂いもなくなったということだ」
ダゴバードは笑った。リーザベルトは青ざめた。
「そ、そんな。魔脈の活動が沈静化に向かい、最大の魔獣への対抗手段まで手に入ったのです。王国を攻める必要などないではありませんか」
「本気で言っているのか。これだから資質を持たぬ者は。魔脈の沈静化だと、それが今後も続く保証がどこにある」
「そ、それは……、しかし、それならばなおさら王国との協力関係を破綻させることは危険では」
「これまでだったらそうね。でも、考えてみなさい。王国でも西方の魔獣氾濫、あの程度のことを氾濫と呼ぶなんて失笑物だけど、そして平地部での魔脈の発生がおこっている。かの国でも異常な魔脈の変動が起こっているという事よ。勘違いしているのかもしれないけれど、虫を播いた王国の魔脈は私たちが生み出したわけじゃないのよ。魔脈の操作なんて人の手に余るわ。少なくとも現在の魔導では不可能」
「あっ……」
「分ったか。魔脈の変動次第では今後王国がどのような状況になるか分からぬということだ。もし、帝国の半分でも魔獣が現れればどうなる。あの惰弱な国がそれに対応出来るか? 無理だろう。それは奴らの自業自得だ。だが、そのとき我が国はどうなる。言うまでもないが、その時こちらの魔脈が大人しいままとは限らぬのだからな」
「…………」
リーザベルトは黙った。王国の平和な姿が思い出される。もしも、魔獣の被害が生じればどれほどの混乱と被害が生じるのか。そうなった時に、帝国への食料輸出が途絶えることはほぼ間違いない。
「し、しかし、竜退治といい、我が国が放った喰城虫への対処といい。王国にも魔獣に対抗する知恵があるのではないでしょうか」
それでもリーザベルトは言いつのった。思い浮かべたのはあの少年だ。
「そんな可能性に全ての民の命をかけるのか? はっ、ならば我らの軍団も止めてみれば良い。それが出来たら交渉相手と認めてやろうではないか」
リーザベルトの言葉は一蹴された。彼女は救いを求めるようにメイティールを見た。
「メイティール殿下も同じお考えでしょうか」
「そうね、確かにこの花粉や、喰城虫の誘導方法を見抜いた人間には興味があるわ。ねえ、なんの魔導資質も持たない花粉の発見者、リーザベルトは心当たりがあるのよね」
メイティールは、まるで家畜について語るように言った。
「い、いえ、私はあくまでクレイグ殿下から……」
もはやリーザベルトに出来ることは口をつぐむ事だけだった。
「ふうん。バイラルの報告では、西部の地理に詳しい人間の可能性が高い、だったわね。ダゴバードには是非生け捕りにしてもらいたいわ」
「予言の姫ならともかく、そんな虫けらにかまっていられるか。王国を落とした方が次の玉座に登るのだからな」
「やれやれ。早いだけが取り柄なのが貴方の軍団。躓かないように気をつける事ね」
もはやリーザベルトのことなど眼中にない様に、二人の皇帝候補は冷たい笑いを交わしている。




