10話 残されたもの
ドン!
厚い木の天板が震えた。
「ベルトルドの城壁に触れることすらできなかっただと、あり得ぬ! クレイグはどのような魔術を使ったのだ」
早朝の帝国公館最上階にバイラルの怒りが木霊した。喰城虫作戦の結末を報告した黒いローブの男、帝国の商人という肩書きを持つダグリウス、は務めて冷静に上司の怒りを受け止める。
「目印としてベルトルドに運び込んだ木材を利用されたようです」
「虫の生態を完全に、それこそ我らよりも深く理解してしておらねば不可能ではないか」
木材を使った誘導と焼却という説明に、バイラルの顔が驚愕に歪んだ。彼らの策が完全に逆手に取られた事を意味する。馬車レースを利用して魔獣の胞子をばらまいた彼にとっても、それは同様だった。だが、いまはもっと重要な報告がある。
「クレイグは想定よりも遙かに早く、王都に帰還してきます」
部下の言葉に、バイラルは握りしめた拳を苦労して解いた。
「……木材と虫の関係を知られているなら、我らの作戦であることも気付かれておるな」
「間違いないでしょう。騎士団の部隊の多くは魔獣の残存の掃討という理由でベルトルドと王都の間に残してあるようです」
「……主立った内通者の手紙と、王国で部隊が活動するためのスポットの情報は持ち帰る。そのほかは全て処分だ」
上司は一瞬で脱出を決断した。
「私は王国に潜伏します」
ダグリウスは言った。上司の理解した様に、今回のクレイグの作戦は明らかに異質である。魔獣に対するには魔術、それが常識だ。だが、今回クレイグは巨大魔獣を魔術をほとんど用いずに倒しているのだ。騎士団の戦力と竜討伐という戦果のギャップに悩まされてきた彼にとって、それは無視できない違和感となっていた。
「……望みの大河を越えるためには、無理をするなとは言えんな。だが、其方の知識と経験は我らが川を越えた後にこそ活用されるべき物でもあることを忘れるな」
上司の言葉にダグリウスは頷いた。
「閣下、公館の周囲にあやしい動きがあります。衛兵による監視かと」
ドアが開くと侍女が報告した。
「もう動き出しおったか。馬車を用意しろ、王都から出てしまえば何とでもなる」
バイラルは引き出しから二重に施錠された箱を取り出すと、中身を暖炉にくべた。そして、机に戻ると手紙の束と格闘を始めた。
「皇女はどういたしますか」
侍女が尋ねた。
「王都近くにある足はわずかだ。足手まといを連れてはいけぬ。…………いや、そうだな、もう一台馬車を用意しろ」
紙束を暖炉に放り込みながら、バイラルは言い捨てた。
◇◇
「ここですか?」
俺は案内してくれた執事に聞いた。勝手知りたる、知りたくなかったが、大公邸だがここまで奥へ踏み込んだのは初めてだ。廊下の突き当たりで、蝋燭の光に照らされた重々しい扉が平民を威嚇する。
執事は黙って一礼した。急げという事らしい。
扉を開けると、部屋の中央に円形のテーブルが見えた。席にはすでにエウフィリアとクレイグが座っていた。ちょっとは平民に気を遣って欲しい。平社員、いやアルバイトが重役に重役出勤かましたみたいな状況になってる。
俺がため息をつこうとしたら、部屋の中にもう一人人間がいることに気がついた。知らない老人。……いや、謁見の間で一度だけ見たことがある老人だ。
王子様や大公様ならともかく、公爵様は勘弁してください……。
いろいろ間違ってる場合じゃない。
……帝国の敵意が明白になった以上、そりゃバランス云々はいってられないよな。
この国で最大の武力を持つ対魔獣騎士団の団長で第三王子、将来王国の経済の中心になる予定の西部を束ねる大公。そして、国政の頂点にある公爵。御前会議でも揃わないんじゃないかというメンバーが目の前にいる。
テーブルの周りには四つの席があり、空席が一つある。
誰の席かな? 俺はドアを振り返った。王様まで来るとかいわないでくれよ。
大公が羽扇で空いた席を指した。だから、もうちょっと平民に気を使え。立たされている方が遙かに気が楽だから。
先輩達をぶち抜いて宮廷魔術師見習いになったノエルの愚痴は二度と聞かん。今回の功績で陞爵したくないといってるフルシーのもだ。
ああそうだ、この晴れ姿をシェリーに見せたいな。さぞかし溜飲を下げてくれるだろう。
「何をしておる。とっとと座れ」
「はい……」
こちらを睨む老人の視線に俺は手に持った紙を握りしめた。まあ、宰相がいることは悪くない。この中にある数値は、どれだけ重要と言っても言い過ぎではない。。
「――以上が今回の魔獣討伐の報告だ」
「西部の二つの村が実質上なくなった。村そのものは無事でも耕地の一部を削り取られた村が五つ、じゃな」
「……騎士団に被害が出なかったのは重畳。農村の被害も対応可能な範囲に収まって何よりですな」
「対応するのは妾じゃが」
クレイグと大公の言葉に、宰相は表情を動かさない。だが、その眼光が突然俺を射た。
「で、この少年が全ての計画を立てたと」
「そうだな。ミューカスの発見、巨大化する前のミューカスの掃討による巨大魔獣の発生の阻止、生まれた魔獣二匹の討伐。全てリカルドの策だ」
「クレイグ殿下の武勇とアルフィーナ殿下の予言の力、さらに大公閣下のご威光のたまものです。大賢者フルシー様と宮廷魔術師見習いノエルと、えっと、あと輸送ギルドの……」
「まるで、事前に全てを知っていた、そう疑わざるを得ないが」
俺が必死で俺以外の名前を挙げているのに、宰相は無視した。
まあ、まともな知能を持ってたらそう判断するよな。でも、まさか生まれる前から粘菌のこと知ってました、とは言えないだろ。
「宰相の気持ちは分るがな。こやつが帝国の手先という可能性だけはない」
「そうだな。リカルドがこれまでやってきたことは、全て帝国の邪魔と言って良い。リカルドが何にもしなかっただけで、王国の東西は大打撃、特に西部は致命傷を負っている。それより、見事に帝国の使節を逃がした宰相の方はどうなのだ」
皮肉っぽい言葉でクレイグが話題を変える。
「言い訳になるが、皇女を囮に使うとは予測出来なかった。ただ、公館に踏み込ませた衛兵が向こうの機密を得た」
「何も知らされておらぬであろう捨て石の小娘と、暗号化されて読めぬ文書であろう。しかも皇女の身柄を押さえたのは第一騎士団と聞くが」
エウフィリアが皮肉った。王国の思考では、皇女を囮にするというのは認識の裏側だったか。
「大河への路に網を張っていた王子も取り逃がしたのはおなじでしょう」
「発見はしたが、夜間に騎馬でも到底追いつけぬ速度で逃げられたのだ」
クレイグが俺に言った。騎士団は、乗り捨てられた馬車を王都から北にある森の近くで発見した。全力で周囲を探索したが、闇夜に走る後ろ姿を捉えるのがやっとだったという。どうも、あの馬車ではないらしい。
「あ、あの……」
俺は恐る恐る手を上げた。王子と大公と公爵が俺を見る。
「馬車の周囲で、そうですね特殊な足跡とか糞とか、そういうものを探してもらえませんか」
「理由はなんだ?」
俺はベルトルドを離れる前にドルフから聞いた言葉を思い出す。帝国の馬車の足回りは総金属製、鼎の位置も取り替えた跡があったという。つまり、馬が引くにはオーバースペックということだ。
「これは勘なんですけど、三本指の足跡とか、白い糞とかがあるかもなーって。数は少ないでしょうけど、近くの猟師とかとも協力して」
「すぐに手配しよう」
クレイグは頷いた。特に糞が重要だ。
「さて、情報が共有されたところで、肝心な話題に入ろう。帝国の次の動きだな」
クレイグが言った。
「王国に魔獣を放つなど、許しがたい行為だ。というのは置いておいて、何を考えて居るのか理解しがたいな。帝国は常時魔獣に対して戦力を割かねばならんはずだ、食糧の供給を頼っている王国に敵対するリスクを取るとは」
宰相がいった。
「……あの、それなんですけれど、ちょっと」
「いちいち許可を求める必要なはいぞ」
「いや、平民だから遠慮してるんですよ。この状況一種のいじめですからね」
俺はエウフィリアに言った。こちらがどれだけ薄氷を踏む思いで言葉を使ってると思ってるんだ。おかげで今、踏み抜いちゃったじゃないか。
「…………これは大賢者フルシー様と、その弟子の錬金術士ノエルとミーアの功績ですけど。今回魔獣を引き寄せるためにベルトルドに売られた木材から、帝国の魔脈活動の記録が得られました。もちろん、一地域の記録ですが、ケンウェル商会の伝で手に入れたもう一本の木材でも、同じ傾向のデータがでています。それをまとめたものがこれです」
俺はグラフをテーブルに広げた。過去七十年の帝国の魔脈活動の記録、この会議の主役はこのグラフだ。
全員の目が一枚の紙に釘付けになる。沈黙がテーブルを覆った。蝋燭の揺らぎが、静止した三人の陰を壁に映している。
「明日にでも攻め込んできても不思議ではない、か」
エウフィリアが唸るように言った。もう圧倒的に情報が不足している、そしておそらく時間もだ。
まずは帝国の置き土産の解析から手を付けないと。糞と足跡、残された暗号化文書、そして……。




