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衣装方の侍女、セレナは振り返って、彼の不機嫌な顔を発見する。彼女はギョッとした顔で固まってしまった。
ウルフは彼女を睨みつけて声をかけた。
「俺が何かしたか」
「い、いえ……その、だ、だだ大事な、姫様の衣装に使う刺繍だったので」
「大事な姫様?――はっ!」
ウルフは急に腹が立って彼女の手から刺繍を取り上げた。セレナは悲鳴をあげて王子にしがみついた。
「やめてくださいっ。きゃああ、大事に扱ってぇー」
「お前がこんなもん作るから、俺が苦労してるんだっ!」
単なる八つ当たりだ。セレナは何の話なのか判らぬままに、彼を怒鳴りつける。
「返してー!」
セレナの悲鳴を聞いて、衛兵たちがあわてて傍に来た。
ウルフはセレナをからかって刺繍をひらひらと天にかざす。実に子供っぽい王子である。セレナは長身の彼にしがみついている。刺繍を取り返すために飛び跳ねていた。
大慌てでやってきた衛兵たちはきょとんとした顔で、無邪気な彼らを見守った。その衛兵たちの背後でセレナを見た侍女たちは面白くない。王子と親しくなってしまった彼女に嫉妬して、翌日からセレナはいじめられるようになってしまう。
そのうち、その騒動がアリシアの耳にも入り、彼女をいじめていたウルフはますます姫に嫌われてしまったのだった。
用意された執務室は、机と椅子以外ほとんどものが置かれていない。がらんとした部屋だった。
アリシア姫とウルフェウス王子の婚礼の儀を補佐するのは、ネプリア・カカレンタ経済大臣である。彼は王子の執務室を訪れた。大臣としては若手で、線の細い弱々しい男だ。そのネプリアの目前で、王子は今、気難しい顔である。
「――金がない、だと?」
「あ、あ、そのような不躾なことは申しておりません。ただ、輝殿下の要求どおりの式を挙げるには少々予算が足りないのです。す、既に輝殿下さまに謁見を申し込みにこられた大使の接待で予算」
「だから、あんな奴らは追い返せというんだっ! 肝心な時に金がなくて、俺にどうしろというんだ!」
「はい」
「はい、じゃねぇ。対策を考えろ」
彼の祖国では考えられない話だった。結婚式に使う金が、ない。
いや、ただ彼が贅沢なだけなのだが。
婚礼で使うものは、衣服から料理から宝飾品から全て、新たに作って用意するという。その最たる贅沢品は城だ。新居を建てるつもりだが、そんな計画は誰も想定していない。
ウルフの祖国は軍事大国だ。彼の国ではそれぐらいは出来るのかもしれないが、ここはザヴァリア。小さな国だ。
ただひたすら「うーん」と唸り、ネプリアは顔色が悪くなった。今にも倒れそうである。
「た、対策は、その……こ、婚礼のけ、計画をもう少し」
「俺に意見はするな」
「ぅっ……」
横暴な王子を前に、ネプリアは何も言えなくなって冷や汗が噴出した。
目前にいるのは、ただの男ではない。戦地では「鮮血刃の悪魔」と呼ばれて、恐れられた残虐な王子なのだ。彼の機嫌をそこねることは、死、を意味する。
「…………」
だから、ネプリアにできることは、ただ、ひたすらに無言、である。
ウルフは彼を厳しい顔で睨んでいたが、徐々に気の毒そうな顔になって、睨むのを辞めてしまった。ネプリアを責めても、現実的な解決にはなりそうにないからだ。呆れた顔で大きなため息をついて、国家予算の数字をまとめてある台帳を手に取った。
ネプリアは、王子の怒りが思ったよりも早く静かに収まったので、少しほっとした顔で王子を見つめた。
ウルフは情けない顔になり、すぐに台帳を閉じた。
「この国は、税金を何に使ってる?」
「接待です」
「ハア……この予算の割り振りは、お前の役割か?」
「さようでございます」
「やり直せ」
「――は?」
「こんなつまんねえ予算があるか?! パーティしかしてねえっ!」
「それこそが王族の務めです」
「うるせっ。俺はパーティが嫌いだ」
ウルフはそのまま外へ行ってしまう。ネプリアは「ああ」と嘆きつつ、怖くて止めることができなかった。
婚礼の資金が足りないと知ってやる気の失せた王子は、一人で勝手に遊びに出かけた。自分の馬で遠出しようと馬小屋にやってくる。それも、いつものこと。
馬に飼葉を与えていた少年、アルトを呼び自分の馬を持ってこさせる。優美な白馬を見て、ようやく気分が良くなった。
「城外に出たい――お前も来い」
ウルフは馬具を取り付けながら、少年に話し掛けた。まだ十二、三歳ほどの少年は照れくさそうに笑い「仕事があります」と答えた。ウルフはアルトを振り返り、明るい笑顔を見せた。アルトは真っ赤になった。
自分よりも小さな少年の前に行き、ウルフは少ししゃがんで話し掛けた。
「お前の馬は?」
「持っていません」
「そのうち与えてやる。今日は俺の馬を引け」