⑧
中心地からのモノレールの並びが、ここで最端の線となる。線路が河川に沿ってビニールハウス畑の広大な団地を突き抜け、遠く下流の丘に巨大な半球形のドーム建築が青く躯体を現す方へ向かっている。ウェンが帰ってくるのはこの線からだろう、とフォルトは考える。一人で見に行ったキャッシュポイントは路面の自動処理機で、機体を隅々まで見たが参考になる事は無かった。次の商店街の洋服店は、中東系の女性店員が胸に付けていた名札を一目見て、調査終了にした。いい加減かもしれないが、ウェンのやり方もこんな感じだ。
ケーブルカーの交差点の四本の鉄塔基礎の陰に太郎の店はぽつんとあった。カーボンケーブルのラインから地上にゴンドラを降ろしただけの移動式の小さな屋台で、敷地には何軒か店を並べられる広さがあるが、今は他の店は来ていない。店の中では店員の男が作業をしているのが見える。フォルトは敷地に入らずに通りを越えて、向かいの大掛かりなハウスの骨組みの出っ張りに座り、ウェンが来るのを待っていた。屋台との間の土色の車道が、野菜加工所のあるモノレールの駅まで下りのカーブを描いて続いている。
屋台の入口ドアから、人が出てきた。客が居たのか、とフォルトは思った。フォルトの強化視力は屋台に届く。小柄な若い女性。ショートカットで学生のようなコートを着ている。妊婦?
女の顔を知っている。今日は何度もノートで写真を見ていて、髪や目の色に惑わされる事はない。ルウに似た別人。
ユリエだった。
ユリエは店を出てちらりと後ろを振り返る。太郎の店が移動の準備を始め、ケーブルの一束が上空でぶるりと振るえて警告のブザーを鳴らし出した。ユリエは駅に向かうらしく、こちらに向かって歩いてきた。
フォルトは呆然としてユリエの行動を目で追う。ここで女と会うのは予想外だった。心の準備が出来てない。ユリエは店の駐車場のガードを跨いだ。妊婦はゆっくりと、慎重な動作をするものだと思っていたが、ユリエの動きはそうではない。
俺達が探している女だ。女を本社に連れて行く計画だ。だが、女と話をするのはウェンの役割だ。
ユリエは通りに出てきた。もう、ユリエにもフォルトの存在は判る近さだった。ユリエがフタバの背広を着た男を真っすぐに見る。
ウェンを呪っている暇は無い。フォルトは思わず立ち上がり、身体を投げ出すように飛び出した。車道の真ん中でユリエの進路に立ち塞がる。
ユリエは歩調を緩めてゆっくりと立ち止まり、背の高いフォルトを上目で見た。
「君は、ユリエだ。」
フォルトは限界の力で掠れた声を出し、僅かに身構える。間近でみた妊婦のおなかの大きさをフォルトは初めて知る。この女はウェンを投げ飛ばす力がある。この女を止めようとするのなら、俺は本気でかからないといけない。
ユリエは無言で、フォルトから目を逸らす事も無い。フォルトに答えるそぶりも無く、逃げたりする様子も無かった。動じず、感情を締め出したその瞳がフォルトの思考を硬直させた。
「君はユリエだ。」
二人は数歩の距離を保ったまま、ただ向かい合った。フォルトの言葉は先には続かない。ユリエは否定すらしなかった。
ゴンドラのケーブルの下降が終わり、ブザーが止まった。
同時にユリエがくるりとターンした。店の方へ戻り始める。フォルトははっと足を踏み出す。
「ついてこないで。」
ユリエは顔も向けずに言った。フォルトは本当に止まってしまう。
静かで、まるで世界の全ての事柄を決めてしまう様な声だった。
フォルトは自分が何故この女が苦手なのか、解った。最初からこの女の事を疎ましく思っていた。ユリエは小さな命をその体に宿していた。新しい命を生み出そうとするその行為自体が、かつて同じ物を放棄しようとしたフォルトの全てを完全に否定してた。
「ウェンが、君を探している。」
これ以上の言葉は思いつかなかった。ユリエに反応はない。
どうする事もできず、かろうじてフォルトの足はユリエの後をつけて歩いた。
屋台の上部アームにケーブルが固定され、屋台が上昇の警告音を周囲に出す。ユリエが叫んだ。
「タロウ!待って!」
田老が屋台のドアから顔を出した。フォルトを見つけ顔をしかめるが、顎をくいと上げてユリエを招き入れてみせる。
ユリエはガードを跨ぎ、フォルトを見た。
「ウェンって、ウェン先生の事?」不意にフォルトに言った。
フォルトは声を出せない。
「御元気なの?」
真剣に聞いている様に思った。
フォルトは頷いて見せた。
フォルトをユリエはしばらく見つめ、だまって屋台のステップを踏んだ。ドアに手をかけて言った。
「良かったわ。」
フォルトに言葉はない。この女を俺は止められないと思った。
ゴンドラがガクンと揺れ、鉄塔の重機の力で上昇し始める。田老はガードの向こうに取り残されたフォルトを壁に寄り添って覗くように見ていた。
「何か話したのか?」
「何も。どこかの駅で降りるわ。」ユリエは運転席の椅子に座り、自動走行のモニター画面へ目を向けた。
「あいつはフタバの社員だろ?朝来た男じゃないぞ。」田老は地上に小さく取り残されたフォルトが背広からノートを出すのを見た。
画面に映ったカーボンレールの道筋を見つめたまま、ユリエは返事をしなかった。田老は舌打ちして、カウンターでゴンドラの走行予定を変更した。ユリエの内耳に着信音が入る。手首のリングにルウからだと表示が出ていた。ルウは自分の電話が監視されている事を心配し、昨日から電話を切っていたはずだった。
ユリエは手首のリングを摘んだ。「ルウ、大丈夫?」
「見つかった!家にサービス課の連中が来たわ。」ルウがはあはあと声を荒くしている。
「あなたは今何処なの?」
「わからない。夢中で走って逃げたから。あいつらしつこいのよ。」
ユリエはドームの方向の窓に手を付いたが、ゴンドラからルウが見えるはずは無かった。
「無理しないで。」
ユリエは小さく覚悟した。サービス課の事はプラスなら誰でも知っている、フタバの最終手段だった。
「ルウ。もし捕まっても抵抗ちゃだめよ。」
「でかい男が逮捕するって言ったわ!ユリエを警察に連れて行くつもりよ!」
いつからか地下建築に入っていたらしく、ノートの地図に入り込んだ路地が出ない。通路と菜園が半導体の基盤のようにぎっしり詰まった構造物の中をなんとかゲートから地上に出ると、元の車両基地は広い車道の向こう側だった。ユリエの住居にはルウが戻るかも知れないし、ユリエが帰ってくる事も考えられる。車の往来の切れ間を待ち、ウェンはゲートの手すりに両手をついた。走り続け、心臓が爆音を繰り返す。意識は酸素を求めても肺が付いてこない。自分が怪我から回復したばかりだったのを思い出し、背中を丸めて視界が暗くなるのをこらえる。フォルトからのコールで、ウェンは力尽きた。
「見たのか?」呼吸の合間で声をかき出す。
「見た。お腹が大きかった。声を掛けたが止まってくれなかった。」
腕が膝に落ち、地面に両膝をがくりとついた。
「薬屋、」
「お前の事を話した。ウェン、すまない、彼女を止められなかった。」
頭を垂れて目を瞑り、息継ぎと考える時間をとった。ジェロの言っていた促進剤の事を思った。
「なんて言う店だ?」
「タロウストアだ。コンテナの底面に書いてある。」
首だけを起こして辺りを見渡し、車道際に電話ボックスが並んでいるのを見つけた。出入り口のある透明のガラスの箱の中に、操作パネルが付けられている。
「店に、電話があるかな?」声が掠れ、フォルトに聞こえなかった。
手摺につかまりふらふらと起き上がった。待っててくれ、フォルトの電話を切り、電話ボックスに向かう。一人用のスペースの扉を閉めると騒音が遮音された空間で血流が耳鳴りになる。ガラスの壁に身体を傾け、ノートを取り出して画像電話機のトレイに放った。
「電話、タロウストアだ。」
ウェンの命令にノートがアクセスを始める。電話機の通信ランプが点滅し、壁のガラスが黒に変わる。ランプの点滅が長く続き、消えた。文字で通話中、と表示がついた。
電話が繋がっている。壁の一面が画面になって相手が現れるはずだが、なにも写らない。ウェンは息をこらえた。
「またフタバか!お前ら何なんだ!」
商店の電話対応ではない男の声がスピーカーから聞こえた。ウェンの顔は相手に見えてる。あからさまな敵意の相手は、ユリエの仲間だ。身体を起こし、黒いガラスの向こう側にウェンは言った。
「ユリエと話したい。」
「おまえらはなんだ!うろうろしやがって!」
激しい口調に苛立ち、息を吐いた。
「僕はウェンだ。ユリエに、ウェンからだと伝えてくれ。」
「誰の事だ!ここは薬屋だ!」
パチン、と音が鳴り、画面が起動する。電話の相手が切り替わったのが判った。
女が立っていた。手で電話機のボタンを押した姿勢の女が、静かにウェンの方を向いた。ウェンにとって、ユリエと会ったのは数日前だった。瞳や髪の色が違っていても、ユリエを見間違う事はない。
ユリエを見つめた。
怒りも憐れみも、ウェンの中では反応しなかった。お腹を大きく膨らませたユリエの姿は、ウェンに全ての感情を放棄させた。
あの時の様に、ユリエは心を見せずにウェンを見ていた。
「御元気でよかったわ。ウェン先生。」
二人の経過を無しにして、ユリエは真顔で言った。
ウェンは最初に聞いた。
「子供は無事か?」
ユリエはごまかさなかった。
「元気よ。」
「お前の事を調べた。勇気君の事も知ってる。」
「貴方には悪かったと思ってる。どう償えばいいかわからないわ。」
二人の間にあるものを整理しなければならない。ユリエを説得し、どうしてもつれて帰りたかった。
「お前は自分の望んだ通りに妊娠したはずだ。あの日なんで園に来た?」
ずっと、ウェンは考えていた事を聞いた。
「妊娠が判って、もう勇気とは会えないって気付いたわ。人には分からないかもしれないけど、急に怖くなるのよ。」
あの時、ユリエはただ暫く、勇気君と居たかっただけなのかもしれない。あの時捕まってしまえば体の事を調べられ、すぐに妊娠を中止させられていただろう。
だが、ウェンは言わなかった。彼女は言い訳をする気が無いと分かっていたし、ウェンがあの日失ってしまった物はその新しい命の為の犠牲だったとすれば、自分の中での辻褄は合わせられた。
「あの日、お前は助けを求めたんだ。俺はそれに答えてここに来た。お前が一人で出産をする事は出来ない。赤ん坊は引き渡す事になるが、逃げても出口は無い。フタバで手術を受けてほしい。」
「誰にも渡さないわ。この街でこの子と暮らしたいの。」
ユリエの園での罪に司法が最大の寛容をしたとしても、彼女が今見ている夢は別だった。ヒトの子をロボットが産むという将来は、ヒトとその社会にとって受け入れられる事ではない。
「まず子供の命、それからお前の権利だ。」
「サービス課が私を探してるわ。フタバは私の妊娠を認めない。フタバに行けば子供は殺される。」
「絶対にそんな事はさせない。俺の上司は優秀だ。俺達が必ずその子を助ける。」
ユリエは首を振る。ウェンはユリエの、勇気君に話をした時の様な儚げな微笑みを見た。
「ウェン。私は自分の子供が欲しいのよ。」
自分のお腹に手をあてて言った。
ユリエはカウンターに置いてあったバッグから何かを取り出した。
白い、ボタン型の注射。ウェンはそれが何か、気付いた。
「お前の遺伝子操作は7年まえだ。その薬は使えない。」
「ルウは関係ないの。ルウに構わないで。」
顎を起こし、ボタンを自分の首に押し当てる。
「やめろ!」「おいっ!」
ウェンと同時に声がして一瞬男が画面に割り込む。電話が切れる寸前に、プチリとユリエの指先のボタンが潰れるのが見えた。
スーツケースに自分とユリエの服と貯めていた赤ん坊の準備を詰め込み、玄関ドアは開けっ放しで飛び出した。どうせ引っ越すつもりだったからかまわない。ユリエと待ち合わせた場所は渓谷の牧場地区だった。あの辺で車を借りて山を越えればすぐに隣の町に抜けられる。
待ち合わせ場所へは地下道に降りてまた一層下の水田地区から乗れる小さなケーブル路線が一番早いルートだった。水田地区はヘクタールの単位にブースが仕切られ、作物の生長に合わせた室温に調整されている。ケーブルの乗り場は幾つかのブースを通過した田んぼの奥にある。田植えの重機が置きっぱなしのブースの奥壁側にカーボンケーブルが張ってあり、ケーブルに沿ったプラットホームが造られている。この古びた索道は地図にも載っていない。水を張り苗植えを待っている田んぼのまわりには、夕暮れで人は誰もいなかった。ルウは田んぼよりも高い位置にあるプラットホームに上がった所で走るのをやめた。ホームの行き止まりまでケースを転がし、操作盤の横に目立たない様に立って、ゴンドラの操作パネルに行き先を入力した。地下トンネルの開口部の上の表示ランプを見ると、すぐにゴンドラが来る事を表す緑に変わった。ふと振り返り、ルウははっと固まった。
背の高い男がスロープをゆっくりと上がってきていた。ルウは男を確かめる。
フタバの制服を着た、サービス課の男だった。
トンネルにゴンドラの姿はまだ見えてこない。プラットホームに柵は無く飛び降りる事は出来るが、下は一面水を張った田んぼになっていて走って逃げるのは無理だ。待ち伏せされた、とルウは気付いた。監視カメラかなにか、陰険なフタバのシステムで追跡されていたんだ。ルウはプラットホームを歩いてくる背の高い男をにらんだ。男の顔は敵を見る兵士のように硬く、口を結んでいた。男はルウに声の届く距離まで来て立ち止まる。無言で両手を広げて何も持って無い事をルウに見せるしぐさは、逆に威嚇になっている。
「ユリエという女性の事を知りたいだけだ。」
もう、何を考えても手遅れだった。
「しらない。」掠れた声で答えた。
「誘拐未遂、傷害その他の疑いで逃亡中だ。」
「私は知らないわ。」
「貴方が居た場所はユリエの住まいだ。」
「フタバには関係ないわ!」
男はルウの全ての言葉を握りつぶす。
「君達の迂闊な行為で、プラス全体がどれだけの損害を被ると思ってる。」
トンネルからカタカタと音が聞こえていた。さっと振り向くとトンネルのカーテンから観覧車のような小さなゴンドラが出て来た。目的地は入力済み。さっと乗ってしまえばおしまい。
「逃げれば貴方を逮捕することが出来る。」
背中に冷たい声がかかる。カチャリ、と男が道具を取り出した音が聞こえた。男を振り切る事は出来そうに無かった。
「何処に行くつもりなのか教えてもらいたい。」
ルウの希望を断ち切る、凍てついた声だった。逃げる場所は無い。ルウはもう男を見る事が出来ない。ここで捕まれば、もうユリエには会えない。ユリエが一人で逃げ延びるのは無理だ。ユリエが捕まれば赤ん坊はフタバに始末され、ユリエは脳細胞を再構成されて記憶を消されてしまう。恐怖に声が震え何も言えなくなる。
鼻先が熱くなった。どうして?私たちは赤ちゃんがほしかっただけなのに。ヒトが誰でもそう願う様に、私たちも同じ夢を見ただけなのに。
「どうして、だめなの?」
ポロリとルウは涙を落とし、吐き出された怒りが咄嗟にケースを両手で持ち上げた。振り返るとゾゾが突き出した警棒をバチリ、と唸らせる。
ゾゾの後から別の男が走って来ているのが見えた。
ウェンを誘導した中央回路室の女性は、ゾゾもルウの追跡誘導を受けている事を言った。ゾゾより先にルウを捕らえたかったが、少し遅れをとった。ゴンドラの音で奴はウェンに気付いていない。覚悟を決めて突っ込んだ。
ゾゾが警棒を構えるのと同時に、全身の力を込めてでかい男の腰にタックルした。
「うわあっ。」
案外あっさりゾゾは落ちた。ウェンはつんのめりうつ伏せで倒れ、ホームの端のゴムにしがみ付く。ボクン、と下で泥が弾けゾゾは腰まで田んぼに嵌った。
立ち上がるとゴンドラが到着し、ルウはケースを放り込んでいた。ルウが乗ると自動で扉が閉まり、ゴトンとゆれて徐行で動き出した。ウェンは近づいてくるゴンドラのルウを見る。ルウは涙を手で覆っていた。
「ルウ。」
ルウは自分の胸に手をあてて、叫んだ。
「ここに書いてあったのよ!子供を産みなさいって!」
答える事ができず、ウェンは言葉を詰まらせた。振り向き、ケーブルの出口が反対側の壁にあるのを確かめる。扉はまだ開けられる。ゴンドラのプレートに手のひらを当てると扉が開いた。
「ルウ。僕はウェンだ。勇気君の保育園にいた。」
ルウの潤んだ目はウェンの事を覚えていた。ウェンがゴンドラに踏み込むとルウは狭い箱の一番奥まで後ずさりする。
「今のユリエが子供を産む事は出来ない。ユリエの体の事は君が一番よく知ってるはずだ。」
ルウは唇をきゅっと結びゴンドラの騒音で消えそうな声で言った。
「出来る。」
ルウの声に根拠は無い。
「彼女は薬局で促進剤を注射した。」
ハッと息を吸い、ルウは固まってしまう。
「間違いだ。赤ん坊はこのままだと死んでしまう。」
もうウェンの説得は訴えに変わっている。ルウはウェンから目を逸らし、動揺を隠す事が出来ない。
ルウは座礁した二人の夢に迷っていた。
「誰にも渡したくない。」
ルウの絞り出す声は独り言の様に籠っていた。
「ユリエは母親なのよ!」
「今一番大切な事は何だ?」
ウェンは辛うじて声を抑える。
「ウェンだな!許さんぞ!」
ゾゾがしぶきを上げて田んぼの畦に飛び上がり、スロープへ走り出した。ゴンドラは出口に差し掛かっている。スロープを泥だらけにして駆け上がってくるゾゾはゴンドラには追いつけない。
呆然とゾゾを見下ろすルウに、ウェンは言った。
「ユリエに会わせてくれ。」
カーテン繊維の擦れる音をたててゴンドラが地下トンネルに入った。
田老のゴンドラを水路分岐点のプラットホームで降りた。田老が色々とわめいていたが何を言っているのかよく分からない。大丈夫、と返事をしたと思う。リフトの呼び出しボタンが見えて、どうにかなって地上に降りていた。激しい水流の音が聞こえている。ユリエの意識にざあざあと浸水し、耳の奥で渦を巻いていた。薬の作用は田老の予想と違っていた。灰色がまだらになった木の幹に寄り掛かりながらふらふらと草むらを進み、足をとられて石柱に肩をぶつけた。足が蔦に絡めとられていた。冷たい石柱に背中を預けると、一瞬意識が切れる。体内機能の麻酔モードが作用し過ぎている。石柱に繁る蔦の束を片手で掴み、もう一方の手を足元にゆっくり伸ばす。傾いた姿勢のままずるずると体が滑り出し、掴んだ蔦の葉がぶちぶちとちぎれた。
ユリエが薬を使ったとウェンからの連絡があり、ジェロはフォルトに車を借りてウェンを追うように電話をしたが、促進剤の作用が早ければ車で運んでいる時間はない。フタバのヘリコプターでプラスサポートに輸送する手配をした。温田に知れれば間違いなく止められる。社内書類は出さず、緊急の扱いで出動要請を航空部に連絡した。上司の部長はあいまいな態度で、ジェロに連絡してこなくなっていた。こっそり温田の窮地を歓迎しているんだろうがジェロにとっても今はその方が良かった。
航空部の屋上のヘリポートに出ると、オレンジ色の夕日はビルの稜線に消えていく所だった。さっき夜間飛行を渋っていた担当者がジェロを見て指でОKのサインを出した。ヘリに同乗してもらうプラスサポートのドクターが、ジェットの爆音を上げる白い卵型の機体の下で待っている。
「俺は何でもかまわんが、君は大丈夫か?」
顔なじみのドクターはジェロの独断を気にした。これからフタバを取り巻く世間が騒がしくなり温田に引責が回って失脚したとしても、ジェロに残される上層部の最優先の評価は、扱いにくい社員としかならない。
ジェロは自分の立場は分かっていた。
「選択肢は無いよ。取るに足らない会社の括りで赤ん坊を見殺しには出来ないだろ。」
爆音で聞こえなかったが、ドクターは何か笑って言った。
ジェロは自分でウェンの台詞みたいだな、と思う。
「クビになったら俺が雇ってやるよ。」
ドクターの冗談ともいえない大声にジェロは頷いた。自分の判断が間違っているとは思わない。
だけどもし、チームを組んでいたのがウェンでなかったら、違う所で判断をしていただろうか、と考えた。




