end
川の湾曲が森を大きく裂いて、欠けた月が平瀬を照らしていた。
歪に重なった岩の連なりに、川面を跨いだ巨大な岩石が平たく伏せている。
まるで砕かれて落ちてきた月面のかけらの様に特別に、降り落ちる淡い光を積もらせていた。
巨岩のステージの上に、ユリエは居た。
岩肌に腰をおろして両手を前につき、ユリエは上半身の服を脱いで、丸めた白い背中に薄く光を受ける。守る様に広げた両腕の下でコートに包まれた赤ん坊がへその緒をつけたまま、力の限りの大きな声を響かせていた。
岩の表面を流れ落ちた黒い血の痕にウェンは立ち尽くし、脈を打つ胸の痛みも忘れてふたりの姿を見つめていた。
引きずる片脚の膝を落として屈み、ユリエに伸ばした手が震える。うつむいたユリエの頬に手をあてて髪を分けた。
動かなくなってしまったユリエの薄く開いた瞳には確かに、陰りは無いと思う。ユリエの見つめる赤ん坊の、濡れた口元に手を移した。
ウェンの耳に突然声がかかる。
「ウェン!」
ダイレクト回線を使ったジェロだった。
「聞こえてるよ。」
ウェンは答えた。
「無事か?」
「俺は大丈夫だ。フォルトは?」
「彼らは大丈夫だ。地元の救助隊が向かってる。ヘリがプラスの救援信号を受信した。ユリエが近くに居るのかい?」
「信号?」
「身元不明の救助信号だ。もう信号は消えてしまった。」
そうか、と答えて少し躊躇った。
赤ん坊にウェンの言葉が分かる事は無いのに。
「自分で腹を割いて赤ん坊を取り出したんだ。ユリエは死んでる。」
え、とジェロが電話の向こうで息を詰めた。
「赤ん坊は無事だ。急いで来てくれ。」
「生きてるのか?」
「生きてる。」
「泣いてるのか?」
ジェロは願うように聞いた。
「大声で泣いてる。ヘリをここに降ろせないか?」
「待ってくれ!」
ヘリが最新の設備を備えていたとしても、暗闇の森の中に着陸させるのは非常に危険な行為だとウェンは知っている。ジェロが電話の向こうで誰かと話し、声が聞こえなくなった。
ウェンは肩を振って自分の背広の襟に指を掛けた。血でべったりと皮膚に貼り付いた背広を、激痛に歯を食いしばり肩を縮めて脱いだ。
汚れは我慢してもらうしかない。背広をユリエの白い肩に掛けた。
「ここは寒すぎる。赤ちゃんを運ぶぞ。」
ユリエの横顔に呟いた。
泣き続ける赤ん坊の、コートからはみ出した足を掌でさすり、へその緒を裂けたユリエのシャツで縛り、ついて来た胎盤もコートに仕舞った。震える腕をもう一方の手でぐっと掴んで、自分の感覚を確認する。少しづつ赤ん坊の首の下に手を入れて、コートのまま赤ん坊をゆっくりユリエの腕から引き取った。
赤ん坊はウェンを責める様に産声を高く上げ続ける。体の痛みを振り切って慎重に立ち上がると、月明かりが赤ん坊のくしゃくしゃの顔を照らした。真新しい命が軽すぎて、本当に抱けているのか自分の腕が信じられなかった。
「ウェン、川の中に着陸する。赤ん坊とユリエを乗せると定員オーバーになる。君は僕とその場に残れるか?」
ウェンは頷く。
「早くこの子を病院に運んでくれ。」
月を見上げ空を仰ぐが、赤ん坊の声は大きくて、ヘリの音はまだ聞こえては来ない。
抱いた赤ん坊の感覚が、ウェンの意識を飛ばそうとする。自分の体温を分ける様にすこし強く抱きしめ、赤ん坊に話しかけた。
「お母さんが君を守ってくれたんだ。」
「えっ?何だって?」
ヘリの騒音でジェロは通話が届きにくい。ウェンは赤ん坊から目を逸らさず、自分がこの子に笑顔を見せられているのだろうかと思う。
「ジェロ。」
「何だ。ウェン。大丈夫かい?」
「この子はどうなる?」
早すぎる質問だったが、ウェンは考えずにはいられない。
「まだ分からないよ。」
「この子は、ユリエや俺達を、恨んだりするかな?」
ガリガリと雑音が混じり、ジェロは間をとった。
「分からない。分からないよ、ウェン。その子がヒトの当たり前の権利を得る事が出来るよう、僕達がその子を守らなきゃならない。」
月明かりに霞む星の光点の中に、ヘリの赤い点滅を見つけた。
そうだな、ウェンは呟いた。
ユリエとルウの見た夢を、この子は知るべきなのだろうかと考える。
何時かきっとこの子は大きくなり、自分の命の意味について自分に問いかけるが、答えが出る筈はない。
この子に母親達の事を伝えたい、と思った。
ウェン、とジェロが大声で呼んだ。
「男の子?女の子?」
ジェロは聞いた。
「ん?」
ウェンは張り詰めていて覚えてない。
男の子だ、と言い切ってから赤ん坊に添えた腕を少しずらし、コートをちょっとだけめくった。
おわり




