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未満の月  作者: 粒子
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 ウェンに叱られている間、園児はウェンの目を見ようとしない。

 下駄箱の隅っこをじいっとにらんで、ウェンにつかまれた手首が解放されるのを待っている。

 園児は同じクラスの女の子が工作の時間に作った厚紙の太鼓を、他の友達とじゃれ合ううちに踏みつけて破ってしまった。全力疾走でにげだした園児をウェンはすぐに捕まえ、じたばた抵抗する腕をつかんでゆっくり話をする。「自分の大切な物」について、それから太鼓を破かれた子の「悲しい気持ち」について。

 男の子はつかまれた茎のように細い腕を振り回し、外に出たいと訴える。ウェンはこの子の心に自分の言葉が残るにはまだ時間がかかると分かっている。

 3年前保育士に成り立ての頃、繰り返しだよ、と園長先生に教えられた。

 ウェンは園児を保育園の小さな玄関ホールでつかまえていたので、若い女性が扉を開けて入ってきた時、女性を見上げる格好になる。夕日の影が細長く差し掛かり、お迎えの時間になっている事を告げている。玄関のガラス戸から見える高いモミの木で囲まれた駐車場には車や自転車はなく、女性は歩いてきた様だ。

「だってね、園長先生が外に出ていいって言ったよ。」

 捕まえられた子供は脱出を試みる。

 女性がウェンに軽くお辞儀をして、吹き抜け天井にステンドグラスのある階段を2階のバラ組の部屋へ向かう。

「じゃあもう一回園長先生に聞いてみようよ。」

 ウェンは園児の嘘をはね返す。子供を部屋へ連れて行き園長先生を呼ぶと、園児はウェンの手をすり抜け走りだす。太鼓をテープで修理している女の子の傍で立ち止まり何か小さくつぶやくが、女の子の返事は貰えない。

 ウェンは男の子の勢いとは裏腹な小さな声に笑ってしまう。園長先生がウェンに合図して見せ、共同作業で太鼓を修理している二人に話しかける。園長先生はどんな風に子供達に話すのか横から少し聞いていたが、途中でさっきの事を思い出す。

 玄関ホールを経由してウェンはバラ組の教室へ向かう。黄色に塗られた木材の階段を2段づつ上がる。2階は部屋が2つあり、帰りの時間でお迎えを待つ子供たちで廊下まで遊び場になっている。年長の子供達がウェンにまとわりつき、ウェンはなんとかバラ組にたどり着く。バラ組の先生は同じように子供達に囲まれている。さっきの若い女性の姿は見当たらない。女性は佐々木勇気君という男の子の家の家政婦だったと記憶している。群青色の髪を肩でカットした飾り気の無い女性で、何度も勇気君の送り迎えに来ていたが、最近は見かけなかった。今日の彼女は以前と違っていたのにウェンは気づいていた。ウェンはバラ組の担当の先生に尋ねる。

「陽子先生、勇気君は帰ったの?」

 陽子先生は書きかけのクレヨンを画用紙に立てたままウェンを見る。

「今、勇気君のおねえさんが迎えに来ましたよ。」

 保育園はそんなに広くない。階段を上がってきた自分と会わない筈は無い。

「勇気君、今日は送迎バスに乗って帰るんじゃないの?」

 陽子先生はウェンがなにを言っているのか解らない。

「朝はお母さんからそう聞いてましたけど。まだその辺にいらっしゃいませんか?」

 ウェンは隣のトイレをのぞくが、誰もいない。廊下の突き当たりのテラスに出るドアを見る。子供が出ないように着けられたカギが開いている。廊下を走ってドアを押す。ドアが軽く開いて大きな音をたてて戸当たりにぶつかると、冬の冷気が静かに廊下に流れ込む。テラスは1階の屋上になっていて、干からびた小さなプールに落ち葉が溜まっている。

 プールの向こう側の非常階段の所に、子供と手をつないだ女性が立っているのを見つけた。

 女は外階段の軽金属の扉に手を掛けて、ただ物を見る様に、黒く深い眼差しをウェンにむけている。透明な、端整な女の顔にウェンは戸惑い、言葉が出ない。目を合わせたまま、ゆっくり歩み寄る。女は止まってしまったかの様に動かず、瞳だけがウェンを追う。子供の頭がきょろきょろと外を眺めている。

 声が呟きになる。

「なんで、こんな所から帰るんですか?」

 彼女は表情を変えず、口も開く気がない。ウェンの背中でドアの丁番がギッと鳴き、陽子先生の声がする。

「ウェン先生?」

 女の瞳がドアの方向に動く。ウェンはふりかえらず、ゆっくりと子供のもうひとつの手首をつかむ。女はまたウェンに目をもどす。子供をはさんでふたりは向かい合う。

「僕を避けたんですか?」

 ウェンは非常時を確信する。

「今日はバスに乗って帰る様に聞いています。お母さんの確認をとらせて下さい。」

 両手を取られた勇気君が割り込んでくる。

「ウェン先生、今日はママはお仕事になったからユリエと帰るんだよ。」

 ウェンは答えず、子供を見ない。だが、女の瞳は子供の言葉に感情を表す。ユリエという女が僅かに変化するのがウェンにわかる。ユリエは子供を見る。ストン、と落ちるように屈み込む。子供の背丈までひざを折り、目の高さを合わせる。子供の額の髪を指でわけ、顔をよせて唇を乗せる。勇気君がふふと笑う。ユリエは小さな掌を両手で握り直してから勇気君だけに微笑み、落ち着いた優しい声で話しかける。

「ママがお家で待ってるみたい。勇気君、バスで帰ろう。」

「ユリエは?」

「お仕事が終わったら帰るね。」

 勇気君にユリエの変化はわからない。ブルーの瞳をクリクリと廻す。

「うん、先に帰ってる。」

 子供のあっけなさに、ユリエは慌てた様に勇気君を抱きしめる。ウェンは握ったうでを離しそうになり、指に力が入る。

「ウェン先生、痛いよ。」

 ユリエの肩にあごをのせたまま勇気君が不平をいう。ウェンに返事をする余裕はない。

「陽子先生、勇気君を部屋へ連れていって。」

 ウェンは子供の肩に手を廻し、二人を引き離す。ユリエの腕はつっかえをなくした枝のようにするりと落ちる。

「えっ、なんですか?」

 陽子先生は訳も分からず、ウェンの緊張した様子に自然に子供を自分に引き寄せる。ウェンはピクリと頷く。ユリエは座ったままで、陽子先生と勇気君が建物の中に入るまで二人は動かない。先生は他の子供達が外に出ない様に、ドアを閉める。裏山から下りてくる重たい冷気が加速した。

 ウェンにはユリエの行動の全てがわからない。

「どこへ、行くつもりだったんですか?」

 ユリエは閉められたドアを見続ける。瞳は無機質な機械のようにユリエの心をガードしている。ウェンは躊躇わない。

「勇気君のお母さんに連絡をします。少し待ってください。」

 ユリエはなにも言わない。ウェンの言葉が聞こえている様には見えない。あるいは興味がない。

 ユリエは立ち上がり、不意にウェンを見る。

 目が合う瞬間、ウェンは衝撃に吹き飛ばされる。柵の手すりパイプに激突し、基部のコンクリートが炸裂する。捻じ曲げられたパイプがブンと唸り、ウェンの背中にめり込んだ。

 えび反りにされた身体が建物の外側で宙に浮き、ぶらぶらと揺れる。

 首が仰向けにのけ反ってゆく。

 ウェンの瞳は橙色の雲を映す。パイプがズッと滑り出し、ウェンは地上まで落下する。

 アスファルトの地面に横向きに叩きつけられた時、既にウェンの意識は終わっている。


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