寸劇
場所はとある高校の図書室。ガランとした貸切状態のようなこの場所で、二人の女子生徒が向かい合って座っている。一人は広辞苑を流し読みしており、もう一人は文庫本を読み耽っていた。
淡々と流れる無音の時間。それに飽きたのか、広辞苑のページを適当に捲っていた少女が怠そうに口を開いた。
「しかし……」
「……」
「素晴らしくいいお天気じゃないか。なんというか、この時期にここまで気温が上がるともはや温暖化とかどうでもよくなってくるね」
唐突に温暖化について話始めた黒髪眼鏡の少女はこの学校の次期会長候補と目される存在、三橋侑香。
「最近温暖化云々の話はほとんど聞かないんだけど、なにか関係あるの?」
僅かに顔を上げ、面倒くさそうに反応するのは会計として生徒会に所属する少女、沢村楓。金糸の髪をくるくる右手の人指し指で弄びながら、眠たげな眼で会長候補の書記を見やる。
「そりゃまあ、一応あるんじゃないのかな? 正直その方面の知識はまったくないのでね。よくわからんが」
にやりとする侑香。楓はその顔から瞬時に目を逸らす。
「よくわかってないのに適当な事言わないでくれる? 間違った知識っていうのはそういうところから入ってくるのよ」
「むう、心外な。私は私なりに地球の未来を憂いていてだな……」
「さっき温暖化とか甘えてんじゃねぇ、みたいなことを言っていたじゃない」
髪を弄るのに飽きたのか、言いながら楓は読書を再開しようと文庫本を開くが、一度途切れた集中力は中々戻ってこなかった。頬杖をついたまま溜息をつき、右手でペンを弄ぶ。目の前の少女とは先程から目を合わせない。
「ははは、なんの話をしているのかがよくわからないのだが。もしやこの夏の暑さで耳をやられたかい?」
ちなみに現在、三月である。
「あんたの中で三月がどういう位置付けなのかがよくわかったわ」
「いやいや、だからね。三月にもかかわらずこの暑さだよ。見るがいい、この温度計。なんかもう、振りきっているだろう? いろいろと限界を」
懐から温度計を取り出し、満面の笑みで見せつけてくる侑香に対して楓はどう反応していいか悩んだが、とりあえず言いたいことを言っておくことにした。
「生徒会室のやつでしょう? 前から五十度越え記録してるんだけどソレ。いい加減捨てるか買い換えなさいよ」
すると一瞬真顔になった侑香は、再び懐に温度計を戻す。なぜ温度計を持ち歩いているのか、パンピーたる楓には想像もつかない。しかし彼女のこうした行動にいちいち疑問を持っていては付き合ってはいけないため、深くは考えないようにした。
「それはとりあえず画面端に追いやって! やはりな、ヤバイんだよ地球が! このままだと! なんとかして食い止めるべきだと思わんかね?」
「すこぶるどうでもいいわ。私に出来ることなんて微々たる事だし」
その言葉に目を見開き、侑香は両手で机を叩きつつ立ち上がった。はずみで椅子が倒れ、ゴンッという音。
「君はホッキョクグマさんたちがだんだん減っていっている現状に心が痛まないのか!」
いきなり大音量で声を荒げる侑香に対していい加減イラッときた楓は、そのぱっちりとした目をこれでもかというくらい細め、口を歪ませ、出せるギリギリの低い声で吐き捨てた。
「あんたみたいに無駄にペラペラしゃべる奴が絶滅すれば二酸化炭素が減るから対策になるんじゃないの? いっぺん地獄の底から地球の海の現状を見上げてみたら?」
侑香、しばしの絶句。
気を取り直して言葉を紡ごうとするその顔は明らかに引き攣っていた。
「君は本当、凄まじい形相からの手厳しい意見で人をバッサリ切り捨てるのが好きな人間だね。だがな、その程度の暴言で食い下がる私では……」
ここで楓は机の上で閉じられていた文庫本を開き、再び読みかけのページに目を落とした。それとほぼ同時に侑香の肩をポンポンと叩く音がかすかだが聞こえた。それに巻き込まれないための逃避行動だった。
そもそも机を叩き、声を荒げるなどしたのは侑香であり、楓は関係ない。しかし侑香の背後に立つ、鬼のような形相をした図書委員を直視し続けるのは、いかに鋼のメンタルで有名な楓でもいろいろと来る物がある。
そして楓は本から一ミリも視線を逸らさずに、両手で耳をゆっくりふさいだ。
※
「あまりに理不尽だとは思わないか。私の数倍はでかい声で怒鳴り付けてきたぞ、あの委員」
「ていうか、なんで私まで図書室出禁食らわなきゃいけないのよ。騒いだのはこいつなのに」
「まあ、そこはざまあ見ろとしか言いようがないが」
「滅べ」
結局あの後、侑香の暴挙を止めなかったとして楓も約二週間の図書室の出入り禁止を言い渡された。とばっちりもいいところである。
そういうわけで二人の雑談場所は図書室から校庭脇にあるベンチに移っていた。彼女等の目的は雑談ではなかったはずなのだが、図書室を追い出されたとなると、本来の目的は達成できないためお手上げだった。
「滅べ、ね。ああ、人間が滅ぶのが究極のエコという話か。あったな、そんな歌。確か同性愛が推奨されていた記憶がある」
「そういう意味じゃないんだけど。だいたい歌の話でしょ、それ」
校庭には人影は無い。普段ならば部活などで騒がしい空間が、今は嫌に静かである。当然といえば当然、現在大好評春休み中である。
――この奇怪人間といったいこんなところで何をやってるのだろう。
菓子パンを頬張りながら思う楓だった。
「……まあでも、確かに一理あるんじゃない。無駄に増えすぎなのよ、いろいろと。生き辛いったらないわ」
「ふむ」
何かを思いついたらしい侑香が、なぜか楓の首筋を指でなぞり始めた。
頭になにやってんだこいつ……という考えが浮かんでから一拍置いて、楓はその手を全力で払う。その拍子にパンの袋が宙に舞い、風に流され遠くに飛ばされた。
「何やってるのよあんた。気でも狂った?」
「いや、なんていうか。君は本当に美しいなと」
「気持ち悪いんだけど」
「嘘偽り無い感想だよ。ほら、うら若き乙女が恋せぬまま高校生活を終えるというのもアレだろう」
「ならヘテロらしくちゃんと男を狙いなさいよ」
じりじりと侑香から距離をとる楓。しかしそれと同じように侑香も楓へとにじり寄り、距離が開くことはない。見れば侑香の顔は若干紅潮している。春の強すぎる日差しのせいだと、楓は無理矢理納得しようとした。
「私は自分の事をヘテロだと明言したことは一度もないんだが」
「え、本気?」
「それなりに。興味があるのは男だけじゃない。それは事実だ」
黒い髪を風になびかせ、妖しく微笑む。
楓には理解ができない。長い付き合いではあったが、こんな癖を持っていただろうか? ……答えは出ない。
では、歌の話からなぜ侑香がこんな行動に出たのか? 付き合いが長いだけに、その答えはあっさりと出た。多分意味なんて無いだろう、侑香だし。
「別に、私はガチでゆりんゆりんな人間ではない。ただほんのちょっと女子の体というものにもそそられているだけで」
「立派にガチじゃない」
「いや、どちらかと言えば両刀」
「どちらか? それ中間って事でしょう。寄らないでくれる? 変態が伝染る」
「そう言うな、いいじゃないか。誰も見てない。私たちはこの学校のアダムとイヴ……もとい、イヴとイヴだ」
「やかましいわ」
すでに両者の距離はゼロに等しい。完全に侑香が楓を押し倒すような形になりつつある。
誰もいないとはいえ、真っ昼間の校庭でその様な体勢でいれば、たまたま通りかかった人間にどの様に見られるかは想像に難くない。
しばらくそのままの体勢で時が流れ、やがて侑香はくすりと表情を和らげた。楓の肩から手を離す。
「まあさすがにここまでやることはなかったか。君の動揺した顔を見たかったんだが、あまり効果は無かったみたいだね」
残念残念と、あまり残念に聞こえない声色で呟きながら、侑香はそのまま上体を起こそうとした。
しかし、そんな彼女の腕を掴み、楓がそれを妨害する。
たじろぐ侑香の目をじっと見つめ、楓は優しく侑香に語りかける。
「ねぇ……どうして効果が無いか、教えてあげましょうか?」
「は?」
侑香は頭を押さえつけられた。
目の前には人形のような顔立ちの少女。作り物と言われても驚かない佳麗な造形のそれが、ゆっくり近づいてくる。疑問を持つより前に、それに視線と心を奪われた。本当に憎たらしいほど綺麗な顔だ。うらやましい、憎たらしい、愛くるしい、美しい。
最後に見たのは黒に浮かぶ金糸の線だった。侑香はそれに、目どころか意識を完全に奪われていた。
そして、しばし後。
「……君はいったい私に何をした」
「別に。何もしてないわ」
乱れた髪を手櫛で整えながらしれっと言う楓に、先程と同じように侑香は詰め寄る。
楓の口がもごもごと蠢いているのが気になるが、今は不可解な行動を確認するのが先決である。
「しただろう、絶対。なんだ、君もそういう属性なのか。だから効果はいまひとつだったのか」
「さあ、どうでしょうね? とりあえず」
無表情だった顔をイタズラが成功した子供のような笑みで染めた楓が、ベっと舌を出す。
ピンク色の舌の上には鮮やかな黒の髪の毛が一本、横たわっていた。
「ごちそうさま。いい歯触りだわ。あんたの前髪。長さ、太さ、しなやかさ。つまようじ代わりにはぴったり」
「ほう、手を使わずにか。器用なものだな……ではなく、私の長い友達をつまようじ扱いとは。やはりしていたじゃいか」
「やってないわ。少なくとも、あんたが思っているようなことは一つもね」
「屁理屈だな。で、君は本当にそっち属性なのか?」
「さてね。すべてはこれからの私次第よ。いろんな意味でね。上手くいけば進化するかも、そちら側に」
「厄介なモンスターだな、君という奴は」
「あんたよりマシでしょ。それより、この終わる気配の無い春休みの課題、どうしてくれるのかしら?」
一瞬の間。
「……いや、君だって途中から飽きて文庫本を読み散らかしていただろうに」
「そこを突かれると弱いわね。まあいいわ。とっとと市の図書館で続きするわよ」
「公衆の面前で今の続きか。君も意外と……」
「やっぱり滅ぼしておくべきだったわね、あんたは」
課題の入ったクリアファイルを鞄に詰めながら、楓は先程のことを思い返す。
自分を見る侑香の顔はどこか虚ろで、何かにすべての感情を持っていかれていたかの様だった。前髪を引き抜いてもまったくの無反応だったのは仕掛けておいてなんだが、楓も驚いた。
ふと疑問に思った彼女は軽い気持ちで侑香に問う。
「参考までに聞きたいんだけど、もし私が『女の子に興味あるのは私も同じなのよ?』な人間だったらどうしたのよ」
ん~? と唸る声を上げた後しばらくして。
「そうだな……普通にワンチャンあるな。君となら私も吝かではない」
「ああそう。大変不光栄なお答え、どうもありがとう」
聞かなきゃ良かったわと一言付けたし、ベンチから立ち上がる。
今のやりとりがこれまでの中で一番精神的にキた。もう早く課題をやっつけて帰ろう。そして今後、こいつとは少し距離を置いた方がいい。
後ろで薄ら笑いを浮かべる侑香を見ながら、楓はそう心に決めた。
「じゃあ行きましょうか」
「ああ――しかしその前に、一つエコ活動をしないといけないだろう、君は」
「なに? ついに私の手にかかる腹を決めたの?」
「それはまたの機会として。ほら、アレだ。さっき飛んでいっただろう。袋が」
彼女の言う袋とは、楓が侑香の手を払った時、風にさらわれたパンの袋のことらしい。楓は脱力した。なぜそんな細かいことをいちいち覚えているのだろう、と。
「清掃担当の仕事を増やすんじゃない。わかったらとっとと拾ってきたまえよ」
「原因のくせして偉そうね?」
「そんなものは知らん。ポイ捨てはそもそも社会的なルール違反だろう? つべこべ言わず行った行った」
正論だけに何も言い返せなくなった楓は鞄を侑香に押し付け、「馬鹿!」と捨て台詞を一言吐いてから校庭へと駈け出していった。
その後姿を見守る侑香は、どこか満ち足りた笑顔を浮かべていた。
楓がどう思おうと、二人が離れ離れになることはないだろう。侑香がそれを望んでいないのだから。
二人の奇怪な友人関係は、いつまでも続く。