その八 「明日なき暴走」
営内に非常呼集を告げる喇叭が鳴り響いたとき、ぼくは基地内の将集―――――将校集会所で昼食後のお茶を注いでいた。陶大尉は、本来なら内務班にいるときよりも量の多い食事にありつけるはずの中隊当番の昼飯時も、ぼくを解放してはくれなかったのである。
「鳴沢二等兵、給仕をしろ」
女のくせに……と言っては語弊があるが、陶大尉はどちらかと言えば大食漢である。ぼくに持って来させた将校集会所の、たっぷりとした献立を悠然と平らげ、ご飯も三杯お代わりした。内務班でぼくが逆立ちしたってできないことを、大尉はあたかもぼくに見せ付けるかのように終えたわけである。非常呼集の喇叭が鳴ったのはまさにそのときだった。
……それより前、ぼくが大尉に代わり献立の配膳の列に並んでいたときに、既に何かがおかしいという気はしていた。どこからか重機のようなディーゼル音の蠢く音がし、何か工事でもするような物音を立てていたのだ……この時点で事件は既に始まっていたのだが、だだっ広い基地の盲点というべきか、ぼくらを含めそのとき将集にいた多くの人間が異状には気付いてはいなかった。
非常呼集の喇叭が鳴れば、兵士は多くとも五分以内には自分の所属する内務班または舎前営庭に集合しなければならない。これは中隊当番の者もまた例外では無く、大尉に敬礼を施して将集を出ようとしたぼくを、大尉はまた呼び止めた。
「鳴沢二等兵、何処へ行くんだ?」
「ですから……非常呼集が……」
「本官が許可をしたか?」
「いえ……でも」
「でももスモモもない。鳴沢二等兵、ここにいろ」
悠然と茶を飲み終えると、大尉は席を立った。すでに喇叭は鳴り終わり、兵士は呼集に応じあらかた集合を終えている頃合である……こんなときにぼくがノコノコと外へ出て来ようものなら、確実に古参兵にボコられる。それを想像し震え上がるぼくの内心を知って知らずか、大尉はぼくを省みた。
「鳴沢二等兵。ついて来い」
足早に席を立つ大尉に付き従い外に出、舎前営庭へと続く道に入ったそのとき、目に入った光景にぼくは我が目を疑った。
「なに……これ?」
立ち竦むぼくの目前で、停車場と営庭を隔てるフェンスがドミノのように何枚も薙ぎ倒されていた。隣接するその一角、通信塔もまた根元からひん曲げられ、切断された電線がケバケバしい火花を吹き上げていた。駐車場でも、営外居住の将兵が停めていた乗用車が纏めて四、五台ペシャンコに潰され、持主と思しき下士官が愛車の変わり果てた姿を呆然と見詰めている。まるでキングコングがその辺を通りかかったかのような惨状が、ぼくらの眼前に広がっていた。だが地面にくっきりと残っていたのは、キングコングの足ならぬ戦車の覆帯の、地面と車両を踏みしめた痕だったのだ。
「これって……」
あまりの光景に唖然とするぼく。舌打ちした陶大尉は、足早に舎前営庭へと向かい始める。
……果して、基地司令官副官の大尉を通じ知らされた事態は、皆の想像を越えていた。
「脱走事件発生。陸軍の戦車兵が74式戦車を営外に持ち出し、脱走を図った模様」
脱走?……最新鋭戦車の持ち出し?……混乱する皆の前で、基地司令官は蒼白な顔もそのままに命令する。
「これより捜索隊を出す。隊員には実包を支給し、装甲車両の支援の下捜索を行う。直ちに車両と搭乗員の行方を追跡せよ」
捜索部隊の指揮は、陶大尉とその他二名の大尉が摂ることになった。その他は待機、これで漸く大尉から解放されるのかと思ったのも束の間、出発の間際に陶大尉は石橋大尉に歩み寄った。心なしか石橋大尉が怯えているように見えるのは気のせいだろうか?
「石橋君。鳴沢二等兵、借りて行っていいよね?」
「え……?」
「だからさ……鳴沢を借りていいよ、ね!?」
「まいったなァ……」
逡巡する素振りを見せる大尉の鳩尾に軽く突きを入れ、陶大尉はドスを利かした声で囁いた。
「お前……あの事言うけどいいのか?」
「う゛ー……」
陶大尉と石橋大尉の間に昔何があったのかは知らないし知りたくも無い。だがそれで話がついたのか、陶大尉はぼくの方を振り向き、例の刃物のような笑みを浮べた。
「鳴沢二等兵、運転手をやれ」
慌ててジープの使用許可を得ようと中隊事務室へ行こうとしたぼくを、大尉は呼び止めた。
「ばか、誰がジープにすると言った?」
え……違うの?
47式指揮通信車。別命「指揮通」。アメリカ製M8グレイハウンド装輪装甲車を元に設計、開発された国産初の装輪装甲車である。装輪式であり、61式や74式のような戦車に比べ小振りな車体ではあっても、そのタイヤ直径は田舎の路線バス並み、エンジン出力はちょっとした大型トラックよりも大きく、果してぼくの持っている普通免許で法的に運転できるのか?……という疑念すら湧く。
連隊本部より受取ってきたキーをぼくに放ると、陶大尉はその「指揮通」に顎を杓って見せた。「運転しろ」という暗黙の命令だった。
命令されるまま、ぼくが腰を落とした運転席は落とし穴のように薄暗く、その位置は並みの乗用車より一段と高い。ハンドルの付け根部分にはオンボロ漁船のエンジンルームのような、いかにも取ってつけた感じの計器類が無造作に並んでおり、座席の高さを上げ前面のハッチから顔を覗かせれば、あたかも頭だけを宙に出して運転しているかのような感覚に襲われる。
陶大尉は、何処からか持ってきた馬鹿でっかいトランクケースを後部キャビンに積み込み、運転席の背後にある指揮官席に陣取ると、あのドカ靴で背後からぼくの頭を蹴り上げた。
「ボサッとするな。出せ!」
始動時に沸き起こる凄まじい振動とどす黒いディーゼル煙……それが、この指揮通が経済性とか自然環境とかを度外視したとんでもなく不健康かつ堅牢な乗り物であることを声高に主張している。戦車や装甲車のそれには及ばないものの、スカラベのような装甲を張り巡らせたこの車に、チキンゲームを挑もうという酔狂なやつはこの日本中どこを探してもいるわけがない。
重いアクセルを踏み、硬い変速レバーを動かす度に油圧ブレーキ、そして変速機の不気味な軋みを立てながら指揮通は動き出した。その上部にはハッチから身を乗り出し、機甲部隊用無線機を通じ部下に指示を出す陶大尉の勇姿……! 気分はまさに「砂漠の狐」ことロンメル将軍だ。
『鳴沢二等兵……わかってるな?』
「……はっ」
『……一回でもエンストを起こしてみろ?……地獄を見せてやる』と、大尉はぼくに檄を飛ばすのも忘れない。ぼくもまた、前部ハッチから覗かせた顔を引き攣らせ応じる。
「絶対起こしませぇん!」
基地正門から衛兵の見送りを受け、勇躍出撃。公道に出たところで陶大尉は慣れた手付きで無線機のダイヤルを弄り始める。指揮通だけに通信装備が充実していることもあるが、わずか一分で彼女が引き出したのは何と警察無線の周波数だった……な、慣れてる。
イヤホンに耳を澄ませながら、大尉は言った。
「警察が動き出したか。余計なことを……」
確かに、頭を乗り出したぼくの耳にも、遠方からパトカーのサイレンが、それも重複して聞こえてくる。騒ぎを聞きつけた一般人が騒ぎの震源を探して沿道を小走りに行き交い、一般車に混じり公道を走行するこちらを興味深げにジロジロと見ているのが手に取るようにわかった。そこに警察無線の傍受から情報を得た陶大尉の指示が飛んだ。
『目標、五反田方面。急げ!』
「りょーかぁーい」
ふと見上げた先、空を飛んでいたのは陸軍のヘリコプターならぬ新聞社のヘリコプターだ。すでにテレビには、脱走した戦車の映像がお茶の間に流れているかも知れない。おそらく今頃、基地のお偉いさんもぼくと同じ事を想像し真っ青になっていることだろう。あるいは、テレビで暴走する戦車の勇姿を眼にして泡を吹いているかも……
『――――該車、料金所を突破……もとい破壊。首都高一号線を東京市中央へ向け疾走中』
『――――警備本部より各車へ、銃器の使用を許可する。繰り返す、銃器の使用を許可――――』
騒ぎはいよいよ大きくなっていった。それにしても、戦車を操縦して脱走なんて一体誰がそんなクレイジーなことを……その答えは疑念を抱いて即座に与えられた。
『――――連隊本部より各車へ、脱走兵は新藤軍曹と確認。繰り返す、脱走兵は新藤軍曹一名――――』
「…………!」
あやうくぼくは、クラッチを繋ぎ損ねるところだった。
「あのバカモンがぁ……」
陶大尉は呻き、拳でハッチを強かに打ち据えた。ぼくらが五反田に入った途端、おそらく制止に失敗したのだろう、突破された防止線の残骸とともに、沿道で数台のパトカーがペシャンコに潰され、あるいは跳ね飛ばされ無残な鉄屑と化しているのを見る。その周囲に制服警官や救急隊員が集り、野次馬も加わって騒ぎは一層に大きくなっていた。
首都高一号線の出入り口たる料金所、グシャグシャに潰されたそのブースを目にした途端、事態がもはや警察力が対応できる限界を超えていることをぼくは知る。上空から迫るハエの羽ばたきのようなローター音は、陸軍のOH-6偵察ヘリコプターだった。
「陶大尉殿……?」
「何か?」
「新藤軍曹の脱走の原因って……やはり、離婚問題なのでしょうか?」
「そんなこと……貴様が斟酌することではない。鳴沢二等兵、高速道路に入るぞ」
「ええっ……料金は?」
「構わん、後で領収書を回させる」
「リョーカァーイ!」
そうならばぼくにも異存は無い。陶大尉は無線機に声を荒げた。
「陶大尉より捜索隊全車へ、至急五反田より首都高に入れ。脱走兵は東京方面へ向かった模様。遅れたやつは日干しだ!」
丁度同じ時間、東京方面の近衛連隊にも出動が下令され、偵察ヘリからの報告に従いぼくらとは逆方向から首都高に進入しようとしていた。だが……
このとき、ちょっとしたトラブルが持ち上がった。ぼくら近衛連隊の側から見れば、これは明らかに「踏んだり蹴ったり」という事態であろう。料金所に差し掛かったとき、フリーパスで通ろうとした捜索部隊に、職員が通行料の支払いを要求したのである。
基本的に軍は、訓練時に特別の許可を貰うか政府もしくは地方自治体が緊急事態と認定しない限り、フリーパスで高速道路を使用できないし、公共の交通機関も動員できない。だが今回の脱走劇が厳密な意味での「緊急事態」に該当するかというと……チョット微妙。当然部隊は勤務中なので持ち合わせなど持っているわけもなく、したがって、事態を知った東京市から制式に出動要請が出るまで、十数台にも及ぶ軍用車両が狭い料金所区間に足留めされる事態に陥ることになった。
高速の向こう側でそんな事態が起こっていることなど露知らず、本来なら100km/時前後で走行しなければならない高速道路を、47式指揮通は80km/時程度の速度で走っていた。もとが第二次世界大戦当時の設計、これ以上の速度を望むことに無理がある。お陰で事情を知らない一般のトラックやら乗用車には盛んに煽られるし、危険過ぎて迂闊に車線変更なんてできないしいいことない。
ここでも、跳ね飛ばされた数台の自動車がボンネットをパカッと開け、路肩で煙を出し燻っているのを見る。中には跳ね飛ばされた反動で衝突を起こしているものもいる……こりゃ絶対佐官……否、将官級の首が飛ぶ。勿論、新藤軍曹も只で済むはずが無い。
「すげえ……」
高速道路に入って暫くが過ぎた後、バックミラーに映った光景に、ぼくは軽い驚愕を覚えた。走るにつれ、追及し集まってきた部隊の車両やらパトカーやらで、すでに指揮通の後ろは膨れ上がっていたのだ。ぼくが知らない内に、まるで後年の「西部警察」のエンドロールのような光景が首都高に現出していたのだった。ぼくらといえば、その外見だけは勇壮な車列の文字通り先頭にいた。
『――――連隊本部より全車へ、東京市長が制式に軍へ出動を要請……対戦車火器の使用許可が下りた』
入ってきた通信に、ぼくの顔も蒼白になった。陸軍は新藤軍曹の説得を諦めたのか……?
その途端、陶大尉は車内に潜り込み何やらゴソゴソとやり始めた。それは何か金属製のものを組み上げる物音にも聞こえた。ややあって、再び外に半身を出した大尉が構えている長大なモノの正体に気付いた時、ぼくは我が目を疑い思わず背後を振り返った。
えぇ――――――――!? そこまでやるか普通!?
制式名称8式20㎜自動砲。戦前に開発された97式20㎜自動砲を改設計し、弾丸の初速を高め装甲貫通力を向上させた帝國陸軍制式の対戦車ライフルである。タングステン弾との組み合わせも相まってその威力は凄まじく、現在地上に存在する八割の戦車の正面装甲を貫通することができると言われているほどだ。しかもレバー調節によって単射と連射を選択できるというスグレモノ。欠点といえば発射時の反動が凄まじいことと、72.7kgという途轍もない自重ぐらいだが、怪力を誇る陶大尉にとって、そんなもの欠点の内には入らない……らしい。
車体上部に二脚を立てかけ、7発入り弾倉を装着した8式自動砲の照準鏡を覗き込み、陶大尉は声を弾ませた。
「鳴沢ぁ……!」
「はいぃっ!」
「目標を逃がすようなことがあれば貴様の責任を問う。わかったかぁ!」
「リョォ――――カァイ!」
陶大尉……なんか嬉しそうだ。
……その一方で、わけもわからず泣き顔になっているぼくがいた。
『―――新藤軍曹聞こえるか? 直ちに停車し、投降しろ。君がやっていることは犯罪だ。直ちに停車し、投降せよ!』
上空から投降を呼びかけるヘリコプターからの呼びかけが、虚しく響き渡っていた。
警察の検問を突破し、パトカーの車列を蹂躙しながら進む74式戦車の勇姿(!?)を目の当たりにする頃には、もはや東京市とは目と鼻の距離だった。これ幸いと対戦車ライフルを構える大尉。彼女はその照準鏡の真ん中に、明らかに戦車の砲塔を捉えていた。
「鳴沢っ、止まるな突っ込めえ!」
「あのう……陶大尉?」
「喧しい!」
彼女に対する鬱屈が爆発したのかその瞬間、脳裏で何かが切れる音を、ぼくははっきりと聞いた。
「たまには人の話も聞けよ。ハルコッ!」
「…………?」
「覆帯を狙いましょう。それならば戦車を停められるかも……」
ドォン……!
期せずして8式自動砲から放たれた弾丸は一発。それは見事に74式戦車の覆帯を撃ち抜いた。
戦車は引き千切れた覆帯を引き摺りながら派手に火花を上げてスピンし、何度も側壁にぶつかり、包囲しようとしたパトカーを跳ね飛ばして止まった。直後ぼくもまた変速のタイミングを誤り、エンジンの止まった指揮通は惰性で何台かパトカーにぶつかりながら戦車に突っ込み、危うく衝突する寸前で止まった。衝撃に呆然とするぼくに、停止の反動で指揮官席からずり落ち、肩を震わせた陶大尉の悪魔のような囁き。
「鳴沢ぁ……キサマ基地に帰ったら……わかっているな?」
「……ハイ」
現金なもので、戦車が戦闘力を失ったと判断した途端、何処からとも無く湧いて出た機動隊の皆さんが戦車の周囲を一斉に包囲し砲塔へとよじ登った。気分はまさに、203高地を占領した乃木第三軍……といったところだったが、いきなり動き出した砲塔が数名の機動隊員を跳ね飛ばし怯ませた。
『―――――実弾を装填した。近付くと発射する!』
スピーカーから聞こえてきた声は、明らかに新藤軍曹のそれ!……機動隊の指揮官が、トラメガを使い中の軍曹に呼びかけた。
『――――犯人に告ぐ……落ち着け、要求を聞こう!』
『――――オレの妻と子を、今直ぐにここに連れて来い! 話し合いたいことがある!』
『――――それはできない! 直ちに戦車から降り、自首しなさい。今の状態では無理だ!』
『何故だぁ! 何故できないんだ!?』
動いた砲身が、ガッチリと機動隊の隊長を捉えた。それには怯まず。隊長はトラメガを握り直した。
『―――馬鹿なマネはやめろ! 貴様この上にまた罪を重ねるつもりか!?』
その間、連隊の基地や東京市内の基地から続々と駆けつけた友軍や警察で一帯は膨れ上がり、上空を飛び交う軍民のヘリコプターの数もまた増えていた。新聞社やTVの取材クルーすら現場に到着し、その一部は予防線を張っていた憲兵隊と小競り合いを起こしている。
「これ以上の接近は駄目ですダメ!」
「報道の自由を侵害するんですか!? あんた!」
「軍機につき、戦車へのこれ以上の接近は認められません!」
「官憲横暴っ!」
「…………」
期せずして漏らした溜息……陶大尉の制止も聞かず、ぼくは指揮通から降りた。機動隊の隊列を掻き分けて警官からトラメガを借り、ぼくは声を上げた。
「……新藤軍曹殿、お願いですから、戦車から降りてください」
『…………』
「……そんな見っともない姿の軍曹なんて、自分は見たくありません。それに自分、昇段試験まであと何日も無いんですよ。軍曹が教えてくれなければ、誰が自分を教えてくれるのでありますか……?」
声を上げる内にトラメガを持つ手が震え、涙が溢れてきた。抗い難いものに詰る喉を、それでも精一杯に振り絞り、ぼくは声を振り絞った。
『…………』
「新藤軍曹殿、自分と一緒に兵営に戻りましょう。お願いだから……一緒に帰りましょうよ」
『…………』
沈黙……それとともに少しずつ歩み寄る警官隊……ぼくを含め誰もが、勝負は既に決したと思った――――――
パアァァァ……ン
砲塔内で反響する乾いた音。それが最初は何を意味するのかぼくにはわからなかった。だが直後に少なからぬ警官が戦車に一気に駆け登り、何時の間にか持ち込んでいたガスバーナーでハッチの切断に取り掛かっていた。
「救急車呼べ、救急車!」
「ハッチを開けろ!……早く!」
「該者は自殺!……繰り返す、該者は自殺を図った模様!」
漸くことを悟った直後、ぼくの脳裏が一気に漂白し、次にはそこに立っていることすらやっとというぼくがいた。足元から崩れ、呆然と主を失った戦車を見詰めるぼくの傍に、誰かが立つ気配がした。
「貴様何寝言を言ってるんだ? 貴様を教えるのは本官しかいないじゃないか」
陶大尉はぼくの襟を掴み上げ、キッと睨み付ける。放心状態のまま立たされ、睨みつけられるままのぼくに、大尉は言った。
「ホラッ帰るぞ。本官と一緒に基地に帰るんだ」
「…………」
「鳴沢……キサマ何だその眼は? 魚の腐ったような眼は!?」
ぼくは泣きたかった。外聞も無く大声を上げ泣きたかった。だが大尉の釘を射すような眼差しが、そんなことを許してくれようはずも無かった。大尉は後ろからぼくの頭を強く押し、指揮通に乗るよう促した。
「貴様も男なら……戦友の屍を越えてゆけ……!」
涙をこらえて指揮通を運転し戻った基地では、やはりというか相変わらず、陶大尉じきじきのシゴキが待っていた。だがそれは、世話になった軍曹を最も悲惨な形で失った悲しみを、ぼくから忘れさせたのだった。
――――事のあらましは、以下の通りである。
ぼくが配属された時点で、軍曹の結婚生活は破綻を呈していた。軍曹と彼の妻との不和の、根本的な理由はここで明かすべきことではない。だが家庭人としての彼が、彼の家庭生活を守るために最善を尽くしたということだけはここで言っておきたい。
破綻が避けられないものとなったとき、そこに二人の新たな不和の種が生じた。すなわち二人は、彼らの間に一人いた、当時未だ幼稚園児の息子の親権を巡り争うこととなったのである。二人はぼくが配属されたときにはとうに別居し、子供は営外居住を許されていた彼の官舎で育てられていた。
離婚を巡る話し合いが何度も持たれ、裁判所からの呼び出しがかかる度、彼はその度に職務を中断し営外に出ねばならなかった。元が志願入隊で、軍務に対し真摯な志を持っていた軍曹にとって、それは苦痛以外の何物でもなかった。そこに度重なる外出を見咎めた上司や同僚の白い眼まで加われば……当然、鬱屈は蓄積するだろう。
そしてその日……何時ものように午前の課業を終えた彼の許に入ってきた一本の電話――――それが、中隊当番だったぼくが陶大尉の肩を揉んでいたときに又聞きした会話だったのだ―――――その受話器の向こう側で、軍曹の妻は彼の子供を東京方面にある彼女の実家に引き取った旨を告げた。その瞬間、軍曹の胸底で何かが音を立てて崩れ去った……以降の展開は先に述べた通りである。
―――――追い詰められた軍曹は戦車の車内で拳銃自殺し、その後には大破した最新鋭戦車と無残な残骸の山が遺された。脱走罪の上に戦車を持ち出したことによる兵器横領……その他もろもろ二桁ぐらい軍規上の細かい罪に問われた上に、刑法上の道路交通法違反、危険運転致傷罪(あれほどの惨事に拘わらず、奇跡的に彼以外の死者は一人として出なかった……!)、さらに器物破損と銃刀法違反etc……が加わり、このまま生きて裁判を受ければ確実に懲役十年以上は食らったことだろう。
―――――ちなみに、彼が戦車内に篭城した際、実弾発射を匂わせる発言をして追跡の警察官を驚かせたが、後の調査で戦車には一発たりとも実弾が積まれていなかったことが判明した。元々積まれていなかったわけではなく、後日の実弾射撃訓練に備え実弾装填を終えていた戦車から、全ての実弾を取り外したもので凶行に及んだらしい。
当然、最も責任を取らねばならない軍曹が死を以て凶行を償った以上、責任は軍人としての彼と関係のある人間にも及んできた。直接の上司たる戦車中隊長と大隊長が監督責任の不行届きを問われ退職に追い込まれたのを皮切りに、戦車連隊長は降格、旅団長も三ヶ月の減給処分となった。関東一円の陸軍部隊を管轄する東部軍管区司令官は、陸軍参謀本部の広報官と並び出席した記者会見の席上で深々と頭を下げ、一般社会に多大な不安を及ぼしたことを陳謝した。
――――事件から四日後、ぼくは初めての昇段試験に合格した。