その七 「中隊当番」
女神なんて、横須賀の赤線にはいても陸軍の兵営にはいない。夏季休養期間が過ぎてすぐに、ぼくはそれを思い知らされることとなった。
徒手格闘部の二週間分の貯金は、ぼくの想像を越えてその日の内に襲い掛かってきた。完全装備で営庭を延々とランニング、それに続く完全装備での腕立て伏せと腹筋……まるで小倉の基本教育課程を思い起こさせる猛烈なシゴキが、武道場に戻ったぼくを待っていた。当然、武道の鍛錬もまた前にも増して平然と課して来る。
それらに耐えかね、鋒鋩の体で仰向けに倒れるぼくを陶大尉は平然と見下ろし、疲労に蹲るぼくの頭を踏みつけた。
「鳴沢二等兵……いい加減に目覚めろ。未だわからないのか?」
息は荒れていたが、口調は平静そのもの……それに静かな怒りを感じ、ぼくは内心で怯えた。蹲ったまま動かないぼくを見下ろし、さらに氷のような声が降りかかる。
「……この愚図。それとも本官を舐めているのか? 他の中隊の隊長だから、女だから……そんなもの、ここでは関係ない。貴様、本官を本気で怒らせる気か?」
「…………」
「立て。鳴沢二等兵……立たないか」
漸くで腰を上げたぼくの腿を、矢継ぎ早に鮮やかなローキックが襲い、姿勢を崩したぼくの顔面を再び氷の塊のような拳が直撃した。薄れゆく意識の中で、ぼくは思った。殺される!……このままじゃ冗談では無くホントに殺される。女王様とかそういうのが大好きな特殊な嗜好の人なら最高のシチュエーションかもしれないが、生憎ぼくにはそんな趣味はない。
武道場の冷たい床に大の字状に倒れ、完全にノックアウト状態のぼくを見下ろし、大尉は言った。
「本官は軍人の家に生まれた。本官の家は曽祖父の代に至る頃から帝國陸軍の録を食んできた。本官の祖父は日露戦争で片手片足と二人の弟を御国に捧げ、本来家を継ぐはずだった叔父に至っては大東亜戦争で身命を捧げ、今やいずれも靖国の御柱だ」
勢いよく踏み出された足が、ぼくの腹を力を篭めて抉る。ぼくの呻き声に柳眉を歪め、大尉は声を荒げた。
「その本官は女ばかり四人姉妹の末子だ。家を継ぐ男子を欲していた父の意思を、些末なりとも継ごうと本官は必死に学び、自らを鍛え、そして本官は軍人となった……鳴沢! 貴様にそんな本官の気持ちがわかるか!? 否、わからぬからこそこうして貴様は本官の意思に背き、平然としていられるのだろうが!」
「う゛ぅ―――――……」
「鳴沢、貴様辞めろ。もういい、貴様徒手格闘部を辞めろ」
「…………」
「学生風情に期待した本官が馬鹿だった。本官が引導を渡してやる……」
大尉の手が、ぼくの胴着の襟をむんずと掴み上げ、引き摺り上げた。そのとき―――――
「大尉殿! 何をやっているのでありますか!?」
突然の声に大尉は襟を握り締める手を緩め、ぼくは肩からそのまま床に落ちた。
新藤軍曹だった。彼はよそ行きの制服姿のまま血相を欠いて大尉の傍に歩み寄り、大尉の腕を掴んだ。
「もう十分です。鳴沢二等兵も反省したでしょう……ここらでお止めになった方が賢明です」
「離せ……下士の分際で本官に意見するか?」
「これ以上やると、告発の対象になりますよ。それでも宜しいのですか?」
「…………」
軍曹の険悪な眼差しに溜めていた息を吐き出し、殺気立った目でぼくを一瞥すると、大尉は憤然と武道場から立ち去って行った。去っていく大尉を見届け、軍曹はぼくを抱き起こした。
「二週間分の貯金はさぞ効いただろう? だが悪く思うなよ。大尉も大尉で結構大変なんだ」
「そうみたいですね……」
久しぶりで会った大尉の態度に、何か投げ遣りなところを見たのはぼくだけではなかった。
「先日大尉の父上が基地に来て、連隊幹部の面前で軍を辞めろと言ったらしい。それ以来さ、大尉が荒れ出したのは……」
「ああ、それで……」
ぼくは聞いた。
「あのう軍曹……練習、今日はお休みになられたんですか?」
途端、軍曹の顔が曇った。ぼくは明らかに悪いことを尋ねたのだ。
「ああ……ちょっとした用事でな」
そう言って、軍曹はさり気無く話題を変えた。
「……で、お前どうするんだ? 大尉に言われた通り、このまま徒手格闘を辞めるのか?」
「どうすればいいでしょう?」
「初っ端から投げ出すかと思ったが、お前意外と長続きしてるじゃないか? せめて段級審査まで受けてみたらどうだ?」
軍曹の勧めに、ぼくは従うことにした。
中隊当番というものがある。連隊本部に隣接する各中隊の事務室勤務の士官、下士官の補助や外部との連絡がその仕事内容の主たるもので、初年兵古参兵の別なく、その任は一週間交替で平等に課せられる(ことになっている)。
――――その週、ぼくは中隊当番となった。
中隊当番は決して苦行でもなんでもなく、全ての兵にとって数少ない「垂涎の的」である。中隊当番の間、その兵士は煩わしい課業から解放され、その間思い切って洗濯、繕い物などの私用に精を出せる。特にバンちゃんのような古参兵の場合、用事の全てを同じ中隊当番の初年兵や二年兵に押し付けてノンビリとできるので、この中隊勤務は兵士の間ではまさに「テンホの甲」だった。
しかも後方勤務にも同年兵や後輩の下士官が多かったせいか、バンちゃんは彼らとの誼もあって他の兵より高い頻度でその余禄に与っていた。バンちゃんが部隊内の裏事情はおろか内部の人間関係に至るまで詳しかったのは、そのためでもあった。
その中隊事務室。起床ラッパが鳴る前から起き出したぼくは、日が昇り切ったときには既に中隊事務室の当番控所に詰めていた。同じ中隊当番としてペアを組むのは、勿論バンちゃんだ。彼とぼくとの関係を考えれば当然、その週に課せられる全ての仕事はぼく一人で捌かなければならないことになる。それでもぼくは幸せだった。前述の通り中隊当番の間煩わしい課業や古参兵からも解放されるし、さらにはあのスーちゃんの傍にもいられるのだから――――
……が、初年兵にとって万事首尾上々という言葉はあって無きに等しい。
中隊事務室で割りあてられた机で、御しとやかに勤務を続けているカーキ色の制服姿も眩しいスーちゃんの隣では、迷彩もおどろおどろしい戦闘服姿の陶大尉が悠然と長い足を組み、野戦用のドカ靴を行儀悪く机の上に投げ出している。普段は中隊事務室にあまり顔を出さず、もっぱら外で訓練の指導監督に勤しんでいるはずの大尉が、何故かそこにいた。その光景はぼくに神様の悪戯を思い起こさせた。
これでは当然、気軽にスーちゃんの傍に近付くことさえままならない。だがその日の午前、庶務係の古参准尉に命ぜられるまま書類の整理を手伝っていたぼくに最初に声をかけてきたのは、スーちゃんだった。
「鳴沢君、これもお願いね」
と、彼女はぼくに閉じ紐で綴られた書類の束を手渡してきた。そして、スーちゃんはぼくに微笑みかけてきた。
「鳴沢君、営内生活にも慣れた?」
「ええ……まあ」
傍らの陶大尉を気にしながら、ぼくは作り笑いを浮かべ頷いた。
「よかった……平島さんに聞いたわよ。徒手格闘の方、上達してるんですって?」
同じ徒手格闘部員の、後方勤務の下士官の名前を出し、スーちゃんはぼくを労ってくれた。
「さあ……どうでしょう」
力なく笑うぼくの顔を、スーちゃんは覗き込むようにした。
「徴兵は誰もが潜る途だもの、入営したからには資格であれ免許であれ、取らせてくれるものは何でもいいから、きちんと取っておくに越したことはないわよ」
「はい、そうします」
踵を返し、作業に戻ろうとしたぼくを背後から案の定、呼び止める声……
「オイ、鳴沢二等兵……」
「……はい?」
スーちゃんの隣の席から投掛けられる氷のような声に、ぼくは緊張を強いられる。
「……お茶」
ただそれだけを、陶大尉は言った。安堵とともに淹れたお茶を持っていき、それだけで事が足りるのかと思ったのも束の間……
「鳴沢二等兵、朱肉を持って来い」
「鳴沢二等兵、インクを補充しろ」
「鳴沢二等兵、書類を回しておけ」
矢継ぎ早に降りかかってくる注文にぼくは驚愕し、傍らのスーちゃんすら、目を丸くしてぼくのあたふたする様子を見守っていた。当然この間、他からの注文も受けなければならないのだから大変だ。中隊当番って、こんなに大変な仕事だっけ?
そして最後に……
「……オイ鳴沢二等兵―――――」
「はっ……」
「今日の練習、サボるなよ」
それだけ言い捨て、大尉は野外課業に参加するべく席を立って行ってしまった……それから一週間、ぼくは傍目から見れば我侭に等しい陶大尉の注文に応じ続け、一秒の安息も得られることの無いまま中隊当番を過ごすこととなったのだ。所詮、営内に身を置いている限り初年兵に安住の地など無い。
―――――その一週間の中隊当番の最中、事件は起こった。
「鳴沢二等兵、肩を揉め」
中隊当番での度重なる使役と徒手格闘の訓練の末、もはや完全に陶大尉の下僕と化したぼくは、次の瞬間には言われるがままに大尉の肩を揉んでいた。大尉は別段事務を取る訳でもなく、例の如く組んだ両脚を机に投げ出し、煙草をスパスパと吸っている。まさに番長とその手下のようなシチュエーションである。
事務といえば……さり気無く、ぼくは事務室の隅を見遣った。ぼくの視線の先では、本来ならぼくの上官であるはずの石橋中隊長が、机一杯を埋め尽くす書類の山を前にあくせくしている。ちなみにその四分の三が、本来彼が決済すべき書類ではなかった。予備役の陸軍中将たる彼の祖父の威光で陸士への入学を果せたと専らの噂のわが中隊長は、そのサバけなさと小心ゆえ学生の段階から苛められグセがついていたらしく、ここでも早速彼の同僚から雑務を押し付けられていた。さらに言えば彼は昔から陶大尉に個人的に弱みを握られているらしく、それが陶大尉のぼくの「私物化」を一層促進している。
一方でスーちゃんは、彼女の上司に何がしか注意を受けているようだった。確かにぼくの見る限りでも、最近の彼女の仕事振りは何処か精彩を欠いたもののように思われた。それは日頃ハキハキした態度と容姿を知るぼくにとっては、余りに意外な光景だ。
ぼくに肩を揉ませ、突き放すような目でその様子を見詰めながら、陶大尉は言った。
「鳴沢、貴様あのテンプラと同郷だそうだが、事実か?」
「テンプラ」とは士官学校や幹部候補生のような本流とは違う、スーちゃんのように後方勤務や技術
に関する即製教育を経て任官する下級士官に対する蔑称でもある。つまり「テンプラのように手早く出来上がる」ことからそういう仇名がついた。
「はい、そうであります」
「じゃあ、テンプラが空軍の士官とデキているのは知っているか?」
「それは……」
「テンプラは所詮テンプラだ。あいつは帝國陸軍を結婚紹介所と同じにしか見ていない。適当な相手が見付かればこれ幸いに退職金を持ってずらかる気でいる……あんな奴が本官と同じ女に見られるなど全くもって迷惑だ」
「お言葉ですが、大尉殿は結婚を考えたことはないのでありますか?」
スーちゃんのことを悪く言われては、ぼくだって少なからずカチンと来る。その感情がこういう質問となった。
「結婚……?」
陶大尉は、ギョロリとぼくを省みた。目を合わせた瞬間、自分の顔から生気が失われゆくのを冗談ではなくぼくは感じる。
そのとき、事務室に慌しく駆け込んできた者がいた。新藤軍曹だった。彼の姿を認めるや電話を握った彼の同僚が、彼にこちらに来るよう手招きする。憤懣やるかたない顔で受話器を受取った途端、彼はいきなり声を荒げた。
「お前、ここには電話してくるなと言っただろう!?」
直後に始まった喧々諤々の遣り取り、その一端は、受話器にがなりたてる軍曹から遠く離れたぼくの耳にすら入ってきた。
「だから……アキオは俺が責任を持って育てるって」
「何を言っているんだ?……オイお前!」
向こう側から一方的に電話が切られると同時に、それまで煩わしげに軍曹の様子を見ていた陶大尉が、ふと口を開いた。
「貴様……自分の心配をしなくてもいいのか? もうじき昇段試験だろうが」
事実昇段試験は、四日後に迫っていた。
「新藤軍曹は見ての通り、離婚調停を抱えているからな。貴様なんぞには構っていられないんだろう。だから……」
「…………」
「昇段試験までの短い間、本官がみっちりと貴様を鍛え上げてやる」
大尉の言葉を、ぼくは軍曹の様子を驚きを持って見守る余り、最後まで聞いていなかった。受話器を叩き付けた直後、普段の温厚な様子から想像できない、肩を怒らせながら足早に立ち去る軍曹の後姿を、ぼくは何時までも呆然と見送っていた。
――――それが、ぼくが軍曹の姿を直に見た最後となった。
――――そして、帝國陸軍始まって以来の「大事件」は、こうして始まった。