表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/15

その六 「ぼくの初体験」


 二週間の苦難の次には、二週間の休養が待っていた。


 名目上は通常勤務だが、その間外泊は許されないものの部隊内では一切の課業は行われない。いわば演習に対するご褒美とでもいうべき休暇となる。つまりは皆暇になる。暇を持て余した上にカネもない兵士――――特に古参兵が暇潰しにすることと言えば決まっている。それが初年兵のぼくを一層憂鬱にさせる。徒手格闘部の練習も休養期間の別無く行われるし、いいことなんてまるで無い。


 ……そんなぼくの憂鬱を吹飛ばしてくれたのは、意外な人間の、意外な声だった。


 「鳴沢、ちょっと来いや」


 「休養期間」の前日、生意気な下級生を体育館の裏にでも連れ出すかのような声をぼくに掛けたのは、バンちゃんだった。


 「お前、大学で機械やってたんだって?」


 「はい」


 「大型バイクにも乗れるんだろ?」


 「はい……?」


 そんな遣り取りを続けながらバンちゃんがぼくを連れて行ったのは、兵舎の隅に広がる廃材置場の、そのまたずっと奥。その薄暗い奥でうっすらと埃を被っていた何かに、ぼくの目が釘付けになる。

 

 「うわぁ―――――――……」


 バイクだった。「コンバット」のような戦争ドラマで頻繁に出てくるタイヤが太く、全体的に丸っこいフォルムのバイク。車体に比して大き目のガソリンタンクと目玉のようなヘッドライト、そして独特の形状をしたハンドル……そうした古めかしさが、ぼくに新鮮な驚きを与えた。さらには車体の横には同乗者用の座席もくっ付いている。いわゆるサイドカーというやつである。


 メーカー名を標したパネルには、ドイツ語と思しき綴りで「Z(・・)NDAPP」と書いてあった。当然BMWとかポルシェとかは知っていても、そんなメーカー名ぼくは知らない。ただずっと昔――――ぼくが生まれるずっと前――――に輸入とかそれに類する形でここに持ち込まれ、暫く使われた後にお払い箱となったことは容易に想像できる。


 エンジンは……大きさから判断するに、排気量は750ccといったところか……バイク好きとして、不覚にも胸が高鳴るのをぼくは覚えた。


 バンちゃんは言った。


 「鳴沢、これ直せるか?」


 「部品やオイルとか交換が必要でしょうし、少し時間を頂ければ……何とかなると思います」


 「よっしゃ……!」


 揃いの悪い歯を覗かせ、バンちゃんはにんまりと笑った。


 「先任下士官にはオレから言っておくよ。いい外出の名目ができるってもんだぜ」


 それかぁ……ぼくは唖然とも感銘ともつかない眼でバンちゃんを見た。部品の調達を名目に、外出許可をもらおうという魂胆なのだ。事実バンちゃんが外出許可をもらってきたのは、それからわずか二日が過ぎてからのことだった。普段ならバンちゃんのような猛者すらあれこれと理由を詮索され、正当性が無いと判断されれば容赦なく却下されるところを、すんなりと外出申請が通ったのは以下の理由に拠る。


 二週間の「夏季休養期間」の間、営外居住の士官下士官は家族サービスの時間を搾り出そうと集中的に休暇を取る。したがってその間、事務室での後方勤務では外部との折衝や連絡などの雑務が等閑になり、残された者は普段に増してその対応に追われることになる。人間がいなくなる一方で、業務の量は何等代わり映えしないのだからそれも当然だ。


 バンちゃんは長い軍隊生活からそのことを知っていた。そこで彼は、廃材置場の片隅に眠っていた一台のおんぼろバイクに眼をつけ、外部との煩雑な連絡業務を買って出たのである。当然、日頃能天気な彼に業務を真っ当に遂行しようという責任感など、あるわけが無い。もちろん運転手は―――――



 ―――――外出の当日、「事務用消耗品の調達という」真っ当な理由を付け、バンちゃんはぼくを連れ東京市へ外出した……ところが二人一緒に行動したのは新橋の辺りまで、そこからはバンちゃんは「じゃあな」と言い残し、ぼくを置いてスタスタと何処かへ行ってしまう。勿論、彼の襟には上等兵ならぬ連隊事務室からガメてきた軍曹の階級章……案の定というか、この辺りが彼の抜け目無いところである。


 修理に必要な部品は当初の不安に反し、馴染みのバイク屋や昔のバイト先の中古車店を何軒か回っただけで、それも午前中の内に集めることができた。だが外出の際持たされた経費だけでは足りず(その経費の三分の一をバンちゃんに持っていかれていた)、結局残りは自腹。演習参加手当てが嵩み、支給された給与も通例より幾分か余裕が出たかと思ったところにこの出費である。これで今月アケミとデートする資金は底を付いたことになる。用を済ませた後、ぼくが安堵とも諦観とも付かない溜息の衝動に襲われたのは確かだった。


 バンちゃんと落ち合うまで、時間的にはまだ十分余裕があった。それまでの間を、ぼくは公園のカフェテラスで時間を潰すことにする。

 昼食は、一本100円の冷たい缶コーヒーと、昨夜何時ものように寝台の中に差し入れられていたぶっといアンコロ巻き―――――そのアンコロ巻きに、ぼくは一人の人物の顔を思い浮かべ複雑な表情を隠せなかった。


 差し入れの主は、郷田という兵長だった。初めての外出日の際、トラックでぼくを市内まで送ってくれた親切かつ、ガタイのいいあの運転手さんである。日が経つにつれ、彼は足繁くぼくの内務班に現れては手ずから差し入れを届けてくるようになっていた。


 「鳴沢二等兵、食え」


 と、恋人か何かに対するような満面の笑みを浮かべ、彼はぼくにお菓子やら菓子パンやらを差し出すのだ。貰い物は食い物、特に甘いものに飢えていたぼくにとっては当然嬉しいことではあるわけだが、本来なら見ず知らずの立場であるはずの兵長の度を越した親切を前に、手放しには喜べないきな臭さをぼくは感じずにはいられなかった。最初の頃は無心に頬張っていた差し入れも、今では貰った直後に速攻でバンちゃんに手渡すようになっていた……当然、本人の立ち去ったのを見計らった後で。身長187cm、柔道三段という彼の好意(?)を平均的な体躯の持主たるぼく、たかが二等兵たるぼくが無下にできようはずがない。



 ―――――空腹も後押ししてか、何かゲテモノ料理にでも挑むような気持ちで、ぼくは差し入れのアンコロ巻きに齧り付いた。甘いアンコロ巻きを咀嚼し、喉奥に飲み込む度に、あのすごい揉み上げと割れた顎、角張った頬が思い出され、心なしか戻したい気持ちに囚われる。


 「話って……何かしら?」


 背後からの聞き覚えのある声に、ぼくは危うくアンコロ巻きを喉に詰らせかけた。詰め込んだアンコロ巻きに口を一杯にしたまま、ぼくは恐る恐る近くの席に視線を転じる。その先、信じられない光景が広がっていた。


 ぼくの視線の先には、スーちゃんがいた。そして彼女とテーブルを挟み向かい合うのは、同じく最初の外出日で敬礼をした空軍の大尉殿だ。


 「君に……伝えたいことがある」


 と、大尉はスーちゃんに言った。真摯な眼差しを向ける大尉の一方で、それを受け入れるスーちゃんの瞳が、童話のお姫様のように愁いを帯びているのを、ぼくは見逃さなかった。


 「…………」


 長い睫毛を伏せがちに、なおも沈黙を守るスーちゃんを前に、大尉は続けた。その精悍な外見からは想像も出来ないような、躊躇いがちな、思いつめたような口調で。


 「アメリカに行くんだ。向こうの空軍の学校に留学することになった……」


 「それ……だけ?」


 「君に……僕と一緒に来て欲しい」


 …………!


 立ち聞きの状態ながら、ぼくは頭を直に金槌で殴られたような衝撃に囚われた。おそらく……否、大尉はそれこそが言いたくて、彼女とこうして同じ席に座ったのに違いなかった。


 「そんな……突然すぎるわ」


 「君だって判っているはずだ。ぼくは軍人であり、戦闘機乗りだ。任務柄君の意思を尊重できない場合だってある。留学は上の意思でもあるし、そして何よりも……僕自身の意思でもある」


 「でも……お父様がそんなこと」


 「……ぼくは、君自身の意思を知りたい。君の答えが欲しい」


 「…………」


 暫しの沈黙――――その末にスーちゃんが席を立ったのは、大尉の申し出を拒否する意思の表れではなく、二人の間を流れる重い空気に、スーちゃんが耐えかねたせいであった。踵を返し、歩を早めるスーちゃんの背後から、大尉は縋りつくように後を追い、言った。


 「……出発は、三ヵ月後だ。鈴子さん……ぼくは君を信じている」


 スーちゃんの足が、止まった。だがそれも暫しの間、スーちゃんは自らの足で再び大尉から離れていく。その後には、呆然と佇む大尉一人が残された。


 「…………」


 ぼくもまた、呆然と二人の一部始終を見守っている他無かった。普通なら食い千切ることすら難渋する太いアンコロ巻きを、あっさりと飲み込んでしまっていることに、ぼくは気付かなかった。


 帰営すればすぐに修理が待っていた。

 大学機械科の知識と実習での経験をフルに活用してエンジンを分解し、錆び付き廃油塗れの部品を磨き上げ、補修の度にその仕上がり具合を確かめる。それは決して一時間二時間で終るような代物ではなく、許されることなら一夜漬けでもしてさっさと終らせたいところだ。だがここは陸軍、寝る時間になれば然るべき場所に戻り、眠らねばならない。


 「これがうまく動いたら、今年の夏は天国だぞ。頑張れよ」


 と、バンちゃんはぼくを励ました。確かに一週間は天国だろう。バンちゃんやぼくにとっても……


 表向きはバンちゃん個人の私用ということになっているから、その間ぼくが内務班を空けていても古参兵は文句を言わないし、もっとうれしいことにはあの舟木伍長ですら文句を言えない。つまり修理している間、あのオソロシイ徒手格闘部からも開放されることになる……と思ったが、違った。

バイク修理を口実に、ぼくが徒手格闘部をサボり始めて二日目、ぼくの居場所をどう嗅ぎ付けてきたのか、舟木伍長は直に廃材置場までやって来た。


 「…………!?」


 部品を取りに内務班まで戻っていたぼくが、彼に出くわす前に、付近をうろつく舟木伍長の姿に気付いたのは僥倖と言えたのかもしれない。だが物陰に隠れ、廃材置場の前を行ったり来たりする彼の姿を伺ううちに、時間は無情にも過ぎていく。痺れを切らして漸く立ち去った彼と入れ替るように廃材置場に駆け込み、大急ぎで最後の修理を終えた頃には、すでに消灯時間を告げる喇叭が一帯に鳴り響いていた。取って返すように駆け足で帰営しようとする途上、今度は内務班の外に佇む一人の人影に、ぼくは反射的に草むらに身を伏せた。


 「…………!」


 人影の主は陶大尉だった。始終落ち着きのなかった舟木伍長とは対照的に、彼女は内務班傍の電灯から丁度影になる位置に、悠然と腕を組んで佇んでいた。もしぼくが状況を飲み込めないままノコノコとそこへ歩いていったならば……それを想像し、ぼくは慄然とする。彼女の執念たるや、まさに獲物を追い詰め、飲み込まんとするウワバミそのものだ。


 どうするか……草むらの影に身を伏せたまま、ぼくは考え込む。このまま戻れないと、最悪の場合脱走と見做され、罰を食らうことになるかもしれない。それも、およそ軍人が営内で受ける最も重い罰――――重営倉……そのことに思い当たり、ぼくは少なからず焦燥を覚えた。その一方で、彼女をかわす手段について考えを巡らしているあまり、背後に歩み寄る人影にぼくは気付かなかった。


 「おめえ、こんなとこで何やってるだ?」


 「…………!?」


 愕然として顔を上げた先、月明かりの下で堂々と佇む鉄塔のような巨体に、ぼくは両目を見開いた。

ご……郷田兵長?……突然の遭遇に呆然とするぼくの眼前で、兵長はニンマリと、あの気持ち悪い笑みを浮べた。陶大尉の場合とは違う意味で慄然とするぼくに、兵長はあのいかめしい顔を崩し笑いかける。


 「おめえ、帰らなくていいんか? それとも何か? 帰れねえ理由でもあるのか?」

顔を引き攣らせ、力なく頷くぼくに、兵長は「ご親切にも」彼の部屋に来るよう言う。


 「オラの部屋に来るだ」


 「い……いえ、結構であります」


 「いいから……!」

 

 渋るぼくを、兵長は鼻息も荒く半ば強引に内務班とは別の区画にある彼の部屋に連れ込んだ。薄々ながら生命の危機すら感じるぼくが連れて行かれたのは二人用の部屋だが、一台だけ置かれた二段ベッドに、彼の相方は眠ってはいなかった。たまたま衛兵勤務でいなかったのか、それとも……?


 「ここに寝るといいだ」


 と、兵長はベッドの下段を指差した。


 「いいいいいいいえっ、結構であります!」


 「恥ずかしがらなくともいいだぁ」


 さらに渋るところを半ば強引に急かされるうち、ぼくはいよいよ自分がとんでもない危険に晒されていることを確信する。その確信は、寝台に放り込んだぼくに続き、同じ寝台に潜り込もうとする兵長に気付いた時に確固たるものになり、さすがにぼくは声を荒げた。


 「へ、兵長どの? 何をやっているのでありますか?」


 「オラと一緒に寝るだ」


 は……!?


 寝台の奥に押し込まれたぼくの、背後から鼻息も荒く迫り来る兵長。あまりのことに、ぼくは本気で狼狽した。戸惑いとともに、いずれ来るであろう「初体験」の瞬間……でもこれは何か違うだろ!?


 獲物を手に入れた猛獣を思わせる、圧倒的な量感がじりじりとぼくの背後から迫り、同じく迫り来る「貞操の危機」が、ぼくの背筋を凍らせる。


 ちょちょ……チョット待ったぁ!


 兵長の太い腕がぼくの縮まった肩にを掴んだ。絶望し涙眼になるぼく……だが救いの主は、意外なところからやって来た。

 廊下を駆ける声とともに近付いてくる先任下士官の怒鳴り声……それはぼくらの部屋の近くで止まり、年季の入った下士官の怒声となった。


 「内規違反者が出た。只今より検査を行う。各員は部屋から出て待機!」


 耳を疑うぼく、舌打ちする兵長……彼の制止を振り切り、ぼくは撥ね上がるような勢いで寝台から抜け出した。ドアを開けた先、検査係の曹長に訝しげに睨まれ、ぼくは背を正した。


 「二等兵、お前ここで何をやってるんだ?」


 「い、いえ……あの、その……郷田兵長殿に用事でありました!」


 「早く内務班に戻れ。このアホ!」


 「はいぃっ!」


 凄まれた余勢を借り、ぼくは内務班まで文字通り逃げるように駆け戻った。陶大尉が待ち構えていようが、そんなこと貞操の危機に比べればなんということもない。後で知ったことだが、郷田兵長の属する輜重中隊の中に禁制の酒を持ち込んでいた者がいたらしく、中隊から大トラが出たことからそれが先任下士官に露呈し、急遽検査が始まったらしい。


 ――――ぼくが逃げ込むように戻った内務班は、すでに寝静まっていた。幸運にも陶大尉の姿はとうに消え、ぼくは安堵の内に寝台へと潜り込む。寝台に身体を横たえつつも、今更に気付いた烈しい胸奥の鼓動を抑えるのには、少なからぬ時間が掛かった。どのような形であれ、一歩道を誤れば地獄(?)、それが軍隊である。




 ―――――翌朝。

 

 サイドカーに跨り、祈るような気持ちでキックを入れた途端、蚊の鳴くような悲鳴は、程無くして四サイクルエンジンの力強い爆音へと変わった。


 「よくやった。鳴沢!」


 と、バンちゃんは例の如くニンマリと笑い、ぼくの肩を叩いた。だがそれに気付かないほど、ぼくは自分の手で蘇らせた軍用バイクの奏でる鼓動に夢中になっていた。ここが兵営でなかったならば、そのままクラッチを繋いでその辺を走り回っていたかもしれない。それぐらい、ぼくは修理成った満足感とその場でバイクを乗り回したい衝動とに駆られていた。


 戦闘用鉄兜にゴーグル、そして軍手。それだけあれば用務に名を借りたツーリングには十分だった。しかも、ご丁寧にも修理が終ったその日の内にバンちゃんは用務を持ってきた。用務に名を借りた外出―――――そこに、バンちゃんの狙いがあった。ぼくもまた、バンちゃんの計画に乗った……というより乗せられてやった。


 連隊本部の前。用務に必要な書類を詰め込んだ鞄を提げたバンちゃんが、外で待つサイドカーの助手席に滑り込んだ。そして再びぼくはブレーキを解き、クラッチを繋ぐ。サイドカーは走り出し、内務班から羨望の眼差しでぼくらを眺める古参兵連中を尻目に、ぼくらは瞬く間に基地の敷地を駆け抜け、基地正門に達した。


 「けっ敬礼――――い!」


 スピードを落とさずに衛兵詰所の前を通った途端、大きな声を掛けられぼくは内心で驚愕する。それは正門詰めの衛兵の、最敬礼の掛け声だった。この長閑な夏日、彼にとっても突然のサイドカーの通行は晴天の霹靂であったのに違いない。答礼する間も無く、あっという間に遠ざかっていく正門の方向を振り返りながら、バンちゃんはゲラゲラ笑った。


 「見たか鳴沢ぁ、あいつらオレを士官だと勘違いしやがった!」


 バンちゃんのはしゃぎ様はすごい。まるで遊園地の遊具にでも乗せられた子供のように彼は笑っていた。その彼の襟には、お約束のように少尉の階級章が光っている。それを苦笑と共に見遣るぼくもまた、その場にいた。


 骨董品同様とはいえ、バイクに跨り、涼風を胸に受けて街中を駆け回るのは気分がいい。僅かな間だが、漸くで人間に戻れるような錯覚に陥る。ぼくらはミツバチのように各地を駆け、午前中の間を各方面との連絡業務に費やし、向かった先々からも所用を持ち返って帰営するまでの時間稼ぎをしたものだ。街中の風景もまた。かつてぼくが大学生として歩いたそれとさして変わらず、それが返ってぼくを安心させる。



 ――――――東京から遠く離れた、帝國空軍厚木基地の傍で、ぼくらは用務初日の昼食を取った。基地飛行場と外界とを隔てる背の高い金網からは、ハンガー傍で列線を形成し、あるいは滑走路の上を鋭いエンジン音を立てながらタキシングするF-104J「栄光」局地戦闘機の鉛筆のような機影が、夏場の蜃気楼の中で忙しげに蠢く様子が一望できた。


 昼食は、近くの弁当屋お手製ののり弁当。たかがのり弁当でも、営内でおっかない古参兵たちと顔を突き合わせながら食べる食事よりはずっといい。


 ふと、バンちゃんは言った。


 「鳴沢って、これいんの?」


 と、ぼくに小指を掲げて見せたのだ。


 「いますよ」


 「……で、何度?」


 「何度って、何が?」


 「アレだよ、アレ」


 バンちゃんは親指と人差し指で環っかを作り、片方の人差し指で抜き差ししてみせる。なんとも下品なジェスチャーに、ぼくが内心で気圧されたのは事実だった。


 「いえ……一度も」


 「お前、童貞だろ?」


 「…………!」


 「ホーラ、図星だぁ」


 「ううっ……」


 頬を熱くして黙り込むぼくの肩を、バンちゃんは笑顔で叩いた。


 「よっしゃ……おれがいい場所紹介してやるよ」


 「いいですよ……!」


 「バカだなぁ鳴沢は、童貞だったらいざって時に何していいか困るだろが」


 「いいですってば。成り行きでどうにかしますから……!」


 と、アケミの顔を思い浮かべながら、ぼくは声を荒げた。だがバンちゃんは意に介するでもなくニヤニヤするばかり。


 「よしよし、任せとけって……」


 そんな遣り取りを交わすぼくらのすぐ頭上を、一機のF-104Jが爆音を轟かせながら離陸していった――――――

 

 

 ――――二週間は瞬く間に過ぎ去っていった。

連隊事務室にも多くの人間が復帰し、ぼくらもそろそろ用済みとなりかけたある日、その日もまたぼくは最高で100km/時程度しか出ないサイドカーを駆り、例の如くバンちゃんを乗せて海岸沿いの国道を走っていた。

 玄界灘の鉛色の水面、そして内陸沿いの、どんよりと濁った東京湾の水面しか知らなかったぼくにとって、横須賀近辺の澄み切った碧色は新鮮な驚きですらあった。湾内を行き交う船舶に満たされた東京湾を挟み、ぼくらは走りながらにして房総半島の雄大な遠景を臨むことができた。それくらい空は晴れ上がり、鮮やかなまでの蒼に彩られていた。上から射掛ける日差しの強烈さなどもはやどうでもよかった。何故ならぼくらは風になっていたから……時速60キロ程度の速度は、曲がりくねって海沿いの道で、湿っぽく重い潮風を胸に受け、潮風を心地良く感じるのに丁度よかった。


 用務は朝から夜遅くまで及び、それはぼくが営内にいれば古参兵より押し付けられるであろうあらゆる雑役より解き放たれ、さらには地獄の徒手格闘部からも解放されることを意味した。まさにテンホの甲(軍隊内で「最高!」を現す隠語)!……サイドカーを駆るぼくは、僅かの間ではあるが娑婆にいたころの「ぼく」を取り戻していた。久方ぶりでの開放感がぼくにスロットルをさらに開かせ、コーナーに対する敵愾心を煽らせる。夏休みを楽しむ家族連れ、そしてアベックの乗用車やトラックを何台も追い抜き、ぼくは久方ぶりで走ることに酔いしれていた。


 「コラァ鳴沢ァっ!」


 柄にも無いバンちゃんの怒声が響く。その手に握られたコーラの瓶は半分くらいにまで減っていた。


 「速度落とせ速度っ!……あぶねえだろうが」


 ぼくは笑った。無茶な挑戦で同乗者をビビらせるのは、バイク乗りの楽しみの一つのようなものだ。スロットルの開度を押さえがちに二つのカーヴを潜り、古ぼけたトンネルを潜った先―――――


 「すげぇ……!」


 左側の港から投掛けられた「彼女」の威容に、ぼくらはほぼ同時に感嘆の声を漏らしていた。サイドカーは、すでに帝國海軍横須賀軍港の全景を間近に見る道に入っていた。ぼくらが丁度なだらかなカーヴに差し掛かった海側の港内に、「彼女」はそのグラマラスな肢体を浮べていた。


 あれが戦艦大和かァ……!


 二年前に最終改装を終えたばかりの、現在では帝國海軍唯一の超ド級戦艦、それが訓練航海の途上で横須賀港に入っていたのだった。曲線美漂う艦首、その舳先では帝國連合艦隊の軍艦であることを示す一六花弁の菊の御紋が眩い光を放っていた。背の高い城郭のような艦橋の天辺では、巨大な三次元レーダーが、その真黒いお皿のようなアンテナを空に向け回転させ続けていた。


 さらに圧巻なのが、「大東亜戦争」や「朝鮮戦争」でも砲戦や対地砲撃に伝説的な威力を発揮したという三連装四六センチ主砲!……その長大な砲身を収めた砲塔は、改装により艦後部の第三砲塔を撤去していたが、その代わりに核弾頭搭載可能な巡航誘導弾を収めた垂直発射セルが後甲板の半分を埋め尽くしている。この時期アニメ化された某SF漫画のおかげで、巷で少なからぬ話題をさらっていた戦艦大和だったが、漫画のヤマトが波動砲という最終兵器を持っているのと同様、この大和は一発で四国程度なら地図から消してしまえるほどの核弾頭搭載ミサイルを最終改装により装備している。


 大和だけではなかった。視線を転じれば、同じく入港中のヘリコプター揚陸艦「隼鷹」が、岸壁傍でその空母のような艦体を休めている。軍港の最も奥まった一角、潜水艦隊専用のバースでもやはり、真黒いマグロのような形状をした潜水艦が、それこそミズスマシのように何隻も連なって停泊していた。軍港の上空をHSS-2B対潜ヘリコプターの二機編隊が、ローター音を蹴立てて通過していくのが見えた。


 その日は、横須賀地方連絡本部への資料送付がぼくらの任務だった。任務を終えた後は地連から折り返し業務を命ぜられるまで暫くは暇になる。ぼくがサイドカーを地連の駐車場に停めたとき、業務を終え事務所から出てきたバンちゃんは言った。


 「鳴沢、ちょっと来いや」


 「バイク、乗らないんですか?」


 「バイクはいいんだよ」


 それだけ言って、バンちゃんはスタスタと歩き出した。

 バンちゃんの後を慌てて追う一方で、それにしても……と、ぼくは驚く。辺りは民間人以外は殆ど海軍さんのジョンベラ服と紺色の業務服ばかり、この日はいわゆる上陸日で、横須賀の街は休暇を楽しむ海軍さんでごった返していたのだ。軍港ならではの風景である。それだけに、ぼくのような陸軍は否が応にも目だって仕方が無い。それが、バンちゃんの足を早めているのだろうか?……という詮索にすらぼくは囚われた。


 メシでも奢ってくれるのか?……焼肉屋や食堂の居並ぶ通りを素通りしていく辺り、そうでもなかった。風俗か?……否、トルコやピンサロのある一角は、ぼくらが歩いているところからは少なからず遠い。


 地連事務所前の大通りは歩を進めるにつれ裏通りになり、やがては奥まった、暗い空気を漂わせる小道になった……そして自分の足の赴く先に寂れた商店街を見出した時、ぼくは愕然とする。


 「板倉六年兵殿?……ここってまさか……」


 「鳴沢は鋭いな。その、まさかだよ」


 ここって、赤線……?

話には聞いたことがあったが、それはぼくが未だ小学生だった頃の話だ。戦後の民主化と経済政策の改変に伴う風営法の改正と、土地再開発事業の煽りを受け、明治期以来の伝統があった遊郭、置屋などのいわゆる売春宿はその殆どが廃業もしくは移転を強いられ、最終的には一つの狭い区画に押し込められた形となった。「赤線」とは、その区画だけが地図表示上では赤い線で囲まれていたことから付いた呼び名なのである。


 「赤線」という名は、未だ大人の世界についてそれほど知識を持ち合わせていなかったものの、好奇心溢れるぼくのような子供にとって、何か危険な、かつ怪しい雰囲気を持って聞こえたものだった。探検と称し、遊び仲間と連れたって町の赤線地帯の近くまで入ったことが露見しただけで、ぼくらは先生や父母からこっ酷く叱られたことが思い出された。

 

 そのぼくがバンちゃんに連れられ、その「赤線」の前に立っている? 


 ……そして、次の瞬間には今まさに足を踏み入れようとしている?


 決して広いとは言えない、大小様々な、だが古ぼけて用を成さないものが大半のネオンが並ぶ通りを歩きながら、バンちゃんは言った。


 「昔の兵隊はなァ……ここで男になったもんさ」


 「…………」


 沈黙のまま歩くうち、軽やかさを保っているバンちゃんの歩調の一方で、自身のそれがだんだん重くなっていくのをぼくは感じた。ぼくは薄々気付きかけていたのだ。バンちゃんが、何故ぼくをここに連れてきたのか……ということに。


 「アラー、バンちゃんじゃない」


 唐突な呼びかけに、ぼくは心臓を弾かれたかのように振り向いた。薄手のどぎつい紫色のネグリジェに、「ミシュラン」のマスコットのような巨体を包んだオバハンが、シャッターの閉まった商店の廂から煙草を片手にこちらを伺っていた。蝋人形のような白く分厚い化粧と濃いアイシャドー、分厚く真っ赤な口紅。ぼくはお化けにでも出くわしたような目付きで彼女を見らずにはいられなかった。


 「ヨッ久しぶり。景気はどうだい?」


 バンちゃんはオバハンを認めると、歩み寄って世間話を始めた。二人は旧知の仲らしかった……ということは、彼はこれまでにも何度かここに足を踏み入れていることになる。

距離を置き、黙って二人の遣り取りを見ているうち、二人の微妙な視線が交互に、そして同時に注がれるのをぼくは覚えた。その度に視線を逸らすぼく……それが儚い努力であることを知っているぼく……そして、話が終った。


 バンちゃんは、オバハンと連れ立ってまた歩き出した。勿論、ぼくへの「付いて来い」という目配せも忘れてはいなかった。何度か角を曲がり、トタンとベニヤ作りの安アパートのような建物に差し掛かると、そこの一枚のドアの前でぼくらは止まり。やがて二人は真っ先にそれを潜った。


 「…………」


 「鳴沢、入れよ」


 入り口で逡巡するぼくを、バンちゃんは呼んだ。ネグリジェのオバハンもまた、ニヤニヤしてぼくに視線を注いでいた。玄関で強烈な芳香剤の匂いを感じながら、ぼくは言われるがまま玄関で靴を脱ぎ、居間まで通された。


 「アラーッ、バンちゃん久しぶりぃ―――――」


 オバハンより一回り年下だろうか、それでも十分に「おばさん」と形容し得るほどの年頃の二人の女性が、通された居間でこれまたケバイ彩りのキャミソール姿で花札をやっていた。女性の一人がぼくの姿を認めて「お客さん?」と、オバハンに聞く素振りを見せた。完全に全てを察したぼくは、慌ててバンちゃんを睨むようにした。


 「板倉六年兵殿……?」


 「鳴沢……敵前逃亡は銃殺刑だぞ?」


 バンちゃんの眼は笑っていたが、その一言はぼくにとって奈落の底に突き落とされたのにも等しかった。バンちゃんは黙って二階を指差し、「行け」と促した。ぼくに童貞を捨てさせるのに、すでにあらかたの準備は整えられているらしかった。

 女性の一人が、バンちゃんに言った。


 「バンちゃん、麻雀やらない? 丁度四人いるしぃ」


 「おっ……いいねえ」


 二人の間に入るバンちゃんを呼び止めようとするぼくを、オバハンが遮った。


 「あんたはこっち」


 襲い来る驚愕に、ぼくは目を丸くする。ええ?……この(ひと)と……!?

山間の瀟洒な別荘、外に降り積もる雪、燃え盛る暖炉の傍……そこに恥じらいの色を浮かべるアケミと二人っきりのぼく……それが、ぼくが生まれて初めて、一人の女性の将来に責任を持たねばならないようなことに直面した瞬間を想像するとき、真っ先に思い浮かべていたシチュエーションだった。それが、どうか?……何時区画整理で消え去るかわからないボロイ安宿で、四半世紀も前にメスとしての機能を喪失したような生き物を相手にせっせと励むぼくなんて、一秒たりとも想像したこと無いし、また想像したくも無い……!


 オバハンは半ば強引にぼくの手を引き、大根のような太い足をむき出しにズンズンと階段を上っていく。その太い足がオンボロかつ薄暗い階段を踏みしめる度に階段がギシギシ軋み、とっくに電球の切れた白熱灯がブランブラン揺れる。そして壁のアスベストがボロボロと崩れ落ち、軍服を金色の粉で飾り立てるのだった。まるで水木しげるの劇画のワンシーンのように寂れた屋内、そこでぼくはあたかもお客さんというより獲物のように上へ引っ張られ、そして引き摺られていく……


 「ユウコちゃ―――――ん」


 と、オバハンは声を上げた。ややあって二階の、それもずっと奥の辺りから「ハァーイ」と若い女性の声が返ってくる。ぼくは唖然として、オバハンを見返した。階段を上りきったところでオバハンは金歯を覗かせて笑い、ぼくに行くよう促した。


 「一番奥の部屋ね……じゃ、頑張ってね」


 頑張ってねって、ちょっと!……呼び止める間もなく、オバハンは巨体を揺すらせ足早にドスドスと階段を下りて行った。気を取り直して見詰めた前方……奥は階段に負けず劣らず薄暗く、そして不気味だ。

 

 ぼくは歩き出した。不覚にも、このとき初めて心臓がバクバク鳴っている事に気付く。本物のお化け屋敷に入ったような気分はもはや隠しようがなかった。爆弾にでも触れるような感覚でドアノブを握り、ドアを開いた直後、何処からとも無く漂ってくるいい匂いがぼくの嗅覚を捕え、それに引き込まれるようにぼくは部屋へと上がった。部屋は、予期したよりも狭くは無かった。

 

 最初に目に入ったのは、真ん中に一厘の花を生けた小さな卓袱台……その傍らに敷かれた布団は薄く、所々に得たいの知れない染みが付いていた。ご丁寧にも枕は、きちんと二つ並べて置いてあった……それが、ぼくを一層の緊張へと駆り立てる。

そこに再び、若い女性の声。


 「テーブルあるでしょ。そこに座って待っていてくれる?」


 ぼくが立っていた位置からは、女性の姿は見えなかったが、声からして彼女が若いことは容易に想像ができた。まるで泥棒にでも入るかのような歩調でぼくは進み出、短い廊下を越えた。


 「…………」


 小さな化粧台があった。その鏡に向かい、化粧をしている女性の顔は丁度影になって見えなかったが、それでも目に入った後姿に、ぼくは内心で気圧された。曲線美溢れる背中、そして豊かな胸と腰を白い、清潔感溢れるキャミソールで包んだその姿は、ぼくにはとても眩しく美しいもののように見えた。黒い髪は辛うじて肩に掛かるかどうかの長さだったが、趣味の悪さや世間ズレを感じさせる何物も付けてはいなかった。


 彼女の後姿を注視しながら、ぼくはチョコンと卓袱台の傍に座った。そこに、彼女の声。


 「上着ぐらい、お脱ぎになったら?」


 「いえ……結構です」


 化粧をする手が、止まった。


 「そっか……あなた、初めてだそうだものね」


 横座りの姿勢のまま、彼女はぼくを省みた。互いの目が合った瞬間、ぼくは我が目を疑った。


 「……!」


 美人だった。それがぼくを混乱させた。何故、こんなところにこんな美人がいるのだろう? 本気でぼくは戸惑い、目の遣り処に困った。美人……だが単に美人とは言っても、アケミ、スーちゃん、そして陶大尉……ぼくの知っている美人とは、ぼくの眼前にいるこの女性は何か「質」が違った。そこに、戸惑いが生まれた。彼女とはもともと生れ落ち、生きてきた世界そのものが違う―――――そんな印象すら、ぼくは受けたのだ。


 女性は僅かに会釈すると、備え付けの冷蔵庫からビールとガラスのコップを取り出した。


 「飲む?」


 「いえ……ぼく、運転手なもので」


 「そう……」


 「あの……」


 「ん……?」


 「……この仕事、長いんですか?」


 彼女は笑った。羽毛のように柔らかな、勘に触らない笑いだった。その瞬間、ぼくは悟った。


 この(ひと)……元華族だ。


 あの「大東亜戦争」の終結は、日本という国家はもとより多くの人間に変化の切欠を与えた。だが、それが良い変化かそうで無いかは、終戦と同時に訪れた変化を受け止めた階層によって違った。戦後すぐに行われた農地改革が、多くの自作農を創出した一方で旧来の地主層の没落を招いたのと同様、経済活動への参入の機会均等化と、天皇制を支える目的から明治期より整備され、その過程で排他的に形成された華族層の特権撤廃は、自由な経済活動の活性化とそれに伴う経済成長を促進させた一方で、時流に適応できなかった少なからぬ華族階層を忽ちの内に零落させ、社会の底辺層へと叩き込んでしまった。


 ぼくの目の前にいる彼女もまた、かつては何処かのやんごとなき家の、深窓の令嬢として生を享けたのに違いない。だが時局の変化に起因する負の影響が、彼女の一族を容赦なく奈落の底へと落とし込み、彼女をも豪奢な邸から斯くの如く荒れ果てた木賃宿へと追い遣ってしまったのだろう。


 「そんなこと、聞くものでは無いわ」


 彼女はそう言い、続けた。


 「……赤紙もらって入隊した兵隊さんと違って、何時の間にか此処にいた……というのが私達のお約束だから」


 「そうですね……」


 「あなた……ひょっとしてもとは学生さん?」

ぼくは頷いた。


 「道理で……あなた、理屈っぽさそうだものね」


 身を乗り出し、彼女はぼくに這い寄って来た。控えめな微笑を浮べたまま……その微笑に圧倒され、ぼくは正座を崩し身じろいだ。


 「怖い……?」


 「ハイ……!」


 「正直でよろしい」


 彼女はなおも近付いてきた。もはや、香水の匂いと女体の匂いとを直に感じられる距離だった。這い回るにつれ彼女のキャミソールの肩掛けがだらしなくずり落ち、それが一層ぼくを困惑させると同時に内心で逆上せ上がらせた。息を呑みさらに後退りするぼく、胸元も顕にそれを追う彼女……その内にぼくらは卓袱台を一巡し、ぼくは手を滑らせて布団の上に倒れこんだ。


 「つかまえたっ……」


 倒れ込んだぼくに跨ったまま、かといってそのまま圧し掛かるといった風でもなく、彼女はぼくをずっと見下ろしていた。上を美女に押さえられては、もう何処にも逃げ場はなかった。


 「…………」


 交錯する視線の一方――――――彼女の瞳が、「覚悟はできた?」と聞いていた。

……ふと、何処からか蝉の鳴く声がした。




 ―――――それから起こったことを、ぼくは書かないことにする。人間は墓場まで持って行きたい秘密というものを、どう生きたところで結局は一つや二つ抱えてしまうものなのだ。ぼくにとってこの日の経験は、そういう秘密となった。結果から言えば決して悪い経験ではなかった。それはその貴重さ故に人に話すのが勿体無く、当の彼女には申し訳ないくらい大切な経験だった……とまでは言っておこう。


 ……オバハンたちの見送りを受けて安宿から出て少し歩いたところで、バンちゃんはぼくの顔を覗き込むようにした。


 「オイ鳴沢」


 「…………」


 「鳴沢?」


 「…………」


 「コラ鳴沢!」


 「…………!」


 突然とも思える声に、ぼくは驚いてバンちゃんの顔を見返した。バンちゃんが呼びかけるまで、安宿でのひと時の内に熟成された余韻が、歩き続けるぼくから一切の思考を奪っていた。


 「……な、なんでありますか?」

 

 「お前、頭大丈夫か?……変なもの食わされたんじゃねえだろうな?」

 

 「はははは……な、何でもないですよ」

 

 ぼくは力なく笑い、歩を早めた。バンちゃんは小走りにぼくの後を追いニヤニヤ笑いかけた。

 

 「なあ鳴沢、どうだった……?」

 

 「どうだったって……何がです?」

 

 「とぼけるない。あのことに決まってんだろうが。ユウコちゃん、いい女だったろう?」

 

 「はは……そうですね。いい(ひと)でしたよね」

 

 「どうだ? 肌の感触とか、胸の触り心地とか……アレの締まり具合……とか」

 

 「…………」

 

 「お前、何照れてんだ?」

 

 「いや……何でもないですよ」

 

 歩きながら、紅潮した顔を襟のずっと下に埋めたいような気分に、ぼくは改めて襲われた。恥じらいを振り切るように見上げた夏の蒼空。もう元に戻れない体験を経ても、空はいつもと変わらぬ蒼でこの世界を包んでいる。


 ……ぼくが再びこの色街を訪れたのは、除隊して暫くが過ぎた頃のことだった。期を同じくして再開発の荒波が場末の赤線にも訪れ、名残こそは辛うじて残っていたものの、あのボロイ安宿はすでに取り壊され、ただ荒れ果てた空き地だけが異次元への入り口のようにポツンと広がっていたのが印象的だったのを、ぼくは覚えている。


 ぼくは時々思うことがある。今頃あの(ひと)、純白のキャミソールが似合うあの優しい女の人は何処でどうしているのだろう? 彼女もまた誰かいい男の人と出会い、今では人並みに幸せな暮らしをしているのだろうか? それとも今でも、何処かの場末の色街で彼女なりに逞しく生きているのだろうか?……それはぼくにとって掛け替えの無い経験を与えてくれた彼女に対する希望であり、現在に至る気掛かりでもある。

 


 ――――ぼくの忘れられない夏は、こうして終った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ