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その三 「『はじめての』外出」


 実戦部隊勤務は何も苦しいことばかりではない。束縛はむしろ基礎訓練過程より多少は減り、「軍規上では」初年兵もまた一般兵と同じ福利厚生上の恩恵に預かることができるようになっていた。その代表的な例が給与の支給と週一回の外出許可である。


 帝國陸海軍において兵隊の給与は、その頃と前後して突発的に起こった「ドル‐ショック」の影響でインフレ圧力が強まってもなお、低水準に抑えられていた。例えばぼく、鳴沢 醇 二等兵の給与は所得税やら帝國陸軍共済組合の保険料やらが強制的に天引きされ、そこに中隊長による好意的強制貯金も加わりぼくの手許に残るのは占めて四千五百円!……これは決して誤植ではない。国防に身を捧げ、一ヶ月を古参兵や陶大尉に殴られ、地べたを這いずり駆け回ってアリのように働いた末にぼくがもらえるお金は、たったこれっぽっちなのである。下手をすれば大学時代のバイト代の方が多かったりするのだ。いくら徴兵の身で衣食住が保証されているとはいえ、小学生のお年玉じゃあるまいし今時月四千五百円で果たして何が出来るのだろう? 

(この時代、国家公務員上級職の初任給が三万三千円。大卒初任給の平均額が約二万七千円。)


 そんなお金、電車に乗って街に行き、界隈をちょっとぶらつけばあっという間に無くなってしまう。これが海軍なら二等水兵でも勤務環境によっては艦船乗務手当や艦上作業手当てなどでその懐も若干は潤沢になるのだが、陸軍、それもヒラの歩兵にそんなものあるわけがない。特に一プレイで数千円が吹っ飛んでしまうような風俗にハマッている古参兵にとってこの問題は深刻である。そこで、

「オウ初年兵さんよ。ちょっとでもいいから俺にカネを貸してくれんかなぁ?」

と、気の弱い初年兵にドスの篭った猫撫で声でカネを無心する古参兵もいる。


 給与を貰ったからには、当然それを使いたくなるのが人情。雀の涙ほどとはいえ懐も多少暖まったことだし、さて外出!……でもそこの初年兵さん? そちらの二年兵どの? 必要なものはちゃぁーんと持っていますか? 改訂版 軍隊内務令にも「休養及ビ厚生」の項にきちんと書かれている、帝國陸軍士官、下士官兵問わず休養外出では絶対携帯しなければならない大切なもの。それは……


 「突撃一番、三個頂きたくあります!」


 「三個も買うのか? このスキモンがぁ!」


 「突撃一番、一個くださぁーい!」


 「ホレッ、釣銭はねえぞ」


 外出日の前日、そして外出間際の酒保は俄かにこの遣り取りで活況を呈することになる。そう、帝國陸軍部内名称「突撃一番」。でもぼくのように初心な初年兵や技術学校生徒の少年兵にはまず縁の無いもの……それはコンドームである。

 前掲の遣り取り――――つまりは売る方の接客態度――――に引っかかるものを感じた読者も多いと思われるので、ここで酒保―――今風に言えばPX―――の仕組みを紹介しておこう。端的にいえばそれは、あまりに前近代的な、およそ自由主義市場経済から南極と北極ほどもかけ離れた奇怪な(?)システムである。

酒保は、「下士以下ニ品質良好且廉価ナル日用品及慰安ニ必要ナル飲食物ヲ購買サセシム」との主旨通り、軍隊生活において必要な物資を、基地内の下士官兵に売るために設けられている設備である。軍隊の中にコンビニ(実際は全く似ても似つかないものなのだが……)があると考えてもらえればよい。


 酒保は通常三〇人~五〇人程度の人数を収容できるのに適度な広さを持ち、販売される酒類及び区画内で委託業者が販売するうどんやおでん等の軽食類はその場で飲み食いする決まりとなっていた。そうした性格から酒保は、購買施設であると同時に下士官兵のちょっとした憩いの場的な意味合いもまた持っていた。

 当然、営利目的で運営されているわけではないため、販売価格は市販のそれよりも格段に安く、少なくとも外出しない限りでは、営内でモノに困るようなことはない。ただ、四六時中課業や雑用に追われる初年兵では酒保に行く時間をなかなか搾り出せず、さらに、いわゆる店番は四年兵以上の超古参兵や勤続十年以上の中古下士官といった猛者が多い(でなければ古参兵の我侭に対し押さえが利かなくなる)ため、買う方は市井で気軽に買い物を済ませるのと同じ感覚で臨むわけにはいかなかったのであった。「買わせてやる」「売って頂きたくあります」が酒保の基本姿勢であり、そこに「お客様第一」といった懇切丁寧な接客精神など、あろうはずもない。



 ――――その日は、ぼくが実戦部隊勤務について初めての休日―――外出日だった。

 久方ぶりに娑婆の空気を吸えるとあって、ぼくは明日遊園地に連れて行ってもらう約束をされた子供のように胸を躍らせながら床についたものだ。その翌日の休日、課業らしい課業と言えば定例の早朝点呼ぐらいで、あとはまったくの自由時間!


 当然外出に当たり規則であるからには、ぼくも使い途のないコンドームを買わなければならない。その真意は外出の際何処かの兵士が「その筋の」お店からヘンなものを貰ってきて、それが隊内に蔓延することを上は警戒していたわけであった。要はそれ位、帝國陸軍という組織は兵士の衛生状態というものに敏感だったのである。


 外出から帰ってきた時もまた、「その筋の」お店を利用した兵隊は必ず衛兵に事の次第を申告し、すみやかに基地の医務室へ移動することになる。そこで何をするかというと……待ち構えていた軍医殿が手ずから兵士の「そのものズバリの部分」を消毒するのだ。これが嫌でコトを申告しない古参兵もまた多かった。当然、バレたら大目玉である。


 「突撃一番、一個頂きたくあります!」


 「ホレッ……兄ちゃん、女遊びも程々になァ」


 この時、酒保の販売窓からぼくの前に顔を覗かせた販売員は勤続二五年という老曹長で、中学卒業後に入営し、息子を地方にある聞いたこともない名前の大学に入れたことが自慢というかなり素朴な人だった。

 ちなみに酒保で物品販売に携わるような古兵は例外なく太っていて恰幅がいい。在庫処理と称し売れ残りのお菓子を抓み食いしたり、出入りの委託業者からの付け届けもまた多いせいか、シェークスピアの「ベニスの商人」に出てくるユダヤ商人並みに貫禄十分な方々ばかりである。実際、人を人とも思わない接客態度もまた、彼らに相通じるところがあるといえるのかもしれない。


 用を済ませたからには、酒保はさっさと立ち去るのに限る、初年兵が柄にも無く長居なんてすると、たちまち血に鮫が群がる如く酒保でとぐろを巻く古参兵連中に見咎められ、絞り上げられることになる。「一人前のこともできねえクセに酒保なんて一丁前に使いやがって!」てな感じに……


 そしてこの日、酒保を立ち去ろうとするぼくの足が早まったのは、何も古参兵の視線のせいだけではなかった。


 「オーイ鳴沢二等兵、何処にいるんだぁ――――――?」


 招かれざる地獄からの呼び声―――――舟木伍長の声が遠方から近付いてきたのだ。あの人が来る度に決まってぼくには災難が訪れる。そしてその災難の内容も大体予想が付く。ここは見付からない内にさっさと外出した方がよさそうだ。後の言い逃れなら幾らでもできる。


 「鳴沢くぅーん。何処かなぁ―――――? 陶大尉がお呼びだよ―――――」


 やっぱり!……酒保を出ると、ぼくは脱兎の如く駆け出した。いくら帝國陸軍のエリートとはいえ、一初年兵の休日にあれこれと干渉を加える正当性なんて、あっていいはずがない。それにこの日、ぼくには絶対外出しなければならない切実な理由があった。


 兵舎を出て、そこにまたあちこちをキョロキョロさせながら歩く舟木伍長を目にし、再びぼくは駆け出した。見付かる前にどこかに隠れ、やり過ごすしかない。目の前にはトラックの停車場……あそこだ!

 ぼくは駆け、フロントグリルもイカメシイ54式大型トラックの居並ぶ隙間に潜り込んだ。時を追うにつれ必死さを募らせていく舟木伍長に同情こそすれ、生憎共感する余裕なんて今のぼくにはなかった。舟木伍長が通り過ぎていくのを見届け、ここぞとばかりにぼくが停車場から飛び出そうとしたそのとき――――



 「おい!」


 背後から呼び止められ、ぼくは慌てて背を正した。恐る恐る振り返った先、眼前に立つ人影にぼくは驚愕する。

 大男だった……身の丈は、明らかに180センチ以上はある。シャツから覗く毛むくじゃらの腕は太く、胸板もまた分厚かった。それらが異様に発達した横幅の広い上半身と煉瓦色の肌、そして短いガニ股の下半身と併せ彼のプロレスラーのような体格を一層見る者に際立たせていた。短髪に比して揉み上げが異様にゴツく、濃いそれはゴリラかと思わせるほど頬にまで達している。顔つきもまたゴリラに負けず劣らず途轍もなく嶮しく。「てめえこんなところで何やってんだ?」という表情がありありと浮かんでいるように見えた。

 が……そうではなかった。直立不動するぼくに目を細め、彼は驚いたようだった。そして次の瞬間―――――


 「外出か?」


 と、彼は物腰柔らかな口調で言った。イントネーションが何となく野暮ったく、地方の出かと内心で勘繰ってしまう。


 「そうであります……!」


 「何処行くんだ?」


 「と、東京の方へ……」


 すると、彼は笑いかけた。黄ばんだ前歯から覗く金歯の一本が、透き通るような青空の下で金色の輝きを放っていた。


 「そいつぁ奇遇だべ、オレも東京まで用務で行くだ。よかったら……乗ってっか? な、そうしろ」


 「いえ……余計なご負担をかけることになると思いますので……遠慮させて頂くであります」


 だが、彼はぼくの言うことには耳を貸す風でもなく、しきりに便乗を勧めてくる。結局、電車の時間が迫っていることもあって、ぼくは彼の申し出(というより押し付け)に渋々ながら従うことにした。


 ぼくの外出の第一の目的は、久しぶりに恋人のアケミと会うことだ。既に前日に電話で話はつけてある。然るべき所で落ち合い、暫しのデートを楽しむつもりだった。


昨夜の公衆電話の会話―――――


 「もしもし……アケミ? ぼくだよ。醇……」


 『―――醇君、元気してる?』


 予想に反したアケミの声の明るさが、ぼくを安心させた。


 「うん……まあまあ」


 『―――海軍にいたおじいちゃんが言ってたけど、悪い上官とかいっぱいいるんでしょう? 苛められたりしてない?』


 アケミのお爺ちゃんは、重巡洋艦の砲手として「大東亜戦争」に参加した経験を持っていた。


 「大丈夫だよ……みんな良くしてくれてるから……」


 バンちゃんや陶大尉の顔を思い浮かべながら、ぼくは応じる。


 『―――よかったぁ……じゃあ醇君、例の場所で……明日またねー』


 「ああ!……また」


 風呂上り、受話器を握りながら手を振るアケミの姿を思い浮かべながら、ぼくは笑ったものだった。



 ―――――ぼくをトラックに載せた車両兵は兵長だった。

 

 メンコの数が三年以上であることぐらいイカメシイ外見からすぐにわかる。正門を守る衛兵との遣り取りも手馴れたものだ。殆ど顔パスでトラックは加速し、正門からぐんぐん離れていく。バックミラーに遠ざかり行く正門を見遣るにつれ、徐々に重い肩が軽くなっていくような安堵感に襲われる。


 トラックは上下に波打つ山道を抜け、やがて大きな幹線道路に出た。車高の高いトラックの助手席から見下ろす沿道に立ち並ぶ住居や小店、そして行き交う人影――――久し振りでの娑婆の風景に、不覚にも目が湿っぽくなるのをぼくは覚えた。


 「おい鳴沢二等兵……」


 と、兵長は声を上げた。


 「はい?」


 トラックは車体が大きいだけに運転席と助手席の間隔が広く、それにディーゼルエンジンの爆音も加わり声を大きくしないと助手席には聞こえない。怒られるのか?……とぼくは内心で身構える。


 「食え」


 と、彼が放り投げたものに、ぼくは目を見張った。虎屋の羊羹だった。それも丸々一本。こんな贅沢品、酒保ではまず売っていない。甘いものに飢えていたぼくは、有無を言わさずそれに齧り付いた。


 「どうしたんですか、これ?」


 「海軍にいる知り合いから分けてもらっただ。何たって連合艦隊は嗜好品が潤沢だからァ」


 大田区から品川……そしてビルディングの居並ぶ六本木に差し掛かるにつれ、ぼくの胸は躍った。沿道を軽やかに歩く着飾った若者、広場で戯れる恋人たち……本来ならあの中にいるべき同年代のぼくは、現実では彼らの環から無理矢理に引き離され、束の間の休暇に安寧を見出す身だ。そして束の間の憩いの刻が過ぎ行けば、ぼくは再び鬼の待つ兵営に戻らねばならない……開け放った窓縁で頬杖を付き、陰鬱な感傷に浸っていたぼくは、ちょっとしたドライヴの時折に、兵長が注ぐ熱い視線に気付いてはいなかった。


 六本木の大交差点から入った渋谷区は、陸軍第一師団司令部に隣接する陸軍補給処。そこが彼の目的地だった。ここで基地用の物資を調達し、再び基地に取って返すというわけだ。

トラックが集積所で停車したとき、ぼくは兵長にここから歩く旨を告げた。


 「では兵長どの、自分はこれで……」


 「そうかぁ?……もう少し乗ってってもいいのになァ」

兵長は名残惜しそうな顔をした。あたかも、初めてデートした恋人とでも別れるかのような……今思い返せば、ぼくはかなりキワドイところにいたのである。知らないということは恐ろしい。


 軍服で街を歩くぼく。規則で二年兵以下の兵士は軍服以外での外出はできないようになっていた。感嘆するような、あるいは刺すような往来の人々の視線に揉まれながら歩くうち、自ずと身が引き締まり、歩調に力が入るのをぼくは覚えた。


 渋谷区内に位置する公園が、アケミとの待ち合わせの場所だった。公園の中央に位置する時計台は、待ち合わせの時間まで未だ一時間ほど時があることを示していた。


噴水の傍で腰を下ろし、ぼくは視線を巡らせる。当初は疎らだった人影は見る見るうちに数を増し、おそらくぼくと似たり寄ったりの事情を持った若者を通じ、周囲に次第に喧騒が広がっていくのをぼくは感じる。望みは薄かったが、アケミの姿が見えないか視線をめぐらせているうち―――――


「あっ……」と、ぼくは軽く叫んだ。アケミならぬスーちゃんが、そこにはいた。

軍服ではなく、清楚な白いワンピースに身を包んだスーちゃんは、敷地の隅に位置する、遠くのベンチにただ一人で腰を下ろしていた。ベンチから空を仰ぐ彼女の顔立ちは遠くから見ても美しく、近づき難い神々しささえ放っている。彼女もまた、誰かと待ち合わせをしている最中なのだろうか?……それを思い、ぼくは少し失望した。


そのとき、噴水の縁に腰掛けるぼくの直ぐ近くを誰かが横切った。それに気付き、ぼくは慌てて立ち上がった。一瞥してその主が軍服を着用していることに気付いたからだ。軍隊社会の最底辺にいるぼくは、どんな軍服に敬礼したところで問題はないし、間違いもない。

 だが、敬礼した時ぼくは少し戸惑った。結果から言えば、ぼくが敬礼した相手は陸軍の軍人ではなかった。軍服の色はカーキではなく、濃いスカイブルー……空軍の人だったのだ。


「…………?」


彼はぼくに気付き、怪訝そうな視線を送った。やがて戸惑うぼくに微笑みかけると、気を取り直したようにぼくに向き直り、見事な敬礼を送る。その様子にぼくは内心で気圧された。階級章は大尉。スカイブルーの制服が均整の取れた長身に見事なまでにマッチしていた。彼の顔立ちは映画スターのように端正で、全身からは内面の真摯さが後光のように滲み出ているかのようだった。そしてその胸には陽光を吸い込み燦然と輝くウイングマーク!……まさに絵に描いたような帝國空軍士官だ。


敬礼を終えると、彼は再び歩き出した。その向かう先にはスーちゃんの座るベンチがあった。スーちゃんに見えないように背を屈めながら、ぼくは一部始終を見守った。大尉さんがベンチの前に現れるや否や、スーちゃんはすっくと立ち上がり、彼に歩み寄った。

ああ、やっぱり……別に残念だとは思わなかったが、ぼくの内面に少し暗いものが宿ったのは否定しようもない。

 

二人は二、三言会話を交わすと、連れたって公園の外へと歩き出した。それを呆然と見送るぼくの背中から、今度は素っ頓狂に明るい声が襲ってきた。


「醇くぅーん!」


「アケミ!?」


と、声の方向を振り返り、ぼくは愕然とした。


「何……それ?」


久し振りで会ったアケミは、ぼくから見て奇妙奇天烈な姿でぼくに駆け寄ってきた。「中ピ連」と鋭角的な丸文字で書いたピンク色のヘルメットを阿弥陀に被り、上半身を覆うくらいに大きなゼッケンにはデカデカと「♀」の記号が殴り書きされていた。そして手にはお決まりの如く、「これからデモに行きます」と言いたげな重そうな角材。

ぼくの前で止まると、肩を揺らし息を弾ませてアケミは言った。


「醇君ごめぇん、あたし一緒に行けなくなっちゃったぁ」


「アケミ……何やってんの?」


「見てわかるでしょ? 中ピ連よ、チュウピレン」


「…………」


「何たってこれからはウーマンリヴの時代だからね。あたし達が行動して日本を変えなきゃあ」


「ああ……そう」


「じゃあねぇ―――――!」


アケミは踵を返し、去り際にぼくに手を振りながらそう叫んで再び駆け出した。その足の向かう先では、アケミと似たり寄ったりの格好に身を包んだ女の子が、手に手に幟や角材を持って群れている。彼女らの方向へ遠ざかり行くアケミに力なく手を振りながら、ぼくは何時もと変わらぬ彼女の活動的な姿に唖然とするばかりだった。

「中ピ連」とは、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性連合」の略称で、この時期世界同時的に沸き起こった女権伸張運動の流れに呼応するように日本で結成された組織であり、運動のことだ。

運動に参加した女学生達が、妊娠中絶に対する規制撤廃やピル(経口避妊薬)解禁、そして男女雇用環境の均等化などを求め厚生労働省正面玄関前で座り込みを行ったり、女性に対し差別的な言動を為した人物のところへ集団で押しかけ、文革期の紅衛兵ばりの吊るし上げをやったりなどして世情を賑わせていたものだ。アケミもまた、どういうわけかその運動に加わり、かなりのめり込んでいたようだ。


―――――その日の夜のニュース。ピル解禁を求め霞ヶ関の厚生労働省正面玄関前に集結し、気勢を上げる彼女ら「中ピ連」の先頭集団の中に、アケミの姿もまたデカデカと映っていたそうである。


アケミと一緒に行けないとなると、あとは漠然と街中で過ごすしかない。大学時代から行きつけの喫茶店で、ぼくは時間をつぶすことにした。そこでは大学の友人がバイトをしていて、ぼくがいない間の話を色々と聞けるかもしれない。ひょっとしたらもういないかもしれないが……


……不安に反し、久しぶりで鈴を鳴らし潜った喫茶店のカウンターには、友人がいた。真白いパンタロンに真っ赤な原色のVネックシャツ。それに手入れの悪そうな口髭にマイクのようなアフロヘアーも変わりなかった。


 「あれぇ―――――鳴沢じゃん。兵役食らったって聞いたけど、もう脱走してきたのかよ?」


 心にもない一言だったが、その口調には友を労う響きが篭っていた。カウンターの壁際に据えつけられた巨大な短波ラジオが、BBキングの歌を流していた。周波数を指し示す目盛は、丁度ぼくの大好きな極東放送の位置だった。変わりない旧型ラジオの堅調ぶりに目を凝らすと同時に、何処からとも無く漂ってくるカカオの香りに心なしか、ぼくは生き返るような心地に襲われた。


 彼は慣れた手付きで湯を沸かし、その間ぼくは、ぼく自身の経緯を彼に話して時を過ごす。


 「へぇー東京かぁ……で、何処の部隊にいるの?」


 ぼくは、腕のワッペンを指し示した。上腕の一点を占める菊の御紋に、友人の目が丸くなった。


 「うへぇ――――鳴沢の行ったところって、天ちゃんのお守りかよ」


 「うん……」


 ぼくは頷いた。彼は手ずからコーヒーを淹れてくれた。


 「これ、おれの奢りだよ」

 

 「持ってるよ。お金ぐらい……」


 「兵役で朝鮮に行ったマスターがさあ、徴兵太郎は金がないから優しくしてやれとさ」


 徴兵太郎……それが徴兵に行った者をからかう言葉であり、哀れむ言葉でもあることをぼくは知っていた。カネがないのは事実……申し訳無さそうにぼくは頷き、話題を転じた。


 「あれ……ところでミーちゃんは?」


 ミーちゃんこと、喫茶店の看板娘であるミヨコさんの姿が見えないことに気付き、ぼくは視線を巡らせた。友人はばつ悪そうに俯くと、奥を顧みた。


 「おーい、ミヨコォー。ちょっと来てくれー……」


 程無くして、奥から現れたミーちゃんの変わりように、今度はぼくが目を丸くした。


 「あちゃー……」


 チャームポイントのポニーテールは、結えられた赤いリボンと共に未だ可愛らしさを空気にして漂わせていたが、はにかみがちな微笑を漂わせる彼女の首から下の姿を、ここに来て見るまでぼくは一片も想像したことが無かった。マタニティを纏うにはまだ早すぎるように見えたが、それでもミーちゃんのお腹はやんわりと膨らんでいることがわかった。


 「鳴沢がさぁ、兵役行った次の週ぐらいかなぁ、わかっちまったのは……」


 と、友人はミーちゃんに促すようにした。それに対しミーちゃんは、頬を赤らめて頷く。


 「確か……鳴沢君だよね? ケンジと大学で一緒だった……」


 「一緒だったって……おまえ大学行ってるの?」


 ぼくの問いに、友人はばつ悪そうに頭を掻いた。


 「いや……ミヨコの出産費用稼がなきゃいけねえから、行く暇ねえよ」


 「ところでマスターは?」


 ミーちゃんは、喫茶店のマスターの娘なのだ。二人は殆ど同時に苦笑し、友人が口を開いた。


 「妊娠がバレテさ、それマスターに言ったら一発殴られてそれっきりさ……口も聞いてもらえねえ」


 ぼくは笑った。笑うと同時に、何となく寂しくなった。ぼくが日々国防に勤しんでいる間に、友人達はぼくの知らないところでこうして人生の様々な転機に差し掛かり、通り過ぎようとしていることを思い知らされたからだった。ぼくだけが只一人取残されたような気がして、ぼくは笑いながらも胸が詰まりゆくのを感じた。


 帰り際、ぼくは余計にコーヒー代金を置いて行った。受取るまいとする友人に、「兵営じゃ使うとこないんだ。これから何かともの要りだろうし、貰っておいてくれよ」と言い残して―――――


 兵営に戻って不貞寝でもしたい衝動に駆られたが、早く戻ってきたところで待ち構えているものは目に見えている。鬱憤晴らしといっては語弊があるが、ぼくが次に立ち寄った先は、喫茶店から数ブロック先にでんと店を構えているパチンコ屋だった。当時は従来型の手打ち式に代わり自動式が普及し始めた頃で、ブームが本格化し、加熱の末に公営化されるという紆余曲折を辿るまでには未だ時期的な余裕があった。

 兵営でツイてない分、ここではツイていたというべきか……この日は大漁だった。ぼくはあっという間に七箱貯め、ツキはさらに続くかに思われたところでやめた。時間も無かったし、こういう局面が、入営前までのパチンコ遍歴から潮時であることをぼくは知っていた。後はこれを全て記念コインとかに替え、隣接する古道具屋で換金して貰えばちょっとした小金になるというものだ。

そして、コインをポケットに仕舞いこんだぼくがパチ屋を出ようとしたそのとき―――――


 「あれ……?」


 見覚えのある人影をパチンコ台の並ぶ一角に見出し、ぼくは目を細め、さらには台の陰から身を乗り出すようにした。


 「あれっ? 板倉六年兵どの」


 バンちゃんだった。兵営では一度も見たことのないような嶮しい眼差しを、彼はパチンコ台の盤面に注ぎ、憑かれたように何度もハンドルを回していた。

 だがその熱意は空回りするばかりであるようだった。箱の中のパチンコ球が見る見る減って行くにつれ彼の顔からは次第に余裕が失われ、ハンドルを握る手が、心なしか忙しげになっていくのが判った。結局何の奇跡も起こらぬままに「来るべき終末」が訪れ、舌打ちしながら出口へと歩いていくバンちゃんを、ぼくは呼び止めた。


 「なんだ、鳴沢じゃねえか」


 「あのう……これ、どうぞ」


 と、ぼくはコインを差し出す。途端に、バンちゃんの顔に明るさが戻った。


 「えっ……いいんか? オレにくれるのか?」


 「板倉六年兵どのには、日頃お世話になってますから」


 バンちゃんと別れ、換金に行こうとするぼくを、バンちゃんは呼び止めた。


 「あすこは止めとけ、(換金)レートが悪いから。オレ、いいところ知ってるんだよ」


 と、しきりに別の場所を勧めてくる。ぼくはバンちゃんの言葉に従うことにする……と同時に、ぼくはバンちゃんのあることに気付き、一瞬我が目を疑った。


 「い、板倉六年兵どの!?……そっそれは……」


 「ああ、これか」


 淡々とした表情で彼が目を凝らした襟元には、上等兵ではなく伍長の階級章が光っていた。



 バンちゃんが連れて行ってくれたのは延々と歩くこと10分、六本木界隈から二キロほど離れた、新橋を南北に走る路線に位置する高架橋の下にあるなんとも怪しげなところだった。

 奥行きの広い高架橋の一角を占める薄汚いビニール張りのバラック、それは一種の露店と言えないこともなかった。灯油ランプ一個のみで照らし出された薄暗い中にただ一人、顔つきの嶮しいお婆さんが営んでいる骨董屋があった。そこにはきちんと用を為すのかどうかさえわからない出自の知れない古物の他、妙に湿ったエロ漫画雑誌とかも無造作に積まれていて、それは只でさえ人通りの少なく、不気味な場の空気を一層沈鬱なものにしていたのである。


 実際、換金レートは驚くほど高かった。向こうの古物屋の1.5倍ほどのレートで交換してくれたのだ。そんな大盤振る舞いなど、正規の店ならまず考えられない。

帰り際、バンちゃんは言った。

 

 「ここのことは矢鱈と口に出すんじゃねえぞ。あの婆ちゃんのバックにはおっかない連中が付いてるからな……」


 「しかし……あんなところに店を出して、儲かってるんですか?」


 「鳴沢はバカ正直でいけねえ、あすこの本業はな……」


 バンちゃんが言うには……否、これはさすがに書けない。あえて手掛かりを書くとすれば借金で首の回らなくなった人、これまでの自分を捨て、別の人生を生きてみようとお思いの方には、それはお勧めの「商品」かもしれない……とにかく、高価であり、かつ表に出てはやばい物(事?)があの高架橋の下で取引されていたことは確かである。

 それにしても……ぼくは聞いた。バンちゃんの階級章のことを……それに対し彼は意味ありげな笑みを浮べると、それとは全く別の話題に属することを言った。


 「鳴沢、一緒に飲もうか? いい店知ってんだぁ」


 再び、バンちゃんに連れられ歩いた先は築地。厳密に言えば喧騒を極める卸売市場の外縁で、そこから弾き出されたように身を寄せ合う零細の居酒屋や小料理屋が軒を連ねる、さらに言い換えれば寂れ果てた一角である。

 バンちゃんに付き従うままにその一番隅の一軒に入り、ぼくらは一杯50円の牛筋の煮物を肴に焼酎のグラスを傾けた。一気に飲み干した途端、襲い来る猛烈な胸焼けにぼくは眼を白黒させる。入営以来一滴も飲んでいないアルコールに対する耐性が薄れ掛けていたのか、それとも焼酎自体、風味とか喉越しとかを度外視した相当安価な代物だったのか……それでも気付いた時にはぼくらは一杯、また一杯とグラスに満たした焼酎を煽っていた。

 

 相当に酔いが回ったと思われるところで、バンちゃんが言った。


 「お前、ここに来る前はガクセイだったんだって……?」


 「はいっ……そうでありますぅっ!」


 ぼくもまた、呂律が回らないながらも応じる。


 「学生さんならつらいよなァ、人生で一番面白ぇときに徴兵だもんなァ……同情するぜ」


 同情するくらいなら、何かと助けてくれてもいいのに……と言いたいのをこらえ、ぼくは言った。


 「板倉六年兵どのは、除隊はなさらないのですか?」


 「除隊だァ?……アホか。このオレが社会に出たところで、何が出来るってんだよ。今がオレにとっちゃあ、人生で一番面白ぇ時なんだよぉ……ヒック」


 バンちゃんもまた、「陸軍にしか行き場のない人間」であることを、ぼくは大分酔いの回った頭の中で確信する。現実に対する厭世感、または将来への希望……好き好んで軍に入隊する、または居座り続ける人間の抱えるものは大体その二つに分類できるのだった。バンちゃんはどちらかといえば後者かもしれないが、どうだろう?……ぼくが答えを見出すのに、もう少し時間がかかるように感じられた。

 ……やがて、おもむろにバンちゃんは立ち上がった。


 「おやじぃ――――勘定」


 「六年兵殿?……ちょっと!」


 と言いつつ覚束ない足取りで真っ先に暖簾を潜って出て行こうとするバンちゃん。慌ててそれを追おうとするぼくを、店主が呼び止めた……結局、今日の彼の飲み代はぼくの持ち出しとなってしまったのだ。無責任な戦友ドノに対する落胆を隠せないぼくだったが、彼が悪い人ではないということを知っていたからまあそれも許せたのだった。



 帰路に付き、バスを降りて歩く沿道がそろそろ基地の敷地に差し掛かりかけたときのことだった。上機嫌でぼくの前を歩いていたバンちゃんがいきなり周囲をキョロキョロし出すと、傍の電信柱の陰に入り何やらコソコソし始めた。


 「…………?」


 よく見ると、彼はポケットから鏡を取り出し、軍服の襟の辺りをなにやら弄くっていた。先刻までつけていた伍長の階級章がペリッと捲れ、その下から顔を覗かせたのは、紛れもない上等兵の階級章……!


 「あ……」


 唖然とするぼくに、バンちゃんはまたニヤリと笑いかけた。


 「鳴沢もやってみるか? 面白いぞ」


 やりませんよっ!……と、ぼくは内心で声を荒げた。これ、階級詐称といって立派な犯罪である。バレたら最低でも重営倉間違いなしだ。

 つまりはこういうことである。兵隊の間でメンコの数が幅を利かせるのはその基地の中だけで、他の基地に所属する見ず知らずの兵士に対しては効果がない。だから街中を違う階級章をつけて歩いていても、顔見知りの兵と鉢合わせしない限り見咎められることはないというわけだ。

 

 さらに言えば、見ず知らずの兵ならば同じ階級の上等兵でも、伍長の階級章を付けたバンちゃんを文字通りに下士官と勘違いして敬礼してくるだろう。それでバンちゃんはちょっとした優越感に浸るというわけである。いい加減と言うか豪胆と言うか、ぼくはバンちゃんの所業に唖然とするしかなかった。

基地正門に入り、ぼくらは衛兵に外出終了を申告した。もちろんバンちゃんの襟元に光っているのは紛れもない上等兵の階級章。

 

 後は兵営に戻り、寝台で束の間の休息に浸ろうか、それとも溜まっている雑務を片付けようか……などと漠然と思いを巡らせていたそのとき―――――


 「…………!」


 眼前に仁王立ちする人影に、ぼくらは目を丸くした。


 「鳴沢二等兵……貴様、何をやっているんだ?」

 

 陶大尉は待ち構えていた。サングラスの眼光も冷ややかに、彼女はぼくを凝視していた。次に気付いた時には傍にいるはずのバンちゃんは、すでに内務班へ向けて歩き出していた。


 「ちょ……ちょっと? 板倉六年兵どの!?」


 バンちゃんは後ろを振り返ることなく黙って手を挙げて振った。それっきりだった。取残されたという驚愕を胸に再び正面に視線を転じた先、陶大尉の口元が大きく歪み、それはくの字状の笑みとなった。


 「鳴沢二等兵―――――――――?」


 「は、はいっ……!」


 「わかっているだろうな?」


 ……それから消灯の時間まで、ぼくが武道場でたっぷりと締め上げられ、投げ飛ばされ続けたのは言うまでも無い。



 ――――――面体をぶち割るような正拳突きを喰らい、再び眼を開けたときには、ぼくは武道場の真ん中で大の字状に倒れ込み、朦朧とした意識に支配されるまま天井を見上げていた。


 「う―――――……」


 「鳴沢二等兵――――――生きているかぁ―――――?」


 と、陶大尉はぼくの頭の傍に立ち、ぼくを見下ろすようにした。焦点の合わない目に、無表情なその顔が憎らしく、無慈悲な悪魔のように見えた。


 陶大尉は言った。


 「貴様……本官から逃げられると思っているのか?」


 「どうして……なぜ、自分なんで……ありますか?」


 漸く搾り出せた反駁を、陶大尉は鼻で笑った……そして、再び感情の抜けた口調。


 「貴官が捻くれた男だからだ。だからこうして真っ当な男子に戻してやっている」


 「…………」


 「最近、娑婆は軟弱な男で溢れているそうな……国防の大義を厭い、皇国の伝統の重みも知らず、惰弱なる物欲に溺れ、なおかつ己が煩悩の赴くまま女に媚を売る……貴官も入営する前はそのくちであったのであろう?」


 「…………」


 ぼくは何も言えなかった。そこに、彼女の更なる言葉が降りかかった。


 「鳴沢二等兵……貴官はこの巡り合わせを幸運に思うべきだ。本官は貴官を皇国のために命を捧げることを厭わぬ真の日本男子にしてやる。そのためならば、貴官が血反吐を吐こうが、苦痛にのた打ち回ろうが……そんなことは本官は斟酌しない。耐えられないならば……その時はもう貴官は終わり。ただそれだけだ……今日はここまで」


 足音が踵を返し、次第に遠ざかっていった。未だに抜けぬ虚脱感と苦痛の中で、ぼくは呟いた。


 「……死ね……クソ女」


 か細い声では大尉には聞こえないはずが、足音が、止まった。同時に、ぼくの心臓もまた止まりかけた。


 「……その意気だ。鳴沢二等兵」


 再び遠ざかり行く足音……彼女の投掛けた最後の言葉を、何時の間に胸中で噛み締めているぼくがいた。



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