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その二 「女王の徒手格闘教室」

 

 ――――朝食の後、僅かな課業準備時間に続いて錬成訓練が始まるのは近衛連隊もその他の部隊もまた同じだった。午前からはランニングに錬成体操。そして木銃を使った近接戦闘訓練が続く。


 兵隊、それも帝國陸軍で言うところの「主力兵科」たる歩兵とはいっても、来る日も来る日もフル装備で演習場を駆け回るような本格的な訓練に明け暮れているわけではない。第一そんなことをやっていたら只でさえ多いとは言えない国防予算などあっという間に尽きてしまう。大日本帝国陸海空軍において常時実戦訓練に明け暮れている部署と言えば、何時起こるとも知れぬ緊急事態に備えて二四時間待機状態にある帝國陸軍特殊空挺旅団(IASAB)や|帝國海軍特殊挺身潜航隊《INSOSS》ぐらいなものだ。


 午前の課業に続く昼食を挟み午後からは座学。戦闘技術に関する講座(実習もある)や中隊長直々の講話もあれば、「軍人精神及び武人としての素養を養う」目的で大東亜戦争中の戦意高揚映画を見せられたり、はたまた日本軍や他国の演習風景をVTRとして延々と見せられたりすることもあった。


 課業の修了は平時の場合午後三時。それから五時半の夕食までの貴重な自由時間を、兵士は衣類の繕いや洗濯、装備の手入れ等に費やすことになる。とはいっても、本来兵士個々で為すべきこれらの作業は、内務班で一番ジャクのぼくや入営して未だ月日が浅い二年兵あたりに押し付けられることになる……しかもこの日自分でも知らない内に連隊徒手格闘部の部員に加えられていたぼくは、舟木伍長の言葉に従えば武技が始まる四時までには自分のも含め全ての用事を済ませておかなければならない。


 ……だが、地獄からの使者は予想に反し課業修了から30分という異例の早さでぼくの前に現れた。


 「鳴沢二等兵、時間だよ―――――」


 と、聞き覚えのある猫撫で声がぼくを呼ぶ。あの舟木伍長はご丁寧にも、ぼくを内務班まで迎えに来たのである。内務班の物干場にいたぼくは、洗物をする手を止め、胡散臭そうに彼を見詰めた。


 「いやあー……陶大尉殿は君がきちんと来るかどうか甚く心配しておられてねえ、それで本官に君を呼びに行けとお達しがあったんだよ」


 「……あのう、自分は初年兵ですよ。連隊に来て右も左も判らない初年兵が、どうしていきなり武技に参加しなくてはならないんですか?」


 「最近の若いやつはどうも理屈っぽくていけない。でもそれは本官に言うべき言葉じゃないなあ。大尉殿に言ってよー」


 「う゛……!」


 上官、それも連隊でおそらく最強の士官に面と向かってそんなこと言えるわけがない。しかも目端の利く伍長はそれを見越している。


 それでも、ぼくは首を横に振った。


 「イヤです!……戦争中ならともかく、大体何で自分が他の中隊の人の言うことを聞かなくちゃいけないんですか。自分の立場も考えて下さいよ」


 窮屈極まる人間関係の中に置かれても、ぼくにも抗弁する権利はある。それ以上に、他中隊の隊員の言うことを聞いてこちらの内務班の仕事を等閑にする方がはるかに怖かった。後でどんな目に合わされるか分かったものではない。

 

 抗弁した瞬間、怒り出す伍長をぼくは覚悟した。が……


 「頼む!……この通りだ」


 唐突に手を合わせ、ぼくを拝むようにする伍長に、ぼくは唖然とする。伍長もまた怯えている。ぼくと同じく大尉の言いつけに背けば酷い目に遭わされるのだろう。陶大尉の指揮する中隊は、他の中隊と比べて明白なほど雰囲気が異なる。何と言うか、スターリン時代のソ連の如くいつもピリピリしているのだ。居住区に居並ぶ普通の兵舎もまた、彼女の中隊に属する区画だけ、あたかも絶滅収容所の如き陰気さに包まれている。


 「…………」


 ぼくは困った。必死で哀願され、心を揺るがさない人間などいない。だが鼻っ柱の疼痛が、ぼくの脳裏に危険信号を発し始めている。一週間前、舟木伍長に誘われるがまま初めて武道場に足を踏み入れたとき、当時巷で名を売っていた極真カラテも真っ青の上段回し蹴り(徒手格闘術は直突き、直蹴り、関節技のみで、回し蹴りなんて大層な技は存在しないのだが……)をもろに食らった際にできた痛みである。もちろん、回し蹴りの主は――――――



 ―――――数分後、舟木伍長から渡された胴着を纏い、足を踏み入れた武道場は、すでに張り詰めた冷たい空気に包まれていた。


 連隊の徒手格闘部員は八割がた男。それも二年兵以上で入営前から格闘技に関しては十分心得のある猛者で占められている。それも「こんな人、ウチの連隊に居たっけ?……」というような、まるで梶原一騎や小池一夫が原作をやっている劇画の登場人物みたいなゴツイ顔つきの方々ばっかり。中には正真正銘のレンジャー章持ちもちらほらいる。そんな正座の列に加われば、ひ弱な外見のぼくなんて何処の星の住人かとばかりに目立ってしまう。


 ぼくの場合、格闘技なんて中学高校時代に体育の一環で柔道を少々やったぐらいで、技術の程はズブの素人に等しい。それなのに……否、それだからこそ彼女の魂胆が見えてくるというものだ。


 四時に達し、徒手格闘部部長の日枝少佐をはじめ、教官連中が控室から悠然と入ってくる。その中には、やはりあの陶大尉もいる。長身の割りにやけに発達した首の筋肉、そして隆々とした長い腕の筋肉にモデルのように長い足……それらから繰り出される突きや蹴りは変幻自在そのもので、あの「熊殺し」スティーヴ‐ウィリアムズと正面から戦っても勝てるのでは?……などとしょうもない感慨すら沸いてしまう。


 「――――教官殿に礼!」


 ぼくでは絶対出せそうにない、大瀑布の如き号令が場内に響き渡る。声の主は芝原という伍長。高総体の空手大会で優勝経験があるという強者である。だが陶大尉の蹴りは、そんな芝原伍長すらゴジラがアンギラスをひっくり返すように武道場の床に叩き付けてしまう。その大尉を眼前にして不覚にも、先程から心臓がバクバク鳴っていることにぼくは今更ながら気付いていた。


 自ずと沸いてくる戦慄―――――その元を探るように視線を巡らせた先、陶大尉があのギラギラした目で末席のぼくを睨みつけている事に気付く。無表情だったが、その眼差しは蛇そのもの!……彼女の眼は弄び、やがては飲み込むべき獲物を見つけたようにイキイキとしていた。

 

 武技が、始まった。

 

 「おい、鳴沢二等兵」

 

 と、短いがかなりきつい準備体操の後で、ひとりの部員がぼくに声をかけてきた。胴着の名札に書かれた「新藤軍曹」一文字に、ぼくは長時間の正座にすっかり痺れきった足に喝を入れ、不動の姿勢を取った。そんなぼくに、軍曹は黄ばみかけた歯を見せ笑いかけた。

 

 「安心しろ、とって食うわけじゃない。楽にしてよし。俺はこれから貴様の指導をすることになった第17戦車連隊の新藤軍曹である」

 

 そう言って、彼はぼくの顔を覗き込むようにした。中肉中背な身体を厚手の胴着に覆ってはいても、その一枚隔てたところに鍛えられた筋肉が詰っていることぐらい、すぐにわかった。細い眼と福々しい顔の上に、毬栗頭の頭髪にはすでに白いものも混じっている。年の頃は……30の半ばぐらいか。

 

 爪先から頭の天辺に至るまでぼくのことを眺め回し、一通りぼくに対する興味を満たしたと思われたところで、新藤軍曹は聞いた。

 

 「ところで貴様、自分がなぜ入部できたかわかるか?」

 

 「……わかりません」

 

 自分で望んだ入部ではないのに、判るはずがない。軍曹は嘆息し、鏡の前でただ一人、型の練習をする陶大尉に視線を向ける。

 

 「貴様がここに入れたのはあの新品大尉殿のごり押しだ。まあ見たところ貴様は格闘の経験なんてないようだし、志願でもないとくれば……貴様、あの大尉に何かやったのか?」

 

 「まあ……話せば長くなりますけど」

 

 それで十分だった。軍曹は頷くとまた笑い、バンとぼくの肩を叩いた。

 

 「安心しろ。他の格闘技とは違って、徒手格闘はバカでも一定のレベルまでいくようにできている。何せ戦闘用の格闘技だからな、直ぐに習得できなければ意味がない。だが……ここに放り込まれたからには努力をしろ。貴様は何時入営したんだ?」

 

 「今年の前期であります」

 

 「じゃあ、一等兵になる頃には相当のところまで行くだろうな。徒手格闘の免状は取っておくに越したことはないぞ。何せ持っているというだけでその辺のヤクザや端末古参兵もチョッカイを出さんし、運が良ければ二年兵でもレンジャー養成課程に志願できる。幸運だと思って頑張れ」

 

 「そ、そうですね……」

 

 ぼくは力なく頷いた。

 

 後で知ったことだが、ぼくを無理矢理に徒手格闘部に入れた陶大尉は、彼女本人の責任でぼくを「教育」するつもりだったらしい。しかし部長の反対にあい、渋々新藤軍曹をぼくの「教育係」に付けることに合意したようだった。元がその筋の猛者で占められている徒手格闘部。そこにズブの素人、それも初年兵を捩じ込むこと事態、異例のことなのだった。


 ぼくは、新藤軍曹に付いて格闘術を基本から学ぶことになった。


 最初は基本的な攻撃の型と受身から始め、徐々に実践的な鍛錬に移行していくことになる。その日は突きや蹴りなど、攻めに関する基本姿勢がそれらしく整うまでに、丸一時間の鍛錬が必要だった。これにはぼくも内心で安堵を覚えたものだ。それ以前は試合稽古を見学して(させられて)、いきなり陶大尉と立ち合わせをやらされるという無茶苦茶さ……当然、まともな試合など成り立つわけがない。入営して初っ端から生傷だらけになったが故に、古参兵からアゴを取られることを免除された新兵などぼくぐらいなものであろう。

 

 「へぇー……貴様、なかなか筋がいいじゃないか」

 

 本気で言ったのかどうかはわからないが、新藤大尉はそう言ってぼくを褒めた。今日は何となく感触がいい。このまま気持ちよく終われそうだ……と思ったのも束の間―――――

 

 「只今より試合稽古に入る。部員は武道場の中央に集合!」

 

 日枝少佐の声が響き渡った。試合稽古は道場の中央に環を作り、部員総当りで立ち合う形式を取る。要するに最後に環の中央に立っている人間が最強の使い手となる寸法だ。

 

 「鳴沢二等兵は列外。試合を見学するように」

 

 これは、実践についてこれないぼくに対する配慮であろう。ぼくは有難くその配慮を押戴くことにする。申し訳程度に環の外でチョコンと座ったぼくを、陶大尉が無言のまま一瞥する。その目には明らかな隔意が宿っていることだけはわかったが、迂闊にもそれ以上の彼女の真意を量ることに失敗したことに、愚かなぼくは未だ気付いていなかった……その慢心にも似た油断が、直後のぼくに天の懲罰とでも言うべき恐るべき災厄をもたらすことになったわけだが。


 程無くして試合稽古が始まり、ぼくは眼前に一気に噴き上がる熱気、そして殺気に圧倒される。蹴りと突きの応酬、間を巡るせめぎ合い、道場を烈しく揺るがす足音と裂帛の気合!……何時の間にか壮絶なまでの精神と肉体のぶつかり合いに圧倒され、我を忘れるぼくがいた。だがぼくの心は未だ当事者のそれではなく傍観者のそれだったのだ。

 

 環の中央に最後まで残ったのは、やはり陶大尉だった。徒手格闘部の筆頭教官たる彼女が最後の相手を直突きの一閃で昏倒させたころには、武技の時間も終了に近付いていた。この瞬間、ぼくは漸くこの日の抗い難い柵から解放されることを確信し安堵する。

 

 ……が、ここは帝國陸軍、特にその最下層たる初年兵にとって何事もハッピーエンドというものは存在しない。

 

 短いながらも充実した鍛錬を終え、皆を解散させる段になって、陶大尉は言った。

 

 「鳴沢二等兵は残れ。あとは解散してよし」

 

 「…………!」

 

 突然のことに首を左右に振り、周囲の様子に目を丸くするぼく。その間も、正座を解かれた部員たちは三々五々に武道場を後にしていく……そして、後にはぼくと、ぼくと対面するように正座する陶大尉が残された。

 

 「…………」

 

 静寂……それが訪れた瞬間。陶大尉は大きな口を弓なりに曲げ、ニタリと笑った。あのときの朝のように――――――口元から覗く真白い、並びのいい歯がぼくの緊張を否が応にも高める。直後、大尉はあの無表情に戻りあの冷たい声がぼくの聴覚を打つ。

 

 「鳴沢二等兵」

 

 「は……?」

 

 ゆっくりと立ち上がり、黒い帯を締めなおす大尉。そしてまた、ぼくを地獄に突き落とすような言葉を彼女は口にする。

 

 「防具を着用し、武道場に立て」


 どう考えても、女の人を前にしているという感じがしない。まるでこれから怪物と対決でもしようかという雰囲気である。

 

 「あのう大尉殿……?」

 

 「何か?」

 

 「こんなのどう考えてもオカシイですよ。自分、格闘は未経験ですよ?」

 

 「防具を着用し、腕立て五十回」

 

 「ハァ?」

 

 「本官に口答えした罰だ。腕立て五十回。いますぐに……!」

 

 「…………!」

 

 このひと……本気だ。愕然とするぼくの心中を量ってか量らずか、大尉は続ける。


 「貴様、ここで何もできずに情けないとは思わんのか? それとも、ここにいる間ずっと見学者で過ごすつもりか?」


 「そりゃあ……未経験者ですから」


 不貞腐れたぼくの反抗を、大尉は見逃さなかった。


 「追加五十回」


 「…………!?」


 「本官は貴様に意見を求めてはいない。ここでは本官の許可を得ずにものを言うことは許さん」


 初年兵にとって上官の命令は絶対だ。防具を着用しぼくは腕立て伏せを始める。回を重ねるにつれ、防具の重さと面体のもたらす閉塞感が、腕を曲げ続けるぼくから容赦なく体力を余計に奪っていく。こんな感覚、基礎訓練課程で味わったガス訓練地獄以来だ。そのぼくの周りを歩きながら、大尉は言う。


 「今日からずっと、貴官が一端の使い手になるまで本官が直々に稽古をつけてやる。安心しろ、本官が責任を持って懇切丁寧に教授する。だが……」


 その瞬間、ぼくは自分の背中に冷たいものが走るのを感じた。


 「……貴官は今後の鍛錬に真摯に取り組み、本官の前で結果を出さねばならない。出せないときは……否、出せるようになるまで苦行は未来永劫続く」


 腕立て百回―――それも防具を着用して―――を終えるころには、ぼくの身体からは殆ど意気は失われていた。姿勢を崩し、草臥れた野良猫のようにへばるぼくの上から、容赦なく難詰の声が降り注ぐ。

 

 「鳴沢二等兵、立て。私はへたばれとは命令していない。それとももう一度腕立て伏せがしたいのか?」

 

 憎悪、または嘲弄……ぼくを責める大尉の声にはそんな感情の類は一切含まれてはいなかった。だが大尉の無感動な口調は、基礎訓練課程時代の徳山班長や内務班の古参兵とは別の意味でぼくを恐怖に震わせる。

 

 ぼくは立ち上がった。大尉は既に道場の真ん中に立ち、手足を延ばしたりしている。

 

 「あのう……大尉?」

 

 「何か?」

 

 「防具を……着用なさらないのですか?」

 

 「余計なことだ。着用するまでもない。」

 

 「そうですか……」

 

 この瞬間、ぼくはここにおける自分の位置を確信し、落胆する。そして大尉の態度には、明白な根拠がある。

 

 次の瞬間。大尉はぼくの目と鼻の先にいた。

 

 「…………?」

 

 「もう始まっているぞ。鳴沢二等兵」

 

 直後、大砲のように延びた直蹴りがぼくの胴を貫いた。耐え難い衝撃にぼくは眼を白黒させ、足元から崩れるように蹲った。

 

 ゲホッゲホッ……!

 

 「鳴沢二等兵、立て。貴官がそれぐらいでへたばる筈がない」

 

 ぼくは立ち上がった。そこに、雷雨のような蹴りと突きが襲う。ぼくは一切の手出しもできず。ただ防戦に回るばかり……そして何度かクリティカルな打撃をもろに受ける内、ついにぼくの意識は武道場の冷たい床へと吸い込まれていった。

 


 ―――――気付いた時には、ぼくはコンクリート剥き出しのかび臭い部屋の中で横になったまま、蛾の群れる白熱灯の揺れる様をぼんやりと見詰めていた。

 

 「鳴沢二等兵、生きているか……?」

 

 「新藤軍曹……どの?」

 

 顔を上げようとして、ぼくはやめた。身体の各所が痛む。間接の節々がギシギシ痛むのを感じる。自分の身体が自分のものではないような感覚、高校時代に他校との喧嘩に巻き込まれ、グロッキーにされた時以来だ。

 

 新藤軍曹はあのまま真っ直ぐに帰らず、外からぼくのことを見守っていてくれたようだった。そして彼は人事不肖に陥ったぼくを引き摺り、武道場傍のロッカールームで介抱してくれたのだ。

 

 新藤軍曹はぼくの顔を覗き込み、そして微笑みかけた。

 

 「えらいやられようだな。もとからハンサムな顔に一層磨きが掛かってやがる」

 

 「しかし軍曹どの、お時間は……?」

 

 気付いた時には、時計の針はすでに九時を回っていた。このまままっすぐ内務班に帰れば、ボコられること間違いなしだ。

 

 「俺は営外居住を許されてるからな。門限なんて関係無しさ……それにしてもあの新品大尉殿、貴様の前じゃあやけに張り切ってたなァ」

 

 「……自分はあの人に嫌われてるみたいですから」

 

 「いや逆だ。むしろあれは貴様に目をかけている。まあ、かけられた方にしてみりゃあえらい迷惑だが」

 

 起き上がったぼくを支えるようにして、軍曹は聞いた。

 

 「貴様、徴兵される前は何をしていた?」

 

 「……学生でありました」

 

 「……可哀相に。令状送るのは卒業してからでもよかったろうになァ」

 

 「内務班に戻らないと……」

 

 「安心しろ、その顔だ。ヨネ公(四年兵)やミネ公(三年兵)も貴様の遅参をとやかく言わねえだろうよ」

 

 はたして、身体を引き摺るようにして戻った懐かしの内務班――――


 「コラ初年兵っ!……な!?」

入り口を潜ったぼくを罵倒しようとして、宮田四年兵は出すべき言葉を失ったようだった。顔中を湿布と絆創膏に覆われた、見るからにみすぼらしい初年兵を怒鳴りビンタを張ろうとしても、まともな人間ならやる気を削がれるだけだろう。


 唖然とする古参兵たちの注視する中を、ぼくは寝台へとトボトボと歩いた。


 「おーおー……鳴沢、派手にやられたなあ」


 「戦友ドノ」の惨状を前にしても、バンちゃんの軽妙さはいつも通りだった。それがかえってぼくを安堵させた。申し訳無さそうに苦笑し、ぼくは寝台の上へ芋虫のように滑り込んだ。そこで、妙なことに気付く。


 「…………?」


 寝台の隙間に、隠すようにして押し込まれていた物体に、ぼくは目を丸くした。アンパンとウグイスパンが一つずつ。初年兵では滅多に行けない酒保で売っているやつと同じものだった。はたして誰が差し入れてくれたのだろう? 


 勘繰る暇も与えず、空きっ腹が非難の声を上げる。バンちゃんかな……否、六年兵の威力で酒保の支払いをツケにしてもらっているような彼に、初年兵にオコボレを賜るような余裕や気遣いなんて皆無なはずだ。


 ……その夜、寝静まった営内で、布団に潜り込んだぼくは誰がくれたとも知れぬアンパンにかぶりついた。空腹だったこともあってか、久しぶりでの甘味にもたらす感動以上に、これまでに蓄積された名状し難い惨めさと侘しさとが先に立って、十分に飲み込もうとしても上手く喉奥へ飲み込むことができなかったのを、ぼくは今でも鮮明に覚えている。


「涙と共にパンを食べた者でないと、人生の味はわからない」――――ゲーテ――――



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