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その一 「ぼくの戦友ドノ」


 ―――――ゆっくりと、かつ自信に満ちた歩調で、ぼくは兵営正門へと通じる大通りを歩いていた。


 この日はすばらしい日だった。何故なら、ぼくはとうとうやり遂げた。やり遂げたからだ―――――苦難に満ち、そして数々の試練にも満ちた防人としての義務を……!

日本男児として生まれた身に必ず立ちはだかる試練であり、そして降り注ぐ最大の辛酸。それは20歳から27歳までの、人生で最も甘美な時期の約半分にあたる三年間を国防に捧げる義務――――すなわち兵役である。


 三年……短いようで永遠の如く長く思われ、長いようで過ぎ行くこと矢の如き三年を、わが国の若人は日々偏執狂寸前にまでイカレタ班長や古参兵の怒声に追い回され、日々を何時落ちるかわからぬ彼らの雷に怯えて暮らし、何時分解するとも知れぬ小銃を大元帥陛下の名代と仰ぎ、あるいは自らの最良無二の相棒と頼んで戦場(演習場?)を駆け巡って過ごす。

 

 ……それは、何等得るものもなく、あるいは何も期待されることもなく過ごす人生で恐らく最も辛く虚しい三年。

 人――――特にかの「大東亜戦争」前に生を受けご老人方は、それを真の日本男児になるための欠くべからざる鍛錬だと言う。とんでもない! 鍛錬なら、したい人間がすればいいのであって、あんな非人間的な場所で鍛錬せずとも、もとからまっとうな人間ならば何時何処でもまっとうに、自分のペースで生きていけるものなのである。いくら国防だの忠君愛国だの、お偉方が言い繕ったところでこの三年間、ぼくが学んできたことと言えば、如何に古参兵にチョンボやポカがばれず、なおかつビンタをもらわずに要領よく振る舞うことができるか、同期入営の誰よりも多くメシや配給の嗜好品にありつき、いつも狼の如くに空かせっぱなしの腹を満たすことができるか、如何に点数を稼ぎ、他人を出し抜き、上官の心証をよくしておくか……そして何よりも大切なことには兵士として重要な人殺しの技術!……そんなもの覚えたところで、実社会では何の役にも立たないじゃないか。


 ……だが、今日この日を以ってぼくの場合、兵役はつい先日までの過去と化した! 


 それは決して振り返ることのない過去。それは誇りと自負、そして苦い教訓を以ってぼくの後に続く者に語れる過去……(改正)大日本帝国憲法第二十条にしっかりと明記されている国民の義務をぼくはすでに最後まで果たし、今日この晴れた日にぼく、鳴沢 醇は兵営と言う名のこの鳥篭から、自由な空へと飛び出す小鳥の如くに駆け出し、晴れて胸を張って夢にまで見た実社会へといままさに戻ろうとしている……!


 正門の衛兵に認識票と営内居住証明を返還し、兵営に別れを告げる――――それが、兵役を終え郷里に戻る防人の最後の仕事だった。


 「長い間、ご苦労様でありました。鳴沢上等兵……!」


 ぼくより一年遅れて召集された一等兵の衛兵は、メリハリの利いた敬礼とともにぼくを労ってくれた。気付けばぼくももう上等兵。兵役が辛いとはいえ、兵隊も上等兵まで進級すれば幾分楽に日々を過ごせる。なにせ兵隊の最上級者として後から入ってきたやつをあごで使い、鬱憤晴らしや退屈しのぎにぶん殴ったり、ここでは書けないような無茶苦茶なことを要求出来るご身分である。兵隊用語で「カミサマ」といわれるのもさもあらん、と言ったところだ。惜しむらくは、それらの楽チン待遇を十分満喫できるごく短い間のすぐ先に、除隊が待っている。


  「開門―――――――!」



 号令一下、重々しい軋みを立てながら開かれる正門のゲート―――――そして、営内で市井の人に戻ったぼくは、娑婆への第一歩を踏み出す。


 ―――――もう、来た道を戻ることは許されない。


 戻るべくもなかった。第一歩を踏み出した先、待っていた人影にぼくは顔を綻ばせる。期を同じくして、ぼくらの背後で再び閉じられる門扉。ぼくはもう、それを振り返らなかった。


 「お帰りなさい。お勤めご苦労様でした……醇君?」


 「…………」


 不覚にも込み上げてくる、目頭を熱くするものに、必死で耐えているぼくがいた。恋人のアケミは三年前に別れたときよりもずっと大人っぽく、かつ色っぽくなっていた。季節の流れは彼女のよそおいをかくも美しく変え、兵役を耐えたぼくへの餞として眼前に与えてくれたのだ。


 脱色した栗色の豊かな髪は、暖かい陽光を吸い込んで木漏れ日に接するかのような陶酔感をぼくに与えていた。卵型の艶やかな顔が、いっそうに大人びた輝きを放ち、揮い付きたくなるような微笑をぼくに注いでいた。その丸みを帯びた茶色の瞳が、ぼくに「一緒に帰ろ」と語りかけていた。


 アケミの背後に停まる車に、ぼくは目を細める。深紅の66年型カローラは、三年間の内に貯めこまれた、ぼくの軍人としての俸給の成果だった。アケミはわざわざこれを運転してぼくを迎えに来てくれたのだ。


 アケミは言った。


 「醇君、積もる話はあるだろうけど……まあ乗りなよ」


 「ああ!」


 ぼくは二つ返事で了解する。


 

 ――――それから二時間。ぼくはアケミの運転するカローラの助手席から、久しぶりで接した娑婆の空気を満喫していた。


 東名高速道路から臨む富士山麓の雄大な風景。そこはつい先日まで、軍人としてのぼくの、数々の血と汗に彩られた鍛錬の場であった。記憶の中でたまりに溜まった厳しい訓練の思い出、そしてそこで除隊までなお遠く、今なお過酷な訓練に励んでいる兵士たちの姿から目を逸らすかのように、ぼくは視線を箱根の方向へと転じる。故郷福岡まで二泊三日。アケミの提案もあってその第一夜を、ぼくらはその箱根で過ごすことにした。アケミなりに慰労休暇を用意してくれたのだろうと思ったが、同時にぼくが怪訝に感じたのは、高速に入って以来、ぼくと目を合わせようとしない彼女の思いつめたような表情だった。


 そのアケミが、頬を紅潮させながら、躊躇いがちに言った。


 「醇君……今夜、どう……?」


 「今夜って……何?」


 「……アケミ、もう我慢できないよ」


 「我慢って……?」


 「醇君のばかっ……判ってるくせに」


 「アケミ……?」


 「だからさ……醇君、今夜……しようよ」


 「しようって……何を?」


 「……セックス」


 「…………!」


 思えば、付き合い始めて以来、アケミとはベッドを共にしたことがなかった。そして兵役は、愛し合うぼくらが真に結びつく暇さえ、ぼくらから奪ってきたのだ。ぼくが知らないところで、アケミもまた耐えていたのだった。愛する人と触れ合えない孤独に……ぼくは、言われるまでそんなことに思い当たらなかった僕自身を心から呪った。


 「そうだね……しよう、か……」と、申し訳なさと気恥ずかしさからはにかみがちにぼくが応じた直後。


 「じゃ、決まりだネ」


 その直後、カローラは一気に増速した。大衆車と呼ぶに相応しくなさ過ぎる加速で、十数台の車を牛蒡抜きに追い越し、車はたちまち高速道路を抜け出して山道へと入っていく。これってもしかして……


 「ねえ、アケミ?……そのことは旅館にでも落ち着いてからゆっくりと話し合おうよ。おれ、カーセックスなんて趣味じゃないし」


 ……返事はない。ぼくはさらに言った。


 「まさかこの先にホテルとかとってるわけ?」


 さらに返事はない。そして車は急激に入り組んだ山道に分け入っていく。そのままラリーカー並みのすさまじい速さを維持したまま、車は遂に普通乗用車が走れない演習場の、それも峻険な荒地へと入ってしまった。その暴走振り、まるで「キーハンター」のカーチェイス並のダイナミックさである――――だが、その暴走振りには、何となく覚えがあった。


 「アケミ!?」


 次に気付いたときには、車の内装はカローラのそれではなかった。

 

 我に帰ったぼくの眼前に広がっていたのは、ぼくら兵隊が日頃お世話になっている殺風景な73式小型トラック……つまりジープのそれ! 先程の芳しい香水の香りはすでに咽るようなオイルの匂いに席を譲り、ふかふかのシートは冷たい剥き出しの簡易シートになり、ジープ特有の無骨なサスペンションが荒廃した地上の振動をもろにぼくの腰に突き上げてくる。


 え?……えっえええ!?


 激しく揺れる車内で、愕然としてぼくは運転席を見返した。その瞬間――――ハンドルを握るアケミではない誰かを目にした瞬間、ぼくは体中の血液が一気に何処かへと消えていく音を聞いたように思った。


 「な……何でぇぇぇ……!?」


 ハンドルを握る手は女性のそれだったが、アケミのそれより太く、長かった。豊かな胸にモデル張りの長身、後頭部で束ねられた豊かな黒髪、さらに決定的なのは……サングラスを貫く獲物を睨む蛇のような眼光!


 「た……大尉どの?」


 「|本官と一緒に地獄へ行こう《レッツゴートゥーザ-ヘルウィズミー》!」


 「…………!」


 ぼくの眼前で、「ウワバミ大尉」こと陶大尉は白い歯を見せ、魔女のように哄笑し続ける―――――――




 ウワアァァァァァァァァァ―――――――――――!!!


 ――――寝台から飛び上がるように半身を起こしたとき、辺りは静まり返り、その上に暗闇に包まれていた。


 未だそんな季節ではないのに、悪夢より解き放たれたばかりのぼくの、顔や背中、そして胸からは冷たい汗が、それこそ滝のように噴出していた。


 チクショウ、なんちゅー夢だ……真っ暗な、沈鬱とした空気の中、ぼくは悄然として手で顔を覆う。絆創膏を貼ってはいても、昨日擦り剥いた鼻っ柱には刺すような痛みが襲ってきた。それにぼくは顔を顰める。


 消灯下にある内務班、ぼくの絶叫を聞きつけ、眠りを妨げられた古参兵たちが寝台のなかでモゾモゾしだし、悪態を突くのを聞く。気が付けば僕の隣の寝台では宮田四年兵が毛布に包まりながら、殺気溢れる目でぼくの事を睨みつけている。


 「コラ初年兵、朝になったら覚えてろよ……」


 寝言とも、素面とも見分けがつかない口調で彼は呟き、寝返りを打つ。恐ろしい夢だったが、ここでの現実はある意味悪夢以上にオッカナイ。少なくとも終りが近いだけ、悪夢の方がずっとマシというものだ。


 「…………」


 あのような悪夢の後では、もはや容易に眠りに付くことすら覚束ない。闇に慣れた目で周囲を探り、ぼくは下の寝台を覗きこんだ。

 

 「ハァ……」


 ぼくは嘆息する……今しがたの騒動など我関せずとばかりに、ぐっすりと鼾を掻いている「戦友ドノ」こと板倉六年兵の間の抜けた寝顔に。



 国民の義務を果すべく入営を果たしてはや三ヶ月と二六日……九州は小倉の歩兵連隊での基礎教育課程を修了したぼくは、今では東京は近衛騎兵旅団偵察大隊 第三二野戦捜索中隊に籍を置いていた。

 近衛旅団……それは大日本帝国陸軍に属する地上戦闘部隊の中でも精鋭中の精鋭であることを意味する……はずであった。

 営門にあの菊の御紋――――あの畏れ多い16花弁の紋様を部隊章に仰ぐことを許され、所属部隊を標す上腕の標識もまた同じ。車両、航空機、そして火器……おそらくそれに所属する全ての装備に菊の御紋を描き、それを誇ることを許された精兵である。戦歴も未だ師団と称されていた当時、「大東亜戦争」初期の南方進撃作戦において戦局の分岐点となったシンガポール進攻作戦で進攻軍の先鋒を大過なく務め上げ、その後に続いた朝鮮戦争でも釜山攻防戦に戦略予備として空路投入(これが戦史上初の大規模なヘリコプター空中機動作戦となった)され、猛進する共産軍と激闘を重ねるなど華々しい。


 しかも形式上とはいえ、軍規の上でぼくらの直接の上官は、部隊所在地からわずか14キロメートル余り離れた東京都千代田区一丁目一番地におわします「あのお方」……! それだけでも、近衛は他の部隊とは「格式」が違う。そのような光輝ある近衛旅団に、まだ兵役について数ヶ月の若輩者であるぼくが赴くことになったのは途轍もない僥倖であるはずだし、ぼく自身でもそれを誇ってよい……はずだった。


 ―――――だが現在、そのことを手放しで誇れないぼくもまた、いた。




 朝―――――いつものように、軍隊社会の悪意がそ知らぬ顔をして、一身に降り掛かってくる一日を告げる朝。

 起床ラッパの畳み掛けるような響きにも、既に慣れた。手早く寝台を整頓し、舎前営庭に出て点呼を行うのは訓練兵時代と変わらない。


 「第三内務班、総員三二名、欠員なし! 現在員三二名、以上っ!」


 各所より上がる報告の後登壇し、定例の訓示を行う大隊長の傍らに、ぼくは何気なく視線を転じる。その視線の先に、ぼくの中隊長を始め部隊の幹部が居並び、畿下兵士の挙動に目を光らせている。

 何となくパッとしない、ときおり挙動不審気味に肩を揺らす青年……それがぼくの所属する第三二捜索中隊隊長の石橋大尉だった。どうして彼のような人間が帝國陸軍の、それも士官になれたのだろうと、見る者誰もが首を傾げざるを得ないような線の細い、病的な虚弱さすら漂わせる青年である。実際指揮能力の方もアヤしく、その点もまた古参兵連中の揶揄の種となっていた。

 

 その傍らには、「スーちゃん」こと鷲見 鈴子少尉が見事なまでに糊の効いた制服に見事なボディラインを包み、ぼくらに暖かい眼差しを注いでいる。当たり前のことのようだが、身も心も美しい人は何処へ行っても美しい。大隊司令部の事務室に勤める彼女はすでに自分の新しい居場所を見つけ、人生の地歩を固めているように思われた。未だ古参兵に兵士として、否……人間として扱ってもらえないぼくとしては、憧憬溢れる視線で彼女の姿を仰ぐしかない。


 だが……「スーちゃん」のそのまた傍らに立つ人影に、ぼくは慌てて視線を逸らすようにする。同時に昨夜の悪夢で見た、あのオゾマシイ笑いがぼくの脳裏を不快に責め立てる。

 その士官はスーちゃんに勝るとも劣らない美人だったが、実用的な戦闘服姿の「彼女」はスーちゃんより一際背が高く、胸もまた大きかった。例えて言えばかの范文雀の背を高くし、胸を大きくすればああいうボディラインになるかもしれない。

 そのナイスバディをピッシリと包む野戦用のシャツと軍袴、そして足先を包むピッカピカに磨き上げられた野戦用のドカ靴。顔では能面のような無表情を保ってはいても、ブランド物のサングラスの奥に爛々と輝く瞳は、明らか正気を欠いているようにぼくならずとも思われた。うちの内務班の古参兵もオッカナイが、彼女の恐ろしさは、また別格。基地内に同居する第21機甲連隊 第2機甲中隊長の陶 晴子大尉だ。


 ……未だ訓示の続く中を、その陶大尉は徐に歩き出した。


 それはあまりに非礼で、突拍子も無い行為だったが、兵士はもとより、同僚の士官の中にすら柔道剣道合気道、そして薙刀と徒手格闘術と合わせて二十段という「マーシャルアーツ-マニア」に、敢えて苦言を呈しようという勇気ある男などいるはずが無い。さらに言えば、西南戦争以来続く陸軍軍人の家系に生まれた彼女は、仙台陸軍幼年学校を経て陸軍戸山歩兵学校、そして陸軍富士機甲学校を渡り歩き現在に至る、絵に描いたような「エリート軍人」である。ここで付記しておけば、前述の石橋大尉は陶大尉とは幼年学校の同期だ。


 陶大尉は無言のまま、兵士達の隊列を縫うように歩いた。軍隊社会内での目に見えない秩序というより、生物学的な生存本能に従い、彼女に傍を通られた兵士は反射的に姿勢を正すことを強いられる――――あたかも、蛇に睨まれたカエルの様に。この「ウワバミ大尉」に睨まれたが最後、どんな目に合わされるかわかったものではない……と言っておいて、事実ぼくは転属の段階で彼女に目をつけられてしまったわけだが(詳しくは、前作「ホット-ペッパー」参照のこと)……


 「…………」


 頑丈なブーツの足音が、不気味な響きを立て徐々にぼくの方へと迫ってくるのを聞く。

 観念し、目を瞑るぼく……そして足音はぼくの直ぐ横で止まり、明確な気配となった。それも、海中只中に放り込まれ、その足元に鮫が迫っているかのような芯を震わす気配である。


 ニィ――――――――


 目こそ合わせなかったものの、彼女はぼくの直ぐ傍で確かに笑った。そのまま数刻の後、訓示が終わるまで、遠ざかりゆく足音に動悸を抑えきれないぼくがいた。


 イテテテテテ……


 針で刺すような疼痛が、再びぼくの鼻っ柱に蘇り、ぼくはそれに耐えるかのように再び目を瞑る。




 ぼくの所属することになった第三二中隊は六個の内務班より成り、ぼくはその中の第三内務班へと配属になった。

 第三内務班に属する兵士は三一名、ここにぼくが配属されたことで、兵士の数は三二名に増えるという計算になる。だがこれはかなり重大なことなのだ。内務班の古参兵三一名に対し今回新たに入ってきた新兵はぼく一人、つまりは鬼のように怖い三一人に囲まれ、新入りのぼくはたった一人肩身を狭くしてこれからの営内生活を過ごしていかねばならないことになる。

 一般の部隊の場合、一つの内務班には除隊や転属などで出て行く古参の兵士と入れ替るようにして、大抵5~8名程度の新兵が配属されるようになっている。だが近衛は全国から厳選された兵士、それも二年兵や三年兵といった中堅クラスの者にお呼びが掛かる傾向にあるためか、内務班に新規に配属される兵士は1~3名と少なく、しかもその多くが大抵無線や火器取扱、重機操作、格闘術など従軍期間中に習得した何らかの特技章を持って隊にやって来る。


 それ故かいわゆるノーマーク、しかも初年兵の段階でいきなりここへ転属を命ぜられたぼくは、それこそ直立歩行するパンダでも見るような目付きで古参兵に見られたものだ。それでも新兵がどやされ、さんざん雑用を押し付けられるのは近衛でも一般部隊でも変わらない。ぼくもまたご多分に漏れず、これまで内務班員持ち回りだった食事当番、そして掃除当番はぼくの場合に限り固定配置となってしまった。


 そういう事情もあって、ぼくは朝から目が回るほど忙しい。朝礼から戻るや手早くテーブルを整える。そして行き着く暇も無く壁際に懸けてある食器を並べ、調理室まで飯と汁の入ったバッカンと、副食物の入った木箱を持って行く。

 配膳までは任せられていない。この場合、二年兵、三年兵の当番がぼくを押し退けて率先してシャモジを揮い、眼の回るような手早さで飯を盛り、汁を注いでいく。彼らの目から見て、初年兵たるぼくの配膳はどうもまだるっこしく見えるらしかった。


 ―――――そして、朝食。朝だろうが夜だろうが、食事は兵隊にとって最良の娯楽の一つである、はずなのだが……


 「合掌!……頂きます」


 内務班の家長とでも言うべき下士官勤務の腕章を付けた兵長が音頭を取り、ここで全員が食事に箸をつけ始める。だが初年兵たるぼくの場合、ここでも気を抜くことは許されない。


 「コラ初年兵、お茶を注がんかい」


 「初年兵、飯をつげ」


 それはあたかも転校して来たばかりの気の弱い学生が、複数の不良学生に絡まれあれやこれやと雑用を押し付けられるのにも似ていた。お声がかかる度にぼくは箸を止め、口の中の食物をそのままに飯を盛ったりお茶を注いで回ったりして忙しく過ごすのである。これでは、行儀悪いこと夥しいのは勿論、満腹になるはずの食事でも満腹になれるはずがない。かといって初年兵には飯を悠長に食べる時間すら与えられることは無い。モタモタしているが最後、やはりここでも古参兵の雷が落ちる。


 『コラッ、初年兵の分際で飯を悠長に食うとは何事だ!』


 その叱責を想像し、ぼくは救いを求めるようにテーブルの端で悠然と飯を掻っ込む「戦友ドノ」に視線を移した。「バンちゃん」こと板倉上等兵の場合、さすがに六年も兵隊をやっているだけあって誰も彼の食べっぷりに苦言を呈す者などいない。食事の準備ができるまで寝台に寝そべって過ごし、食事の準備ができればゆっくりと起き出して億劫そうに席に付く。一旦食事と成れば二杯三杯ご飯をお代わりすることは勿論のこと、他人の残したオカズにまで箸を付け、それこそ内務班の一番最後に、真の意味での満腹を味わって食事を終える。この帝國陸軍にあって、それこそ娑婆のペースで真に人間らしい食事をしている兵士など彼ぐらいなものであろう。他は下士官や古参兵であれ、やはり何かに追われるように食事の時間を過ごしているというのに……


 ぼくはバンちゃんの傍に立った。


 「あのう……板倉六年兵殿?」


 「あ……?」


 バンちゃんは何杯目かの飯を掻っ込む箸を止め、不機嫌そうにぼくを見遣った……だがぼくは知っている。彼が無闇に下級者に理不尽な振る舞いをしない人間であることを。


 「お代わり、必要ありませんか?」


 バンちゃんの眼が笑った。そして手を振って言う。

 

 「あ―――いいんだいいんだ。ところでお前、メシは済んだのか?」

 

 「はい」


 「じゃあ席に戻ってろ。無駄に気を使うこたあねえよ」


 立ち居振る舞いも然ることながら、バンちゃんは口調も面白い、つい昨日まで街中をうろついていたようなベランメエ口調を彼は使う。それがぼくを安心させると同時に、かえって娑婆への哀愁を誘ってしまう。

 ぼくが気を使っているのは、何もバンちゃんに対してだけではない。内務班の最下級者として、仮にも「戦友ドノ」たるバンちゃんに気を使っているところを古参兵の連中に見せないと、後でどんな難癖を付けられるのかわかったものではないからだ。


 追い立てられるように、ぼくが席に付きかけたそのとき―――――

 不意に内務班の外が慌しくなり、一人の下士官が入ってくる。そしてぼくは思う……ああ、またか。


 「鳴沢二等兵、第三内務班の鳴沢二等兵はいないかなぁ――――?」


 と、足を踏み入れるなり声を上げたのは第二機甲中隊の下士官 舟木伍長。またの名を、「ウワバミの腰巾着」。

 遠くからバンちゃんに会釈を浮かべ目礼すると、彼は忙しげにぼくに手招きした。バンちゃんよりメンコの数(軍隊用語で、年季のことをこう言う)が少ない彼は、昇進を果してもバンちゃんには頭が上がらないが故に、アイコンタクトで彼の了解を得るというワケ。

 悄然と席を立ち、彼の前に来たぼくに、伍長は言った。

 

 「お前は今日から連隊の徒手格闘部部員となった、余暇時間は武道場に出頭し、錬成に励むように」

 

 「え……?」


 ぼくは驚いた。鼻っ柱の絆創膏が、また不快な疼きを立てる。


 「いや……でも……」

 

 突然のことに戸惑うぼくに、伍長は執り成すように、または哀願するように言った。


 「これは陶大尉殿のお達しだからね。いいね、わかったね?」


 そして、そそくさと内務班を立ち去っていく。まるでイケニエをお供えした帰りのような彼の後姿を、ぼくは唖然として見送るしかなかった。


 そうか……そういうことだったのか……朝礼の際の、陶大尉の刃物のような笑みを、ぼくは暗然たる気分とともに思い返したものだ。



 「おい初年兵、ちょっと来い」


 と朝食の後、案の定陰湿な声がぼくを呼ぶ。ちなみに着任してからすでに二週間、ぼくはバンちゃん以外の古参兵にまともに名前を呼ばれたことがない。何せこの内務班に初年兵はぼく一人、ただ「おい初年兵」と言えば全て用は足りてしまう。だから、ぼくのような初年兵の名を進んで覚えようなんて、その辺のアリに名前を付けるような徒労をする古参兵など、いるわけがない。


 声の主はやはり……ぼくの隣の寝台の主たる宮田四年兵――― 一等兵だ。

 「初年兵、てめえ人がぐっすり寝てるときに何声を上げてやがんだ。ああ?」


 「…………」


 「コラ、何とか言ってみろ」


 「ゆ……夢を見ていたのであります」


 「夢だぁ?」


 「はい……うなされたのであります」


 「仮にも畏れ多き大元帥陛下の近衛連隊の兵隊が、たかが悪夢如きで声を上げてどうするか! 差し詰め中共の兵隊にでも追い掛けられた夢でも見たんだろう?」


 「も、申し訳ありません!」


 まさか陶大尉が怖くて、夢にまで出るようになったとはこの場で言えるはずがない。ひたすら平身低頭するぼくの目前で、宮田四年兵の口元に嫌味な笑みが宿った。


 「ようし、この宮田一等兵が直々に貴様に軍人精神を注入してやろう。足を半歩開いて歯を食い縛れ……!」

 来たぁっ……反射的に姿勢を作り、ぼくは言われた通りにする。こういう場合、バンちゃんは助けてくれない。こと「戦友ドノ」の育成に関する限り、ぼくに用を押し付けるとき以外は、彼は徹底した「放任主義」だった。


 数刻にも思われた一瞬の後、頬を打つ烈しい衝撃!……目の前で火花が踊り、ぼくは微かに身体を揺らがせた。一度不手際を古参兵に見咎められたが最後、どのように繕っても最後はビンタや罰直に行き着いてしまう。

 宮田四年兵から解放され、ぼくは寝台の方に視線を移した。ぼくの視線の先で、「戦友ドノ」は寝台の上でぼくに背を向け、早速に朝食後の朝寝を決め込んでいた。



 「バンちゃん」こと板倉上等兵は、ぼくの掛け替えの無い(!?)「戦友ドノ」であり、連隊でも稀有な六年兵である。

 六年兵とは呼んで字の如く、入営して六年が経つ兵士のことだ。だがなぁんだ、単なる兵隊じゃん……なぁんて思う君、そのまま入営すれば避雷針(空気を読めないが故に、よってたかって古参兵の目の仇にされる哀れな初年兵)候補間違いなしである。

 前章「ホット‐ペッパー」でも少し触れたが、こと兵隊の世界において年季(メンコの数)は兵士本人の素性を知らせる上で重要な意味を持つ。階級が同じ兵士が同じ任地で顔を合わせたとき、(それとなく)最初に確認するのが、自分の同僚が何年入隊で、何年軍隊のメシを食っているかということからもことの重大さがわかるであろう。


 入営して一ヶ月や二ヶ月の初年兵が入営二年目の二年兵、入営三年目の三年兵に絶対服従なのは勿論のこと、二年兵三年兵もまた自分達よりメンコの数の多い四年兵、五年兵にはまずぞんざいな態度は取れない。もっと言えば、入営時期がほんの数ヶ月ずれただけでもそれは絶対的なヒエラルキーの壁として兵士に立ちはだかる。同じ年に入営を果しても、後期教育期間に入営した者はそれより数ヶ月前の前期に入営した者を先輩として仰がねばならない。

 

 普通入営を果たした初年兵は、三ヶ月の教育期間の内に三等兵から二等兵に昇進し、それから半年で一等兵に昇進する。ここまでは成績、素行に関らず誰もが一緒。だがそれから上の上等兵、そして兵長、下士官を狙うにはやはりそれなりの努力が必要となる。それが四年兵、五年兵となると、軍隊社会の裏表に勘付き始めた初年兵ならずとも、彼等が自分の兵士としての点数が悪いばっかりに、あるいは勤務態度がいいかげんなために上等兵以上に進級できない「可哀想な」人間であることに思い当たるはずだ。

 彼等四年兵、五年兵とて、自分達がそうした「恵まれない」立場にあることを実はよく理解している。だが理解しているが故に、彼らは古参兵として自らが勝ち取った権利のようなものを濫用するきらいがあった。そうした兵隊間のヒエラルキーの中で、最底辺に位置するぼくのような初年兵から見れば、こちらに色々と無理難題を押し付けては苦しめる四年兵や五年兵、そしてバンちゃんのような六年兵はそれこそカミサマのように見えたものだ。


 こと兵隊間、そして下士官同士の人間関係でメンコの数は絶対的な威力を持ち、同じ理由で入営三年目の上等兵は、入営四年目の一等兵に頭が上がらず、これは彼が兵長、下士官になっても同じである。前述の舟木伍長と彼との関係の背後にも、こうした力関係が作用していたのだった。


 ――――さて、バンちゃんとぼくとの関係に話を戻そう。

バンちゃんがぼくの「戦友ドノ」であることは既に述べた。ではその「戦友ドノ」とは何か?

 「戦友ドノ」とは、明治の健軍以来より脈々と、世界に冠たる大日本帝國陸軍に伝わる微笑ましい(?)慣習のようなものである。訓練期間を終えて実戦部隊に配属された初年兵は、必ず三年兵以上の古参兵と同じ寝台を宛がわれる。この古参兵が、彼の「戦友ドノ」になる。


 初年兵は日々の課業の他、衣類の繕いや洗濯など、この「戦友ドノ」の身の回りの世話一切をすることが勤めとなる。その対価といってはなんだが、「戦友ドノ」は初年兵に対し内務班内の力関係や要領よく課業をこなすコツなど、軍隊生活に必要ないろいろなことを教えるわけである。

 当然、実社会において同僚、上司部下の相性が良い悪いといったことがある以上、軍隊社会もまた例外ではない。日を経るごとに初年兵と戦友ドノの間に学校の先輩後輩のそれに似た友情が芽生えてくることもあれば、「戦友ドノ」であることをタテに初年兵に色々と無茶を押し付ける古参兵もいる。従って、実戦部隊に配属される多くの初年兵にとって、どのような「戦友ドノ」を宛がわれるのかは少なからぬ関心事ではあった。


 「戦友ドノ」バンちゃんとの最初の出会いは、ぼくが連隊内務班に着任して最初の夜のことだった。ただ、消灯時間だったのでそのとき寝台に潜り込んでいたぼくはバンちゃんの顔を直に見ていない。

 

 その日はたまたま、中隊の外出日だった。半ば勇み、半ば緊張の任せるままに案内された内務班に足を踏み入れるや、意に反してがらんどうとした舎内の風景に、ぼくは拍子抜けした記憶がある。周囲はすでに消灯時間に入り、消灯を告げるラッパの音が夜の隊舎に虚しく響いていた。

 

 宛がわれた寝台の二段ベッドの上段。そこがぼくの寝床であり唯一のプライベートスペースだった。つまりはその下段が、「戦友ドノ」の寝床である。周りに誰もいないのを見計らい、ぼくは下段のネームプレートに目を凝らした。その先に、バンちゃんの名があった。名前でその人のひととなりを量る事ができるとすれば、彼の名は温厚そうな、普通の人間であるようにぼくには思われた。

 不意に入り口辺りが騒がしくなったのは、長旅の疲れからぼくが先に床について少なからぬ時間が経ってからのことだ。まどろみから解放された意識の中で、耳を済ませるだけでも帰ってきた古参兵たちの内、少なからぬ数が娑婆の空気にどっぷり浸かり、「できあがっている」ことだけは察することができた。


 「フーン……あいつかい。おれの戦友ドノは」

 

 不意に降ってきたその一言に、ぼくはタヌキ寝入りを決め込んだまま身構えた。

 

 ……近付いてくる気配。足音が営内靴ではなく吐き潰した雪駄のそれであることに、ぼくは奇異な印象を受けた。それはやがて、寝台の上段へと続く梯子を、覚束ない歩調であるものの、しっかりとした軍靴ならぬ雪駄の音を立てて上ってくる。続いてそれは酷い酒臭さをもぼくの嗅覚の前に漂わせてきた。「戦友ドノ」が、ぼくの寝顔を覗き込んでいる姿を、ぼくは想像した。


 「巾着ナスみてえにトボケタ面してやがらぁ……どーれ、明日にでも気合を入れてやるとするかぁ」


 そう言って、彼は梯子を降りた。彼の口調に接する限りでは、ぼくが少なからぬ落胆を覚えたのは事実だった。


 翌朝。点呼が終わり、朝食も済んだ後で、ぼくは革めてバンちゃんの前に立った。


 「鳴沢二等兵。板倉上等兵どのに用事……!」


 「……は?」


 下段の寝台で足の爪を切っていたバンちゃんは、彼の「戦友ドノ」を、気の抜けた風船のような顔で見上げた。ぼくが事情を話すと、怪訝そうな顔は忽ち笑顔に変わり、昨夜のような軽妙なべらんめえ口調が飛び出してきた。


 「そうか、お前さんが俺の戦友ドノかい。まあ、これから宜しく頼むぜ。ああそうだ……」


 バンちゃんはぼくの前に一足の雪駄を差し出した。どす黒く汚れたそれから微かに漂う臭いに、ぼくはやや顔を曇らせる。


 「これ、洗っといてくれよ。昨夜(きのう)イイ気分で街歩いてたら、なんかの拍子にドブに足突っ込んじまってよぉ……」


 勿論。拒否なんてできるわけがない。初っ端から戦友ドノ、それも六年兵の心象を悪くしては今後に大きく響くというものだ。だが「初年兵だからといって甘えてんじゃねえぞ」とか、「ビシビシ鍛え上げてやる」とか厳しい言葉を覚悟していたぼくが、内心で胸を撫で下ろしたのは確かである。全般的に痩せ型、隙間の空いた不揃いな前歯が印象的な板倉上等兵にはよく言えば気風の良さそうな、悪く言えば軽薄そうな印象をぼくは受けた。


 バンちゃんは六年兵であることからもわかる通り、ぼくより五年先輩の上等兵である。娑婆にいた頃の彼は、東京でも一通り名の通った料亭の板前だったらしいが、何かの理由で仕事をクビになったところに、召集令状(ホット-ペッパー)が舞い込んできた。そして「渡りに船」(本人 談)とばかりに入営してはや六年……いまや内務班の生き神様として皆の上に君臨している。


 六年兵にもなれば、内務班内において彼の振る舞いを製肘する存在などあって無きに等しい。入営から六年経っても上等兵から上に昇進しないというのは、本来ならかなり恥ずかしい話のように思われるが実のところそうではなく、こと兵隊の間では最上級者として上にも下にも置かぬ扱いをされるし、彼よりメンコの数の少ない下士官もまた何かと彼に対し遠慮を見せるのであった。


 「どうせ兵長になったら下のやつらの教育をやらされるだろうし、下士官になってもさらに上のやつに気を使わなきゃなんねえ。だったらこのまま上等兵で過ごしていた方が気楽でいいってもんさ」


 本気で言ったのか、それとも自分を尻目にどんどん昇進していく同僚や後輩へのやっかみが含まれていたのかは判らないが、彼は軍内の栄達に関しそういう見解を持っていた。普通そういう「端末古参兵」は、自分の昇進が遅れているが故に他人を嫉み、自分より目下の兵士にあれこれと干渉したり理不尽な制裁を加えだすものなのだが、バンちゃんの場合、彼は全くと言っていいほどそうした兵を殴ることはおろか怒鳴ったりすることもなかった。かといってぼくのような初年兵に、彼自身が長年培ってきた軍隊で生きる上で必要な知識を積極的に伝授することもまたなかったのだが……




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