その一三 「災害出動」
季節外れの豪雨を、ぼくらは野営地の薄いテントの中で凌いでいた。漸くで休養が取れるのかと思えばさに非ず、
「訓練は続行だろうな……」
と、バンちゃんは言う。
確かに、野球やサッカーじゃあるまいし、敵は雨天時もこちらの事情を斟酌はしてくれないだろう。それに折角動かした大兵力を荒天下で遊ばせておくのは、滅多に巡ってこない訓練期間を十二分に生かさねばならない上でも非効率的というものだ。
「鳴沢、弄ってみろよ。ラジオ拾えるだろ?」
言われるまでもなかった。中隊無線機はAM波を使っているから、少し周波数を合わせてやれば当然、民間放送も拾えるようになっている。この殺伐とした環境で、せめて娑婆の空気の一端なりとも触れようと皆がラジオ放送に耳を傾けようとするのも無理は無い。
「あ……繋がった」
『―――――方面、波浪警報……銚子方面、大雨洪水警報―――――周辺住民に避難勧告が出されました』
不安定さを空電音の中に閉じ込めながら通信機のスピーカーから飛び込んできたものに、皆の関心が集中した。狭い天幕の中をぼくの背後ににじり寄った古参兵たちが、周波数を指向する針の動きを注視していた。
「まいったなあ、災害出動命令かかるんじゃないの? これ」
「司令部に繋ぎますよ」
と、合わせたダイヤルの向こう側――――
『―――――全部隊へ、演習は中止。部隊は別命あるまで待機――――』
「ああ……やっぱり」
来るべきものを予測し、誰かが嘆息する。そこに演習から解放された嬉しさなど、無かった。
自然災害時の緊急出動は、国土防衛と併せ帝國陸海空軍の主要任務の一つである。
災害地域への展開し被害拡大の防止、それに伴う避難民の保護及び誘導、被災者の救助……如何なる地形にも進出できる装備、高度な偵察及び監視能力、さらには独自の物資供給系統。その上に一定の規模と厳重な規律を持ち、自己完結型の組織である軍隊がそうした任務に投入されるようになったのはある意味自然な流れとも言えた。
また、災害派遣はそこに投入された将兵にとって、その一端なりとも「実戦」の空気を感じさせるのに格好の場面でもあった。損壊した建物、崩壊したインフラ、そしてこの種災害には必ずつきものの多数の死傷者……実戦経験のない将兵にとって未だ見ぬ戦場でしかお目にかかれるはずの無いものが、被災地にはそれこそ豊富に存在するのだ。一応は平和な御時世、平時では何かと除け者にされがちな軍のPRも兼ね、さらにはそうした「戦場の空気」を体感させるために、軍の上層部としては災害出動を励行している節があった。
――――天幕に引篭もって陰鬱な日を過ごし、誰もが次第に静謐さと雨足から漂ってくる冷気に倦み始め、やがて訪れた夕刻――――
出動命令は、無線通信とジープに乗った伝令の形でもたらされた。
「――――河川の氾濫とそれに付随する土砂崩れに起因する交通の途絶により、周辺の各町村より千葉県知事を通じ軍に災害派遣要請が出ました。中隊には該当地域に至急展開し、避難民の安全確保及び不明者の捜索に当ってください」
中隊の兵士はポンチョを着用し整列。石橋中隊長の簡単な訓示に続き、野営地を守る予備員を残し出発した。車列を形成するトラックの側面には、「災害派遣」と銘打たれた横断幕。それにしても用意がいいナァ……
「出発ぁ――――つ!」
中隊長の命令も、もはや堂に入っていた。残地要員の見送りを受け、ぼくらは被災地へと向かう。ぬかるみを踏みしめ、無言の内に揺られるその間、吹き付ける風雨が、不気味な勢いを以て荷台を覆う幌を打つ。出入り口から吹き込んでくる冷たい風に、ぼくは震えを覚え身を屈めた。無線機のダイヤルを弄る手がかじかみ、不覚にも漏れた鼻水が荷台にポトリと落ちた。
『――――方面に洪水警報発令。○○中隊は急行し対処せよ』
『――――こちら○●、住民を全員保護。離脱許可求む――――』
『――――●△方面、通行不能。重機搬入を要請――――』
ダイヤルを手繰る度に次々と飛び込んでくる各所からの通信……状況が予想を超え拡大していることをぼくらは知る。これまで、民間人だったぼくがTVやラジオの向こう側に押し込めてきた現実を、徴兵され、軍人となったぼくは今まさに、鼻先に突きつけられている?……そのことに気付き、不快な震えがぼくの背中に走る。
「――――鳴沢二等兵……鳴沢くん?」
無線の操作に熱中する余り、ぼくは石橋中隊長の度重なる囁きに気付いていなかった。
「気付かずにご無礼、申し訳ありません中隊長」
「いや、いいんだ。ところで……」
「はい」
「部隊司令部まで活動の打ち合わせに行ったんだが……ぼく、その帰りに嫌なこと聞いちゃってね」
「…………?」
「……陶大尉の隊、包囲されてただろう?」
「はい」
「あれ……ぼくらが来るまで放置されてたんだよ」
「放置……ですか?」
「司令部ね、一切の援護なしに大尉に前進を命じたんだそうだ。何の支援も情報も与えずに……」
「可哀想ですね」
「ああ……ぼくらと同じさ。だがぼくらは後退する余地があっただけ遥かにマシってものだ。大尉は、故意にあんな苦境に追い遣られた……」
「…………!?」
「大尉の父上の差し金さ。あの将軍は大尉を自分の家に縛り付けておきたくて、あんな意地悪をしているのさ……酷いものだよ。陶さんは、指揮官としてはぼくよりずっと優秀なのに……」
「…………」
ぼくには、出すべき言葉が無かった。中隊長の言うことが本当なら、あの将軍が大尉にした仕打ちの全てが理解できるというものだ。そして、これまで大尉がぼくに投掛けた言葉の数々も何となく―――――
未舗装道路の不快な振動を吸い込みながら走った先、車列が止まり、応援の到来を待ち構えていたかのように手に松明や懐中電灯を持った警官や在郷軍人会、そして自警団がトラックに駆け寄ってきた。ぼくを伴い荷台から降り立った中隊長の前に、自警団の長と思しき老人が進み出、恭しく一礼する。それに応じる石橋中隊長の敬礼。軍人に冷たい「戦後平和主義」が幅を利かすこの世の中でも、田舎では未だ軍人を敬う気風が生きている。
「災害救援部隊であります」
「ご苦労様です。ささっ、こちらへどうぞ」
老人の先導で通された公民館と思しき木造平屋建て。そこが、この地域の災害対策本部となっていた。だだっ広い公民館には避難してきた女子供、老人が着の身着のままで集り、建物を吹飛ばしてしまうかと思われるような猛烈な風雨の唸りに必死で耐えていた。村役場の職員より見せられた地図に目を細め、中隊長は言った。
「ここ以外……周辺地域に他に人間が住んでいる場所は?」
「それが……」
老人が震える指で指した場所に、ぼくは目を疑った。彼の指差した全てが、到底人間が住んでいるとは思えない。峻険な山奥だったからだ。山奥に住む独居老人の保護まで、彼らの手は回らなかったらしかった。
「若いもんはみいんな、出稼ぎで東京さ出ちまって……面目ないこってす」
と、老人は申し訳無さそうに言った。中隊長は面を上げ、同じく地図に目を細める各級下士官に告げた。
「各小隊、一個分隊を出せ。只今より捜索活動及び住民保護に取り掛かる」
そして住民達に向き直り、現場までの案内役を用意するよう要請する。要請は、快く受け入れられた。また、部隊のトラックで女子供を非難させる算段を整えるのも忘れない。これもまた多くの住民に支持され、実行に移された。
兵士に背負われてトラックの荷台に乗り込む老人。兵士にあやされ、抱きかかえられる子供。ポンチョを拡げた兵士に庇われるように荷台へと駆け上がっていく母子……これらのシーンをカメラに撮ってTVに流せば、軍の広報効果は計り知れないだろうなァ……と、不謹慎な考えにも襲われる。
バンちゃんもその中にいた。彼は足を挫いたうら若いご婦人をトラックへと背負い、苦役の中にありながらも至ってご機嫌のようである。一方で宮田四年兵なんかはヨボヨボの老婆を背負わされ、しかも肩越しに色目など使われ顔を蒼白にしている……これは日頃の行いが悪いからだろう。
二時間後……指し示された山中の各所に分隊が到着し、無事住民を保護した旨、続々と報告が入ってくる。内一件につき、状況悪果を理由に徒歩での帰還不可能と判断し、部隊司令部を通じ木更津海軍航空隊に救難ヘリの出動を要請。災害対策に要した決断とその後の推移は、信じられないほど順調に推移していった。
「これで一息ついたな」
と、交信を終えたぼくに中隊長が笑いかけたそのとき――――
『――――各隊へ、応援を要請。□○川上流域の堤防が決壊寸前。至急堤防補修の人員を求む――――』
無線が告げていた地点は、陶大尉の中隊が展開している近辺のことだった。
住民の避難作業を終え、おっとり刀で駆けつけたぼくらの眼前に広がっていたのは、まるでアマゾンか東南アジアを思わせる凄まじい光景だった。土色の奔流は木々を薙ぎ倒し、側面の土壌を削りながらなおも勢いを増し、もはや何の秩序も無く海沿いの平地へと流れ出していた。
泥水の溢れ出す川縁に佇む一団、それは土嚢を積み必死の補修作業を行っている陸軍の工兵部隊だった。彼らに合流し、すでに堤防の一部が破損、漏水が始まっているという情報を得る。
「中隊はこれより、堤防の補修を行う。かかれ!」
膝まで河川に浸かり、土嚢の受け渡しを続け堤防を補修する。その間も増していく水嵩は、ぼくらの腰を飛び越えんばかりの勢いだ。作業を終え、ずぶ濡れで現場より退避したぼくらに、信じられない内容の通信が入ってきたのは、そのときだった。
『――――車が川に落ちた! 救援求む……!』
行き着く暇も無く乗車、程無くして雨霧に曇る道の先に真ん中から崩れ落ちた橋、その直下で濁流に揉まれ前部から徐々に沈みゆく一台のライトバンを目にした途端、ぼくらは我が目を失った。避難中突如橋が崩れ、運悪く通過中だった民間の車両が巻き込まれてしまったのだ。車から逃れた避難民が、兵士達によって川岸から投げられたロープに縋り、続々と引き上げられていくのをぼくは見た。だが……
「ユカが!……あたしのユカがまだあそこに!」
救い出され、引き上げられた向こう岸で半狂乱になって泣き喚く女性、彼女の指差す方向には奔流の任せるまま、泥濘に塗れた胴体を徐々に沈めゆくライトバンの姿があった。愕然とするぼくら、だが高まりゆく激流を前に何もできないまま、徒に時を過ごすぼくら。
……一人の人影が、颯爽と奔流に飛び込んだのはそのときだった。
「大変だ! うちの中隊長が……!」
悲鳴にも似た聞き覚えのある声に、ぼくは我が耳を疑った。声の主は舟木伍長、襲い来る奔流に翻弄されながらも抗い、信じられない勢いで横転したライトバンに泳ぎ着いたのは、紛れも無く陶大尉……!
「…………!?」
彼女は急流を掻き分け、そのままライトバンの沈む水底に頭から潜り込んだ。男達の固唾を呑む中、彼女は見事に女の子を救い出した。
「誰かロープを投げろ! 早く!」
命令されるまでもなかった。勢いをつけて投げられたロープを、彼女は濁流の中で見事にキャッチし、女の子の胴体に結わえ付けた。あとは引き上げるだけだ……と、誰もが思った。だが、安心するにはまだ早すぎたのだ。引き上げられ、あと少しのところで二人が岸辺に辿り着こうかという寸前、いきなり崩れ落ちた橋の外材が大尉を直撃し、ロープから弾き飛ばした。
「大尉殿ぉ!!」
期せずして上がる絶叫が、ぼくを突き動かしたのかもしれなかった。ぼくは装備を解き、砂利道を一気に駆け下りた。中隊長の制止など聞いてはいなかった。濁流に足を取られかけながらも走るのを止めず、本流がぼくの胸にまで達するや否や、ぼくはすでに頭から川に飛び込んでいた。
「…………!」
体感する洪水の勢いは見た目よりもずっと凄まじい。手足をバタつかせ押し寄せる流れに逆らうだけで精一杯だ。そこに思うように呼吸ができない苦しさ、さらには水の冷たさも加わり、急激にその只中に身を置く者から体力と気力を奪っていく。
――――そんな状況下、漸くで頭を持ち上げたぼくの眼前に、荒立つ水面から力なく突き出された腕。反射的に、ぼくはそれに手を延ばし。思うままにならない手足をバタつかせる……最初に指が触れ、次の瞬間にはぼくの手は大尉の手をしっかりと握り締めていた――――そしてぼくは、身を苛む奔流の中で、翻弄される大尉の身体を受け止める。女体を抱いているという意識など感じる余裕も無かったし、極寒の中、もはやそんな余分な感覚もまたぼくから失われていた。大尉の背中と肩を受け止め、ぼくは初めてそのことに恐怖する。
「鳴沢ぁ――――!」
向こう岸からのバンちゃんの怒声など、ぼくは聞いてはいなかった。だが辛うじて、ぼくらの方に投掛けられるロープの影だけを、渦巻く奔流の中でぼくは認めることが出来た。鼻先に投げ出され、生への渇望の導くまま満身の力を篭めて掴んだロープ……死んでも放すまいとぼくは誓う。目を瞑り、大尉を抱く手に力を入れたぼくは、翻弄の内に襲い来る恐怖に必死で耐えた。
「…………!」
引っ張られるまま、最初に足に感じた陸の感触をやがては背中に感じることができる浅瀬まで来た時、ぼくの耳に微かながら声が入ってきた。それは時が立つにつれロープを曳く明確な掛け声となり、やがては歓声となった―――――それが、ぼくらが陸にまで引き上げられた瞬間だった。
「鳴沢っ……よくやった!」
「大尉どのはっ……!?」
腕の中で意識を失い、ぐったりとしている大尉の白皙の顔に、ぼくは自分を苛む震えを忘れた。慌てて大尉を揺するぼく、傍に寄ってきた衛生兵伍長が、一目で顔色を変えた。
「まずい!……呼吸が停止している」
ぼくが大尉を寝かせた直後、衛生兵は声を荒げた。
「誰か、人工呼吸だ。人工呼吸をしてくれ!」
ええっ……人工呼吸って、あの人工呼吸?……ぼくはずぶ濡れであることを忘れ、唇を震わせて衛生兵を見詰めた。それに気付いた衛生兵が、神妙な顔で頷いた。それはまさに、「おまえがやれ」という冷厳なまでの合図だった。
えっ……なんでぼくが?
水難事故と人工呼吸といえば、車の両輪のように密接不可分の関係である。高校時代の夏休み、海水浴場で監視員のバイトをしていたこともあり多少は心得があったし、当時は、救命行為に名を借りていずれはビキニ姿も眩しい美人の唇を奪ってやろうとバイト仲間と妙な妄想で盛り上がっていたものだったが、それから数年のタイムラグを経て、今現実にぼくの前に、グラマラスな美女が誰かの人工呼吸を待っている。
だが美女は美女でも……躊躇いがちに頭を上げ周囲を見回すぼくに注がれるのは、中隊長からバンちゃん、そして舟木伍長を含め、「お前がやれ」という無言の大合唱。
『神様……!』
意を決し、重ねた掌が大尉の胸に触れた。捉えどころのない柔らかさと弾力とを持った胸郭を何度か圧迫し終えたときには、すでに覚悟は出来ていた。目を瞑り、ぼくは唇を大尉のそれに重ね合わせた―――――――
―――――雨足は、朝方とは比べ物にならないほどの静寂さを取り戻していた。
一時間後、呼吸を回復した大尉を収容した医務隊の天幕の外で、ぼくらは雨に打たれながら軍医の報告を待っていた。
「鳴沢……ホラッ」
と、口に煙草を咥えたバンちゃんは、毛布を纏って蹲ったまま、未だ震えの停まらないぼくに煙草を差し出した。逡巡するぼくに、彼は言った。
「少しは暖をとらねえと、風邪を引くぞ」
「……頂きます」
バンちゃんの煙草から直に火を貰い、何服か煙を吸い込むうち、未だ身体を支配していた震えが収まり行くことを自覚する。煙草の味は、その種類に拠ってではなく吸う前にどんな仕事を成し遂げたかによって決まる。ぼくが心地を取り戻したのを見計らったかのように、バンちゃんは言った。
「おめえバカだなあ。ウワバミを助けるなんてよォ」
「人命救助は、帝國陸軍の主要任務の一つでしょ?」
「バカ、ウワバミは人間じゃねえだろ」
ぼくは力なく笑った。
「人工呼吸がウワバミに知られてみろ……おめえ、本当に殺されるぞ。あいつに」
バンちゃんの冗談に、ぼくだけではなく周りの兵士も一斉に笑う。そのとき、再び何処からともなく轟くバートルの爆音……救難ヘリか? と、一斉に見上げた空の一点で、ぼくらの顔が凍りついた。
「あいつ……また来たよ」
バンちゃんの言葉も、もはや忌々しさが篭っている。ぼくらに降り掛かる烈しいダウンウォッシュも省みず着陸した、将官専用を示す金星のプレートを付けたバートルから憤然として出てきたのは、またしても「あのお方」だった。
「晴子! あの馬鹿者は何処だっ!」
幕僚を連れて喚き立て、踏ん反り返る中将の前に進み出た石橋中隊長に、彼はゴミでも見るような視線を向けた。
「何だ貴様、その汚い姿は……?」
「陶大尉は、現在療養中であります。親族とはいえ面会はお控えになられた方が……」
途端、中将は目を剥いて中隊長を怒鳴った。
「貴様! 大尉の分際で本官に意見するのか!?」
「いえ……そんなことは」
「あのバカ娘、たかが一兵卒に自らの不覚を救われるとは!……陶家の恥さらしめ……!」
圧倒的な迫力を前に恐縮する中隊長を、障害物か何かのように押し退け、中将が天幕まで一歩を記そうとするのを目にしたそのとき、ぼくの脳裏で何かが弾けた。
「いい加減にしろよ……オッサン!」
「…………!?」
中隊長だけではなかった。中将の幕僚や隊の兵士の誰もがぼくを見、発言のあまりの唐突さに口をぽかぁんと開けていた。忌々しげな目でぼくを見、中将はぼくの方へとにじり寄った。
「貴様……いま何と言った?」
「復唱します!……いい加減にしろよオッサン!」
途端、中将はぼくに掴み掛からんとするかのような迫力でぼくを怒鳴りつけた。
「貴様! 二等兵の分際で何を暴言を吐いているのか!?」
「ええそうです。自分は二等兵です。あなたからすれば、取るに足りない二等兵であります……!」
「…………?」
唐突の抗弁に言葉を失い、ぼくを凝視する中将の眼を、ぼくはきっと睨み付けた。
「自分は二等兵であります。徴兵でここに来ました。ですからここに長居する気は無いし、ここで出世しようという気もありません。どうヘマをやったところで降等されようにも下がありません……だからこそ言えるんです」
「…………」
「……ぼくはしがない、何処にでもいるような二等兵ですが、これだけははっきりと言えます。中将閣下……あなたの娘さんは、帝國陸軍で最高の士官です。自分のようなバカをこうして一人前の兵士にしてくれ、命まで救ってくれたことが、なによりの証明です」
「貴様……いま何と言ったんだ?」
ぼくは、背を正した。
「……自分は奔流の中に落ち、危うく溺死寸前のところを陶大尉殿に救われました!」
「報告と違うではないか……?」
と、中将は彼の幕僚に怪訝な視線を廻らせた。疑念を振られ戸惑う参謀連中。だが彼らにとって救いの主は意外な方向から現れた。
「ああオレも見たぜ。鳴沢が川に落っこちたんだ」
兵士たちの間から出た、突拍子も無い声……それはバンちゃんだった。だがそれだけでは終らなかった。
「―――小官も見ました。川で溺れたのは、間違いなく鳴沢二等兵であります!」
「―――自分も見ました。間違いありません!」
「―――オレも……!」
声は期せずして兵士たちの間から上がり、明らかに中将を怯ませた。先程の迫力から一転し、困惑したような表情を浮かべたまま、中将は同じく困惑した顔を隠さない幕僚に顎を杓った。それは明らかな、彼の撤退の合図だった。そそくさと乗り込む中将たちを収容したバートルが浮揚し、灰色の雲の向こうに消えていくのを完全に見送ったそのとき、期せずして凄まじい歓声が兵士たちの間から上がった。
鉄兜を投げ出し、隣の僚友と抱き合い、肩を組む兵士たち……歓喜の環は忽ちぼくを取り囲み、何処からとも無く延びた誰かの手がぼくの頭をグシャグシャに撫で、肩を強く抱きかかえる。
「…………」
……それでも、そのときぼくの胸を占めていたのは、歓喜ではなくどちらかといえば戸惑いだったが――――