その一〇 「重営倉」
ぼくが基地に戻った時には、すでに門限を一時間以上もオーバーしていた……前にも触れたが通常、軍人が正当な理由と許可なく基地の外に出た場合、これは脱走と見做される。ぼくがスーちゃんを送り届け正門にサイドカーを滑り込ませたとき、内務班は文字通りの大騒ぎになっていた。
「鳴沢二等兵が脱走した!」
最も驚いたのは、意外にも(!?)報告を受けた石橋中隊長だった。脱走が上級の司令部まで露見すれば彼の責任問題である。そこでことを荒立てずに納めることを考えた彼は、すぐさま「戦友ドノ」たるバンちゃんに特別外出許可を与えて捜索を命じ、そのバンちゃんと入れ替りにぼくはひょっこりと基地に帰ってきた形となった。
石橋大尉は真っ先に中隊長室にぼくを呼び出し、悲痛な声を張り上げた。
「何やってんだよ鳴沢二等兵、君がいなけりゃぼくが陶さんに苛められるだろうが!」
「……申し訳ありません」
「鳴沢二等兵、きみ重営倉二週間だからね! ちゃんと反省してもらうから!」
無断外出、言い換えれば脱走は、軍隊において重罪中の重罪である。そこにサイドカーを持ち出したという「兵器横領」やその他諸々の微罪が加わった末の二週間。だがこれでも結構割引が効いている方である。本当なら喩え重営倉でも一ヶ月は食らっている。
中隊長、そして内務班長じきじきのお説教の後、ぼくは営倉に入ることになった。
営倉とは、どの中隊内務班にも存在する四畳半程度の広さの狭く薄暗い部屋のことをいう。その用途はズバリ、軍規を犯した兵士を収容し、その罪状に応じた期間拘禁することにある。兵営と軍刑務所の丁度中間に位置する、ちょっとした「お仕置き部屋」的な意味合いを持つといってもよい。
営倉に入る際、兵士は必ずその衣類から結び紐やボタン等の金物を没収される。自殺防止のためである。そしてまる一日、起きてから寝るまでを正座をした状態で過ごすことになる。チョンボをしようにも外で衛兵が見張っているのでその間微動だにすることも許されないし、食事もまた、この間三食全部上にほんの少し塩を塗したご飯――――通称「モッソウ飯」――――だけ、これらの点もまた、狭い空間で抑制された姿勢を強いられる肉体的、精神的な苦痛を否が応にも引き立てる。
「ヨーウ鳴沢、お前のおかげで十分羽根が伸ばせたぜぇ」
と、様子見がてらに面会にやってきたのは、バンちゃんだった。あの日、捜索と称し夜の街をあちこちで飲み歩いてきたことぐらい、戦友のぼくにはすぐにわかった。本来こうした来客と被拘束者が会話をすることは禁じられているのだが、バンちゃんよりメンコの数が少ない衛兵が、彼を止められるはずがない。
「鳴沢、重営倉は辛いだろう? オレも経験あるんだ。でもオレはお前の『戦友ドノ』だからな、お前が退屈しないようにこうして毎日来てやるよ。感謝するんだぜ」
「…………」
それは嘘だ。バンちゃんは課業や訓練をサボる適当な理由としてぼくを利用しているに過ぎない。それでも憎めない辺り、バンちゃんの人徳というものかもしれない。
その次にやって来たのは。意外な人間だった。
「オイお前、鳴沢にパンを食わせてやってもいいよな?」
「規則により差し入れは禁止されております。郷田兵長どの」
「お前……何年ここの飯を食ってるんだ? てめえ俺よりメンコの数が多いのか?」
「それは……」
言葉を失う衛兵を押しのけ、のっそりとぼくの前にやって来た郷田兵長を前に、ぼくは背を少し仰け反らせた。衛兵を威圧したいかめしい顔が、ぼくの眼前では気持ち悪いにやけ顔になっていた。
「鳴沢二等兵、食え」
と、鉄格子越しに差し出されるアンパン。何処から聞きつけたのか、ぼくが重営倉になっている事実を、彼は知っていたのである。彼もまた毎日のようにやってきて、あいも変わらず差し入れをしてくる。当然、差し入れは彼がいなくなったのを見計らってすべて衛兵に与えていたが……
そして……
「鳴沢二等兵! やってくれたな」
陶大尉もまたぼくの眼前に現れた。衛兵の最敬礼を無視し、目を合わせまいとするぼくをひと睨みした後に出てきたのは、例の如き難詰調。
「貴様、あのテンプラを羽田まで送り届けたそうだな?」
「…………」
「何とか言ってみろ鳴沢。貴様どうしてそんな勝手なことばかりするんだ?」
「…………」
項垂れるぼくに、陶大尉はさらに声を荒げた。
「貴様の昇進は持ち越しだ。貴様は当分二等兵で過ごすことになる。その間自分がどれだけバカをやってきたか反省でもするがいい!」
うあ……それ本当?
昇進持ち越しは、事実だった。脱走という重罪を犯した二等兵を、定時だからといってすんなりと昇進させるほど陸軍の制度は甘くはなかったのである。
「それと貴様、転属要員になったぞ。何処に行かされるか知らんが相応の場所に回されることになるだろう。覚悟しておけ」
それはぼくにとって、まさに落雷の直撃にも似た衝撃をもたらした。
作戦や編成上、新設の部隊や兵員の足りない部隊に兵員を補充する必要から、上級司令部は外部からの要請に応じて何時でも幾下各中隊から要員を抽出できる用意を整えておくことを要求される。これが転属要員である。だが転属要員に選ばれるのが名誉なことかというとそうではない。転属要員になるのは、大抵仕事ができない者やトラブルメーカーなど、中隊にいてもいなくてもいい、もっと言えば中隊にとって好ましくない兵隊だからだ。
陶大尉よりそのことを知らされたとき、ぼくは初めて落胆した。大尉が去り、ぼくは正座をしながら考えた。
何処に行かされるのかなぁ……陸軍で危険な配置といえば……ソ連と目と鼻の先の樺太か択捉島の守備隊か? 否、朝鮮半島の第10師団?……それともパレスチナの停戦監視部隊?
……いやいや、左遷ならば単なる僻地というパターンもある。例えば硫黄島守備隊とか、それよりさらに南のマリアナ諸島の警備隊……これらの部隊は、実は多額の債務を抱えた将兵の隔離病棟的な意味合いを持つという噂をぼくは聞いたことがあった。つまりは金を使うような娯楽も何もない孤島に多重債務者の兵隊を配属させ、借金が完済するまでそこで勤務させるのだという、ちょっとした都市伝説である。そんな悪名高い部隊にぼくは転属させられるのだろうか?
そして……ぼくは別のことを考えた……スーちゃんは、今頃どうしているのだろう?
彼女は自分の意思の赴くまま、あのカッコイイ空軍さんと一緒にアメリカへと飛び立ったのだろうか?それとも、やはりたった一人で実家へと戻ってしまったのだろうか……?
――――そして、二週間が過ぎた。
「鳴沢二等兵、開放だ」
正座を続け、すっかり棒のようになった足を引き摺るように営倉から出、そしてぼくは外へと出た。
頬に感じ、肺に吸い込む空気はすでにそうと判るほど冷たくなっていた。月日はぼくの知らないところで巡り、営倉にぶちこまれたときは紅葉に飾られていた木々は、今ではすっかりその彩を地上へと脱ぎ捨て、荒れ果てた枝を寒風に晒していた。
二週間ぶりで足を踏み入れた内務班。その場の皆の視線がぼくの集中する中、ぼくの寝台で寝そべっていたバンちゃんが、半身を起こしぼくに笑いかけた。
「ヨウ鳴沢、やっと戻ってきたか。もう少し向こうで頑張ってもらっても良かったんだがなあ……」
ぼくは苦笑した。バンちゃんの言葉は、決して厭味ではなかった。毒のある言葉の裏には、同僚に対する労いが多分に含まれている。
「お前、暫く向こうにいる間に男ぶりが上がってないか?」
「ハハハ……そうでしょうか?」
「来週からまた演習があるぞ。それまでに身体作っとけよ」
「はい」
バンちゃんの言う通り、演習は迫っていた。房総半島方面で行われる、帝國海軍の大規模な上陸作戦演習にぼくらも動員されることになったのだ……それも対抗部隊として。
それとほぼ同時期、ぼくの転属も決定した。転属先は、韓国駐留の第10師団だった。