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10/15

その九 「さよならスーちゃん」


 ――――それから一週間後。


 「鳴沢―――っ、面会だぞ」


 昼食後の一時、外から戻ってきたバンちゃんがぼくを呼んだとき、ぼくは長靴(ちょうか)を磨いていた。当然、ぼくのものではないし「戦友ドノ」たるバンちゃんのものでもなかった。キックの一撃で牛を蹴り殺せそうなほど硬く重い皮製の長靴の主は……


 「陶大尉殿がね、鳴沢二等兵に靴を磨いておけってさ」


 その日の朝食時、例の如くひょっこりとぼくの内務班にやってきた舟木伍長は、ぼくの鼻先に薄汚れた長靴を突き出し、言った。


 「いやあ助かるよ。大尉殿は身嗜みに厳しくてね、靴磨きだけでも一苦労さ。これからずっと鳴沢二等兵に靴を磨かせるって……」


 靴を磨きながら舟木伍長の言葉を反芻し、ガックリとするぼくの前では、バンちゃんの言葉はまさに天啓に等しかった。ぼくの肩を叩き、バンちゃんはニンマリと笑った。


 「栗色の髪した可愛い女の子だったぞ。お前の彼女か?」


 「はい……!」


 アケミだ!……息を弾ませ面会室へと駆け込んだぼくの予想は、正しかった。


 「醇くぅ―――ん!」


 面会室の机の一つで、真っ先にぼくの姿を見つけたアケミは、大きく手を上げてぼくを呼んだ。面会室といえば読者の皆さんは刑事ドラマあたりに出てくる、透明ガラスに隔てられたあの殺風景な部屋のことを連想するかもしれないが、軍隊における面会室とは、本部庁舎内に設けられた雀荘のようなテーブルの居並ぶ結構広い、アットホームな部屋である。


 「ゴメンネ醇君。最近自治会の活動が忙しくて来れなかったの――」


 「ううん……いいんだよ」


 大きく見開かれた茶色の瞳が、ぼくに対する興味の光を放った。


 「あれー? 醇君、少し逞しくなってない?」


 「ははは……そうかも」


 「だよねぇー……」


 そう言って、アケミはぼくの上腕や胸に手を延ばした。


 「うわすごぉーい、やっぱり筋肉付いてるぅ」


 好きで付けたわけではないのに、それがアケミの興味を誘っている……それはぼくにとって複雑な気分だった。一通りぼくの変化に対する興味を満たしたところで、アケミは大きな重箱を持ち上げた。

 

 「醇君のためにいっぱい作ったんだよ。たぁーんと食べてね?」

 

 「はぁ――い」

 

 甘えられる女性がいるということは、ぼくのような兵隊の場合、なんとも言えない励みになるものである。アケミは箸で抓んでくれたおかずを、ぼくの口先に差し出した。

 

 「はい醇君、アーンして」

 

 「ア――――ン……」

 

 だが……醸造されつつあった甘い空気をぶち壊したのは、突然に乱入してきた怒声だった。


 「オイ鳴沢二等兵!」

 

 肩を怒らせた陶大尉が、床板を踏みしめながらこちらへと歩み寄ってきたのだ。反射的に立ち上がったぼくの前で止まり、勢いよく延びた手が襟元を掴み上げた。


 「この馬鹿! 靴をきちんと磨いておけと言っただろうが」


 「もっ申し訳ありません! 大尉殿」


 「足を半歩開き歯を食い縛れ」


 観念し、目を瞑ったぼく……陶大尉が拳を振り上げかけたそのとき――――


 「チョット醇君、誰この女―――!?」


 「へ……?」


 唐突な言葉に、目を点にしたのはぼくだけではなかった。陶大尉すら、拳の振り下ろしどころを忘れたかのように、呆気に取られたような眼差しをサングラス越しにアケミに注いでいた。


 「大尉だかなんだか知らないけど、あたしの醇君を気安くぶたないでくれるぅ――――?」


 「ここは軍隊だ。上官が部下に喝を入れて何が悪い?」


 アケミの口元が、意地悪っぽく歪む。


 「あっわかったぁー、あんた妬いてるんでしょ? あたしと醇君のアツアツぶりに、男いないからってあたし達に八つ当たりすること無いじゃない。コノ売れ残り……!」


 「貴様……」


 とは声を上げたものの、陶大尉は明らかにアケミの勢いに押されていた。普段傲岸不遜かつ冷徹な大尉しか知らないぼくにとって、それはあまりに意外すぎる光景だった。そこに畳み掛けるようなアケミの一言。


 「あたしは醇君とアーンなこともコォーンなこともできる身分なんですからね。あんたとは格が違うんだから」


 そう言って、アケミはぼくを一気に抱き寄せた。そして次の瞬間―――――


 ぐっと重なるぼくとアケミの唇――――それに続く日活ロマンポルノばりの濃厚なディープキス……ほんのりとイチゴガムの味のしたそれは、厳重な空気の支配する帝國陸軍近衛旅団ではまさに「ありえない光景」であった。


 「…………」


 その余韻に浸る間も無く、アケミの背中を抱き、キスをしたまま巡らせた視線の先……唖然としてぼくらを見遣る衛兵と同じ面会の人々、そしてぼくらの傍で打ちのめされた様に肩を震わせる陶大尉。ぼくから唇を離し、アケミは陶大尉をきっと睨みつける。


 「あんたジャマ。早く消えなさいよ。バカ女……!」


 その一言は、まさにとどめの一撃だった。


 「……鳴沢二等兵? 覚えてろよ」


 陶大尉はさっきとは打って変わってゾンビのような足取りで、トボトボと面会所を出て行ってしまった。その彼女の眼光に、何か光るものが宿っていたのを、ぼくは確かに見た。それはまさに、いじけきった女性の目だった。だが男にとっていじけきった女性ほど、強く恐ろしいものはないのである。


 ああ――……ぼく終了。


 「ああ大尉どのちょっと……!?」


 「さー醇君、ランチしよ?」




 「事件」は、面会室詰めの衛兵の口を通したちまち全部隊に広がってしまった。


 「鳴沢ぁ、テメエすげえ彼女持ってるな」


 「久しぶりのキスの味はどうだったんだ? コラ」


 内務班の古参兵連中にはからかわれ、他部隊の兵からはジロジロと見られるしいいことはない。もともと娯楽らしい娯楽なんて皆無に等しい軍隊、この種の話は新幹線並みのスピードで広まってしまう。

その日の夕方、早速やって来た舟木伍長は、ぼくにこう告げた。


 「鳴沢くぅーん。陶大尉がね、もう徒手格闘部に来なくていいって……つーか顔も見たくないだって」


 「……そうですか」


 「話は聞いたよー? 君の彼女すごいよねえ、あの大尉殿をヘコましちゃうなんて」


 「ははは……まあ、ね」


 「……でも、命の心配ぐらいはしといた方がいいんじゃないかなぁ? 大尉殿に嫌われたら只じゃあ済まないからねえ。寝てるところに手榴弾とか投げ込まれるかもしれないよ。またはピアノ線で首絞められるとか……」


 「そんな……!」


 当人が当人だけに、伍長の言葉は洒落になっていない。


 「鳴沢君、大尉殿に謝った方がいいんじゃないの? それこそ土下座でもなんでもしてさぁ……」


 ぼくは言葉を濁すしかなかった。もともとぼくは大尉の部下ではないし、この種のトラブルは時間が解決してくれるはず……と思ったからだが、ぼくに対する「事件」の影響は翌日から早速現れた。


 翌日、起床喇叭に反応し何時ものように跳ね起きたぼく。そのとき、枕元に置かれていたあるものを認め、ぼくは外聞も忘れて絶叫した。


 安全ピンを抜いた手榴弾!……訓練用の模擬弾だったからこそよかったものの、本物だったらぼく自身はおろか内務班全部が吹っ飛んでいることだろう。そしてその日の朝、続けて現れた舟木伍長は、


 「陶大尉殿がね、鳴沢君にこれ食べろって……」


 と、デザートのバナナをぼくの前に差し出した。きな臭いものを感じ、爆弾でも弄くるような手付きでバナナをほぐした先に目に入ったあるものに、ぼくだけではなく食卓の古参兵全員の視線が集中する。

 

 「うわあぁぁぁぁぁぁ……」


 というバンちゃんの呻き声と同時に、ぼくはキラキラ光るそれを震える指で抓み出した。それはまさしく、剃刀の刃……!

 

 「鳴沢ぁ、女の恨みは怖いぞぉ――――……まあこれで、ウワバミも女だってことがはっきりと判ったがなァ」


 さらにその日の昼、これまで数えるほどしか内務班に足を踏み入れたことの無かった石橋中隊長は、ズカズカとぼくらの内務班に踏み込むと、真っ赤に腫らした顔もそのままに、それこそ駄々っ子のように喚き立てた。


 「鳴沢二等兵! 鳴沢二等兵はいるかぁ!?」


 「鳴沢二等兵、お呼びにより参上しました!」

 

 その直後、幼稚園児の喧嘩のように力任せに振り上げられた中隊長の平手が、ぼくの頬を強かに打った。見っとも無い涙眼もそのままに、中隊長は口角泡を飛ばしてぼくに捲し立てる。


 「キサマのせいで陶大尉に殴られたんだ! どうしてくれるんだこのオタンコナス!」


 と、怒声をぼくにぶつけたのも束の間、一転し中隊長はぼくに縋り付く様にして叫んだ。


 「なあ頼むよォ鳴沢二等兵、陶大尉に謝ってくれよォ……でないとオレ、ここで生きて行けなくなっちまうんだよォ!」


 「鳴沢は石橋大尉殿の部下であります。元々陶大尉に干渉されるような覚えはありません! 石橋中隊長には勇気を持って、陶大尉の越権行為に抗議して頂きたくありまァス!」


 「え……?」


 ぼくにそう抗弁され、大尉は言葉を失ったようだった。


 「そんな……彼女に殺されちゃうよオレ、首の骨折られるよォ……何とかしてくれよ鳴沢くぅん。ホラ君と同郷の鷲見少尉だって……」


 「…………!?」


 「……陶大尉に苛められてるんだから」


 その瞬間、無形のバットがぼくの後頭部を強かにぶん殴った。



 ――――果して、石橋中隊長と連れたって覗き込んだ連隊の事務室では、一般社会で御馴染みの、お局様による新人OLイビリ同然の光景が、スーちゃんと陶大尉の間で繰り広げられていた。


 「オマエさ、どういうつもり?」


 「……すみません」


 スーちゃんの作成した書類に目を通し、陶大尉は訝しげな視線を向ける。いらぬあら捜しの末に、大尉がスーちゃんを責める口実を見つけたのは明らかだった。大尉に睨まれ、恐縮しきりのスーちゃんに、さらに降りかかる冷たい言葉。


 「こんなことで帝國陸軍の士官が勤まると思っているのか? 軍務舐めてないかキサマ?」


 「…………」


 「貴様がいい加減な仕事しかしないから本官まで女だてらにと軽く見られるんだ。少しは反省しないか」


 「……申し訳ありません」


 煙草に火をつけ、大尉は話題を転じた。


 「貴様、あの捜索中隊のバカ二等兵と同郷だってな?」


 「……鳴沢二等兵のことですか?」


 「あいつ以外の馬鹿がうちの連隊の何処にいるんだ? 貴様といい鳴沢といい、貴様の郷里は馬鹿ばっかりだな」

 

 「ひどい……!」


 一部始終を前に肩を震わせるぼくの傍で、中隊長は囁いた。


 「鳴沢二等兵……これでやっと陶大尉の恐ろしさがわかったろう?」


 「でも……自分、謝りませんよ」


 「うんうんそうか……って、お前!?」


 不意に、陶大尉が入り口へと視線を転じた。


 「…………?」


 すっくと立ち上がり、そのままぼくらの方向へと向かってくる大尉。慌てて場から離れようとするぼくを、中隊長は引き留めようとした。


 「ダメだ鳴沢二等兵、ここから離れては」


 「失礼しますっ!」


 大尉を振り切り、ぼくが廊下の隅に身を隠すのと、戸を開けた大尉が怯える石橋中隊長の姿を認めるのと同時だった。


 「…………!」


 「石橋……貴様こんなところで何をやってるんだ?」


 「い、いや……陶さん、機嫌直してくれたかなあ……なんて思ったりして……ハハハ」


 必死に取り繕う大尉を無視するかのように、陶大尉は辺りを見回す。そして……


 「……鳴沢の匂いがする」


 「…………!?」


 驚愕したのは石橋中隊長だけではなかった。大尉はおもむろに歩を進め、その足音はぼくの隠れる方向へと近付いてくる。その度に、ぼくの心臓もまた不健康な鼓動を立てる。


 「すすすすす陶さん?……そっちには鳴沢二等兵なんて隠れてないよ? ねえってば……!」


 「ニィ―――――――……」


 陶大尉が笑った……その笑顔を見たわけではなかったが、ぼくの生存本能がそれを察知したのだ。


 「鳴沢――――――?」


 「う……」


 鎌首を擡げ獲物を探す蛇のように隅に視線を廻らせた陶大尉と、突き当りに張り付いていたぼくの目が合った。


 「貴様、何をそんなところに隠れているんだ?」


 「もっ申し訳ありません! 陶大尉殿!」


 気付いた時にはぼくは、大尉の足元で土下座をしていた。避けられない距離にまで迫った恐怖を前に、ぼくは完全な屈服を強いられたのだ。床におでこを擦り付けるぼくの後頭部を、あの重いブーツが踏みつけた。このシチュエーション、まさに我侭な彼女の機嫌を取るダメ男……否、それ以下である。


 「鳴沢――――っ、やっとわかったか?」


 「へへ―――――っ」


 「本官の言うこと、何でも聞くな?」


 「……いえ」


 「ん――――? 聞こえない」


 「お言葉ですけど大尉殿、それとこれとは……話が別です」


 「いまさっき謝っておきながら、何を寝言を言ってるんだ。鳴沢?」


 土下座の姿勢のまま、ぼくは大尉をきっと見上げた。ぼくの眼差しの嶮しさに気付いたのか、大尉もぼくに目を細めたのも束の間――――


 「……よし、貴様がノーと言ったところで、貴様の上官に相談すればいいだけの話だ。なあ石橋……!」


 大尉が嶮しい目を向けた先で、石橋大尉は足元から震えきっていた。


 「石橋? こいつを当分借りてっていいよね?」


 「へ……?」


 「だから……こ、い、つ、を、と、う、ぶ、ん、か、り、てって、い、い、よ……ね!?」


 「ど、どーぞどーぞ……」


 そんな!……中隊長?


 唖然とするぼくに、陶大尉の悪魔のような冷笑が降り注いでいた――――そのような状況を一変させたのは、思わぬ方向からの思わぬ声。


 「何をやってるの?……あなた!」


 「…………!?」


 肩を怒らせ、大尉に鋭い声を上げたのは、何とスーちゃんだった。


 「鳴沢君、こんな人に頭なんか下げること無いわ。この人格破綻者でファザコンの大尉なんかに……!」


 「貴様……自分が何を言っているか判っているのか?」


 「判っています……私はあなたとは違いますから」


 スーちゃんの毅然とした眼差しに、大尉の硬い表情がやや和らいだようにぼくには思った。


 「鳴沢二等兵……いい友人を持ったな。今日のところは見逃してやる」


 踵を返し、軍靴の響きも高らかに離れていく大尉の後姿に、安堵を覚えた人間はぼくだけではなかったはずだ。



 秋の気配は、娑婆と営内とを問わず各所に浸透し、ベンチから見上げる樹木の纏う木葉は、すでに鮮やかな紅色を見せ始めていた。


 ……数刻の後には、ぼくとスーちゃんは営庭のベンチにともに腰を下ろし、取り留めの無い口調で自分の知る限りに、営内の日常を語らい合っていた。訓練、警衛任務……後方業務から食事の話に至るまで、これまで接した以上に多くの時間を、その間ぼくは、これらの話題を糧にスーちゃんと一緒に過ごすことができた。それだけでも、ぼくにとっては身に余る至福の時だった。


 当然、そうした「取り留めの無い会話」の中には、スーちゃんのこれからの将来に少なからぬ影響を及ぼすであろう空軍大尉の話題も出た。ぼくがそれを口に出した時、スーちゃんは柄にもなく気恥ずかしそうな顔をして俯いたものだ。その美しい横顔が、ぼくには途方も無く遠い世界の情景のように思えた。


 「鳴沢君、知ってたんだ……」


 「スイマセン……つい耳に入っちゃって」


 「いいの……ここって、そういう話があっという間に広まるのは当たり前だから」


 「アメリカには……何時行くんですか?」と尋ねるのに、少なからぬ勇気と罪悪感が要った。


 「あの人が言うには来週末だって……でも、分かんなくなっちゃった」


 「分からない?」


 スーちゃんは顔を上げ、木々の色付きに目を細めるようにした。


 「鳴沢君、どうすればいいのかな……私」


 「鷲見少尉どの……?」


 「私、あの人と一緒に、外国へ行っていいのかな?……私みたいな人間が、あの人の支えになってやれるのかな……私、それが不安なの」


 「…………」


 「鳴沢君……私、ここを辞めることにしたんだよ?」


 「そうですか……」


 その瞬間、ぼくは確信した……あの大尉さんと結ばれるにしろ、そうでないにしろ、スーちゃんがぼくの完全に手の届かない場所に行ってしまうことに。それを決して悲しんではいないぼくもまた、いた。憧れの(ひと)が自分の意思で生きようとするのを、疎むような男なんて……やはり駄目だ。


 晴れやかな口調で、スーちゃんは続けた。


 「……だから、ウワバミにも言いたいこと言っちゃった……あの人、根は悪い人じゃないんだけど、我侭過ぎる嫌いがあるから、鳴沢君みたいに何でも受け入れてくれそうな人に靡いちゃうのかもね」


 「ハハハ……そうかなァ」


 気の抜けたように苦笑し、ぼくはまた尋ねた。


 「じゃあ、やっぱり……行くんですか? あの人と」


 そのぼくの問いに、スーちゃんは微かに頭を振る。


 「……お父様が、私に郷里(くに)に帰って来いって。鳴沢君……」


 「…………?」


 「私……どうすればいい?」


 「それは……」


 「御免……そうだよね。鳴沢君には、元々関係の無いことだものね」


 戸惑う自分が、これほど憎らしく、もどかしく思えたことはなかった。ぼくは、彼女を助けてやれないのか?……その思いが、二人の間に横たわる秋を一層深まらせる……そんな秋の景色に、ぼくは恐怖する。



 ―――昇進の時期が、迫っていた。


 決してぼくの勤務成績が優秀というわけではない。冒頭でも触れたとおり、入営した初年兵は大抵の場合、着任から半年ぐらいで自動的に一等兵に昇進することになっているのだ。

 最初にぼくに昇進を自覚させたのは、昇段試験を経てもなお参加させられていた徒手格闘部で、組手の訓練を終えた陶大尉の放った一言だった。


 「鳴沢、貴様もうすぐ昇進だろう?」


 「はい、そうであります」


 「本官の従兵になるよな? 悪いようにはしない……」


 一等兵は、二等兵に比べ階級章の星の数が一個増えるだけに留まらない。実戦部隊に自分より下の兵隊ができるということでもあるし、二等兵ではこれまで課されることの無かった衛兵勤務も回ってくるなど、任される仕事もまた増える。


 その昇進時期の迫る中、スーちゃんの退役もまた迫っていた。陶大尉の机の隣の、彼女の机はあらかた片付けられ、ここ数日、官舎の後片付けや事後整理などでスーちゃんは数えるほどしか出勤していなかった。


 「そら見たことか」


 殆ど生活感の消え失せたスーちゃんの机を見、陶大尉は毒付いたものだ。


 「鳴沢、貴様の女にはおかしなやつが多いな。貴様もう少し相手を選んだ方がよくはないか?」


 「鷲見少尉は、友達ですから……自分には別に本命がいますので」


 「あのクルクルパーの淫乱女か?」


 と、アケミを一刀両断。ぼくが抗弁できないのをいいことに言いたい放題だ。


 「貴様……今度あの女を神聖なる営内に連れ込むところを見たら、只では置かんからな。そのつもりでいろ」


 ……だが、その機会はごく近い未来に巡ってきた。軍旗祭の日がやってきたのだ。




 連隊旗が大元帥陛下より付与され、正式な連隊開設を記念する軍旗祭当日―――――その日は、基地が一般に開放され、普段は閑散としている営内は着飾った一般の来客や物見遊山の人々でごった返すことになる。現在只でさえ一般人の無関心(あるいは敵意?)の枠に置かれがちな戦後帝国陸軍各連隊において、軍と民間との親睦を図る絶好の機会とも言えるこの軍旗祭の日は、代々木練兵場において天皇陛下のご親閲を賜る三月十日の陸軍記念日と同様、重要な意味を持っていた。


 「醇くぅーん!」


 案の定、アケミはやって来た……手にお弁当のたっぷりと詰ったバスケットを抱えて。ただ、この日のぼくは臨時の警衛任務に加えられ、むやみに彼女と話をすることはできないでいたのだ。


 「ごめんアケミ、おれ、見ての通り警備員やらなきゃいけないから、もう少し待っててくれる?」


 「え――――残念だなぁ、でも、アケミ醇君がお仕事終るまで待ってるよ」


 正午を少し過ぎたところでようやく警衛から解放され、ぼくはアケミと合流した。


 「チョット醇君、何処行くのさ?」


 「いいから……ハハハ」


 周囲に陶大尉の姿が見えないのを確認し、演習用の森に分け入ること五分余り……その間、アケミの頬が柄にもなく紅潮していることにぼくは気付いた。


 「アケミ……どうしたの?」


 「醇君こそ……こんなに積極的になってどうしたの? アケミ困っちゃう」


 え…………?


 そう、人気の全くない森へ連れて行かれるうちに、アケミは全くの勘違いをしていたのである。それに、口調からして満更でも無さそうだ。


 「……でも、そういう醇君嫌いじゃないよ」


 「いや……それ誤解だから」


 「もうっ!……醇君ったら恥ずかしがり屋さんなんだからぁ……イケズゥ?」


 興奮するアケミを宥めすかし、ハンバーグやら卵のサンドウィッチやら……そしてエビフライやら、営内では絶対お目にかかれないランチを二人っきりで、それこそ満腹になるまで堪能したところで、ぼくは再びもと来た途を辿ってアケミを正門まで送った。帰途に付く彼女を無事に見送り、再び営内に戻ろうとしたそのとき―――――


 トンッ……


 正門付近を行き交う人ごみの中で、和服の女性と肩を触れ合わせ、ぼくは反射的に一礼し頭を上げた……が、直後ぼくの眼前に飛び込んできたのは信じられない顔だった。


 「すっ陶大尉殿ッ!」


 条件反射にも等しい不動の敬礼姿勢を保った一方で、ぼくの眼は和装姿の大尉に釘付けだ。色調を抑えた着物によって、一層引き立てられている艶やかさと清純さの絶妙の調和、アケミのような天真爛漫さとは全く趣の違う、芯から震えるような美しさがそこにあった。それは、日頃勇ましい戦闘服姿の大尉を見慣れているぼくからすれば、余りに新鮮な姿……だが呆然と見とれるぼくに降りかかる言葉は何時もと同じ、突き放すような命令口調。


 「鳴沢二等兵、貴様ここで何をやっているんだ?」


 「えっとですね……み、見送りを……」


 「まさか貴様、あのバカ女をここに連れ込んだのではあるまいな?」


 「ま、まさか……親類であります」


 「……ならばいい」


 「鳴沢二等兵、部署に戻ります……!」


 と、踵を返しかけたぼくを、大尉は呼び止めた。


 「鳴沢二等兵、待て」


 「…………?」


 「貴様、警衛明けだから昼はまだだろう?」


 「…………」


 「弁当を作っておいた。ホラッ」


 はい……?


 大尉は、風呂敷に包んだ重箱を突き出した。それがまた一段一段が電話帳のように大きく、かつ分厚い。すでにお腹いっぱいでゲンナリとするぼくを前に、大尉は顎を杓った。


 「面会所が空いているだろう。ついて来い」


 果して連れて行かれた面会室。ぼくと対面する形で大尉が開けた重箱には、それこそ正月かよと内心でツッコませる程、手の込んだ豪勢な献立が詰め込まれていた。アケミの手作り弁当がピクニック向けのスタンダードな洋風ならば、こちらは料亭並みの純和風……!


 「…………」


 「どうした鳴沢二等兵、貴様まさか本官の手料理を残すなんて考えていないだろうな?」


 「そんな滅相もない……モグモグモグ……ウマー」


 実際、陶大尉の意外な一面を垣間見たというか、大尉の手料理は美味かった。だが、アケミと大尉がカチ会うという修羅場こそ避けられたものの、別の意味での修羅場がぼくを待ち構えていたわけで、栗金団やらカマボコやら……そしてお赤飯やら、腹に溜まる料理を陶大尉の監視……もとい注視の前で無理して詰め込むうち、これも一種のシゴキではないかという疑念すら湧いてきたものだ。営内で満腹故に苦しんだ経験を持つ兵隊なんて、帝國陸軍広しといえどもぼくぐらいなものだろう。




 ――――――スーちゃんの退役する日が、やってきた。


 その日、「鷲見少尉は2000ジャストに基地を出るぞ。」という情報を、バンちゃんが教えてくれた……勿論、配給の煙草と引き換えに。だが、彼女がこのまま故郷への帰路に付くか、それとも恋人と同じ旅路を選ぶのかは未だ誰にもわからなかった。


 「鳴沢、お前あの美人少尉ともお近づきなんだって? おめえ、娑婆じゃあ相当もてたんだろうなァ」


 「いえ……鷲見少尉殿は、ただ同郷ってだけで……」


 時に2000、夕食後の温習時間の合間を縫い、ぼくは正門へと走った。正門へと通じる営路では、もはや制服ではなく普段着に身を包んだスーちゃんが、両手で大きなトランクケースをだらりと抱え、外灯の下で佇んでいた。


 「…………」


 「……あら、鳴沢君」


 「そろそろ……お別れですね」


 「そうね……でも」


 「でも……?」


 「私……待っているの、彼が発つのを」


 スーちゃんの顔が一層伏せがちになり、ついには上から降り注ぐ外灯の光に対し陰となった。


 「え……?」


 「彼は、十時の飛行機で発つの。それまでここにいて……それであの人のことはすっぱり諦めるつもり」


 「郷里(くに)に帰るんですか?」


 スーちゃんは笑った。人は哀しいが故に笑うこともある。スーちゃんの笑みは、まさにそれだった。


 「だって……そうでもしないと、彼の元へ行きそうだもの。だから、もう無理って自分に言い聞かせなきゃ……」


 「そんなの……駄目ですよ」


 「あなたには……関係のないことでしょう?」


 はじめて、スーちゃんは声を荒げた。その声は湿っぽく、心に刺さる、重い口調だった。


 「郷里(くに)には、飛行機で帰るんですか?」


 スーちゃんは、頷いた。


 「鷲見少尉殿……失礼します!」


 ぼくは踵を返し、それから脱兎の如く駆け出した。逸る足で向かった先は。廃材置場の一隅。襤褸を払い、久しぶりで飛び乗ったサイドカーの始動に何度か失敗した末、漸くサイドカーを始動させたぼくは再びスーちゃんの許へ帰ってきた。


 「鳴沢……君?」


 唖然とするスーちゃんには目もくれず、ぼくは前を見たまま言った。


 「どうぞ、お乗りください……少尉殿」


 「…………」


 「乗らないんですか? 空港までお送りしますよ」


 「……でも」


 「待つだけなら、空港でだって出来るじゃないですか」

そう、ぼくは淡々と言った。



 サイドカーは走り出した。助手席にトランク、リアにスーちゃんを乗せ、そして正門を全速で駆け抜け……十分後には、しっかと胴に回されるスーちゃんの腕と、背中に押し付けられるスーちゃんの頭と胸とを感じながら、ぼくは夜の国道にサイドカーを走らせていた。秋の空気は冷たく、その冷気がグリップを掴む腕と胸、そして顔に非情なまでに襲い掛かる。だがそんなこと、スーちゃんの苦悩に比べれば……


 京浜急行本線の長大な夜行列車と競うように、ぼくはスロットルを開き、変速ペダルを蹴り上げる。マフラーが重く力強い音を立て、寒風の抵抗がいっそうぼくを苛んでくる。オンボロとはいえ、スロットルを全開にしたサイドカーが前を走るトラックや乗用車を追い抜くのはそれほど難しくはなかった。

スーちゃんの、ぼくを抱く手に力が篭るのを感じる。大丈夫……あと少しで空港。そう思ったぼくの上空を、夜空に紛れ旅客機の巨大な機影が通り過ぎる――――気付いた時には、サイドカーはすでに空港の敷地内に入り込んでいた。そして、スーちゃんの恋人の飛行機が出るまであと三〇分。


 国際線と国内線――――二つの専用ターミナルを目前にしたところで、ぼくはゆっくりとバイクを停めた。


 「鳴沢君……?」


 ぼくは、言った。


 「……降りてくださいよ」


 「…………」


 「只でさえ門限オーバーなのに……自分、帰隊できなくなるじゃないですか」


 笑いかけるぼくに、呆然とするスーちゃんをその場に置き、ぼくは再びバイクを滑らせる。背後にスーちゃんの声を聞いたのはそのときだった。


 「鳴沢君……!」


 「…………」


 ぼくは勢いを付け、ペダルを蹴った。それがぼくの別れの挨拶だった。


 「……ありがとう」


 背後からかけられた言葉を打ち消すように、ぼくはスロットルを開いた。


 ―――もう、ぼくは背後を振り返らなかった。



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