本当の願い
俺の寝起きは最悪だった。
"苦しみ"に堪える薬の効果が切れた朝は、本当に辛くて胃が痛むからだ。
この薬は食後に飲まなければ胃を傷付けてしまうらしくて、胃の弱っている俺が今、胃を傷付けてしまうとすぐにまた穴が空くと厳しく医者に教えられた。
だから必ず食後に飲まなければならないのだが、俺は食事も喉を通らないほど苦しんでいた。
朝早くに起きると床を這い、何かに掴まってから立ち上がってふらふらと居間に下りた後、薬を飲むために無理矢理にお菓子や軽い食べ物を口に入れて胃に押し込む。
そしてやっとの思いで食べて皿を片づけた後、すぐに薬箱の中から病院から処方された薬を取り出むのだ。
そんな朝を迎えてやっと感情のない一日を送ることができるのだが、俺は薬を飲んだ後、昨日の薬箱とは少し違う事に気が付いた。
薬が1つ、減っていたんだ。
先程自分が飲んだから当たり前だけど、自分の飲んだ一回分の薬と、もう一回分の薬が消えていたんだ。
……いや、たぶん見間違えかもしれない。
だってこの家でこの薬を使う人は俺しかいない。
使うような人なんて、俺以外の人間で考えようがないじゃないか。
「あれ、澤村くん。起きてたの?」
その時、俺の後から声が聞こえた。
俺は慌て、薬箱を前にして固まってしまう。
恐る恐る後を振り向いてみると、やっぱり藤林がそこに立っていた。
俺が精神安定剤を使っている事を、一番知られてはいけない藤林が立っていたのだ。
「あ…うん……それでちょっと、疲れてるから何か薬でも飲もうと思って……」
「そうなんだ……やっぱり澤村くんは疲れてるんだよね……
でもそれももう少しで終わりだね。やっとアースに帰る方法が見つかったかもしれないんだから」
そう言って藤林はにこやかに笑った。
昨日の暗い様子が嘘だと感じられるように笑っていた。
その時、まだ薬が効いていないのか俺の胸が痛み出す。
俺達がアースに帰っても全く寂しくないと意味を孕んだような笑顔を見せられ、俺は少しショックを受けて胸を痛ませているんだ。
でも俺は少し不思議に思っていた。
藤林の笑顔って……こんな風に"中身の詰まっていないものだっけ?"と……。
「でも私達が早く起きすぎて、お父さんもお母さんもまだ起きてないね」
「そうだな……」
「お腹空いたでしょう?私、朝ごはん作るね」
そう言って藤林はキッチンへと歩いて行った。
俺は「手伝うよ」と言ったのだけど、「だめ、疲れてるんだから」と言われてしまい、大人しく食卓に座る。
キッチンで朝ごはんを作っている藤林を不思議に感じて見ていると、やっぱり昨日までの藤林と少し違って見えた。
だって昨日は暗い様子でずっと思い詰めていたみたいだったのに、その次の今日でこんなにニコニコしているなんて、不思議に思わないはずないだろう?
それに俺にはわかるんだ。
好きになるほど藤林を知っているから、俺には藤林の少しの違いも見分けられるんだ。
だから俺は、今日の藤林が変に思えて仕方がなかった。
今日の藤林の笑顔が、作られた偽物のようにしか見えなかった。
朝ごはんができ、二人で食事をとっている間も、俺は疑問に思っていた。
藤林は昨日、すごく落ち込んで悩んでいるみたいだったのに、中身のないものだが今日は明るくなっている。
それなら昨日はどうして落ち込んでいたのだろうと……。
「藤林」
「なに?」
「昨日から気になっていたんだけど、昨日は何かあったの?
ずっと悩んでるみたいだったけど……」
「え……」
藤林の空虚な笑顔が少し壊れる。
俺がこんな質問をしたから動揺しているのだろうか?
「な…悩んではないよ……。
俊太郎が帰ってくるかもしれないから、少し緊張しちゃっただけだよ……」
「……そうだよね。俊太郎とやっと会えるんだから」
それは嘘のように聞こえたけど、俊太郎の事が好き故に緊張してしまったんだと思うと、俺は不思議と飲み込めてしまった。
藤林は俺と俊太郎を重ねてしまっているだけで、藤林が好意を寄せているのは飽くまで俊太郎なんだと俺は思い込んでいるのだ。
最近はその考えが頭や心を縛りつけている。
薬の効果で痛みを抑えているから平気でいられるが、飲んでいなかったら、今も再びちくりと胸が痛んでいるところだろう。
だから俺は、薬の効果に感謝して、明るく軽やかに笑って藤林に言った。
「じゃあ、早く朝ごはんを食べて日ノ出公園へ行こう。
公園の空に出口がないか確めるんだ」
すると藤林も少しして、
「そうだね。馬場くんも起こして早く公園に行こうね」
とにこやかに言った。
再び例の笑顔を浮かべながら。
俺にはまた、観覧車の時みたいに俺達の間に硬い石壁が立っているように見えた。
端から見れば俺達は仲睦まじいカップルのように見えるかもしれないけど、そんな事は全くもってない。
それは幻想で俺の儚い夢で、現実はこんなにも空虚で偽物のような笑顔で笑い合う、ただの女とその同居人だ。
俺だけはその女に恋しているが、全くの偽物で泡沫の夢なのだ。
俺達はそうして、無言で演技の笑いを浮かべながら食事をとり、その後から独りでに起きてきた馬場が支度を終えるのを待ってから、一緒に日ノ出公園に向かった。
俺達がイアルスに落ちてきた時に寝ていた、展望台があって野原のように広い公園だ。
その公園に着くと、馬場は荷物を地面に置いて公園を見渡しながら言った。
「澤村。ここらへんだったよなぁ、俺たちが落ちてきた場所は」
「うん。出口があるとすればここの空だ」
空を仰いでみると、空はもこもこした白い雲で覆い尽くされていた。
雨雲は見られないし、陽の光もまだ雲の隙間から見えるから雨は降りそうじゃないけど、雲がない場所は水平線の近くにしか見られない。
晴れもしないければ、雨が降りもしない中途半端な天気だ。
「このロケット花火を飛ばして穴を見つけるんだよね?」
「そうだよ。見つけたら穴の大きさを計るんだ」
「よし、じゃあ早速飛ばしてみようぜ!」
馬場は荷物の中からロケット花火を取り出す。
そしてそれを地面に刺すと、昨日買って持ってきていたライターで導火線に火を付け始めた。
火は滞りなく導火線に付き、バチバチと火花が散り始める。
「これで澤村くんの推理が正しいかわかるね…」
「うん…」
そして火が火薬に移ると、ロケット花火は勢いよく空に向かっていき、甲高い音を出しながら真っ直ぐに飛んで行った。
俺達はそれを目で追い、一斉に空を見上げる。
しかし、爆発音は聞こえてこなかった。
花火が飛んでいく音も途中で止み、ロケット花火は姿をいきなり消した。
そう、不思議な事にロケット花火は爆発音を出さずにいきなりどこかに消えたのだ。
それは間違いなく、この空にアースへの帰り道があるという事の証明だ。
ロケット花火が途中で消えてしまったように、俺達や俊太郎もこうして異界へと消えていったのだ。
「………あった」
「……あった」
「あそこだ……」
「あそこだな……」
藤林は無表情で見ていたけど、馬場は呆然とその穴を眺めていた。
きっと今まで実感が沸かなくて、俺の推論を信じられていなかったのだろう。
しかし馬場は唐突にふっと声を漏らした。
「……やった」
「うん」
「やったよ澤村、俺たちは見つけたんだ!
出口をやっと見つけられたんだ!これで帰れるぞ!」
「うん、よかったな馬場」
俺は喜ぶ馬場を笑って祝ってやってやった。
藤林も黙っているけど、馬場を祝うように笑っている。
変なもんだな。
俺も藤林も祝われる立場のはずなのに、まるで調査の部外者みたいに祝うなんて。
あ……また胃が痛んでる……。
ちゃんと薬を飲んだのに、それでもこれほど苦しいなんてな……薬がなかったら一体どれくらい苦しんでいたんだろう……。
そう思うと俺は少し恐ろしく感じた。
持っている薬はそれほど多くは持っていない。
薬を飲み切って切らしてしまったら、やっぱりかなり苦しむだろうな。
きっと、藤林との別れに堪えきれないぐらいに。
「じゃあ馬場、穴の大きさを計るぞ。
真上に飛ばして爆発音が聞こえる範囲を探そう」
「了解!」
そうして俺たちは、ライターと一緒に一杯に買ってきたロケット花火を空へ飛ばし始めた。
冬の朝から連続でロケット花火の甲高い音が鳴り響く。
でもやっぱり近所迷惑になると思うので、早めに調査を終わらせよう。
誰かが怒鳴り込んできたら、「すいません、先を急ぐ調査をしているんです」と言えばきっとわかってくれる、というのは甘い考えかもしれないし……。
それにしても、本当なら花火はもっと楽しいはずなんだけどな。
季節外れかもしれないけど、それでも何故か気分が高揚して楽しいものだったと思うんだけど。
それなのに花火は面白くも、そしてつまらなくも思わなかった。
感情的なものがなく、どうとも思っていないのだ。
そういう風に感じるものは、薬を使ってから多くなってきた。
薬を使っているからだと思うんだけれども、薬を使うとやる気や煩わしさと言った感情がもう断片ぐらいしか残らないんだ。
余裕ができた昨日だって、面白くもないゲームを無意味にやり続けていた。
やめるようにと言われて、何の躊躇いもなくゲームの電源を切ったくらいだ。
セーブもしていなかったのに。
いや……それはやっぱり薬の所為ではないのかもしれない……。
それも藤林との別れが原因で、藤林と別れるのだと考えると楽しさが消え、悲しくなってくるからかもしれない。
なぜなら薬を使って感情を抑えている今、唯一心に感じるものが、藤林と幸せになりたいという欲求だからだ。
藤林と離れ離れになりたくない。
それだけは薬で弱めていても、既に諦めた願いでも、俺は切に願っている。
それほど藤林が好きだったんだ、と自分でもしみじみ思う。
失恋したと同然の状態なのに、まだ諦めきれずに心のどこかで藤林を想っていたんだ。
俺は諦めの悪い自分を責め、またその感情も押し殺してロケットを飛ばした。
藤林を想ってはいけない、と自分を責めるように花火を飛ばしていた。
穴の広さや高さなどの座標を一通り計り終えると、俺たちは藤林宅に帰った。
昼食のうどんは既に出来ており、食卓に着くと頂きますを言ってすぐに箸を持ってずるずると食べ始めた。
馬場はいつもより少し真面目な表情でずるずる食い、俺たちもまた真面目な表情でずるずる食べる。
藤林のお母さんも一緒に食べていたのだが、お母さんも惚れ惚れさせるぐらいずるずる言わせていた。
「穴の大きさは二メートルくらいか」
「うん」
馬場はサイドメニューの漬物をパクパク食べる。
「それよりも問題は高さだろう。
十メートルを飛ぶなんて、簡単な事じゃない。
三階か四階建てのビルくらいの高さがあるんだぞ」
「そうだな……でも、計画は練ってあるんだろ、澤村?」
俺は無表情で頷く。
「まずは、ジャンプ台を作るんだ。
鉄棒で駆け上がりする時に使う補助台みたいな物だよ。
それを穴の下に配置しておいて、俺たちは公園の前の真っ直ぐな道路で車に引っ張ってもらって加速する。
百キロに到達した所で車から手を離してジャンプ台からジャンプするんだ」
「車を使うの?
でも、お母さんは許してくれるかな?」
藤林の言葉で、俺達の視線は藤林のお母さんの美奈子さんに注がれる。
突然話を降られて驚くかもしれないと思ったが、美奈子さんは動揺もせずに「そうねぇ……」とその件の事を考えていた。
黙って真剣に、どう判断すべきかを考えている。
この計画に危険があることはわかっている。
計画を実行したら、何が起きるかわからない。
でもあの穴に入る方法はこれが一番手っ取り早い。
誰かが全力で自転車を漕いでも速さが足りそうにないし、バイクを買おうとしても、免許を取る必要がある。
だからやっぱりこの方法が一番いい。
何としてでも許可をもらいたい。
「美奈子さん、お願いします。
計画は早朝に実行しますし、使う道路はパイロンを置いて、少しの間だけ通行止めにしますから、何とかお願いします」
「………」
美奈子さんは俺がそう言ってもまだ、じっくりと考えている。
無理もないか……大人の美奈子さんが許可するという事は責任を受け持つという事だし、俺たちが危険な計画を実行する事を許可するという事だ。
本当ならすぐに断われても仕方がない事だけど、目的が目的だから考えているのだろう。
「二人は……どうしても元の世界に帰らなければならないのですか?
この世界に来てからずっと図書館に行って頑張っていたけど、決意は硬いのですか?」
「はい……」
馬場は少し考え、やはり自分の決心が硬いと思い、真剣な表情で答えた。
俺も、元の世界で藤林の為にすべき事がある。
ゆっくり頷いて答える。
「それならば仕方ないですね。
元の世界に帰さないと家族の方も心配するでしょうし、私が車を運転しましょう」
「本当ですか?!」
馬場は満面の笑顔で喜ぶ。
俺もほっとして、静かに口元を持ち上げた。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
「いえいえ、でも安全だけは大事にしてください」
「はい!」
馬場は喜びのせいか、何度も頭を下げていた。
今までの努力が報われるという喜びと、聡美にやっと会えるという喜びが重なり、本当に嬉しかったのだろう。
俺はそんな馬場と藤林に、微笑みを浮かべて言った。
「よし、それならジャンプ台創作の材料を今から買いに行くか」
「うん!」
そう言って俺たちは、再び家を出ていった。
バイトで稼いで五十嵐の車いすを購入した残金を、材料や道具に使い、俺達の手でジャンプ台を作っていった。
冬休みは残り一週間と少しだ。
一週間の内に仕上げて、次の早朝にはアースに帰れるようにしたい。
取るもの手につかなくなった故に学校の冬休みの宿題を全くしていないという理由もあるけど……やっぱり藤林と早く別れなければならないと思うからだ。
早く藤林に俊太郎と会わせてやりたいという理由もある。
だから、毎日フルに時間を使って急いでジャンプ台を作ろう。
まずは設計図を作って作業を三人で分担する。
家の庭で作り始め、完成したら公園に運んでいくという計画にしたので、ジャンプ台は組み立て式だ。
最後の組み立てだけ公園で済ませ、その後にアースに帰るのだ。
しかし俺達はこのジャンプ台でちゃんと空に向かってジャンプし、10mの高さにある次元の穴を通る事ができるのだろうか……。
間違いがないように計算してみたが、本当に上手く穴を通る事ができるのだろうか……。
それに次元の穴は超自然的なもので、過去にこの穴を通った者が居ても元の世界に戻った者は両世界にもいない。
つまり二度あの穴を通った者はいないという事だ。
少なくとも、半年調査を続けてきた俺達の知る内では。
誰もした事がない無茶な挑戦。
そう考えると俺は不安になって恐ろしく思えた。
ジャンプ台を作る手が止まるのである。
でも今までこの為に調査を続けてきたんだし、藤林の幸せの為だ。
今更挑戦を止める訳にもいかず、俺達は忙しく手を動かした。
その一週間後。
計画通りにジャンプ台は完成した。
創作途中で馬場が張り切りすぎて、作った物を壊してしまった事もあったけど何とか冬休みギリギリに完成させる事ができた。
ジャンプ台が完成して、後は時が満ちるのを待つだけになった俺たちは、この世界で最後という事になる宴を藤林家で開いた。
最後なんだからと言って、藤林のお母さんは盛大に料理を振る舞ってくれ、メニューは高級な牛肉を使ったすき焼きだ。
豆腐や白滝などもぐつぐつ煮えていて、牛肉を卵に絡めて口に入れると、肉の甘さと卵の味が広がってガッツポーズをするくらいに美味しかった。
すき焼きを食べ終わった後、冗談で馬場がまた、例のビンゴをやろうと言い出したけど、俺がビンゴにも冗談でも乗り気じゃない表情をすると「なんだよ、つまんねぇな」と言ってあっさり身を引いた。
でも、この世界での最後の宴は楽しいものだった。
薬を使って感情を抑えていてもそれは感じる事ができた。
このまま楽しく生きていければいいのにな、と。
そして……馬場の話は風呂に入った後だった。
俺が誰もいなくなって暗くなった居間に忍ぶようにして下り、棚の中の薬箱を開けて精神安定剤の残りを確認している時だった。
もう、明日の分がない。
薬は俺以外の誰かが勝手に使っているようで、思っていたより早くなくなってしまった。
あと少し、一錠だけでも残っていれば耐えきれたというのに、薬箱の中を探しても探しても目当ての薬は見付からなかった。
そうして愕然として薬箱を抱えていると、背後で声がした。
「やっぱりその薬で辛さを抑えてたんだな」
「ば、馬場……!」
後を振り向くと、以前藤林がそうしたように真剣な顔をした馬場がいた。
しまった……てっきり馬場は風呂に入っていると思っていたのに……。
「澤村。やっぱり胃潰瘍の原因って、藤林との別れなんだよな?」
「……」
「お前が藤林の事とか調査の事を話す時の表情を見て、俺の思い込みかと思ってたけど、やっぱりそうだったんだな。
辛さをその薬で抑えてただけだったんだな」
「……」
馬場は酷いことをしたと詫びるような表情で話した。
きっと、馬場は俺が悩んでいる事に早く気付けなかった事だけ悪く思っているのではない。
俺の藤林への想いが叶ってしまうと、アースでの俺達としての聡美と俊太郎も恋人同士になると予想して言い出せなかった……だから馬場は本当に申し訳ないような表情をしているのだろう。
「……気にしなくていいよ。
俺はもう、失恋したようなもんなんだからさ」
「どういう事だ?」
「藤林は、俺に俊太郎の面影を重ねているだけなんだよ。
藤林の本当に好きな人は俺じゃなくて、俊太郎なんだよ。
この前、遊園地に行った時にわかったんだ。
藤林の心は俺にはない。俊太郎なんだ。
少なくとも俺はそう思ってる」
「……そうか」
馬場は俯いて話を聞いていたが、聞き終わると安堵とも悲哀とも取れないような複雑な表情をした。
何かを思い詰めるように黙りながら。
俺はこの事を話している間、胸がずきずきと痛んできていた。
話している内に段々と痛みの強さを増していき、張り裂けそうになるくらいにまで痛みが強くなっている。
それはきっと、今まで痛めつけられた胸の叫びだ。
今まで本当はこれほど痛み、苦しんでいたのだろう。
でも、どうしてこんなに痛んでいるだろう…
薬の効果が切れたのかな…
「せめて、告白しないか?」
やがて馬場はぼそり呟くように言った。
俺は真顔で答える。
心の叫びを語るように。
「告白して何になる? この世界に未練を残さないようにとでも言うのか?」
「……」
「それなら必要はない……もう済ませたんだ。
俺はもうこの恋を諦めるって決めたんだ。
諦めきれなくても、アースに帰ればきっと忘れられると思って堪えてる。
それに馬場……もうこの話をするのは遅いよ」
馬場は思い詰めた表情のまま、じっと黙って聞いていた。
俺は馬鹿な事をしてしまった。
俺が早く言い出さば、澤村はこれほどまでに苦しまなくても済んだかもしれないのに、と馬場は思っているのだろう。
でも馬場、仕様がない事だったんだよ。
本物の恋心ってのはこんなに強いものなんだからさ。
お前だって言ってただろう?
俺も本気で桑林が好きなんだってさ。
「馬場、もう寝よう。あんまり夜が遅くなると、明日が辛くなるからさ」
「……あぁ」
俺たちは暗い居間を出て、足取り重くギシギシと音を鳴らして階段を上った。
部屋に布団を敷いて、灯りをパチンと消す。
もう馬場と一言も話さず、すぐに布団の中に潜った。
そうだ……さっき馬場に言ったように、もう事は遅いんだ。
俺たちは早朝にはアースに帰るし、帰ったらもう二度と藤林には会わないだろう。
そう、遅いんだ、何かをするには。
無事に元の世界に帰れるかということと、薬がなくても苦しみに堪えられるかということ。
今はそれだけが心配だった。
藤林に気持ちを伝えることは、全く考えてはいなかった。
しかし、床についたものはいいものの、その夜はほとんど眠れなかった。
毛布を纏ったまま、ずっと眠れずに起きていた。
別に俺は寝付きが悪いなんて事や、冬の空気が寒いなんて事はない。
ただ目を閉じても眠れなかっただけだ。
何かの不可解な塊が頭の中で騒いでいて全く眠れなかっただけだ。
それでも俺は眠ろうと粘り、まるで熱帯夜と苦闘するように毛布を被って何時間か寝ていると、やっと眠りに入る事ができた。
しかしそれも浅い眠りだったようで、俺は夢を見る。
その夢はとても印象が強くて不思議なもので、俺は夢から覚めたこの後から何年も忘れる事はできなかった。
夢は普通、覚めた後はすぐに忘れやすい傾向があるみたいなのだが、俺ははっきりと思い出せるほど覚えてしまったのだ。
それは真っ暗な場所で誰かと話をする夢だ。
真っ暗だからその誰かの顔は見えなくて、そいつはずっと黙っている。
夢の中での俺も気が病んでいて、とにかくブルーで黙っている。
その俺はこう尋ねる。
「ねぇ、君の生きる場所はどこ?」
どうして俺は唐突にそんな質問をしたのかはわからない。
俺の気が病んでいたからかもしれないし、そういう夢だからかもしれない。
でも相手は答えなかった。
なにやら口を動かしたように見えるけど、何を言っているか全く聞き取れない。
唇の動きを読めればそれは読み取る事ができたかもしれないが、俺は読唇する力も気力もない。
俺は語りを始める。
「俺の生きる場所は、多分ここじゃない。
元々いた場所がその場所だったんだと思う……」
誰かも口を動かしているが、俺は静かに話し続ける。
「俺はこの場所で生きていたかった。
藤林と一緒に生きていたかった。
藤林を想っていたかった。
でも、藤林は━━」
『それを望んでいない』
その部分だけ、その誰かと口の動きが、声が合った気がした。
いや声は聞こえていないのだけれど、彼の心がそう叫んでいるのを聞いた気がしたのである。
「帰りたくないけど……帰ろう。
藤林がそう望むから。藤林は俺じゃなくて、俊太郎を望むから……」
呟くように、ぽろぽろと溢すように語り終えると、俺は目が覚めた。
目覚まし時計も鳴っていないのに、ふと目が覚めた。
かなり短い夢だった。
普通なら睡眠時間が少しだけなら、夢なんて見れないのに……
しばらく真っ暗な世界を彷徨った後から夢を見始めるのに……さっきはまるで夢を見る為に寝たような感覚だった。
そう、眠りに落ちるというより夢に落ちるというように……。