天才悪役令嬢
私のお嬢様、マリアンヌ・フォン・ヴァレンティア公爵令嬢は、本当に愚かでいらっしゃる。
これは、二十年近くお仕えしてきた私が、確信をもって申し上げる評価である。
念のために言っておくが、頭が悪いわけではない。
魔法学の成績は学年首席。
王国の貴族法を暗唱できるほどの記憶力を持ち、社交界の駆け引きについても、机上の理屈だけなら王宮の外交官に引けを取らない。
ただし、感情が絡むと、すべてが台無しになる。
特に、王太子殿下と平民出身の特待生、リリア・エヴァンス様が関わると。
「エレノア」
朝食後、お嬢様は私を呼んだ。
私は銀のトレイを持って、すぐにそばへ寄る。
「はい、お嬢様」
「本日の計画を確認するわ」
「承知いたしました」
お嬢様は、机の上に広げた紙を指で叩いた。
そこには、几帳面な文字で次のように記されている。
《リリア・エヴァンス排除計画・第三案》
一、中央階段にて進路を妨害する。
二、相手が動揺した隙に、身分の差を思い知らせる。
三、殿下の前で、彼女の無礼を証明する。
四、私の威厳を回復する。
私は目を閉じた。
「……お嬢様」
「何よ」
「中央階段は、昨日の雨で滑りやすくなっております」
「だから何?」
「お足元には、十分お気をつけくださいませ」
「分かっているわよ! 私は子どもではないのだから!」
お嬢様は胸を張った。
私は深く一礼した。
「失礼いたしました」
それ以上は申し上げない。
お嬢様の計画を止めるのは、私の役目ではない。
ただし、その計画が誰かを傷つけることも、許さない。
それが、私の役目である。
私は、エレノア・グレイ。
ヴァレンティア公爵家に仕える専属侍女だ。
マリアンヌお嬢様が生まれた日から、私はこの方のおそばにいる。
幼い頃のお嬢様は、泣き虫だった。
気に入らないことがあるとすぐに泣き、思い通りにならないと頬を膨らませる。
けれど、ある日のこと。
まだ私が見習い侍女だった頃、厨房の使用人が誤って高価な皿を割った。
当時の私は、身分の低い者が叱責されるのを恐れ、震えていた。
そのとき、幼いお嬢様が言った。
「その人を怒らないで。私が触って落としたことにすればいいでしょう?」
もちろん、すぐに嘘だとばれた。
お嬢様はこっぴどく叱られた。
それでも、彼女は泣きながら私に言った。
「エレノア。あなたが怖がっている顔は、嫌いよ」
「……申し訳ございません」
「謝ることじゃないわ。私が、もっと強くなるから」
私は、その言葉を覚えている。
お嬢様は、あの頃から不器用だった。
だから私は、この方をお守りすると決めた。
たとえ、お嬢様自身が自分を破滅へ導こうとしても。
※※※
中央階段は、学園の中でもっとも人目につく場所だ。
昼休みには多くの生徒が行き交い、貴族の令嬢たちが最新の流行や社交界の噂を交わしている。
そこでお嬢様が、リリア様を待ち構えていた。
私は少し離れたところに立っている。
「ご機嫌よう、リリアさん」
「マリアンヌ様。ご機嫌ようございます」
リリア様は、柔らかな栗色の髪を揺らしながら頭を下げた。
彼女は、平民出身とは思えないほど礼儀正しい。
それが、お嬢様には気に入らないらしい。
「あなた、最近ずいぶんと殿下のおそばにいるようね」
「はい。魔法理論の課題で、ご指導をいただいております」
「まあ。王太子殿下のお時間を、ずいぶんと気軽にお使いになること」
お嬢様の声は冷たい。
周囲の生徒たちが、こちらを気にし始めた。
リリア様の表情が曇る。
「申し訳ございません。ご迷惑をおかけしているのでしたら――」
「謝れば済むと?」
お嬢様が一歩近づく。
そして、扇を閉じた。
私は、さりげなく周囲を見渡した。
階段の上部。
手すりの付近。
人の流れ。
お嬢様の足元。
すべて、問題ない。
少なくとも、私が確認した範囲では。
「少し、身の程を――」
お嬢様の右足が、階段の縁に引っかかった。
「あっ」
間の抜けた声。
身体が前へ傾く。
リリア様が、反射的に手を伸ばした。
お嬢様はその手を払いのけようとしたのだろう。
だが、勢いがつきすぎていた。
「危ない!」
リリア様が、お嬢様の腕をつかむ。
二人の身体が絡み合い、そのまま階段を数段落ちた。
悲鳴が響く。
私は、すぐに駆け寄った。
「お嬢様!」
「いたたたた……!」
お嬢様は、腰を押さえていた。
一方、リリア様はお嬢様を支えた際に手のひらを擦りむいている。
「リリア様、お怪我は?」
「私は大丈夫です。それより、マリアンヌ様が……」
そこへ、王太子レオニード殿下が駆けつけた。
「リリア!」
「殿下……」
「何があった?」
リリア様が説明するより早く、お嬢様が立ち上がった。
「ち、違うわ!」
全員が振り返る。
「今のは、その……!」
私は、黙ってお嬢様を見つめた。
「……私が、リリアさんを庇おうとしたわけではないのよ!」
リリア様が目を丸くする。
「庇ってくださったのでは?」
「違うと言っているでしょう!」
殿下が、ゆっくりとお嬢様に近づいた。
「マリアンヌ」
「な、何よ」
「君は、リリアを守ろうとして自分から転んだのか?」
「だから違――」
殿下は、リリア様の擦りむいた手を見た。
そして、お嬢様の傷を確認する。
「……君は、自分が怪我をすることを承知で?」
「承知していないわよ!」
「マリアンヌ……」
殿下の目に、深い感謝が浮かんだ。
「ありがとう」
お嬢様は、しばらく黙っていた。
そして、かすれた声で言った。
「……なぜ?」
誰に向けた言葉だったのかは、分からない。
ただ、私は知っていた。
お嬢様は、今この瞬間も、悪役令嬢としての計画が崩壊したことに絶望している。
私はリリア様の手当てを指示しながら、静かに微笑んだ。
「お嬢様。お怪我がなくて、何よりでございます」
「エレノア!」
「はい」
「あなた、今、笑ったでしょう!」
「いいえ。決して」
※※※
階段の一件から三日後。
お嬢様は、再びリリア様を自室へ招いた。
招待状には、こう書かれていた。
先日の件について、話があるわ。
マリアンヌ・フォン・ヴァレンティア
私は、その文面を見た瞬間に、お嬢様の意図を理解した。
お嬢様は、リリア様を油断させるつもりだ。
そして、おそらく何かを贈る。
問題は、その中身である。
「エレノア。これを」
お嬢様が、銀色の小瓶を差し出した。
私は受け取る。
栓の隙間から、わずかに薬草の香りが漂っていた。
これは、王都の裏市場で取引される遅効性の毒薬。
少量であればすぐに症状は現れないが、体内の魔力循環に障害を起こす。
お嬢様は、本気だった。
「リリアさんの飲み物に入れるのよ」
「承知いたしました」
私は小瓶をトレイに置いた。
「では、こちらは私が管理いたします」
「ええ。あなたに任せるわ」
お嬢様は満足そうに頷いた。
その顔には、勝利を確信した者の表情が浮かんでいる。
……実に、分かりやすい。
私は部屋を出ると、すぐに小瓶を別の容器へ移した。
毒薬は、処分する。
代わりに、あらかじめ用意していた美容薬を取り出す。
王宮薬師が調合した、肌の再生と保湿に効果のある高級品だ。
ただし、私はそれを飲み物には混ぜない。
毒薬を飲み物に混ぜたという事実そのものが、後にお嬢様の罪となる可能性があるからだ。
代わりに、お嬢様がリリア様へ贈るつもりだった香油の瓶を交換する。
中身は、王都の名店が作った美容用の香油。
毒薬は、一滴も残っていない。
「エレノア」
部屋へ戻ると、お嬢様が声をかけた。
「準備はできた?」
「はい。こちらをお渡しくださいませ」
私は香油の瓶を差し出した。
リリア様が、少し驚いた表情を浮かべる。
「まあ……これは?」
「お嬢様からの贈り物でございます」
「私からではなくて、エレノアが――」
お嬢様が言いかけた。
私は、静かに頭を下げる。
「お嬢様が、リリア様のために選ばれたお品でございます」
嘘ではない。
お嬢様が毒を贈ろうとしたという事実を除けば。
「マリアンヌ様……ありがとうございます」
リリア様は、嬉しそうに微笑んだ。
「以前から、少し肌が乾燥しやすくて……」
「そ、そう」
お嬢様は視線を逸らした。
「使えばいいんじゃないかしら。あなたに合うかは知らないけれど」
「はい。大切に使わせていただきます!」
その日の夕方。
学園の噴水広場に、リリア様の姿があった。
数人の令嬢が、彼女を囲んでいる。
「リリア様、お肌がとても綺麗!」
「何を使っていらっしゃるの?」
「マリアンヌ様からいただいた香油です!」
「まあ……!」
噂は、瞬く間に広がった。
夕食後、お嬢様は自室で頭を抱えていた。
「なぜなの!?」
私は紅茶を注いだ。
「何がでしょうか」
「どうして、私の嫌がらせが全部感謝されるのよ!」
「お嬢様のご配慮が伝わったのでは?」
「私は毒を盛ろうとしたのよ!」
「まあ」
「まあ、じゃないわ!」
お嬢様は寝台の上で枕を抱えた。
「私は悪役令嬢なのよ! もっとこう……恐れられて、嫌われて、最後には断罪されるべきなのに!」
私は、カップをソーサーに置いた。
「お嬢様」
「何よ」
「そのような未来を、本当にお望みなのですか?」
お嬢様は、口を閉じた。
一瞬だけ、子どものような顔をする。
「……望んでいるわけではないわ」
小さな声だった。
「でも、そうしないと……」
私は何も言わなかった。
お嬢様には、前世の記憶がある。
この世界が、かつて彼女が遊んだ乙女ゲームの舞台であること。
そして、自分が最後に断罪される悪役令嬢であること。
彼女は、未来を変えたいのだ。
ただし、その方法が、あまりにも不器用である。
「エレノア」
「はい」
「私、そんなに愚かかしら」
私は一拍置いた。
「……お嬢様」
「正直に答えて」
「ご安心くださいませ。私が、必ずお守りいたします」
「答えになっていないわよ!」
※※※
学園では、お嬢様に対する評価が変わり始めていた。
以前は、傲慢で冷酷な悪役令嬢。
今では、素直になれない慈悲深い令嬢。
リリア様を助けるために、あえて嫌われるよう振る舞っているのではないか。
そんな噂が広がっていた。
お嬢様は、その噂を聞くたびに顔を青ざめさせた。
「誰がそんなことを言ったの!?」
「皆様、お嬢様を高く評価していらっしゃいます」
「評価しなくていいのよ!」
その一方で、学園内では別の事件が起きていた。
魔法薬研究室から、王家の秘薬に関する資料が盗まれた。
禁書庫の一部の文書が持ち出され、毒物管理台帳に不自然な書き換えが見つかった。
さらに、リリア様のもとへ匿名の脅迫状が届くようになった。
お前が王太子に近づく限り、災いは続く。
当然、疑いの目はマリアンヌお嬢様に向けられた。
「お嬢様がやったのでは?」
「以前から、リリア様に敵意を示していたもの」
「次は、本当に危害を加えるつもりかもしれない」
私は、噂を耳にしながら、ひとつの違和感を抱いていた。
お嬢様なら、もっと分かりやすい。
あの方は、悪意を隠すのが苦手なのだ。
だが、今回の事件には、妙に整った痕跡がある。
脅迫状の紙。
禁書庫の鍵。
研究室の記録。
誰かが、計画的に動いている。
そして、マリアンヌお嬢様を犯人に仕立てることで、自分の行動を隠そうとしている。
私は、夜の学園を歩いた。
人の気配がない廊下。
月明かりが差し込む窓。
その先に、魔法薬研究室がある。
鍵を調べると、わずかな金属粉が残っていた。
私はそれを小さな袋に収める。
次に、禁書庫へ向かった。
鍵穴には、細かな傷。
複製鍵を使った形跡がある。
私は、指先で傷をなぞった。
「……物理的な複製」
魔法による鍵の複製なら、魔力残滓が残る。
しかし、これは違う。
金属を加工した痕跡だ。
その技術を持つ者は、学園内では限られる。
私は、研究室の助手名簿を思い出した。
カイル・ベネット。
平民出身の研究助手。
薬品管理と鍵の整備を担当している。
彼は、リリア様の魔力を利用した研究を進めているという噂もあった。
私は、翌朝から彼の行動を調べ始めた。
ただし、お嬢様には何も伝えなかった。
お嬢様が知れば、必ず自分で乗り込む。
そして、余計なことを言う。
これは、ほぼ確実だった。
※※※
王太子殿下の誕生日舞踏会まで、あと三日。
事件は、さらに深刻になった。
リリア様が、魔法薬研究室で倒れたのだ。
原因は、魔力阻害薬の混入。
幸い、早期に治療を受けたため命に別状はなかった。
しかし、研究室の監視記録には、事件直前にマリアンヌお嬢様が出入りしていたことが残されていた。
「マリアンヌ!」
殿下が、お嬢様を呼びつけた。
「これは、どういうことだ?」
お嬢様は青ざめた。
「わ、私は……」
「君がリリアに危害を加えたのではないか?」
「違うわ!」
その言葉は、あまりにも早かった。
周囲の貴族たちが、疑いの目を向ける。
お嬢様は、唇を噛んだ。
「……私は、確かにリリアさんを追い出そうとしたわ。でも、今回のことは……」
言葉が途切れる。
私は、静かに一歩前へ出た。
「殿下。恐れながら、証拠に不審な点がございます」
「エレノアか。申してみよ」
私は、記録の写しを差し出した。
「監視記録に記載された時刻と、薬品棚が開けられた時刻が一致しておりません」
「……何?」
「お嬢様が研究室を退出された後、別の人物が薬品棚へ近づいております」
殿下が記録を確認する。
「この人物は?」
「研究助手のカイル・ベネットでございます」
周囲がざわめいた。
私は続けた。
「さらに、禁書庫の鍵穴に残されていた金属粉と、カイルの作業机にあった金属粉が一致いたしました」
「そんな……」
リリア様が口元を押さえる。
「でも、どうして私を……」
私は、彼女の問いに答えた。
「カイルは、王家の秘薬に関する資料を盗み、その情報を利用して、貴族たちから金銭を脅し取ろうとしていたのです」
「証拠はあるのか?」
殿下の声は厳しい。
私は、最後の一枚を取り出した。
「こちらは、彼の部屋から見つかった帳簿でございます。薬品の横流しと、脅迫先の記録が残されております」
カイルは、しばらく黙っていた。
やがて、震える声で言った。
「……俺は、貴族どもが嫌いだった」
彼は、研究室の管理体制を利用し、秘薬の情報を集めていた。
リリア様の高い魔力を研究対象として狙い、彼女が王太子殿下に近づいたことで、脅迫の標的にした。
「お前たちが争えば、俺はその隙に逃げられると思ったんだ……!」
殿下が、衛兵へ目を向ける。
「カイル・ベネットを拘束せよ」
兵士たちが彼を連れていく。
事件は解決した。
しかし、私は知っていた。
この事件は、お嬢様が悪役令嬢として振る舞っていたからこそ、犯人に利用されたのだ。
そして、私がその事実を見抜けたのは、お嬢様が本当に悪事を企てていたからだった。
皮肉なものである。
「マリアンヌ」
殿下が、お嬢様へ向き直る。
「君は……最初から、この事件の裏側を知っていたのか?」
「え?」
「君がリリアに敵意を向けていたことを、犯人は利用した。だが、君はそのことを見抜き、エレノアを通じて証拠を集めていたのだろう?」
お嬢様の顔が、みるみる赤くなる。
「ち、違うわ!」
「……?」
「私は何も知らなかったのよ!」
「マリアンヌ……」
殿下は、深い感動に満ちた目でお嬢様を見た。
「君は、自分の功績すら隠そうとするのか」
「違うって言ってるでしょう!」
その場にいた貴族たちは、感嘆の声を漏らした。
「なんという奥ゆかしさ……」
「自分の名誉を求めないとは……」
「本当に、世紀の天才悪役令嬢だ」
お嬢様は、両手で顔を覆った。
私は、そっと目を伏せる。
……申し訳ございません、お嬢様。
しかし、ここで真実を明かすわけにはいかないのです。
※※※
そして、舞踏会の日が来た。
王太子殿下の誕生日を祝う大広間には、王国中の貴族が集まっている。
シャンデリアの光が、磨き上げられた床に反射していた。
楽団が演奏を始める。
お嬢様は、純白のドレスをまとっていた。
銀糸の刺繍。
深い青の宝石。
整えられた髪。
誰が見ても、気品ある公爵令嬢である。
ただし、その表情は、処刑台へ向かう罪人のようだった。
「エレノア」
「はい」
「何か起きるわ」
「何か、と申しますと?」
「分からないけれど、絶対に起きるのよ!」
私は、微笑んだ。
「お嬢様は、たいへん鋭いお方でございます」
「馬鹿にしているでしょう!」
そのとき、殿下が広間の中央へ歩み出た。
楽団が演奏を止める。
「皆に、伝えたいことがある」
ざわめきが静まる。
殿下は、お嬢様の前に立った。
「マリアンヌ・フォン・ヴァレンティア」
「……はい」
「君は、これまでリリアに対して、何度も敵意を示してきた」
お嬢様の肩が跳ねる。
「しかし、君の行動の裏には、我々の知らない意図があった」
「……え?」
「君は、自ら悪役として振る舞うことで、リリアを守っていた」
「違うわ!」
即答だった。
「私は本当に嫌がらせをしていたのよ!」
会場がざわめく。
殿下は、穏やかに微笑んだ。
「君は、そう言うだろうと思っていた」
「どうしてよ!」
「君は、自分の善行を認めようとしないからだ」
「善行じゃないわ!」
お嬢様は、ついに扇を握りしめた。
「階段だって、毒だって……!」
私は、静かに息を吸った。
お嬢様。
それ以上は、いけません。
殿下は、ゆっくりと片膝をついた。
大広間に、息を呑む音が広がる。
「マリアンヌ・フォン・ヴァレンティア」
「……な、何を」
「私と結婚してほしい」
「…………は?」
「君の勇気と、君の優しさを、私は尊敬している」
「違う!」
「君がどれほど不器用に人を守ろうとしていたのか、私は見てきた」
「違うったら!」
リリア様が、涙を浮かべながら微笑む。
「マリアンヌ様。本当にありがとうございます」
「だから違うのよぉぉぉ!」
お嬢様の悲鳴が、大広間に響き渡った。
拍手が起こる。
歓声が上がる。
誰もが、お嬢様の純粋な照れ隠しだと思っていた。
私は舞台袖から、その光景を見つめていた。
そして、ふと気づく。
殿下は、お嬢様の本当の心を理解しているわけではない。
彼が理解しているのは、私が作り上げた、お嬢様の姿だ。
それでも。
お嬢様は、殿下の手を振り払わなかった。
ただ、顔を真っ赤にして、唇を震わせている。
私は、わずかに目を細めた。
……もしかすると。
私が思っているよりも、お嬢様は強いのかもしれない。
※※※
舞踏会が終わった後。
私は、静かな廊下を歩いていた。
お嬢様は殿下とともに、王宮の応接室へ向かっている。
その前に、私は一人で立ち止まった。
懐から、小さな黒い手帳を取り出す。
表紙には、こう記されている。
《マリアンヌ様・聖女化計画》
第一段階。
悪事の未遂を、善行に変換。
第二段階。
善行の積み重ねにより、周囲の信頼を獲得。
第三段階。
学園内の陰謀からお嬢様を守り、王太子殿下との関係を修復。
第四段階。
お嬢様が、二度と誰かを傷つける必要のない環境を構築。
私は、そこまで書かれた記録を見つめた。
そして、最後のページを開く。
そこには、まだ何も書かれていない。
私は、ペンを取った。
ゆっくりと、文字を綴る。
第五段階:お嬢様自身に、自分の人生を選んでいただく。
私は、筆を止めた。
その項目だけは、今までの計画とは違う。
私は、お嬢様を守ってきた。
お嬢様が悪事を働こうとするたびに、その結果を変えた。
お嬢様が誰かを傷つけようとするたびに、先回りして防いだ。
お嬢様が破滅しないように、未来を整えた。
それは、私の忠誠だった。
けれど、私は一度も、お嬢様に尋ねたことがない。
「お嬢様は、どのような人生をお望みですか」と。
私は手帳を閉じた。
そのとき、背後から声がした。
「エレノア」
振り返ると、お嬢様が立っていた。
「お嬢様。殿下とのお話はお済みで?」
「そんなことはどうでもいいわ!」
お嬢様は、ずかずかと近づいてきた。
「あなた、何か隠しているでしょう」
私は、微笑んだ。
「何のことでございましょう」
「私の計画が失敗するたびに、あなたは何か知っている顔をしているのよ!」
「まあ」
「その『まあ』が怪しいの!」
お嬢様は、私の手帳を指さした。
「それ、見せなさい!」
「こちらは、侍女の業務記録でございます」
「絶対に違うわ!」
お嬢様が手を伸ばす。
私は、ほんの少しだけ手帳を高く掲げた。
お嬢様は背伸びをした。
届かない。
「エレノア!」
「はい」
「私は、あなたの主人よ!」
「存じております」
「なら、渡しなさい!」
私は、お嬢様を見つめた。
そして、静かに頭を下げる。
「お嬢様」
「何よ」
「今世も、完璧に『聖女』としてお守りいたしましたよ」
お嬢様の顔が、引きつった。
「……今世も?」
しまった。
私は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
しかし、お嬢様はそこまで見逃さなかった。
「エレノア」
「はい」
「今、何て言ったの?」
私は、いつもの微笑みを浮かべた。
「お嬢様。明日の授業のご準備をなさらなければ」
「話を逸らさないで!」
お嬢様の声が廊下に響く。
私は歩き出した。
その背後から、足音が追いかけてくる。
「エレノア! 待ちなさい!」
私は、静かに微笑んだ。
お嬢様は、愚かでいらっしゃる。
本当に、どうしようもないほどに。
けれど。
私は、その愚かさを、誰よりも愛している。
だからこそ。
いつか、お嬢様が自分の足で歩く日まで。
私は、この方のそばにいる。
たとえその未来で、私が必要とされなくなったとしても。
――それが、私の忠誠なのだから。




