婚約破棄は承りました。つきましては、殿下が横領された国費の返済計画についてお話ししましょう
王宮のシャンデリアが眩く輝く、建国記念の夜会。数百人の貴族たちが集う大広間の中心で、第一王子であるユリウス殿下は、私の顔を指差して高らかに宣言した。
「エレノア・アークライト! 貴様のような嫉妬深く陰湿な女は、未来の王妃にふさわしくない! 今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
音楽が止まり、広間は水を打ったように静まり返った。殿下の腕の中には、桃色のふわふわとしたドレスに身を包んだ、愛らしい顔立ちの男爵令嬢、ミア・フローラの姿がある。彼女は怯えた小動物のように殿下の胸にすがりつき、しかしその口元には微かな優越感の笑みが浮かんでいた。
「……理由をお聞かせ願えますか?」
私が扇を閉じ、一切の動揺を見せずに尋ねると、殿下は待っていましたとばかりに声を張り上げた。
「白々しい! 貴様は私の愛するミアに対し、数々の嫌がらせを行っただろう! 彼女のドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとし、さらには彼女の私物を盗み出した! このような卑劣な公爵令嬢を、私は決して許さん!」
周囲の貴族たちがざわめき始める。公爵令嬢である私が、よもや身分が格下の男爵令嬢にそのような下品な真似をするはずがない。大半の者はそう思いつつも、王太子の勢いに口を閉ざしていた。
「なるほど。私がそのような真似を」
「言い逃れはさせんぞ! すでに証拠も証人も揃っている!」
「結構です」私が短く答えると、殿下は拍子抜けしたように目を瞬かせた。泣いて縋り付くか、怒り狂って否定すると思っていたのだろう。
「殿下からの婚約破棄、確かに承りました。王家からの正式な書状は、明日アークライト公爵家にてお受けいたします」
あっさりと引き下がった私を見て、ミア男爵令嬢が「えっ」と間の抜けた声を漏らした。私は小さく息を吐き、姿勢を正す。
「さて、私と殿下の個人的な婚約関係はこれで終了いたしました。……つきましては、次期王妃としての最後の『公務』を終わらせてしまいたいと思います。よろしいですね?」
「こ、公務だと? 貴様はもう私の婚約者ではない!」
「ええ。ですから、この国の『一人の納税者』として、そして財務卿の補佐役としてお尋ねいたします」
私はパチンと指を鳴らした。それを合図に、控えていた私付きの執事が、車輪のついたワゴンを恭しく運んでくる。その上には、山のように積まれた分厚い帳簿と書類の束が乗っていた。殿下の顔が、サッと青ざめる。
「な、なんだそれは……」
「殿下がこの一年間で決裁された、王家直轄領の予算執行記録ならびに、各省庁への支援金申請書の写しです」私は一番上にある赤い表紙のファイルを開いた。
「殿下。今月、南部の治水工事のために計上されていた特別予算、金貨三千枚。これがなぜか王都の高級ブティック『ル・シエル』への支払いに回されているのは、どのような魔術の類でしょうか?」
「っ!?」
「あちらの令嬢がお召しになっている桃色のドレス。ル・シエルが誇る東の国の最高級絹ですね。治水工事の遅れにより、南部の領民は現在も泥水に怯えていますが、そのドレスはさぞ着心地が良いことでしょう」
広間の空気が、一瞬にして凍りついた。貴族たちの視線が、一斉にミア男爵令嬢のドレスへと突き刺さる。彼女は顔を真っ赤にして、殿下の背中に隠れようとした。
「さらに」私はファイルをめくる手を止めない。「先月、王都の孤児院への越冬支援金として下ろされた金貨千五百枚。こちらは、王家御用達の宝石商の帳簿と見事に数字が一致いたしました。ミア嬢の首元で輝いている、その大粒のピンクサファイアのネックレスの代金と、一桁の狂いもなく」
「き、貴様っ……! どこでその帳簿を!」
「どこで、ではありません。私は次期王妃として、あなたが滞納し、放置し、隠蔽しようとしていた執務をすべて代行して処理していたのですよ。数字は嘘をつきません。殿下のお使い込みは、すでに国庫に深刻な打撃を与えています」
私はファイルを閉じ、冷たく言い放った。
「私がミア嬢の私物を盗んだ? いいえ。私が追跡していたのは、彼女の装飾品に化けた『国民の血税』です。……横領および国費の私的流用。殿下、この返済計画について、明確なご説明をいただけますね?」
殿下は口をパクパクとさせているだけで、声を出せない。すると、広間の奥から、静かで、しかし絶対的な威厳を持った声が響いた。
「見事な監査だ、エレノア嬢。そして……嘆かわしいことだ、ユリウスよ」貴族たちが海が割れるように道を開ける。そこに立っていたのは、現国王陛下と、その後ろに控える冷徹な美貌を持つ若き財務卿、クロード・ヴァレンタイン公爵だった。
国王陛下は深い溜息をつき、騎士たちに顎でしゃくった。「ユリウスから王太子の身分を剥奪し、離宮へ幽閉せよ。その男爵令嬢も共犯として捕らえ、徹底的に調査しろ。……エレノア嬢の提出したこの監査報告書に、偽りはなかったということだ」
「父上! お待ちください、これは何かの間違いで……!」
「見苦しいぞ! 己の不始末を婚約者になすりつけ、あまつさえ国費を愛人に貢ぐとは。我が王家の恥晒しめ!」
悲鳴を上げるミア嬢と、抗議を叫ぶユリウス殿下が騎士たちに引きずられていく。私はその背中を、ただ静かに見送った。
* * *
それから一ヶ月後。王都の喧騒から離れたアークライト公爵家の温室で、私はのんびりと紅茶を楽しんでいた。元婚約者の横領を暴いたことで、私への同情と称賛の声は高まったが、王太子を廃嫡に追い込んだ令嬢を妻に迎えようとする命知らずな家は少なく、私は久しぶりの自由な時間を謳歌していたのだ。
「優雅な午後をお過ごしのようですね、エレノア嬢」
ふいに声をかけられ振り返ると、そこには黒い軍服風の執務服を身に纏った財務卿、クロード公爵が立っていた。銀色の髪と氷のような青い瞳を持つ彼は、若くして国の財政を握る切れ者だ。
「クロード閣下。本日はどのようなご用件でしょうか。まさか、まだ帳簿の不備が見つかりましたか?」
「いえ、仕事の話ではありません」彼は私の向かいの席に座ると、なぜか少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らした。「……私は、あなたの提出したあの完璧な監査報告書を見た時、震えが止まりませんでした」
「それは、殿下の使い込みの額に、ですか?」
「違います。あなたの、その一切の隙もない美しい計算式と、国を思う誠実さにです」クロード公爵は、真っ直ぐに私を見つめた。氷のように冷たいと言われていた彼の瞳が、今は熱を帯びているように見える。
「私はずっと、あなたの仕事ぶりを見てきました。次期王妃という重圧の中で、愚かな王太子の尻拭いをし、文句一つ言わずに国の財政を支えていたあなたの姿を。……私は、あなたをずっと尊敬し、そして、惹かれていました」
思いがけない言葉に、私は息を呑んだ。
王宮の片隅で、ただ黙々と書類の山と格闘していた私を、彼は見ていてくれたのだ。
「元婚約者の使い込みを暴くような可愛げのない女ですよ、私は」
「私にとっては、その聡明さこそが何よりも愛おしい。エレノア嬢、いや、エレノア。……私と共に、この国を、そして私の人生を支えてはくれませんか?」差し出された彼の手は、仕事柄インクの染みが少し残っていた。
それがなぜか、とても不器用で誠実なものに思えて、私は自然と笑みをこぼした。「国庫の管理だけでなく、あなたの管理もすることになりそうですね」
「……喜んで、すべてをあなたに委ねます」
私はそっと、彼の手を握り返した。愚かな元婚約者が残した借金の計算はもう終わった。これからは、彼と共に築く未来の計算を始めようと思う。
(了)




