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墨乙女

作者: 神矢幻太
掲載日:2025/10/26

 彼女は、墨乙女すみおとめと呼ばれるために生きてきた。 その身の内には、神代から受け継がれてきた、意思を持つと言われる生きた墨が眠っている。彼女の役割はただ一つ。その身を聖なる和紙の代わりに差し出し、当代随一と謳われる書家しょかに、神託の書を完成させることだった。


 しんと静まり返った神殿の広間。彼女は中央に敷かれた純白の絹布の上に、静かに横たわっていた。その四方には、神託を読み解く賢者たちが座し、これから彼女の身に起こる奇跡を、一瞬たりとも見逃すまいと目を凝らしている。彼らの関心は、彼女の苦痛ではなく、彼女の肌に浮かび上がる神の言葉のみだ。


 やがて、書家が音もなく現れる。彼は彼女の傍らに座すと、道具を広げ始めた。その所作には一点の無駄もなく、感情の揺らぎも感じられない。彼にとって彼女は、崇高な芸術を完成させるための、最高の媒体キャンバスに過ぎなかった。


 書家は、狼の毛で作られたという長大な筆を手に取ると、それをすずりの墨ではなく、彼女の眉間にそっと置いた。


 それが、儀式の始まりだった。


 筆先が触れた一点から、内なる墨が呼び覚まされる。冷たい針で刺されたような鋭い疼きが走り、彼女の体がびくりと跳ねた。だが、その疼きはすぐに、体の芯をじわりと溶かすような微熱へと変わっていく。


 書家の筆が、最初の一画を走らせた。額からこめかみへ、ゆっくりと、しかし力強く引かれる線。それは、彼女の内に眠っていた熱の川を掘り起こすかのようだった。筆が通った跡には、黒曜石のような艶を持つ文字が、ぼうっと淡い光を放ちながら浮かび上がる。


「——『山』。神託は試練を示すか」 賢者の一人が、乾いた声で呟いた。彼らはその文字の意味を解釈し、書記に記録させている。彼女が漏らすか細い吐息など、彼らの耳には届いていない。


 書家の筆は止まらない。次は彼女の首筋から鎖骨へ、流れるような曲線を描く。先ほどの重い熱とは違う、肌の上を無数の羽で撫でられるような、くすぐったくも甘美な感覚が彼女を襲う。身をよじりたい衝動に駆られるが、動くことは許されない。内なる墨は歓喜の声をあげ、彼女の理性を少しずつ侵食していく。浮かび上がった『川』の文字は、先の文字よりも強く、妖しい光を放っていた。


「山に続き、川…越えるべき障害か」 賢者たちは、あくまで神託の解読に没頭している。


 書家の動きは、次第に大胆になっていく。胸の中央に力強い点を打ち、そこから腹部へと、嵐のような筆致で一気に線を走らせる。点と、線。抑圧と、解放。与えられる感覚はもはや快感なのか苦痛なのか、彼女自身にもわからなくなっていた。ただ、内なる墨が求めるままに、その身を委ねるしかない。肌に浮かび上がる文字の光は、広間の蝋燭の明かりを凌駕するほどに輝きを増し、彼女の全身は汗で濡れていた。


「『火』だ!なんと、荒々しい…!」 賢者たちの声が、初めて興奮に上ずる。


 書家は、芸術の極致に達した者の狂気を瞳に宿していた。彼はもはや、彼女という人間を見ていない。ただ、そこに完璧な余白を見出し、至高の線を描くことだけに没頭していた。彼は最後の文字を完成させるため、彼女の肢体に筆を走らせる。それは、これまでで最も複雑で、最も力強い一筆だった。


 彼女の内に眠っていた墨のすべてが、その最後の一筆に呼応して、一斉に覚醒する。


 全身に浮かび上がった神託の文字すべてが、内側から弾けるように、真昼の太陽のごとき閃光を放った。


 彼女の意識は、光の奔流と、墨が持つ神の記憶の洪水に飲み込まれた。世界の始まりと終わりを見た気がした。思考は蒸発し、存在そのものが、ただの純粋な感覚の塊と化す。それは、個という牢獄からの、完全な解放だった。


 やがて、光はゆっくりと収束していく。 嵐が過ぎ去った後のように、広間には再び静寂が戻った。


 絹布の上に横たわる彼女の肌には、一つの長大な神託の書が、見事な書体で刻まれていた。しかし、先ほどまでの神々しい光は消え、それはただの黒い文様——刺青いれずみにしか見えなかった。


 彼女は、虚ろな目で宙を見つめていた。指一本動かす気力も残っていない。魂をすべて吸い出され、美しい文字が書かれただけの、一枚の和紙になった気分だった。


 賢者たちは、彼女の身体に浮かぶ文字を熱心に書き写し、その解釈について議論を交わし始めている。 書家は、汗を拭うと、自らが完成させた『作品』を満足げに見下ろした。そして、まるで価値のなくなった道具を片付けるように、静かに筆を置いた。


 誰一人として、彼女に感謝の言葉をかける者はいなかった。 神託は得られ、芸術は完成した。墨乙女の役割は、ただ静かに終わったのだ。

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