99話
あの日──
楽団の奏でる優雅な旋律が会場を満たし、天井のシャンデリアが星空のように反射していたのを覚えている。
主催者である公爵家の舞踏会は、婚約者を伴って初めての参加だった。
その中心で、私はただ彼を見つめていた。
跪いた子爵家の令息──私の婚約者が、深紅のベルベットのケースを両手で捧げ持ち、ゆっくりと蓋を開く。
中には、銀細工で繊細に作られた花冠を模した腕輪。
幼い頃から憧れていた、聖王が聖王妃に贈ったと伝わる伝説の意匠を模したもの。
聖王国では、婚約の誓いで女の子に贈られると幸せになれるといわれている。
胸が熱くなる。
この瞬間を、どれほど夢見てきたことか。
彼からのそれを、そっと手に取ろうとした時。
微かな声が、彼の喉から漏れた。
彼の視線が私を通り抜け、遠くのどこかへ向けられる。
そして──
腕輪が、空へ跳ねた。
ベルベットのケースごと、彼の手から放り投げられたのだと気づいたのは、ほんの数拍遅れてからだった。
銀の輪が、シャンデリアの光を反射しながら空中で回転している。
舞踏会のざわめきが遠のいた。
私はただ、茫然とその軌跡を目で追うしかなかった。
腕輪は、まるで重力を忘れたかのようにゆっくりと、銀の花弁が光を散らしながら宙を漂う。
どうして。
なんで。
彼は私を見ていなかった。
誰かに名を呼ばれたのか、私の前から駆け出していく。
残されたのは、空中で回転し続ける腕輪と、その光を呆然と見つめる私だけ。
幼い頃からの夢。
それがこんなにも無造作に、こんなにも軽々しく投げ捨てられた。
そして──
カラン。
磨き上げられた大理石に銀が跳ね、
カラ……ン。
二度目の跳ね返りが、妙に長く響いた。
「ヴェルディ!」
幼馴染のヘンデとリュートが慌てて駆け寄ってくるのが見えた。
「何てことを!」
「あいつ、何を考えてるんだ!」
私を心配そうに気遣いながら、二人は鋭い視線を向ける。その先には、招かれざる客の件の王女殿下とその護衛。
そして、この日のために、休暇をわざわざ申請し、ヴェルディをエスコートしていたネッドがいた。
床に無残に転がる花冠の腕輪を一瞥し、
「わたくし、今日はもう失礼しますわね」
二人に優雅に微笑む。
そして自分の両親の姿を、さり気なく探した。
参加者全員が、この騒ぎの元凶である王女たちを冷たい目線で見つめてる。
その中で、父親が子爵家当主に向かって歩いていくのが視界の端に映った。
この婚約は。
彼の有責で破棄されるだろう──。
「送る」
有無を言わさず、ヘンデがエスコートをしてくれる。
「こっちは任せろ」
リュートは私の姿を隠すように庇いながら、扉付近までそばについていてくれた。
「こめんなさいね。ヘンデの家の舞踏会でこんな騒ぎを起こしてしまって」
「ヴェルディは全く悪くないだろう」
「でも」
「ネッドから、ヴェルディに正式に結婚を申し込みたいって相談を受けていたんだ。だからこそ、あの場を許した。それを……!!」
「そうだったのね」
「ヴェルディは聖女様がお戻りになるまで、ずっと聖女様の代わりを務めるため神殿にいただろう?魔王が討伐され聖女様が無事に戻り、ヴェルディが還俗できると知った時。あいつは周りが止める間もなく、すぐさま婚約の申し込みに行った。その熱意を俺たちも知っていたから。だから……!!」
「そうね……」
魔王討伐で国中が喜びに溢れる中、場違いにも婚約の申し込みをしにきたネッドを思い出す。
「それがこの様だ」
ヘンデが吐き捨てるようにネッドに対する怒りを口にする。
「王女様は今日いらっしゃる予定だったの?」
私の疑問に、
「いや。招待するわけないだろう。勝手に押し入って、倒れそうになって。更に大声でネッドの名前を叫ぶとは」
怒りが収まりきらないようだった。
そう。あの時──
入り口に佇んでいた王女殿下と護衛騎士たちは、王権を振りかざし、公爵家の使用人に無理を言って会場内に足を踏み入れたまでは良かった。
そして。
転んだのだ。
王女殿下が。
転んで叫んだ。一声──
「ネッド!助けて!」
その声に、私の婚約者は何もかも捨てて、駆けつけていったのだ。
床にベタリと座り込んでいた王女の姿は、家臣としてはかなり憚れるも⋯⋯
「滑稽だったわね」
私の小さな呟きに、珍しくヘンデが口を開けて笑った。
「だが。これだけでは終わらせない」
その真剣な声に思わず、エスコートをしている幼馴染を見上げる。
「突然現れた王の血を引く娘だけならいざ知らず、自ら聖女だと言って憚らない」
「……」
「王女云々は正直そっちはどうでもいい」
「そうね。でも聖女はあり得ない。絶対に」
私の固い言葉にヘンデは何かを企むように肩眉を上げる。
「俺はヴェルディを信じてる」
馬車留まりで自身の家の馬車を待つ間、掴むヘンデの腕に力が籠った。
「俺たちの大切な幼馴染のヴェルディを」
「ヘンデ」
「だからこそ。必ず件の王女殿下にはそれ相応に、思い知ってもらうことにする」
「⋯⋯何をするつもり?」
「言っておくが。リュートも同じ気持ちだと思うぞ」
「兄弟揃って……」
少しだけ目尻を下げて困った顔をすると、私の頬をそっと撫でた。
「ネッドに未練はあるか?」
驚いて少しだけ息を止めてしまった。
「私が?ネッドに?」
「そうだ。俺たちは4人いつも一緒だった。でもお前が……あんなでもネッドが一番だと言うのなら……」
「あり得ないわ。昔ならともかく」
「昔?」
幼い頃。聖王と聖王妃の花冠に憧れていた頃。
ネッドが顔を真っ赤にしながら、いつか必ず贈ると約束してくれた。
その約束を覚えてくれていたのだと、嬉しかったから。
でも──
「見事に裏切ってくれた男なんていらないわ」
私の華やかな笑顔に、ヘンデは本当に嬉しそうに破顔した。




