98話
魔族の集落で起きた誘拐事件は、スタンピードを越えてようやく戻りかけていた温かな気配を静かに呑み込み、明るさの裏側に深い影と重苦しい不安を落としていった。
「戸籍を作ろう」
私の提案に、シオルを始めララベルもゲオルグもその場にいた全員が、初めて聞く単語に戸惑っていた。
「ナギ、コセキとは?」
「家族の記録だよ。誰がどの家に生まれ、誰と家族で、どこに住んでいるかを記録する仕組みのこと」
まだピンときていない様子だったので、
「私の世界で使われていた制度なんだけどね。国が“家族のつながり”を記録しておく仕組みで、これがあると相続や家の継承で争いが起きにくくなるし――」
少し間を置いてから、続ける。
「行方不明になった者の身元も、辿りやすくなる」
行方不明。
その言葉に、場の空気がわずかに張り詰めた。
「魔族にあてはめるなら『血統』や『家系』の証明に使えるよね」
「確かに」
「それから、個人識別用のカードを全員が所持するようにしよう」
「カード?ギルドカードのようなものか?」
「そうそう。身分証明カードがないと関所を出入りできないように制限する。外部者の出入り管理ができるから、今回みたいな誘拐犯や・密入国者の防止になるかもしれない」
「なるほど……」
全員がそれぞれの立場で考え始めたので、私はその様子を見回してから言った。
「今回の事件をきっかけに、制度として整えることを検討してほしいんだ」
私の言葉に、ララベルとゲオルグが静かに頷いていた。
「……確かに、血統や家系を記録というのは今までありませんでした」
ゲオルグが腕を組みながら呟く。
「そもそも、それを“記録する仕組み”がなかったのと、魔族は長寿故必要としておりませんでした」
「やっぱり」
私は頷いた。
「だから今は、“誰がどこの家の者なのか”を知っているのは、本当に血が繋がっている家族だけになってるよね?」
「つまり、その者たちがいなくなれば――」
「正しい血統が分からなくなる」
私の言葉に、何人かが顔をしかめた。
それがどれほど危うい状態なのか、想像できたのだろう。
「戸籍があれば、それを公に管理できる」
私はテーブルの上に指で簡単な図を描きながら説明する。
「家ごとに記録を作って、そこに生まれた者を追加していく。結婚すれば新しい家に移るし、亡くなれば記録される。そうやって“誰が誰の家族なのか”をずっと残していく感じなの」
「……なるほど」
ララベルが小さく息を吐いた。
「それなら、行方不明者についても精査できますね」
「そう。それに――、身分証明カードとこの戸籍を紐づける」
「カードにか?」
シオルが少し考えてから言う。
「うん。そのカードに、名前と家、それから何でもいいけど戸籍番号のような数字化した識別番号を記録する」
「戸籍番号?」
「戸籍の記録と個人を結びつける番号。カードを見れば、その人がどの家に属しているかすぐ分かるようにね」
ゲオルグが腕を組んだまま唸る。
「それは制度化できれば素晴らしいですね」
「貴族社会では貴族年鑑がありますが……。一つの集落に反映させる……社会の仕組みそのものを変えますね」
ララベルも頷いた。
「“記録するテストケース”の制度化――ナギの提案を基に、進めても良いのではないか?」
シオルの言葉に、全員の視線が集まる。
「戸籍の整備。身分証明カードの発行」
静かだが、はっきりした声だった。
「民を守るための制度だな」
シオルの目が優しく私を見つめていた。
――この日を境に、社会は静かに形を変え始めることになる。
◇◇◇
ゲオルグとララベルたちが制度化に多忙を極めている頃、ウェブスターより進捗状況の報告があった。
リュミエルは件の侯爵家にリアノーラの伝手を使って、上手く別家からの紹介状を得てメイドとして入り込めたらしい。
トリアとバルトは年の離れた兄妹という設定で上手く国外へ向かっているとの事。
ロウランとイグナは何故か隣国の剣闘大会にエントリーしたらしい。
「え。エントリー?どうして?」
純粋に疑問に思って尋ねた私に、頭を抱えた主従が沈黙で答えていた。
問題は聖王国だった。
「マーニャとフェリアによりますと、聖女が、少なくとも半年以上――市政に姿を現していないと」
聖女エリシアは普段大神殿におり、定期的に各神殿を廻りながら、その神聖力で人々を癒していたのだが。
そのエリシアの姿を暫く見ていないと言う。
「そしてもう一つ。自らを聖女と名乗る少女が一年前に現れ、それが王の隠し子だったと王宮に保護されているようです」
「は?」
思わず素で変な声が出てしまった。
「確か教典では、聖女が二人現れるわけなかったと思うんだけど……」
「左様でございますね。前例はございません」
「え~~?その聖女を名乗る王女さま、怪しくない?」
「はい。そこでマーニャが王宮に、フェリアが大神殿に潜り込んで探っている所でございます」
何だか完全にきな臭い状況に、思いっきり眉間に皺が寄ってしまった。
「こちらが落ち着いたら、聖王国に行ったほうが良さそうだな」
シオルが静かに告げ、そのままウェブスターに指示を出していた。
村長の家で、聖王国でのエリシアの情報をレオンハルト達に伝えたところ、三人とも『あり得ない』とそれぞれの表情を浮かべた。
「あのエリシアが」
「半年以上も姿を見せていねえだと?」
「それは絶対におかしいですね」
「だよねえ」
私も思わず頷く。
聖女エリシア――。
彼女を知っている者ならば絶対に何かあったのでは?と思うぐらいにはおかしい。
もし、彼女を一言で表すなら『猪突猛進』。
さらに、もう一つ加えるなら『有言実行』。
聖女らしからぬその性格で、聖王国の台風の目と言われていた女傑なのだ。
そのエリシアが外に出られない何かが起こった――。
「だからね、あっちに行こうと思ってるの。何もなければそれで良いし」
私の言葉に、
「そうですね、であれば私が村に残りましょう」
ゼノスが言葉を返しつつ、手元のお茶を飲む。
「……村の皆さんに『枯れない花』の魔法を教えなくてはいけませんからね」
「ああ。そっか」
「じゃあ俺とドルガンで行ってくるか」
「そうだな」
「私とシオルも行くよ?」
「お前たちも?村を離れていいのか?」
レオンハルトが心配そうに聞いてきた。
誘拐事件の事があってから、こっちも村もピリピリしているのだ。
「問題ないだろう。騎士たちが気を張っている今が逆に行くチャンスかもしれない。それに聖王国内であれば、転移で行く。何かあればすぐに戻れる」
シオルの一言で聖王国行きが決定した。




