86話
「⋯⋯?」
シオルが目覚めた時、腕の中に閉じ込めていたはずの愛しい人の温もりがなかった。
「!!」
反射的に腕を伸ばすが、指先が触れたのは、ヒヤリとしたシーツだけ。
ナギがいない――
胸の奥が、一瞬で冷えた。
上体を起こし、視線を慌ただしく巡らせる。
部屋の中に人の姿はなく、代わりに、サイドテーブルに果物や飲み物など簡単な軽食が用意されていた。
「ナギ?!」
名を呼びながら、ベッドの縁に腰を下ろす。
すぐに立ち上がろうと足に力を込めた、その時――
「失礼いたします、ご主人様」
扉が静かに開き、ウェブスターとロウランが部屋へと入ってきた。
「ナギはどこだ?ナギがいないっ」
二人に尋ねながら、頼る相手を探す幼子のように、視線が揺れているシオルに、ウェブスターは少しだけ驚きつつ。
「奥様よりご伝言です」
「……伝言?」
ウェブスターは、後ろに立つロウランの方へ左手で指し示しながら、ゆっくりと案内した。
「こちらをお召し頂き、中央の泉へ来て頂きたい、とのことでした」
一揃いの衣装を持って、ニコニコとロウランが微笑んでいる。
「中央の泉?ナギはそこにいるのか?」
「はい。奥様もご用意が整い次第、いらっしゃいます」
「分かった」
「では、ロウラン。ご主人様の支度をお願いします。私は向かいますので」
「はい!承知しました」
「?ウェブスターはどこかに行くのか?」
「私も準備がありまして。また後程ご一緒させて頂きます」
「そうか」
「では、ご主人様。お召替えいたしましょう!」
ロウランが持ってきた衣装に着替えると、シオルは一度地下室へ向かった。
そこには願いを込めて作り上げた、雪の結晶を閉じ込めたような、純白の魔石で作られた結婚指輪が、精巧な文様が掘られたケースに納められていた。
さきほど目覚めた時の光景が、脳裏をよぎる――
こんなことが起きた時にすぐに飛んでいけるよう、魔術を刻んだ指輪。
早く渡したい。
渡して、ナギにはめてもらって。
もう一瞬たりとも離れなくてすむように。
シオルが指輪の収められた箱を握り締めていると、背後に控えていたロウランから声をかけられた。
「ご主人様、この後、奥様との予定がございますので、一旦そちらは預かります」
「ロウラン?」
「しかるべきタイミングでお渡しいたしますので」
「……そうか。分かった」
ロウランに導かれるように、階段を上り、オークの扉を開くと……。
根本のアーチの中心にある泉に向かって、見たことのない世界が広がっていた。
左右の壁から弧を描く白を基調としたアーチが次々と伸び、天井を柔らかく支えるように重なり合っている。
泉の側に聳え立つ巨大な透き通った巨石から、色鮮やかなランタンの光が溢れ出て、柔らかな光が部屋中に降り注ぎ、泉から弾ける無数のしずくが、光を浴びて踊り続けていた。
泉の前、数段高く設えられた場所には、真っ白な祭壇を思わせる壇がある。
足元から青い絨毯がその壇へ向かって真っ直ぐに伸び、両脇には白いベンチが備え付けられ、色とりどりの可愛らしい花々が溢れるように飾られていて。
壇の後ろには、司祭のような服装をしたウェブスターが静かに立ち、巨石からの光を浴びて、目を細めながらこちらを見つめていた。
「ウェブスター?」
「ご主人様、どうぞこちらへおいで下さい」
ウェブスターの声に応えるように、辺りを見渡しながら白い祭壇の前に進むシオル。
すると、閉まっていた扉がまた開いた。
その音に誘われるように、ゆっくり振り返る――
シオルは、最初は全体しか見ていなかった。
ナギがいる。
あの部屋にこもってから片時も離さなかったナギが。
真っ白い、どこもかしこも真っ白なドレス。
左手で自分が贈ったアエテルナリスの花束を持ち、右手は隣のマーニャの手に添えられていた。
そして闇の光を閉じ込めたような黒髪がふわりと巻かれ、自分が編んだ花冠がそっと咲くように飾られている。
見たことのない、とても神聖な美しさに包まれたナギがそこにいた。
瞬きすら忘れて、シオルのその青い目が、更にゆっくりと見開かれていく。
一歩一歩、静かに微笑んだナギが近づいて来る。
胸元は純白の繊細なレースでふんだんに覆われ、肩を覆うレースは薄く、肌と布の境界を曖昧にしていた。
裾へ落ちていく線はまっすぐで、歩くたび、ナギの身体に沿うように布が揺れる。
ナギの足の動きにあわせ、後ろに伸びるレースが床をなぞる音がする。
シオルはナギから目が離せなかった。
ナギが歩み寄るたびに、その荘厳な美しさに周囲の景色が霞んでいく。
「ご主人様、どうぞ」
マーニャがナギの手を、そっとシオルに向かって差し出した。
分からなかった。
シオルにとってこの世界で分からないことは殆どない。
それだけの時間を生きてきた。
けれど。
――これは知らない。
そして、この状況に、自分がひどく緊張している事に気が付いた。
これは失敗したら、
……失敗したら、どうなる?
ゆっくりと差し出されたナギの指先を握る。
これで合ってるのだろうか?
ナギを見つめたまま動けないシオルに、ウェブスターが一つ咳払いをした。
「それではこれより、二人が夫婦となるための誓いを、始めます」
誓い?
「新婦ナギ・メグロ。
あなたは新郎シオル・エン=オルディムを夫とし、
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、
その命ある限り、互いを愛し、敬い、
二人で寄り添い続ける未来を選び
共に永く、生きていくことを誓いますか」
「……はい。誓います」
ナギは長いまつ毛の瞳をやや伏せて、シオルに右手を添えたまま、その口元に微笑みを浮かべしっかりと答えた。
その言葉の意味を、重さを感じた時、シオルは胸が痛くなった。
「では、新郎シオル・エン=オルディム。
あなたは新婦ナギ・メグロを妻とし………」
その痛みを抱えたまま、ウェブスターの言葉が低く響く。
「……二人で寄り添い続ける未来を選び
共に永く、生きていくことを誓いますか?」
「誓います……」
これで合ってるのか、本当に分からない。
けれどナギがこちらを見て微笑んでくれた。
だからきっと――
「では、続いて指輪の交換です」
交換?
視界の端にロウランが指輪の入ったケースを持って、こちらに歩いてくるのが見えた。
『しかるべきタイミングでお渡しいたしますので』
ここで初めてシオルは自分だけが、この状況を知らなかったことに思い至る。
少しだけ動揺して、目の前のことを把握するのに遅れてしまった。
ふと気づけば、ナギがゆっくりと、自分の左手の薬指に大きい指輪をはめていた。
「…っ」
こちらを見上げるナギ。
その黒曜石のような輝く瞳が、自分だけを映すように向けられている。
そこにあるのは、すべてを委ねられるほどの信頼と愛情を宿した眼差し。
シオルは深く息を吸うと――
「……ナギ」
ナギの左手を握りながら、ケースに残っている指輪を大切に摘まむ。
「……私は今まで、魂になっても側に居ると誓ってきた。……その言葉に嘘はない」
この生、シオル・エン=オルディムという生涯を過ごすことを、自分はとうの昔に諦めていた。
創造主は必ず自分を消しにくる。
だからこの身体を失っても、魂になっても側にいる、そう思い続けてきた。
「だが」
彼女の手を握っている自分の手に、ポタポタと雫が落ちた。
ナギの目が見開かれる。
その水滴が自分から押し出されたものだと気づくまで、一瞬かかった。
「死ねない……」
ナギの華奢な指にそっと指輪を通す。
自分は知ってしまった。
ナギの温もりを。
この身体はもう、絶対に手放せない。あの記憶も、感触も、この身体で感じたこと全てを。
深く刻み込まれた全てを――
シオルという生を捨てることはできない。
「……手放せない」
自分が作った指輪が輝く彼女の左手を、両手で固く握りしめる。
まるで閉じ込めるように。
「ナギ、一緒に生きてほしい。……これから先、どれほどの時が流れるとしても」
目の前のナギが、涙で滲んでぼやけてしまう。
「共に時間を紡ぎ続けて欲しい。私と」
懇願するように、ナギの手を捧げ持つ。
包み込んでいたナギの手が、自分の両手の中で握りこまれた気がした。
「ナギと生きたい。この生を絶対に諦めないから。どうか」
「シオル」
呼ばれた先で見たナギは、表現できないほど……とても美しく微笑んでいた。
「ずっと待ってたの」
ナギが一歩近づいて――
「プロポーズ」
「ナギ……」
自分の手を固く握ったまま。
「泣きたくなるくらい、嬉しいよ。……一緒に生きよう?」
目を伏せたナギが、背伸びをして、涙で濡れた唇に優しく口づけていた。




