69話
紫色の巨躰がうねり、酸の滴が地面を焼く。
「……あれは、生き物なのか?」
ティモが喉の奥で呟いた。
恐怖というより、理解を超えたものを前にした拒絶に近い感情だった。
(近づけば溶かされる。斬っても再生する。どうすれば……)
頭では戦い方を探しているのに、心は本能的に後退しようとしている。
巨体の内部で蠢く影を見て、胃の奥がひっくり返るような嫌悪感に襲われていた。
だが――
ここで踏みとどまらなければ、村が飲み込まれる。
逃げれば。
エリカも、死ぬ。
ティモがゆっくりと剣を握り直したその時。
後ろにいたレオンハルトの身体が横を通り抜け、弾けるように前へ走り出した。
右腕を失いながらも、その動きは驚くほど速い。
アバミネーションが反応し、紫の触手を伸ばす。
レオンハルトは横へ滑り込むように身を沈め、触手の下をくぐり抜けた。
ザッ!
地面を蹴り、愛剣を斜めに構える。
「うおおおッ!!」
渾身の力をこめ、刃が唸りを上げて振り下ろされた。
アバミネーションの表面を深々と裂き、すかさず剣を引き抜くと、後方へ跳んで距離を取る。
直後、裂け目は再生し始めた。
「やはり再生するな」
確認するように呟き、ゼノスに視線を移した。
「ゼノス、これを知っているのか?」
レオンハルトの問いに、
「文献で読んだことがあるだけなのですが……。『忌まわしい合成体』、魔力を媒介にして動く人工生命体だと」
「あいつが作ったということか?」
「おそらくですが……」
二人で自分たちを囲む紫色の巨躰を見渡す。
「突破口を作らねえと全滅だな」
ドルガンが斧を構えながら、アバミネーションを睨む。
紫色の壁が脈動するようにうねり、戦場を取り囲んでいた。
その向こう側で、マーニャと魔剣士が火花を散らしている。
互いに一歩も退かず、槍と剣がぶつかるたび、空気が軋んだ。
――その背後。
風が走った。
「マーニャさん」
澄んだ声が、戦場の騒音の中、静かに響き…
彼女の背後に金色の髪を揺らしたメイドがフワリと降り立った。
「フェリア?」
「ララベルさんが各陣へ急報の矢を放ちました。それと――負傷者は全員、治療完了」
風魔法に乗せられた言葉は、必要な情報だけを残し、即座に散った。
その、ほんの一瞬。
「――ティモ!」
レオンハルトの叫び声が響く。
二体のアバミネーションと対峙していたティモの背後に、紫色の触手が伸びていた。
注意が前に向いていたティモの身体が、抵抗する間もなく絡めとられる。
そしてゆっくりと、その本体に沈み込んでいった。
「くっ――!」
ジュウゥ……、シューーッッ、耳障りな音が連続する。
「まずい!!!」
ドルガンが助けに行こうにも、自分の前にも紫色の壁が立ちはだかっている。
「フェリア!」
マーニャの指示にフェリアが消えた。
触手の間をすり抜けるように滑り込み、ティモを呑み込もうとしていたアバミネーションの眼前に躍り出る。
ツインダガーが舞うように動き、紫色の物体を幾重にも切り裂いた。
同時にティモを寄せ、後方へ投げる。
「……ッく」
ティモの背中はアバミネーションの酸が触れた痕が残り、 衣服は焦げて破れ無残な姿となっていた。
裂傷を確認したフェリアは、即座に手元のハイポーションを振りかける。
薬が反応して、じんわりと泡が広がった。
マーニャは横目でティモが救出されたのを確認し、紫色の物体へと一瞬だけ目を向けた。
「酸の流れ、その中心部に核がある。突きなさい」
迷いのない声。
マーニャの一声を受け、フェリアが動くのと同時に、上空から別の気配がする。
「トリア?」
「マーニャさん!!魔物は兵士さんと冒険者さんたちが任せてくれって!」
マーニャは状況を把握すると、飛んできたトリアへ指示を出した。
「気色の悪いあの物体を、本体ごと潰して。核を破壊しなさい」
「分かりました!」
トリアはどこにしまっていたのか、スカートの裾から巨大な槌を取り出すと、滑空する勢いのまま着地点にいたアバミネーションを圧殺した。
小さな身体には全く似合わない片口型ウォーハンマーを担ぎ上げ、また高く跳躍し、次の標的を叩き潰す。
指示に呼応し、メイドたちの狙いが核へと揃った――その一瞬を、魔剣士は見ていた。
「おいおい、何人メイドがいるんだぁ?」
呆れたように吐き出すと、またしても指を弾く。
パチン
次の瞬間、紫色の壁が一斉に蠢き、アバミネーションがレオンハルトたちへ殺到し始めた。
「来るぞ!!」
中央でティモを囲み、円陣をとる三人。
だが。それを視界の淵で捉えたマーニャの瞳が淡く光る。
「させませんよ」
空中に透き通るような白い魔方陣を一瞬で展開すると、ゆっくりと回り出した。
アバミネーションの動きが一瞬鈍り、次々と硬直していく。
「なんだ~?おまえ、干渉型の精神感応能力もちかぁ?」
魔剣士が首を軽く傾け、
「アレを俺の支配から奪おうってか!!」
牙をむきながらニヤリと笑うと、次の瞬間その不敵な笑みを消し、魔術に集中しているマーニャを睨む。
「おまえ、それを維持しながら俺の相手ができるのかぁ?」
黒い外套が揺れ、魔剣士の姿が影のように滑る。
まるで空気に溶けるような動きで、マーニャの死角へと入り込んだ。
「まずひとりぃ~」
魔剣士の刃が横薙ぎに走る。
ヒュッ――
鋭い軌跡が空を裂き、マーニャの首を狙う。
――が、
「マーニャさん!おまたせ~」
イグナがそのバスタードソードで、魔剣士の刃を真正面から受け止めていた。
白刃が交錯し、衝撃が走る。
「またメイドかよ!!!!」
男が歯ぎしりしながら高く跳躍し、イグナの間合いの外に移動する。
バスタードソードを担ぐイグナの足元で、赤い火花が散った。
魔力が剣へ流れ込み、刃が淡く紅く輝き始める。
「おいおい、お前も魔剣士じゃねえか!!」
イグナは楽しそうに笑うと、一歩踏み込む。
その瞬間、地面が爆ぜるように炎が走った。
踏み込みに合わせて解放された魔力が、地表を焼く。
重さを感じさせない速度で、バスターソードが大きく振り下ろされ、炎の軌跡を描きながら魔剣士へ迫った。
魔剣士は紙一重で横へ滑るように避ける。
刃が地面を叩きつけた瞬間、ゴッ! と衝撃が走り、火柱が上がった。
外套が熱で揺れるのを、男は横目で見つめながら再び指を鳴らす。
その視線の端には、精神感応を維持するマーニャの姿があった。
――奪われた支配を、力ずくで塗り替える。
マーニャの眉間にわずかに力が入るのを確認すると、視線を戻し剣を上空から振り下ろした。
紫の魔力が細い刃となって飛び、空気を裂くようにイグナへ迫る。
イグナはバスターソードを横に構え、炎の魔力を纏わせて受け流した。
キィンッ!
火と魔力がぶつかり、激しい火花が散る。
「よ~~し!いくよ~」
大声でイグナが声をあげ、片足を地面に深く踏み込み、再び巨大な剣を振り上げる。
そのままピタリと静止し、一気に横薙ぎに振りぬいた。
魔剣士は地面を蹴り、低く身を沈めて刃の下を滑り抜ける。
巨大な炎の渦が男の背中を一瞬焦がすと、
「おいおい!あぶねーだろうが!」
悪態をつきながら、イグナの間合いに飛び込んだ。
バスターソードが縦に振り下ろされる。
斬撃がぶつかり、魔力を纏った二種類の剣が何度も打ち合い、火花を散らす。
衝撃が爆発し、火花と魔力の破片が四散した。
イグナは踏ん張り、火の魔力をさらに高める。
その刃が赤から青に近い色へ変わり、放たれる熱が空気を歪め――
「……これでどう、だッ!!」
横薙ぎに一気に振り抜いた。
ドォンッ!!
爆発のような衝撃が戦場を揺らす。
熱風が吹き抜け、 煙がゆっくりと流れ始める。
やがて視界が開けていく――が。
さっきまで確かに立っていたはずの魔剣士の姿が、ない。
「あれ?」
次の瞬間。
イグナの右足に、感覚がなかった。
遅れて、身体が崩れ――音もなく、断ち切られていたと理解する。
「うわ。やば」
バランスを崩し身体が傾いたイグナに、魔剣士の魔力を纏った剣が迫る。
「やっと一匹だ」
そう呟いた男の目は、もうイグナを『敵』として見ていなかった。
男の影が、ゆっくりと覆いかぶさる。
「イグナ!!」
マーニャの声をどこか遠くで聞きながら、イグナは自分に向かう刃を見つめていた。
その時。
ビシッィ――!!
空気を切り裂くような鋭い音が走った。
白銀の糸が何本も走り、男の剣に絡みついていた。
「!?」
魔剣士の動きが止まる。
糸は細いが、まるで鋼のように強靭で、
剣を振り下ろそうとする力に逆らって軋む。
キィィ……ッ
「うちのメイドに、何をしていらっしゃる?」
そこには数えきれないほどの糸を両手で束ねる、ウェブスターの姿があった。




