63話
ナギを抱きかかえ、屋敷へ向かう道すがら、シオルは一歩一歩慎重に足を運んだ。
両腕に感じる確かな重みが、今は何よりもナギの存在を肯定していて――。
世界樹の根本にある中庭では、巨大なリヴァイアサンが泉に佇んでいた。深い藍色の鱗はかすかな光を反射し、長く逞しい尾が水面を滑るたび、波紋が幾重にも広がり、流れに沿って泉全体に魔力が満ちていく。
リュミエルは今、元の姿に戻り全力でエリクサーの泉を生成していた。
『ご主人様!どうぞ、そのまま奥様を――!』
シオルはナギを抱きかかえたまま、泉の中央へと足を踏み入れた。
二人の血にまみれた衣服も構わず、そのまま水圧など意に介さぬかのように、静かに歩を進める。
そして水位が胸の高さに達した瞬間、シオルはナギを抱き込むようにして水底へと沈み込んだ。
誰の手にも渡さぬとでも言うように、全身で固く、強く抱きしめて……。
(ナギ……)
彼女が意識を失う寸前に自身にかけた、《界域》をそっと解析して、その構築を紐解く。そして傷口にエリクサーがゆっくりと触れ合うように、出血を防ぐためにかけていた圧力を慎重に和らげていった。
勇者の剣に無残に断ち切られていたナギの傷口が、微細な泡を立てながら覆われてゆく。
効き目があると確信したシオルは、一度浮上する。そこでリュミエルが用意したエリクサーのポーション瓶を口に含むと、ナギに口づけをしながら、少しずつエリクサーを移していった。
(ナギ……絶対に、行かせない)
泉の中央で、水面に揺れる二人の影が、静かに時を刻んでいた。
◇◇◇
――誰かが泣いている気がする。
抱きしめてあげないと。きっと酷く苦しんでる……
ふと何故かそう思った。
「凪海ちゃん?」
一緒に帰宅していた歩美ちゃんが、唐突に黙り込んだ私の顔を横から覗き込んだ。
「あ……」
「どうしたの?いきなり静かになって。考え事?」
何を考えてただろう?さっきまで確かにあったソレが霞のように消えている。
妙な胸騒ぎだけがあって、謎の動機がする。何だろう?これは。
答えずに眉間に皺を寄せて考え込んでいる私の腕を、歩美ちゃんが引っ張った。
「あ~…、うん。ちょっと大会の事とか。緊張してるのかも?」
「わかる~。先輩たち最後の大会だもんね。負けたくないよね~」
「地方予選、勝ちたい!」
「うん!凪海ちゃんなら大丈夫だよ!いつも反応練習とか頑張ってるし、取り札の戦略や手筋も勉強してるもんね!」
「おかげで授業が壊滅だけどね」
「それは皆一緒だから大丈夫!」
二人で笑いながら、歩いていると、
「凪海ちゃん~、歩美ちゃん~、あそこのコンビニ寄って良い?」
前を歩いていた同じ部活のメンバーが、振り向きざまに声をかけてきた。
「今日、連様が表紙の enen が発売されるんだ! 絶対ゲットしないと!」
思わず歩美ちゃんと顔を見合わせる。
……連様?
「ついでにアイス買っていこ~~」
その言葉に、二人して堪えきれず噴き出した。
どっちがついでかな?
連様推しの友人たちを追いかけて、歩美ちゃんと二人横断歩道を渡っていた時。
唐突に私の足元が縫い付けられたように動かなくなった。
「え?」
驚いて視線を落とす。そこには――。
白銀に発光する何かが足を絡めて、地面に引き込むように渦を巻いていた。
「何?何これ?」
私の声に横断歩道を渡り切った歩美ちゃんが振り向いた。
「凪海ちゃん?どうしたの?」
「分からない。何これ?何この白いの!!動けない!!」
「え?白い?」
歩美ちゃんには見えていないようだった。
その時、コンビニへ向かおうとしていた友人たちが、慌てた様子で声を上げる。
「凪海ちゃん?信号かわっちゃうよ!」
「どうしたの?!」
「分からない!動けないの!!」
「「!」」
友人たちが引き返してくる。
その目が恐怖に見開かれた。
「凪海!!!!」
私は直進で突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされていた。
◇◇◇
「だから言ったのよ!!!あのバカ早く処分するべきだって!!」
「分かっている。だが、これがきっかけになる。この娘が鍵だ」
「可哀そうに……これからやりたい事だって一杯あったでしょうに……」
声が聞こえる。
優しい男の人と、ちょっと元気だけど女の人も優しい感じがした。
何か凄く良い匂いがして、ひどく気持ちが良い……
フワフワの肌障りの良い何かに包まれている感じ。
でも体中はあちこち痛い。
声を上げたいのに、咽喉がひきつれたように、何も吐き出せない。
目をあけようとしても、何故かすごく痛くて開けなかった。
「あのバカ本当に大っ嫌い」
「私も嫌いだが。今はその娘を癒すのが先だ」
「分かってます!全力で癒してるところ!」
「あちらでは、このような理不尽な目に合わないように、我々からの加護もつけなくてはな」
「そうだね!こうなったら一杯つけたる!!!」
どこかで聞いた事がある……何だっけ?
「フ、史上最強になるかもな」
「あっちからの召喚魔法はあとどれぐらい止められそう?」
「そろそろバレるころだな」
「じゃあ加護じゃんじゃんつけよう!」
目を気持ち良い何かが触れていった。頭から足先まで、その何かが優しく触れていく。
「鉄壁の肉体と、不屈のスタミナと、良く見える目と……」
ん?
「あれもつけよう。私の時間停止能力を。そのままつけるとヤツにばれるか?空間把握能力に一旦隠してみるか」
「無限魔力貯蔵と……」
「空間把握だけでなく、支配もいれるか」
「あとは……」
ちょっとちょっと?え?何?
目の痛みが何故かなくなって、何度も瞬きしながら瞼をそっと薄く開く。視線で声の主を探した。
まだ頭がボーっとしていて。自分がどこに居るのか、今までどこに居たのか、はっきりしない。
そんな中。
「大丈夫。あなたがヤツにこれ以上、都合のいいようにはさせないために、私たちがちゃんと味方になるからね!」
見たこともないほど、とても綺麗なお姫様がいた。札の中のお姫様だ。
豊かな黒髪が波打ち、何色もの透き通った薄衣を幾重にも優雅にまとっている。
金糸と銀糸で彩られた帯が、腰からフワリと浮いていた。
「私と同じ名を持つ娘よ」
隣には真っ白な髪が印象的な、皇子様みたいな人がいた。
同じ名……?
「そなたは理不尽な、一方的な召喚魔法のせいで、予定にない事故にあい、瀕死な状態になっていた。そのままでは召喚魔法に耐えられず肉体が砕け散る」
召喚魔法……?
「我々は箱庭の管理者。今回は異なる世界の管理者が、神気を纏い輝くそなたに目をつけ召喚魔法を行った。我々に許可なくだ。その横暴さ、無慈悲に我々の子らの人生を搾取する態度に我慢の限界が来ていた。故に介入した」
お姫様が私に優しく触れながら、皇子様が怒りの言葉を紡ぐ。
「……娘よ。あちらには一人でその狂った管理者と戦う者がいる」
「その子を……一人ぼっちのあの子を助けてあげてほしいの」
誰?
……泣いているあの人?
「そうだ。そなたという存在を待っている。まだ気づいていないが」
気付いていないの?
「そなたを見たら嫌でも気づくだろうがな」
?
「狂った管理者と…滅びに向かう世界と、戦ってほしい」
「歪んでしまったあちらの世界を、本来の優しい世界へ導いてほしいの」
……どうかな?
わたしには無理だと思う……けど……
「大丈夫!あなたの夫になる人はね、すっごく強いから!世界最強の味方になってくれるよ!」
夫!?
ちょっと目を見開く。
どうゆうこと?私まだ高校生……
「娘よ、そなたの人生を奪ってしまう事に対しては真摯に謝ろう。本当に申し訳ないと思っている」
「奪ったのはあいつだけどね」
私の若干の動揺を置いて、輝くように美しい二人は話を続けていて。
「あの管理者に対しては、このままにはしない。必ず我々管理者側も動く。だから」
「その間、あの世界を、あの子を守ってあげて欲しいの」
あの子って『夫』ですよね?
熊みたいな人だったらどうしよう?
私の声にならない呟きに、二人の美しい人はちょっとだけ微笑んだ。
「きっとここでの会話は、そなたの記憶には残らない。それだけが心残りだが――」
「熊ではないから安心して!」
思わず笑ってしまう。
すると私の足元の下、1m程離れたそこにあった何かが、突然激しく点滅し始めた。
お姫様がゆっくりとそちらに視線を送り、
「時間ね……」その美しい顔をやや歪めて呟いた。
王子様が私の方へゆっくりと手を伸ばす。
「娘、凪海よ。我々の名は――、――。もし再び相まみえることがあったら――」
点滅するたび残響が耳に残って、何を言っているのか聞き取れない。
下から突き上げる光が激しくなり、私は眠るようにゆっくりと目を閉じていった。
そして私はこの世界の勇者になる。




