6話
「ナギ姉ちゃん!!いる!?」
二人が小屋に戻った瞬間、外から突然、子供の声が響いた。
思わずシオルと顔を見合わせる。
私は扉に手をかけ、声の主の名前を呼んだ。
「カイル?どうしたの?」
扉の向こうには、ひどく取り乱した表情のカイルが立っていた。
「大変なんだ!魔獣が出た!!」
「!!」
カイルは走ってきたせいか息を切らしながら、必死に話し始める。
「薬草を取りにリルと森に行ってたんだ。そしたら……アイアンボアが現れて!」
「リルは!?」
「逃げる途中で少しケガをして、薬師のばあちゃんのところで治療してもらってる。」
その言葉に安堵する。
「森にはまだ誰か入っているの?」
「そうなんだ!だから慌てて姉ちゃんを呼びに……!」
「…すぐ行く!」
そう言うと、小屋を飛び出した。
「あ!姉ちゃん、待って!俺も行くよ!」
慌ててカイルが声をかけるが、彼女の姿はもう見えなかった。
「少年?」
その時、カイルは初めてシオルの存在に気づいた。
「えっ!誰!?」
「昨日からナギの隣に引っ越してきた者だ。ナギを追いかけたいのか?」
「うん…」
「……どちらの方向へ行った?」
シオルの問いに、カイルは一瞬ぽかんとしたあと、あわてて答えた。
「東の森!村の裏山を抜けた先!」
「分かった」
そう言うと、シオルはさっとカイルに近づき、戸惑う暇も与えずひょいとその体を抱え上げた。
「わっ!?ちょ、なに――!?」
「ナギを追うのだろう?今から追っていては間に合わん」
言うが早いか、足元に魔法陣が展開される。風が巻き起こり、シオルの長い上着の裾がふわりと舞った。
「え!!何!?何なの……!?」
「少し我慢してもらおう。しっかり掴まっていろ、少年」
次の瞬間、シオルは地を蹴り、宙を飛ぶようにして森の方角へと滑空していった。
その背中で、カイルの悲鳴とも歓声ともつかない声が空に吸い込まれていった。
カイルの絶叫が空に響く頃、凪海はすでに東の森へとたどり着いていた。
スキル《空識》を使い、“動くもの”の気配を探る。
木々の間をすり抜けるように、慎重に、しかし足早に探知を繰り返していく。
すると――視界の右手、茂みの奥にかすかな人の気配を感じた。
辺りは息を呑むような緊張に包まれていた。
そっとそれに近づく。
「ナギさん…?」
ささやくような声が茂みの陰から漏れた。
村の猟師、ライエルだった。彼の眉間には深い皺が寄り、不安が滲み出ている。
「良かった、無事だったんですね」
肩の力を少しだけ抜き、ほっと息をついた。
ライエルは辺りを見回しながら、低い声で言った。
「カイルとリルは無事に村に着きましたか?」
「大丈夫。カイルが知らせてくれました。アイアンボアは?」
ライエルの視線が少し暗くなる。
「――三百メートル先に、群れでいます。こちらの様子をうかがっているようです」
「群れ……なるほど」
「……グレートアイアンボアが混じっていました」
「え?」
「群れのボスです。そのため、こちらから動けずにいました」
「なぜ急に群れが…。最近は魔獣の出現は落ち着いていたのに」
私はじっと森の静寂に耳を澄ませた。
遠く、木霊のように低い唸り声が響く。何かが蠢く気配がある。
ライエルは険しい表情を見せながらも、凪海に頭を下げる。
「ナギさんにばかり頼ってしまって、申し訳ないです」
「そんな!気にしないでください…!それじゃちょっと行ってきますね」
「……よろしくお願いします。援護します」
「有難うございます。でも安全な場所からでお願いします」
二人は、地を踏みしめる音ひとつ立てぬよう、慎重に群れへと距離を詰めていった。
茂みの切れ間から、木々の陰に潜む黒い塊がいくつも見える。――アイアンボアの群れだ。
ライエルは小声で「ここから見渡せます」と告げると、手早く手頃な木に取りつき、音もなく幹をよじ登った。
枝の影に身を隠し、背負った弓を構える。
弦が、かすかに鳴る。
狙いは、群れの右端――少し外れた位置にいた一頭のアイアンボア。
ピンと張られた弦がしなり、矢が空を裂いた。それは緩やかに弧を描きながらも、寸分の狂いもなく獣の肩に突き刺さった。
「――!」
短い悲鳴にも似た咆哮が、森を駆ける。
その声をきっかけに、群れのすべてがピタリと動きを止めた。
次の瞬間、一斉に顔を上げ、ライエルのいる方向へと視線を向ける。
森の空気が、変わる――。
瞬間、凪海は地面を蹴った。体は風を裂き――宙を跳ぶ。
凪海は、空中で一瞬、視界全体を俯瞰する。
跳躍の勢いそのままに、巨体なグレートアイアンボアへと飛び移る。
その背を踏みつけるようにして着地し、腰の剣を引き抜いた。
驚いたように鼻を鳴らす獣。
その首の関節部に狙いを定め、剣を左から右へ一閃――そのまま首の付け根を裂き、断ち切った。
獣の悲鳴が、木々にこだました。
振り落とされる前に素早く飛び退き、次の標的に目を向ける。
その間にも、群れの他の個体が怒りに満ちた唸りを上げ、敵を囲もうと動き出す。
高所から、ライエルの矢が次々と放たれた。
動き回るアイアンボアの急所を的確に貫いていく。
凪海はスキル《空識》を起動――周囲の“動き”が、空間に光の粒となって浮かび上がる。
数体の気配が、凪海に向かってくる。
即座に察知し、回避。
直後、重たい足音とともに土煙が舞い、アイアンボアの突進が背後すれすれを駆け抜けた。
凪海は集中し、押し寄せる群れの動きを見極めながら、空間の“隙”を瞬時に拾う。
(バラけているけど……妙な統制がある)
普通の魔獣なら、怒り任せに突っ込んでくるはず。
だがこの群れは、前後左右から交互に挟み込むような動きをしてくる。
まるで“誰か”が指揮しているかのように――。
(グレートアイアンボアはやったのに…?)
汗を拭う暇もなく、数体の個体の突進を回避し、振り向きざま、次々と腹へ剣を滑り込ませた。
勢いで深く刺さりすぎた刃を、足を使って引き抜いた――その時。
何か、背筋を撫でるような悪寒が走った。
森の奥。見えていないはずの場所――
けれど、確かに“何か”が、そこからこちらを見ている。
「……」
木々のざわめきと、アイアンボアたちの荒い呼吸。
それ以外は何も聞こえない――はずなのに。
一瞬、そちらに目をやるが、影すら見えない。
「ナギさん!どうしました!?」
(群れの奥…グレートアイアンボア以外に何かいる…?)
思考を切り替え、再び剣を構え直す。
今は目の前の敵を減らすことに集中するしかない。
――だがその背には、森の奥から降り注ぐ視線の感触が、針のように刺さり続けていた。
ライエルの矢がまた一本、狙いすましたようにアイアンボアの目の近くに突き刺さった。
苦悶の悲鳴があがり、怒り狂った一頭が木をなぎ倒して突進する――が、凪海はそれを見逃さない。
踏み込んだ足の下で土が爆ぜる。
低く身を滑り込ませるように突進し、すれ違いざま、獣の脇腹に剣を滑らせる。
ドン、と重い音が響き、獣が崩れ落ちる。血飛沫が地を染めた。
それでも群れは止まらない。まるで獰猛な軍勢のように、次々と形を保ったまま突撃してくる。
(やっぱり、何かおかしい……)
焦りはない。けれど、違和感は強まる一方だった。
凪海はスキル《蒼刃連舞》を発動。
駆け抜けるように群れへ突撃し、次々と切り裂いていく。
「ナギさん、あと三頭です!」
「了解!」
その時だった。
――ズン。
一瞬、地面が揺れた。
凪海も、ライエルも、動きを止める。
「……いまの、音は…」
ライエルが木の上から緊張した声を上げた。
続けて、”ズゥン……ズゥン……”と、間隔を置いた重低音が森に響く。
「――あれは」
森の奥。まるで霧が薄く割れるように、一瞬の“静寂”が走った。
そして、それは現れた。
アイアンボアの希少種――ルイン・アイアンボア。
グレートアイアンボアよりも更に大きな体躯。
その瞳は知性すら感じさせる、獰猛な“意思”の光を湛えていた。
全身から、黒い湯気のような魔力が立ちのぼっている。
「……希少種……!」
凪海は、呟いた。
今までの個体は、ただの前哨戦。
本当の“脅威”は、今、目の前の――。
その時。
空から、耳をつんざくような絶叫が響いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ~~~!!」
「ん?」
すごい勢いでシオルの気配が接近してくる。
なぜかカイルも居るようだ。
「んん?」
一瞬、思考がフリーズした。
その隙を、ルイン・アイアンボアが見逃すはずもない。
猛然と突進の構えに入る――が、
「ひゃぁぁぁあああ」
空間がひずみ、視界の端が揺らめいた。
次の瞬間、眩い閃光がルイン・アイアンボアの巨体にめり込む。
烈風が吹き抜け、地面がえぐれ、草葉が大きくうねった。
土煙の向こう――そこには、シオルに踏み潰されて絶命した希少種の姿があった。
「おや…?」
シオルは首を傾げ、じっと私を見つめる。
そしてふと視線を木の上のライエルへと移した。
「……ナギに追いついたぞ?」
その腕の中で、カイルがぐったりと目を回している。
「!!!カイル大丈夫!?」
私が叫ぶと、カイルはシオルの腕からずり落ち、地面に転がった。
「そっそら……!空、飛ぶなんて聞いてない……!」
「ナギのスピードには普通に走っても追いつけないからな」
「飛ぶほうがおかしいから!!」
木の上で見ていたライエルが、ぽつりとつぶやく。
「……希少種が……」
私は頭を抱え、カイルはうつろな目をし、ライエルはただ呆然と目を見開いていた。
その日、村では解体したアイアンボアのご馳走に沸いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。