59話
「勇者…、ですか?」
ゲオルグが驚愕の色を隠せないままシオルを見つめる。
驚いているのは私も同じだった。
――アルヴェル。
それは当時の魔王と相討ちになり、アリエルさんの元へ帰らぬまま命を落とした、四百年前の勇者の名。
それが――?
「あら?」
隣のローブの女性が、愉快そうに声を漏らした。
「もう気づかれてしまうなんて……あなたをご存じの方がいらしたのね、アルヴェル」
フードの奥から現れたのは、数か月前に一度、見た――。
「え?」
「貴様、あの時の小娘か?」
収穫祭の日。
護衛に村人を人質に取るよう指示したものの、その護衛を悉く蹴り飛ばされ、あげくリアノーラにより断罪された辺境伯の姪――。
だが、様子がおかしい。
貴族の娘として整えられてきたきめ細やかな白い肌は、今は黒ずんだ肌色に。目は妖しく赤く光り、ローブからのぞく指先には鋭利で真っ黒な爪が伸びていた。
あの時も令嬢らしからぬ大声を張り上げ、横暴そのものだったが、今の彼女から漂うのは、それ以上に禍々しい気配――。
「お久しぶりでございます。勇者さま」
そう言って不敵な笑みを浮かべながら優雅なカーテシーをする。
「どうしてあなたがここに?辺境伯の元で幽閉されているはず」
私は無意識に剣をゆっくりと握った。
彼女のその姿は、もう……とても以前と同じ人間とは思えなかった。
「フフフ……あら?そう、まだご存じないのですね?」
「?」
彼女はゆっくりとその長い爪を真っ赤な口元にもってくる。
「わたくし、叔父様がスタンピード対応で出陣なさった直後に、お母さまに連れ出していただいたのですわ」
「逃げ出したの?!」
「ええ。でも。『運悪く』スタンピードが来る事におびえて、辺境から逃げようとした盗賊に馬車が襲われてしまったのです。お母さまと従僕は、『運良く』そこで殺害されてしまいましたの」
「運良く……?」
「ええ!だって、わたくしはその後、一人だけ盗賊たちに乱暴に攫われて。ぼろぼろになるまで何度も辱めを受けたのですから。殺された方がマシでしたわ」
あまりの事に息を呑む。気位の高い貴族の令嬢がそのような目にあって正気でいられるだろうか?
現に彼女の容姿も言葉遣いも以前とはかけ離れている。
歪んだ微笑の下で、彼女の赤い目が細められた。
「ですが……わたくしに救いの手が差し伸べられました。神様はいらっしゃったのです」
うっとりと恍惚とした表情になるミレーナ。
「神だと?」
その言葉にシオルが思わず反応する。
だがその瞬間、ミレーナから不気味な笑顔が弾け飛んだ。
「ええ!またお会いできましたわね!美しい方。どれだけあなた様の事を想って辛い日々を耐えてきたか……まさか、こんな場所で巡り合えるなんて。これはもう運命ですわ、わたくしたち!」
シオルが黙って私を見た。
「シオル?」
「あの小娘は前から頭がおかしかったが。何を言っているんだ?前よりもっと更に頭がおかしくなってないか?」
いつも冷静な彼が、珍しく言葉を選べていない。
「え……と。多分それぐらい悲しい目にあったんだよ……きっと」
「悲しい目?しかし酷すぎないか?ここまで言葉が通じない人間は初めてなんだが。意味が分からないのは私だけか?」
「あー。シオルちょっと落ち着こう……?」
言葉の通じない相手は確かに世の中に存在する。出来れば距離を置きたい種類のものだ。
だが、このままでは話が進まない。
「ミレーナさんだっけ?神様って隣の400年前の勇者のこと?助けてもらったの?」
勇気を振り絞って問いかけると、ミレーナは心底驚いたように目を見開いた。
「まさか!!違いますわ!神様はある時は青年のように、ある時は少年のようなお姿で。鈴の音のような、軽やかで澄んだ声で語り掛けてくださいますの。ああ……!圧倒的に優美で、輝く御方!あの忌まわしい盗賊たちにいたぶられていたわたくしを救い上げ、壊された身体には新しく動く鼓動を授けてくださいました。そしてアルヴェルは――その神様からのプレゼントですの!」
「「!」」
新しく動く鼓動を『授ける』。
勇者を『プレゼント』。
そんな事をできる存在は――。
「創造主か」
シオルが低く、抑え込んだ声でひっそりと呟く。
私たちの間に生まれた、僅かな空気の揺らぎに気づく様子もなく、ミレーナはローブを優雅に捌きながら、ゆっくりとコアに近づいた。
「神様の使徒となった私の使命は、まず、このコアに手を出そうとする愚かな者たちを排除すること」
空気が張り詰め、三人に緊張が走る――
「そして、勇者ナギさまを、今度こそ神様の御許へ送ってさしあげること」
「「!?」」
「勇者さま。いけませんわ?世界の理に逆らっては」
言葉は柔らかいのに、そこにあるのは明確な――敵意。
私はゆっくりと勇者の剣を抜いた。金属が擦れる澄んだ音が、広間に響き、シオルも瞬時に足元へ魔方陣を展開する。ゲオルグも前方の二人から視線を外さずに、緊張しながら両手に魔力を貯め始めた。
ミレーナはそんな私たちの様子を意にも介さず、しずしずと手を胸の前で組み、恍惚の色を帯びた表情で語り始めた。
「わたくし、あの地獄の様な暗闇の中で、ずっとずっと必死にお祈りしておりました。盗賊に痛め付けられ身体が動かなくなっても、この意思だけは、この願いだけは届くものと信じて」
その声は妙に暗く甘く…祈りというより怨嗟に近い。
ミレーナはまるでそこに神が立っているかのように顔を上げ、うっとりと目を閉じる
「この世界から救いだしてくださる神の声を、この耳が捉えたその瞬間を、今でも鮮やかに思い出せますの」
どうみても今の彼女は普通ではない。剣を握る手に汗が滲む。
「そのお声は――まるで光でしたの。あの日、わたくしの全てを救い、包み込み、満たしてくださった……」
ミレーナの口元がゆっくりと吊り上がる。
笑っている──だが、その笑みには温度がない。
「前の身体は、人間だったあの肉塊は、弱くて、汚くて、脆くて……いらないものでしたわ。神様は仰ってくださいましたの。『君に相応しい、美しい容姿と新しく動く鼓動を与えよう。そして君にとっておきの役目も授けよう』って」
ミレーナの目がゆっくりと見開かれ、隙間から赤い光が覗く。
「アルヴェルはその役目のために。……『お気に入りの勇者』を、神様はわたくしにくださったのです。ふふ、素敵でしょう?魔王を倒した勇者をわたくしは手に入れたのよ!」
その視線は、初めてのおもちゃを手に入れたかのような興奮と――しかし底のない狂気が混じっていた。
「ねぇ、アルヴェル。あなたはもう、わたくしのものですわよね?」
呼ばれた『銀の騎士』は微動だにしない。ただ静かに彼女の横に立っている。
だが、ミレーナはそれを肯定と受け取ったらしく、うっとりと頬を染めた。
「あのとてつもなく苦しい時……。誰も、わたくしを助けてくれなかった。でも唯一神様だけがわたくしを助けてくださった。だから神様だけが、唯一絶対正しいのですわ。神様のお言葉だけが、全て」
ミレーナは笑う。
その笑いは、楽しげで、純粋で、どこまでも狂っていた。
「神様は大変お嘆きでしたわ。ずっと待っている勇者さまが戻ってこられないと。世界の理を乱す存在は、整えなくてはなりませんの。神様が仰っていらっしゃいました。神の慈悲を忘れた存在を、許すか──それとも壊すか。ねぇ、勇者さま?」
ミレーナの声が、次第に囁きにも似た耳障りな細い響きに変わっていく。
だがその声音は、温度のない笑みよりもさらに不気味だった。
隣のシオルから、創造主に対する怒気が凄まじい勢いで膨れ上がってくる。
「神様はわたくしを正しい形へ導いてくださった。わたくしの身体も、心も、役目も。全部、神様の望む通りに」
ゆらりと首を傾げる。その仕草は少女のように可憐なはずなのに、今の彼女の様子は酷く歪で。
「ですから勇者さま。神様の御許へ参りましょう?」




