42話
真冬の吹雪も大分前に峠を越え、冬の終わりの兆しが見え始めたその日。
私はそっと横に眠るシオルを起こさないようベッドを抜けだした。
いつもの冒険服の上から厚手の防寒着を着て、腰には勇者の剣をさす。
まだ冷たい風が頬を刺す中、ひたすら坂道を上る。
この時期だけ咲く花を見に。
私は白い息を吐きながら、ゆっくりと森を抜け、雪解けも間近の丘に足を踏み入れていた。
目の前に広がるのは、風に淡く揺れながら真っ白に輝いている、小さなスノードロップの群生――。
花弁をたらし、揺らめく無数のスノードロップだった。
――エリンの好きだった花。
『まだ開ききらずに、ちょこんと頬を寄せるみたいに揺れている姿がとても可愛い』
『細く透き通る茎の緑色が春の力強さを感じさせて好き』――あの声が、頭の奥で繰り返される。
そのスノードロップを踏まないように、慎重に丘を登る。
エリンはよく私の事を手がかかる、と言って笑っていた。
そうだろう。
こんな情けない勇者なんて、きっと歴代でも私だけだ。
頂上に差し掛かると、白い花の間に人影が立っているのが見えた。
ゆっくりと振り返る――
まさか……
そんなはずはないのに、目が離せない。
そこには手を振るエリンが居た。
「勇者さま!!」
「エリン……?」
茫然と呟きながら、視界がぼやけていく。
そんなはずはない。だって変わり果てたエリンを見つけたのは自分だ。
埋葬したのも自分だった。
でも。
でも……!!
思わず駆けだしていた。
そのままの勢いでエリンに抱き着く。
温かい体温も、声も、そんなはずがないと分かっていても。
ふと懐かしいエリンの薬草の香りを嗅いだら、どうでも良くなってしまった。
「エリン!!!」
心臓が今までにない速さで鼓動を打っていた。
抱きしめる力を止められなかった。
「エリン!ごめんッごめんなさい!!」
「あなたを死なさせてしまった!」
「私のせいで!!!!!」
号泣する私の背中をエリンが優しく撫でる。
「私が勇者だったから!!エリンが狙われてしまった!!」
「関係ないエリンがっあんな酷い死に方で」
「私のせいで……!!!!!」
嗚咽を漏らす私の頭を優しくエリンが掴んだ。
そのままそっと頭を起こし、両手で顔を包むようにして目を合わせる。
「……エリン?」
「勇者さま!違うよ私!エリカ!」
「え?」
「エ・リ・カ」
そう言って涙目のまま、優しく微笑んでいる。
そこにいたのはエリンの4つ下の妹、エリカだった。
「……エリカ?」
「お姉ちゃんとそっくりだもんね。間違えてもしょうがないけど」
「本当に?」
「うん!久しぶりだね!勇者さま!」
エリカは目を潤ませながら、口元を緩めて笑った。
「エリカ?本当に?あのエリカちゃん?」
何度も確認してしまう。
それぐらいエリンにそっくりに成長していた。
「うん!今はちゃんと村の薬師として働いてるんだよ!」
「そっか……」
力が抜け、両膝を折ってへたり込む。
合わせるように、エリカもその前に腰を下ろした。
「この村の薬師のおばあちゃんから、薬草の依頼が出ててね。届けにきてたの」
「え?そうなの?」
「なんか冬の間に置き薬がなくなってきたからって」
「そうなんだ。知らなかった」
「うん。私も慌てて来て、昨晩着いたばっかりなんだけど。ここにスノードロップが咲いてるって聞いて、朝一でここに来ちゃった」
そう言って朗らかに笑う。
「エリンの好きな花だったもんね」
「ね!」
私たちは暫く無言で、白い花が密やかに揺れるのを眺めていた。
「勇者さま?」
「ん?」
「お姉ちゃんのこと、まだ泣いちゃうんだね」
「……うん」
「あのね、だめだよ。お姉ちゃんの事可哀そうだって思うのは」
「エリカちゃん?」
私の両手をそっと握って、エリカは言葉を続ける。
「あの頃は……魔獣に脅かされて、いつ誰が死んでもおかしくない状況だったでしょう?」
「……」
「だから私たちはいつでも全力で生きてた」
「うん」
「いつも笑って生きてた」
「……うん」
「いつ最後になるか分からないから。残った人達に思い出してもらうのは、せっかくなら笑顔が良かったから」
「……」
エリカの言葉に項垂れる。
そうだ。あの村の人々は皆いつも笑って生きていた。
「お姉ちゃんもね、全力で生きたんだよ」
「……」
「風魔法の痕跡があったんでしょう?」
「……うん」
「抵抗したって事なんでしょう?」
「そうだよ。だから……だからっ!あんな惨い殺され方をしたんだ!」
吐き出すように、絞り出すように言葉が続いてしまう――。
エリンの妹に言う言葉じゃないのに。
誰よりも傷ついていたのは、たった一人の姉を亡くしたエリカの方だ。
「私のせいなんだ……全部、わたしのッ」
両ひざに頭を何度も打ち付ける。
私の両手を握るエリカの手に力がこもった。
「風魔法しか使えないのに、魔族に立ち向かったんでしょう?」
「……」
「勇者さまが褒めなくて、誰がお姉ちゃんを褒めてくれるの?」
エリカの声が涙声に変わる。
「良く戦った!立派だったって。お姉ちゃんを誇りに思ってほしいの」
ノロノロと顔をあげると、静かに涙を流しがら微笑むエリカがいた。
「勇者さまの友人は魔族相手に一人で立派に戦ったって、お姉ちゃんを褒めてあげて?」
目を見開く。
「エリンを?」
「そうだよ!」
「褒める?」
「うん!そしたら凄くお姉ちゃん喜ぶから!!」
「エリンが喜ぶ?」
「喜ぶよ~だって、この世界を救った勇者さまが自分を褒めてくれるんだから」
エリカが何でもない事のように笑う。
「褒める……」
「そう!誰よりも勇者さまが褒めてあげて、そして誇りに思っててほしい」
あの頃――、異世界で初めてできた友人を……エリンを大切に思っていた。
そのせいで彼女は殺されてしまった。
でも……
エリンは勇者の友人として、立派に戦って死んだと
そうエリンが誰よりも望むのなら。
自分は――
「勇者さまに会えたら、伝えようと思ってたの。ずっと。でも、あの時取り乱したまま村を出ちゃって……それからずっと、来てくれなかったでしょう?」
そうだ。あの時はエリンの敵の魔族を追うのに必死で。
「……ごめん」
「ここで会えたから良かった!――もしかしたら、お姉ちゃんが呼んでくれたのかもね」
「!」
「だって、不自然だよ。冬の間に置き薬がなくなるなんて。普通、冬ごもり前に多めに備蓄しておくでしょ?」
「……そうだね」
「それにね、たまたまウチの人が冒険者で冬の間もあっちこっちウロウロしてて、この村の薬師のおばあちゃんが困ってるって話を聞いたから私来たけど。そうじゃなきゃ知らなかったしね」
「……そうなんだ……ん?」
「ん?」
「ウチの人?」
「あ!そうなの!去年ね、結婚したんだ!私」
「ええええ?」
「新婚なんです~!」
そう言って、髪をかき上げて右耳を見せる。そこには琥珀色のピアスが輝いていた。
「エリカちゃん」
「なあに?」
「旦那さん、あの隣の家の悪ガキじゃないよね?」
「ぎく」
「エリカちゃん?あれは駄目だよ。私、許さないよ?」
「えっと。でもその。頑張ってなかなか凄い冒険者になったんだよ?」
「関係ないよ。私よりかは弱いでしょ?」
「えっ。そんなの当たり前じゃない!」
「ランクは?」
「え」
「その悪ガキのランクは?」
「……シルバーです」
「論外」
「えええっ!?」
多分瞳孔が開いていたと思う。ひきつったエリカが視界に映っていた。
「ちょっと、勇者さま?そんなの無理よ、勇者さまと比べたら!」
「関係ありません。エリンの大事な妹なら、私にとっても妹です。あいつはいつも、エリカちゃんをいじめてた。対象外です。無理です」
「そんなぁ~」
「まさか、あいつも来てるの?」
「ぎく」
「薬師のおばあちゃんの家かな?」
「まってまって」
立ち上がって、丘を下ろうとする私の左手を、エリカが慌てて握る。
「え?勇者さま?」
「ん?」
「このブレスレットは?」
「あ」
「ちょっと~~~~誰ですか!?私の知ってる人!?」
「いや……知らない人だよ……」
「どんな人!?変な人なら私許さないから!」
「いや……変な……変な人ではない……と思うけど」
「何か怪しい」
「怪しくないよ!」
「いや何か隠してる」
「いやいやいや!」
「ナギ?」
絶妙なタイミングでお迎えが来てしまった。
二人して、そっと声の方を振り返る。
そこには珍しく息を切らして取り乱したシオルが立っていた。
「あ」
「勇者さま?紹介してくれるよね?私妹なんでしょ?」
「あー」
「ナギ?知り合いか?起きたら居ないから心配して……」
「勇者さま!起きたらって!起きたらって!!!それって!!!」
「……」
「ナギ。何だこの小娘は」
「ちょっと。失礼じゃない?勇者さま、この人駄目じゃないかな?」
「……」
「誰が駄目だと?」
「態度が偉そう!」
「小娘だから小娘と言って何が悪い」
「だから“小娘”はないでしょ!」
「事実だ」
「失礼だよ!」
「うるさい」
「なっ――!!!」
「ちょっ、ちょっと二人とも!?」
必死に間に割って入るが、火花はもう散っていた。
「勇者さま。まさかこの人が――」
「ナギ。早く帰ろう。とっとと帰ろう」
「ちょ、まっ、二人とも!」
「もしそうなら認めないよ!私もお姉ちゃんも!!」
「何なら転移で帰ろう」
「ちょッだからっ……落ち着いてっ!」
吹き抜ける風が、白い花々の群れをそっと撫でていく。
丘の上の喧騒の中で、スノードロップだけが楽しそうに揺れていた。
ここには確かに、冬の名残と春の息吹がひとつになって溶けていくような、やわらかな暖かさが広がっていた。




