4話
二人が立っていたのは、かつて数え切れないほどの兵が出入りしていたはずの、魔王城の正門前だった。
けれど――そこには、誰の姿もなかった。
門を守るはずの衛兵も、見張りも、何ひとついない。
あまりに静かで、耳を澄ませば自分の鼓動さえ聞こえてきそうだった。
「……本当に、誰もいないんだ」
思わずつぶやき、背筋に小さな冷たいものが這うのを感じた。
この城が、あれほどの力を持つ魔王の居城だったとは思えないほどの、沈黙。
隣でシオルは何も言わず、ただまっすぐに閉ざされた門を見つめていた。
やがて、いつもの調子でぽつりと口を開く。
「さて、では行くか。まず何が必要だ?」
「とりあえずベッドかな?、洋服を入れる箪笥か棚、食事用のテーブルとか食器類とかあれば」
「なるほど。では、まずは近い所から…食事用の部屋あたりから見るか」
「うん。台所関連からだね」
「途中、気になった物があったら言ってくれ」
「うん。わかった」
二人は重たい扉を押し開け、薄暗い城内へと足を踏み入れた。
石造りの廊下は冷たく、空気はひんやりとしている。
まるで人が急にいなくなったばかりのような、静かな空間だった。
どこかに誰かがいるのではないかと錯覚しそうな、わずかな気配の残滓が逆に不気味さを強めている。
壁に掛けられた絵画や調度品は手つかずのまま、どれも時間が止まったように静まり返っていた。
私は視線を泳がせながら、ぽつりと呟いた。
「人がいないのに……さっきまで誰かがいたみたいな、変な気がする」
シオルは目を細め、城の奥へと足を進める。
「魔王を倒してからしばらくの間、この城には少数ながら魔族たちが残っていた。
完全に姿を消したのは、半年ほど前のことだ。だからだろうか……ここにはまだ“誰かの気配”が残っているようだ」
二人は、音のない廊下を静かに進んでいった。
やがて重厚な、白く塗られた木製の扉の前にたどり着いた。
扉を開けると、そこは広く明るい食堂だった。
窓から差し込む光が、大理石の床を淡く照らしている。
長いテーブルと椅子が並び、壁際には飾り棚や食器棚が設えられていたが、どれもほこりよけの布が掛けられ、大事にされていた様子がうかがえた。
手を伸ばし、椅子の背もたれに触れると、冷たく硬い感触が手に伝わった。
「ここで食事をしていたんだね」と小さく呟く。
その椅子を、そっと自分の能力のひとつであるアイテムボックスにしまった。
「もう一脚もついでにしまっておいてくれ」
シオルに促され、合わせて二脚の椅子を収納する。
「テーブルはどうする?ここのは大きすぎるよね」
「確か厨房に従業員用のテーブルがあったはずだ」
さらに奥へと進み、城の厨房と思しき部屋に足を踏み入れる。
大きなかまどや流し、調理台が並び、壁には各種の調理器具がきれいに掛けられている。
整然としており、すぐにでも料理が始められそうだった。
「調理道具は、これで足りるか?」
シオルが尋ねると、私は鍋や包丁をひとつずつ確認しながら丁寧に収納していった。
従業員用の四人掛けテーブルもサイズがちょうどよく、それもアイテムボックスへ。
さらに扉をくぐり、貯蔵庫へと足を運ぶ。
中には、乾物や保存食が樽や箱にきちんと詰められていた。
「なんの食べ物か分からないものも多いけど……まあ、これも貰っていくか」
そうつぶやきながら、私は慎重に、一品ずつ収納していった。
貯蔵庫を後にし、次の階層へと向かう。
しんと静まり返った長い廊下を進んでいくと、やがて目の前に黒塗りの木製の扉が現れた。
「ここが……寝室だ」
シオルは扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
中は想像していたよりもずっと広く、壁には色鮮やかなタペストリーが飾られている。
大きな窓から差し込む光が、埃ひとつない部屋を柔らかく照らしていた。
部屋の中央には、立派な木製のベッドが一つ。
ふかふかのマットレスと繊細な刺繍のかかったベッドカバーが、かつての豪華さを物語っていた。
「これはどうだ?」
シオルはベッドに手を添え、質を確かめるように布の上をゆっくりとなぞった。
「良いんじゃない?ちょっとあの小屋には大きい気もするけど……」
「ではこれを。他は…タンスも見てみよう」
部屋の隅にはいくつかの大きな箪笥や棚が並んでいた。
扉を開けて中を確かめる。服はもちろん、装飾品や靴も整然と収まっていた。
「洋服も結構あるけど、持っていく?」
「そうだな。何着かお願いしたい」
シオルは少し微笑みながら、箪笥の中から何着か取り出して私に差し出した。
それを手に取り、生地の手触りを確かめる。
「状態もいいし、このままアイテムボックスに入れちゃうね」
二人は次々に必要な家具や衣類を選び、アイテムボックスにしまっていく。
部屋の静けさの中に、二人の穏やかな呼吸と足音だけが響いていた。
「そういえば。昨日はどこで寝たの?ベッドもなかったのに」
ふと気がついて、シオルに尋ねた。
「浮いて寝た」
「えっ……」
「身体を浮かせる重力場の応用で、空中で寝てみた」
「なにそのチート……」
私は思わず驚愕した。
「いや、空を飛ぶ魔法と同じ原理だ。あれも重力場を操り、風魔法で飛んでいるからな」
「えっ……ていうか、空も飛べるの?」
思わず聞き返す私に、シオルはさらりと返す。
「もちろん。飛んでみたければ、いつでも抱いて飛ぶぞ」
その笑顔はどこか子供っぽく、彼の持つ威厳ある印象と少しだけずれていて、思わず目を見張った。
「……ちょっと高いところ微妙かもしれないから。一旦保留で」
「わかった」
シオルは小さく笑った。
そして二人は、そのまま隣の部屋へと足を運んだ。
「……え、ここ……」
私の目が驚きで見開かれる。
そこは――豪華な風呂場だった。
床は白い大理石でできており、壁には繊細な模様が刻まれている。天井は高く、魔石のランプが柔らかい光を放っていた。
そして部屋の中央には、ひときわ目を引く大きな猫足のバスタブが鎮座していた。
「……猫足!!」
思わず叫んだ。ほぼ反射的だった。
「ん?」
「えっ、うそ、なにこの完璧な風呂……!広いし可愛いし、これ絶対魔法で温度調節できるでしょ!?お湯張るのもボタンひとつとかじゃないの!?え、シャワーもある?いや魔道具!?なんだこれ欲しい!!」
小走りで浴室の中に入り込み、あちこちを見て回る。その手が伸びたのは、壁に設置された銀色の装置――明らかに魔道具が組み込まれた、シャワーヘッド。
「魔道具シャワーっ!お湯と水の両方が出るの!?魔力の調整でミストまで出るの!?」
目を輝かせながら、もはや一人で喋っていた。
シオルは少し驚いたように、でも楽しそうに私を眺めていた。
「気に入ったか?」
「気に入った。めちゃくちゃ欲しい」
「では、この風呂場も持って帰るか?」
「持って帰れるの!?いや、無理でしょ!?えっ……え、無理だよね?」
「部分ごとに解体して、凪海のアイテムボックスに入れて持ち帰れば――」
「ぜひ解体して!」
私がお願いすると、シオルは肩を揺らして笑った。
「では、解体するから欲しい部分をどんどん入れていってくれ」
「やった~~~~~!」
「じゃあ、これも欲しい……あ、あれも!」
次々と魔道具を指差しては、シオルに解体を頼んだ。
「こっちの魔法ランプも!あとシャワーも絶対忘れないで!」
シオルは微笑みを浮かべたまま、ひとつひとつ丁寧にばらしていく。
そして、二人は――
魔王城の最奥へと足を踏み入れる。
お読みいただき有難うございます。 次回も楽しんでいただけたら幸いです。