37話
湯上がりの肌に、ほのかな夜気がひんやりと心地よくて⋯⋯、私は窓を少し開け放ち、窓際に持ってきた椅子に座り込んで、部屋の壁に映り込む淡い光の影を楽しんでいた。
窓の外には、まるで星のように輝く無数のランタンの灯り。
その幻想的な光景をもっと味わいたくて、部屋の灯を少し落としてみる。
ちょうど濡れた髪が乾き始めた頃、扉の向こうから控えめなノック音がした。
「ナギ、入ってもいいか?」
「……シオル?」
扉が静かに開く。
銀盆を片手にしたシオルが、部屋の外の灯りに照らされて立っていた。
「寝る前に飲むといい」
差し出されたのは、取っ手と底の部分に繊細な銀細工の縁取りがされたガラス製のマグカップ。
深紅の液体からは温かな湯気が立ち上っている。
受け取って香りを嗅ぐと、
「……これ、もしかしてお酒?」
「少し温めてある。お酒は飲めるか?」
口に含んだ瞬間、柔らかな甘みとほのかな刺激。
ちょっとだけ王都で飲んだワインと似てる。
「……あれ? 何か入ってる?」
「ロベルだ。それに香草を少し」
「へえ……そんな飲み方があるんだ」
香りの奥に果実の甘酸っぱさが残る。甘くて美味しい。
「美味しくて何杯でも飲めちゃいそう」
カップを両手で包みながら、ゆっくりとホットワインを楽しむ。
「勇者の剣は持ってこなかったのだな……」
シオルが向かいに椅子を持ってきて、同じホットワインを呑みながら唐突に呟いた。
「うん。何となく……持って行かない方が良い気がして」
「そうか……」
「持ってきた方がよかった?」
「……いや」
なんだろう?と正面を見ると、思いのほか真剣な目をしたシオルがいて、ドキっとした。
「シオル?」
「ここは、”外界とは違う空間”だという話はしただろう?」
思わず居住まいを正す。
「うん。聞いた」
「ナギは”世界の理”についてはどこまで知っている?」
世界の理……
それは何回か耳にしているけど、誰も口を閉ざして説明はしてくれなかった。
「何も知らないの……。質問しても誰も答えてくれなくて」
「そうだな……外界では難しい。天の怒りに触れるおそれがある」
「天の怒り?」
「ここは、特別な空間だ。だからこそ、普段は口にできないことも説明できる。」
思わずマグカップを握る手に力がこもった。
「世界の理とは創造主の目の事だ」
「創造主の目?」
「外界は創造主に見張られている」
「え?見張られている?」
「そうだ。創造主の思惑に沿わない事があると怒りに触れると言われている。そのため創造主の目に触れないように皆、口を閉ざす」
だから皆、説明したくてもできない。
「だが、創造主の目があるから言えない、と外界で口にしようものなら、その単語すらも怒りに触れるのだ」
「そんな」
「その為、外界では”創造主の目”の事を”世界の理”という言葉で表現する」
「そうだったのね……」
マグカップを掴む両手をそっと見る。
あちらの世界では、とても想像もつかない。
創造主とは……いわゆる”神様”と同じだろうか?
「創造主の思惑って何?」
「……そうだな。ナギに関わる事だと”勇者”と”魔王”だろうか」
「私?」
「そう。ナギを異世界から召喚したのは創造主だ」
「!!!」
「創造主が召喚して、その魔方陣がその時選ばれた国の神殿に現れる」
「ちょっと待って……じゃあ、私を呼びだしたのは創造主ってこと?」
「そうだ。この世界の人々ではない」
「!!」
「”この世界の人々が魔王に苦しめられているから、魔王を倒すために異世界から勇者を召喚する”、という神託を人間に下ろしているのは創造主だ」
「で、でも、魔族は!人々を苦しめて……殺していたわ!」
「そうだ。魔族側にも神託が下りている」
「!!!」
「魔族にも、ほぼ同時に創造主から神託が下りている。”お前たちの王を殺しに人間がやってくる”と」
「なんで……なんで、そんな」
「魔王を勇者に殺させる為だ」
「……どういうこと?魔族に神託は必要ないじゃない」
「それだと勇者は、いずれおかしいと気づくだろう?魔族が何も人間に手を出していない状況に。魔族を率いる魔王は人間に何もしていないと」
マグカップを掴む手が震える。
それなら……それが事実なら。
まるで殺し合いをさせる為に神託を――
「じゃあ……この状況をわざと作っているのは、その創造主ってこと?」
「そうだ」
それなら……エリンの死は。
彼女が殺された原因は。
「魔族側にとっては、人間の代表者が“勇者”という認識なんだ。だから”人間”を少しでも多く殲滅する。”勇者”が特定できたら、そこを突く。自分たちの王を守るために」
「もし……勇者に近しい者が居れば……?それを魔族が見つけたら?」
彼女とは冬の間一緒に過ごしていた。
「そこを弱点と捉えるだろう」
身体の底から、冷たい何かが駆け上がった。
「”勇者の剣”は創造主の作ったものだ」
淡々とシオルの説明が続く。ふと思った。そうだ。あれば神殿にあった。
「あれをここに持ち込んだら……創造主の目に触れたかもしれない。ここの場所も、この会話も」
「!!」
危なかった。あれは危険な物なんだ。
知らなかった。
勇者の剣が諸刃の剣だったなんて⋯
でも。
それじゃあ私は?
私は創造主の召喚した人間だ。もしかしたら……
「ナギは大丈夫だ」
シオルの青い目が優しく私を見つめている。
「何で……?だって」
私を通じて見られてる⋯?
カタカタと、ガラスのマグカップが小さく音を立てる。
「ナギはこの世界で作られた人間ではない」
「あ……」
「だから、絶対に大丈夫なんだ」
「……シオル」
そう言うとシオルは静かに立ち上がって私の側に屈んだ。
「大丈夫か?」
青い瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
その声には、いつもの落ち着きに加え、深い優しさが含まれていた。
私は小さく首を振ることしかできず、手もまだ震えが止まらなかった。
シオルはその手の上に、軽く自分の手の平を重ね、微かに体を寄せる。
「……ナギ」
もう一度、名前を呼ばれ、私は縋るようにシオルを見つめた。
すると、シオルは静かに私の膝の下に手をそっと滑り込ませた。
軽く持ち上げられると、そのままゆっくりとベッドに向かって歩き出す。
天蓋付きのベッドに深く腰を落として、そのまま力強く私を抱きかかえた。
「ナギ」
シオルの声はどこまでも優しくて、私の耳に柔らかく響いた。
その安心感に、少しずつ強張っていた身体の力が抜けていくのを感じる。
「怖い話をしてしまった。すまない」
シオルがそっと私の額に口づけを落とす。
「ううん。そんな事ない……。ずっと気になってたから。話してくれてありがと」
私の体はぴったりと彼の胸にくっついて、彼の鼓動を感じて少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ナギが知りたいと思った事は、なるべくここで話す。村では控えよう。……私はともかく、あの村の人々に災いが降りかかるとも限らないからな」
「……うん」
ああ。そういえば村で、あの時――
「シオル?」
「ん?」
「シオルは何かを心配してるよね?何かが起こるって……」
「ああ……」
「それは創造主の何かに私が触れてしまっているから?」
「ナギだけではない。私もだ」
「シオルも?」
頭上のシオルを見上げる。
手元にはまだ仄かに温かいホットワイン。
「”魔王と勇者はともに倒れ、相討ちにならなければならない”」
「は?」
私のちょっと怒りの滲んだ声にシオルが目を細めた。
そのまま左手で私の頬を優しく撫でる。
「創造主は異世界からの勇者を愛している。故に役目を果たしたら、歴代の勇者は必ず創造主の御許へと送られてきた」
「は?」
さらに、思わずドスの効いた声が出てしまった。
愛している?御許へ送られる?
それはつまり「死」を与えて天に返してきたという意味?
思いの他、私の声に怒りを感じたのか、シオルが少し驚いた顔をした。
落ち着かせるように、今度は私の腕を優しく何度も撫でる。
「今世の勇者は、創造主が狙っていた魔王である私を倒していない。私もナギも死んでいないから、恐らくヤツは焦っているはずだ」
「そういえば……そうだね……」
「何を仕掛けてくるかは分からないが……。勇者や魔王に関する神託は、暫く各国には下りない。下るには早すぎるからな。それ以外の方法で何か策を打ってくるはずだ」
そう言ってちょっと面白そうな顔をして、シオルは私の顔を覗き込んだ。
「私は負けないがな」
「!」
「あの時は……まだナギを失ってしまうかもしれないとの恐れがあった。だが今はもうない。不思議な程に」
「シオル」
「ヤツは必ず潰す」
ちょっとシオルらしからぬ言葉が出てきた。
「私も怖かった……」
シオルの胸によりかかって、あの時の恐れを口にする。
「シオルも失うかもしれない……」
「ナギ……」
私の怯えが伝わったのか、私を抱くシオルの腕の力が少し強くなった。
「シオルは、誰にも負けないよね?」
至近距離でシオルを見つめる。
いつの間にか彼は私の『夫』になっていたけれど。
きっとシオルにしか、私の大切な『夫』になれない運命だったんだとしたら――
「シオルは、私の側にずっと居てくれるんでしょう?」
その言葉にシオルが嬉しそうに破顔した。
今までにないほどに嬉しそうな顔をして、
「ずっと居る。あの時言っただろう?魂になっても側に居ると。絶対に離れない」
「うん」
嬉しくて。
凄く嬉しくて。
私も多分、今まで見たことがないくらいの笑顔を浮かべている。
シオルが私の額にもう一つ口づけを落とした。
「ナギ、もうワインは少し冷めただろう?新しいのを……」
シオルがそっと両手で抱えていたマグカップに指をかける。
「う~~ん。これ勿体ないから飲んじゃう」
再び口をつけようと近づけると、シオルにちょっと温くなったホットワインを奪われた。
「あ!シオル!飲むってば」
だが、そのまま彼はそのワインを自分の口につけてしまう。
「え~~~」
空になった両手。
思わずワキワキしていると、こちらを見下ろすシオルと目があった。
「?」
そのまま何故だか圧倒的に色っぽいシオルの顔が近づいて
ゆっくりと唇が重なった。
少しずつホットワインの味がのどに広がる。
シオルの青い目と視線が絡んだまま離せない。
いつの間にか、両手はシオルの上着を掴んでいた。
一度離して、またゆっくりとワインを含んで
私の唇に口づける。
シオルとの初キスは、甘いロベルの香りがした。




